だいふくちゃん通信

2022/05/02

突然ですがみなさん、このグラフを見てみてください。

これは、1950年から2060年までの日本の人口変動を予測したグラフです。

これを見ると、2060年の日本の人口は、なんと8674万人まで減少しているそう……現在(2022年2月)の人口が1億2500万人程度であることを考えると、40年で4000万人近く減ることになります。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

こんなグラフを見ていると、いったい日本はどうなってしまうんだろうと、ついつい暗い気持ちになってしまいますよね。

しかし、人口が減った日本の未来は、本当に悲観すべきものなんでしょうか?

もしかしたら、この現状をただ嘆くよりも、先に考えるべきことがあるかもしれません。

AI技術の発達によってモデルを使って未来予測ができるようになった現在、私たちは将来を見据えるために何ができるのでしょうか?

インフラ・環境コンサルタントとして活躍し、現在は哲学・倫理学がご専門の佐藤麻貴先生と一緒に、未来について考える講義を紹介します。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

未来予測は、将来像を描くための指針に過ぎない

そもそも、AIは未来をどのように予測しているのでしょうか?

現在のAIは、ディープラーニングによってビッグデータを統計処理することによって、未来についての予測を立てています。

従来の機械学習では、出力までの演算を人間がアルゴリズムで直接指示していましたが、ディープラーニングでは、学習データの蓄積による統計処理が行われた結果として、データが出力されています。

つまり、どういった処理によって未来が予測されているのか、人間側には分からなくなっているということです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

佐藤先生は、そこで提示された未来予測は、将来像を描くための指針に過ぎないと言います。

ディープラーニングによって提示された未来予測によって未来を悲観したり、また喜んだりするのではなく、それを踏まえて将来を見据え、今から何を準備しておくか考えることが大事だということです。

たとえば、冒頭で人口の未来予測を紹介しましたが、もっと横軸を長くとってみると、下のようなグラフになります。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

こうして長いスパンで未来を考えてみると、2050年の人口は、活力を持って日本が大きな改革を成し遂げた明治維新や終戦期の人口よりも多くなるだろうということが分かります。

佐藤先生は、人口が少ないことが問題であるという見方に疑問を呈し、私たちに未来社会をどうしたいのか、学問を通して考えるべきだと呼びかけます。

学問を生かすも殺すも自分次第

学問の発達によって、私たちは過去を知り、未来を予測できるようになりました。

しかしそこで提示されているのは単なる情報でしかないと思います。

むしろ重要なのは、その情報をどう活用して、私たちの未来に向き合っていくべきなのではないでしょうか?

佐藤先生は、学問にはそれ自体で価値があるということを認めたうえで、「多角的視野を得て、不確実性の高い未来を切り開くためのツール」として学問を捉えます

学問が生きるかどうかは、情報の量と、その情報の解釈にかかっているのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

とりわけ、情報量が莫大になっていく情報化社会においては、この「解釈」こそが重要になってくると思います。

私たちは、どのような未来を生きるべきなのか。そのために学問はどのような役割を果たすことができるのか。ぜひこの講義動画を視聴して、これからの学問への向き合い方について考えてみてください。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第2回 未来社会2050 ― 学問を問う佐藤 麻貴

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/27

今、東京大学で歴史を専門に学び、研究できる学科は、「日本史学科」、「東洋史学科」、「西洋史学科」の3つです。そのほかの多くの大学でも、歴史学はこの3つの区分に分けられています。

しかし、高校で教えられる歴史は、「日本史」と「世界史」の2つです。東洋と西洋では分けられていません。

自国の歴史を学ぶ分野として日本史が独立して存在するのは理解できますが、わざわざ東洋と西洋を区分するのにそれほど合理的な理由はないように思います。

一体どうして、「東洋」と「西洋」の歴史が区別されているのでしょうか?

私たちの「歴史」に対するイメージを形作っている「近代歴史学」の流れを辿りながら、歴史のあり方の再考を促す講義動画を紹介します。

停滞している非ヨーロッパには歴史がないという近代歴史学の考え

今回講師を務めるのは、歴史学者の羽田正先生。世界史の再構築を研究テーマに掲げておられる先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

羽田先生によると、私たちが現在「歴史」として理解している近代歴史学の起源は19世紀の北西ヨーロッパ(ドイツ・フランスあたり)にあります。

もちろん、それ以前にも歴史と呼べるようなものはありましたが(ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』などは有名ですね)、近代歴史学は以下の点をもってそれ以前の歴史と区別されます。

それは例えば、「啓蒙思想と理性の重視、科学的思考法」「文献学(文献批判の方法)の発展」などです。

『聖書』のような文献を絶対視するのではなく、それをひとつの歴史史料とみなし、相対比較して批判的に検討しながら「事実として」歴史を構築していくやり方は、まさしく今のアカデミアの歴史研究につながっています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

一方、近代歴史学の背景には、「進歩する人類社会という考え方」もあります。

19世紀の北西ヨーロッパではキリスト教の相対化と啓蒙思想の拡大が進んでおり、また、(どこまで実現できていたかは別として)自由と民主主義を備えた国家づくりが行われていました。そこでは「人類の社会は進歩する」という価値観が広く共有されていたといえます。

社会が進歩するからこそ、それを歴史としてまとめることに価値が生まれるわけです。

近代歴史学の創始者と言われるランケは『世界史概観』という歴史書をまとめましたが、「世界史」の名を冠した書物にもかかわらず、そこで扱われている対象はほとんどがドイツ、フランス、イギリスでした。

羽田先生によると、初期の近代歴史学は、「宗教が世界を支配して自由のない非ヨーロッパは停滞しているから歴史がない」と考えていたといいます。

そのため、東洋の歴史についての研究は、「歴史学」の枠組みでなく、「東洋学」の枠組みでなされることになります。(なんとこの区分は今でも続いているそうです)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

「西洋史」と「東洋史」の区分って今でも必要?

日本は江戸期まで、中国を参考にした歴史記述を行っていましたが、明治期に開国してからは、この近代歴史学を採用することになります。

国令によって設置された帝国大学(現在の東京大学)には、1887年に史学科ができました。お雇い外国人のリースがそこで教えたのは、近代歴史学における歴史、すなわちヨーロッパの歴史でした。

1889年に日本の歴史を教える学科ができてからしばらくは、日本の歴史とヨーロッパの歴史の2本立てで歴史学が進んでいくことになります。

その後、1907年に京都大学に、1910年に東京大学に、それぞれ東洋史学科が誕生しました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

この経緯による区分が現在にもそのまま引き継がれ、現在の東京大学の歴史研究は(そして日本の歴史研究の多くは)、「日本史」、「東洋史」、「西洋史」に分かれて行われています

この区分は以上のような歴史的要因によって生じたもので、それ自体になんらかの必然性があるわけではないはずです。(具体的に、近代歴史学を採用したのは西洋に対抗しようとする当時の国のためになると考えられたからで、東洋史学科が誕生したのは日露戦争の結果、大陸へ関心が向いたからです)

羽田先生は、果たして現在も「西洋史」、「東洋史」という区分が必要なのか、私たちに問いかけます。

ここまで読んだみなさんは、どう思うでしょうか?今でも私たちは近代歴史学の強い影響を受けています。

羽田先生は、講義中で近代歴史学を克服しようとする動きについても紹介されています。ぜひ講義動画を視聴して、中学校や高校、大学で私たちに染み付いた歴史の枠組みを捉え直してみてください。

今回紹介した講義:歴史とは何か(学術俯瞰講義)第2回 近代歴史学の歴史 羽田 正先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/20

私たちはいつから自己と他者の境界を認識するようになるのでしょうか?
実は生まれたての赤ちゃんは、どこまでが自分なのかあまりよくわかっていません。

今回ご紹介する講義は、「他者」という存在を媒介/メディアとして、

 1. 他者としての自己の芽生え
 2. 他者の眼に映る自己
 3. ”合わせ鏡”としての自己と他者

という3本の柱でお話を展開しています。

1. 他者としての自己の芽生え 

まず他者と自己の関係の一つとして、「他者としての自己の芽生え」があります。
つまり、他者を知ることで初めて自己を知ることができるということです。
例えば、子どもやチンパンジーは鏡に映っている自分を見て、他者から見た自分を意識することができます。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

その経験を通してはじめて自己と他者を区別することができ、自己を認識できるといいます。
また、新生児がコミュニケーションとしての笑顔である社会的微笑を獲得する過程においても他者に笑いかけ、それが返ってくるという双方向的なプロセスを必要とします。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子


2. 他者の眼に映る自己

他者と自己のもう一つの関係として、「自己の『内なる』心は『開かれた』他者との関係の中で育まれる」ということがあります。
特に、アジアをバックグラウンドに持つ人は自己と他者がより結びついている傾向が顕著に確認できます。
それが実際に研究としても明らかになっています。子どもを対象に、①自分で選ぶ課題、②母親に選んだ課題、③研究者が選んだ課題の3つのうちどれがモチベーションが高く出るか実験が行われました。すると、実際にアジア系の子どもは自分で選んだ課題よりも母親が選んだ課題で最もモチベーションが上がっており、白人の子どもとは対照的な結果となっていました。
この研究結果から、本来義務や賞罰、強制などによってもたらされる「外発的動機づけ」と区別される、「内発的動機づけ」は他者からの影響を受けない個人的な心理プロセスと言い切れないということが分かるのです。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

同様に自尊心についての実験でも、より親しい他者からどう見られているかということが自分に対する評価に大いに反映されていることが示されました。これらのことから個人的・内的な心理プロセスとして捉えられてきた概念が、実は他者との関係のなかで維持・高揚される、インタラクティブなプロセスかもしれないということが指摘されています。


3. ”合わせ鏡”としての自己と他者

つまり、自己と他者は、合わせ鏡のように互いを移す媒体として機能しているということがわかります。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

さらに講義では「他者ないし社会に“媒介”されずに定義し得る「自己」はあるのか」、「自己と他者との関係のありように、“文化”による差異はあるのか」というテーマで学生とともにディスカッションを行っています。

ぜひみなさんもディスカッションに参加したつもりで一緒に考えてみてください。

今回紹介した講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第7回 社会的感性の造形:”自己と他者”という問題をめぐって 村本 由紀子

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/04/15

突然ですが、あなたが年老いて、死に直面しているという状況を考えてみてください。

身体を動かすこともままならず、人の助けを借りないと生きていくことができない。それでいて、何か他の人の役に立つこともできない。

これから回復する見込みもない場合、あなたはそれでも希望を持って生き続けていくことができますか?それとも、死んだ方がマシかもしれないというような迷いが生まれるでしょうか?

これはもしもの状況として提示していますが、「もし宝くじに当たったら」のような仮定とは異なり、誰しもに高い確率で訪れうる状況です。つまりほとんどの人が、未来がない状態で無力なまま死を待つことになるのです。

これを不安に感じる人や、どうなるのか想像もつかないという人に、どうすれば死に直面した状態で希望を持って生きられるのか考える講義動画を紹介します。

自分の人生の物語りを書き換える

今回講師を務められるのは、臨床倫理学、臨床死生学が専門の哲学者、清水哲郎先生です

清水先生は、死に直面したときに必要なのは、厳しい状況を切り抜けて新しい可能性を見出す力だと言います。

例えば、オリンピック出場を目指していた陸上選手に骨肉腫が見つかった場合、最初は人生の生きがいを失って希死観念に囚われますが、次第に他の可能性(パラリンピック出場など)を探すようになります。

死に関わる厳しい状況では、自分の人生の物語りを書き換える必要があるのです。

UTokyo Online Education 死に直面しつつ生きる Copyright 2009, 清水 哲郎

清水先生は、実際に死に直面したときのために、厳しい状況を切り抜けて新しい可能性を見出す力が活性化しやすいようにしておくべきだと言います。

前へ向かう自分自身を生きがいに

それでは、冒頭でも述べた多くの人に訪れる厳しい状況、先行きが短く、他の人の助けを借りてしか生きられないような状況で、私たちはどのような生きがいを持てばいいでしょうか?

ひとつのあり方として、「治る望みを捨てない」というのが考えられますが、これは挫折する可能性が高いと言います。先延ばしにしたところで、私たちには結局死が訪れるからです。

清水先生が提案するのは、「現在の私の前に向かう姿勢に《希望》をみる」ことです。

UTokyo Online Education 死に直面しつつ生きる Copyright 2009, 清水 哲郎

将来への希望が持てない状況では、現在の自分のあり方に価値を見出すしかありません。そこで求められるのは、現在の生を「進行形」で捉えることです。

これまで、私たちは生を生きてきて、それらは全て生き終わった「完了形」の生です。しかし、今現在の生までもを完了形としてみる必要はありません。私たちは、死に直面してもなお、生まれたときからと何も変わらずに、前へ向かって進行形の生を生きているのです。清水先生は、その前へ向かう姿勢にこそ希望があると言います。

(先生は「進行形」の生を「微分」のような生だと表現しています)

できるほうが良いけど、できなくても良い

将来、私たちが死に直面したときには、おそらくできることがどんどん減っていきます。

そのときに、「役に立たなくなったら価値がない」というような考えでいたら、前を向いて生きることができなくなるでしょう。

清水先生は、「できるほうが良いけど、できなくても良い」という考えが重要だと言います。何もできなくても肯定され、そこに存在することができる人々の輪があることで、人は尊厳を持って最期まで生きることができるのです。

どんな人にも、死は訪れます。死を目前にして慌てる前に、ぜひこの講義動画をみて、どう生きるべきか考えてみてください。

今回紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)第3回 死に直面しつつ生きる 清水 哲郎

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/06

あなたが高齢者になった時、どのような人生を送っていたいですか?

人生100年時代と言われるようになり、老後の人生に夢を描いている人もいるのではないでしょうか。

今回は、ジェントロジーという、高齢者や高齢社会全般に関わる諸課題を研究対象とする学際的学問分野について取り扱う講義動画を紹介します。
ただ歳をとるだけではない「サクセルフル・エイジング(Successful Aging)」という考え方について深掘りしたり、それに関連する学際的なプロジェクト内容、その中で心理学がはたす役割について紹介しています。

サクセスフル・エイジングとは一体どんな考え方なのでしょうか?

従来、老年学というのは寿命を長くすることに主眼が置かれていました。
それが、近年はQOL(Quolity of Life:生活の質)の追求に焦点がシフトしてきています。
その転換のきっかけになったのは、サクセスフル・エイジング(Successful Aging)、すなわちうまく歳をとるという考え方だと秋山先生は説明しています。

この概念は1987年にRoweとKahnによって発表されました。彼らによると、以下の3つが揃うと「サクセスフル・エイジング」になるとされています。
  1. 病気や障害がないこと
  2. 高い身体・認知機能を維持していること
  3. 人生への積極的関与をしていること(他者と積極的に関わり社会に貢献していること)
まとめると、「自立して生産的であること」が鍵になるのです。

UTokyo Online Education 心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)Copyright 2008, 秋山 弘子

しかし、寿命が伸びて続けている現在に、亡くなる直前まで「自立して生産的である」というのは現実的と言えないのではないかと秋山先生は指摘しています。

UTokyo Online Education 心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)Copyright 2008, 秋山 弘子

従来型のサクセスフル・エイジングの問題点を踏まえた上で、秋山先生は新時代のサクセスフル・エイジングとして、「住み慣れた地域で自分らしく生きる」ことを提唱します。
そして、それが実現できるような社会システム構築に向けて、医学や看護学、経済学、社会学、工学など多様な学問分野との連携プロジェクトを行っています。

UTokyo Online Education 心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)Copyright 2008, 秋山 弘子

その中でも先生の専門である心理学は、高齢者の引きこもりやうつ、犯罪などといった社会問題の解決に有効だと言われています。しかし、それらの社会問題を取り扱った心理学のデータの多くは、欧米の若い男性を被験者として集められており、高齢者を対象とした研究はまだ不十分です。

高齢者を対象とした一例として、知能に関する研究が紹介されています。
加齢に伴う知能の変化と聞くと、多くの人が中年をピークに衰退していくイメージを持っているのではないでしょうか。
ところが、必ずしもそうとは言えないことが実際のデータからわかってきました。
そもそも知能はいくつかの種類に分けることができ、それぞれ発達(衰退)の仕方も様々で、トレーニングにより復活するものもあります。中には、中年期を超えても加齢が進むにつれて、むしろ伸びていく知能もあるのです。こうしたデータを用いることで、新たな雇用の形が検討されることが期待されます。

 そして最後に、先生が20年に渡って6000人を調査した研究も紹介されています。15年後の健康度と強く関連する要因、また男女別の要因の違いなど、気になった方はぜひ動画で確認してみてください。

今回紹介した講義:心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)第6回 高齢社会と心理学 秋山 弘子先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/03/30

みなさん、外国の大学に所属する先生の講義を受けたことはありますか?

普通に大学に通っていると、なかなかそんな機会はないのではないでしょうか。

そんなあなたのために、今回は、中国と韓国の大学に在籍されている先生の講義動画を2つまとめてご紹介します!

それぞれの国の思想家や事件を例に挙げながら、政治と思想の「悪」について語ってくださいました。(日本語で話してくださっているので、中国語、韓国朝鮮語が分からない方でも大丈夫ですよ!)

30年後の世界へ―学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)

東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, 以下EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: EAA2021_07_02-1024x576.png

EAAでは「30年後の世界へ——学問とその“悪”について」と題して、東京大学内外の教員によるオムニバス講義(学術フロンティア講義)を開講しました。

昨年に引き続き、この授業で射程に入れるのは、30年後の世界についてです。2020年から始まった新型コロナウィルス感染症は、世界のありようを大きく変えました。

そのような未知の状況のなかで、これまで一般的には善きものとされている学問が、時として「悪」に加担してしまっているのではないか、さらに言えば、学問そのものが「悪」なのではないか、という問いを本講義では立てます。

その観点に立ち、哲学、文学、歴史学、社会学、生物学など様々な分野の教員が講義をおこなっています。さらに、東京大学内だけでなく、延世大学、香港城市大学など、学外の講師による講義もおこないました。

新型コロナウィルス感染症や、国内の原子力発電所の問題、ポスト・トゥルースなど、今を生きる私たちが直面している身近な問題を取り扱っているので、興味を持って視聴することができるでしょう。ぜひ、ラジオ感覚でリラックスしながら受講してみてください。

清末の思想家「章炳麟」の憂鬱が、100年後の私たちに教えてくれること

まずは香港城市大学に在籍しておられる林少陽先生の講義を紹介します。

みなさんは「章炳麟」という清末の思想家を知っていますか?

日本ではあまり知られていませんが、辛亥革命を思想面で支えたとして、孫文らとともに「革命三尊」に数えられる重要な思想家の1人です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 林 少陽

章炳麟は、帝国主義が覇権を握る20世紀初頭において、西洋を中心として広まっていた進歩主義の考え方に対し、独自の仕方で対抗しました。

林少陽先生が、章炳麟の思想を分かりやすく、それでいて丁寧に辿りながら、30年後の未来について考えるヒントを提示してくださる講義になっています。

「善」も「悪」も進化する

章炳麟が批判した「進化論」は、18〜19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルに始まり、『種の起源』でよく知られたダーウィンとイギリスの社会学者スペンサーが、それぞれ生物現象と社会現象に応用した考え方です。

科学技術の発展などから、私たちもついつい、社会が「進化」しているというような感覚を抱いてしまうことがありますが、章炳麟は、私たちの社会の変化は楽観的に「進化」と呼べるようなものではないと主張します。

例えば、もし道徳について「善」が進化するのであれば「悪」も同じように進化するし、生計について「楽」が進化するのであれば「苦」も同じように進化するというのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 林 少陽

章炳麟に従えば、進化論が依拠する「目的論」的な考え方が想定する「完全美・純粋善の領域への到達」はあり得ないということになります。

国家は存在しない?

また章炳麟の重要な考えの1つに、国家の存在の否定があります。

章炳麟の主張することには、本当は実在しない国家が求められ、実際にあるかのように振る舞っているのは、外側の勢力、つまり外患から身を守る必要があるからなのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 林 少陽

このような事情から、章炳麟は、愛国心を持って良いのは弱国の民だけであって、強国の民は愛国心を持つべきではないといいます。なぜなら、強国の愛国心は他国の蹂躙にしか繋がらないからです。

このような章炳麟の思想は、西洋の思想に対抗しながら、清を革命へと導いていきました。

「章炳麟の憂鬱な予感」が現実となった現在を生きるために

時代的な背景が異なる章炳麟の考え方をそのまま現代の諸問題へと結びつけることはできませんが、その思想が実感を持って理解できることもあります。

例えば、グローバルな資本主義の「進化」によって引き起こされた環境破壊は、私たちがこれまで直面してこなかった新たな「苦」をもたらしました。

このような「進化」の功罪について考えるためにも、ぜひ、「章炳麟の憂鬱な予感」がどのようなものであるかを、実際に動画で確認してみてください。

民主主義が内包する「悪」について

続いてはソウルの延世大学に在籍しておられる金杭先生による講義です。

いきなりですが「民主主義」について、皆さんはどんな印象を持っていますか?

私たち市民が権利を持ちうる政治形態として、好意的に捉えている人が多いのではないかと思います。

でも、実は、その民主主義が、避けることのできない「悪」を内包しているとしたら?

金杭先生と一緒に、韓国における実際の例をもとにしながら、民主主義の「悪」について考える講義です。

ホームレスは「市民」じゃない?

民主主義がもつ「悪」とは何か、それは「異質なものを排除する」ことです。

金先生は、その側面が露呈した具体例として、1991年に韓国で起こった民主化運動を挙げます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 金 杭

民主化運動では、学生を中心とした運動組織「国民対策会議」が民主化を求めて権力に立ち向かいました。その運動にはホームレスも参加していましたが、彼らが過激行為を繰り返したことで、運動は警察当局から取り締まりを受けることになります。

そこで対策会議は、「一部の過激集団は対策会議とは無関係である」という声明を出し、ホームレスを排除しようとしました。

対策会議は「民主化」を謳っていたにもかかわらず、「善良な市民」である自分たちとホームレスを区分し、彼らをその外側に置いたのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 金 杭

民主主義は「市民」に主権を与える制度ですが、その「市民」の外縁を決めることによって、自然と「異質なもの」が排除されることを示す事例です。

私たちは、嫌悪と苦痛を与えるものが完全になくなった「滅菌空間」を求めてしまうがゆえに、「人類の敵、抹殺してもかまわない、するべき、非人間」を含めない「市民」による民主主義を想定してしまうのです。

国家間の問題の原因は「民主主義」にあるのかもしれない

これまで民主主義は、ホームレスに限らず、「女性」「難民」などさまざまな「異質なもの」を排除してきました。(そして今も排除し続けています)

少なくとも、国家単位で民主主義が成立している以上、外国の人々はそこから排除される「異質なもの」であり続けます。

金先生は、緊張した現在の日韓関係における諸問題を解決するための観点として、「異質なものを排除する」民主主義の像を提示されました。

なぜ国家間の問題は絶えないのか、もしかしたらその鍵は「民主主義」にあるのかもしれません。

この動画を観て、ぜひ確かめてみてください。

今回紹介した講義:
30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第10回 清末中国のある思想家の憂鬱 ‐ 章炳麟の「進化」への回顧と、そして将来への展望 林 少陽先生
30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第11回 民主主義という悪の閾 ‐ 他者なき民主主義とそのディレンマ 金 杭先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/03/24

今年も、桜の季節がやってきました。地域によっては、すでに一面の桜景色が見られる場所もあるかもしれません。

「一面の桜景色」
この言葉は、日本の春の景色を表す言葉として、ごく日常的に使われます。……しかし「日本の春といえば、一面の桜景色」この常識はホントでしょうか?

社会学は、このように常識とされていることをうまく手放す学問である、と佐藤先生は言います。皆さんも、桜景色を通して常識のうまい手放し方を学んでみましょう!

(佐藤先生のお話は軽快でわかりやすいので、高校生の皆さんなどにもオススメです!)

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

早速ですが、皆さん、日本の桜景色を思い浮かべてみてください。

皆さんが頭に浮かべた桜の多くがソメイヨシノではないかと思います。というのも、現在の日本の桜は7〜8割がソメイヨシノなのです。ソメイヨシノはたくさんの花を一斉に咲かせ、冒頭の「一面の桜景色」を創出します。

このように、現在の日本の桜景色を象徴するソメイヨシノですが、実はそれらが戦後になって接ぎ木で殖やされたものであることは知っていましたか?
「ソメイヨシノによる一面の桜景色」は、案外最近になって人工的に作られたものなのです。

ということで、「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」という常識はウソでした!

と、巷のまとめサイトなどでは締められてしまうかもしれません。

実際に、以上の事実を以て「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」という常識が間違いであると指摘することは、多くの人がしてきたことでした。

しかし、佐藤先生は、単純に常識を否定するのではなく、「常識をうまく手放す」ことによって一歩踏み込んだ考察を行います。

「常識をうまく手放す」とは、常識から半分離れること

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

常識から完全に離れてしまえば「常識の否定」ですが、半分離れるとは?それは「常識の否定」すらも否定することです。

「否定の否定は肯定では?」それも一理ある考え方です。しかし、それでは退屈だと佐藤先生は言います。

「常識の否定」の否定。それは、常識は正しい部分もあるし、そうでない部分もあると考えることです。

これを踏まえて、桜の例に戻りましょう。
ここでの常識は「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」でした。この常識から半分離れた佐藤先生は、日本には複数の桜の春があるという仮説を立てます。そして、江戸時代の浮世絵である安藤広重の『江戸名所百景』に行き着くのです。

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

上の2枚の絵画は、それぞれ春の桜を描いたものです。

左の絵画に見られるように、江戸時代には「桜=紅と緑」や「桜=白と緑と茶」という色彩感覚がありました。そのような色彩を持つのはヤマザクラなど昔から日本に咲く桜であり、江戸時代には「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」という常識はなかったと言えます。

一方で、右の絵画のように江戸時代においても「一面の桜景色」は描かれていました。つまり、戦後になってソメイヨシノの植栽とともに人工的に創出されたと思われた「日本の桜景色=一面の桜景色」という常識は、江戸時代にも存在していたのです。裏を返せば、そのような日本人の心に常識として根ざしていた景色を、後からソメイヨシノが実現したと言えます。だからこそ、ソメイヨシノは人の手によって大量に植栽され、日本の桜の大部分を占めるようになったとも考えられるかもしれません。

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

いかがでしたでしょうか?

「常識の否定の否定=肯定」
これは、誰にでもできることですが、堂々巡りで進歩がありません。「常識をうまく手放す」社会学的な見方を身につけることで、世の中を一歩踏み込んで考えられるのではないでしょうか。

今春、お花見に行く前に、ぜひこの講義動画を視聴してみてください。桜がいつもと違って見えてくるかもしれません。

今回紹介した講義:社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)第3回桜見る人、人見る桜 ー神は細部に宿るのです 佐藤俊樹

<文/安達千織(東京大学オンライン教育支援サポーター)

2022/03/24

東大生ライターが多様な東大の魅力を発信する東大発オンラインメディア「 UmeeT(ユーミート)」で、2回にわたって、UTokyo OCW東大TV東京大学MOOCのコンテンツを紹介していただきました。

東大生ライターならではの切り口と視点で、魅力を余すところなくたっぷりと紹介してくれています。

ぜひご覧ください。

まずは、より効率的にUTokyo OCWの授業動画を探すことのできる記事です。

東大発オンラインメディアUmeeTで公開された「【進学選択お役立ち】無料公開されている東大文学部教員の授業動画を全てまとめました【人文学について知りたい方も】」です。

「なんとなくおもしろそうだから」

「なんとなく自分のやりたいことに近い気がするから」

進学選択を控えた東大生のみなさん、進む学科を「なんとなく」で決めていませんか?

UTokyo OCWには、専門課程に所属される教員の授業動画が数多くあります。

「実際に受けてみると、思った授業と違った」なんてことがないよう、専門課程に進む前に、ぜひUTokyo OCWのオンライン教育コンテンツを活用してみてください。

今回は、より効率的にUTokyo OCWの授業動画を探すことのできる記事を、みなさんにご紹介します。

こちらの記事では、UTokyo OCWと東大TV(東大の授業などを公開するプラットフォーム)で公開されている、東大文学部教員の全ての授業動画が、それぞれの学科ごとにまとめられています。

この記事を読めば、東大文学部で開かれている授業がどのようなものか、ひととおり確認することができるのです。

進学選択前の東大生だけでなく、人文学について関心のある中高生や他学部の学生、社会人にとっても、役に立つ記事になっていると思います。

いいなと思った方は、この記事から授業動画を探してみてください。そして、ぜひお知り合いにも勧めてあげてください。

また、オンラインメディアUmeeTでは「東大の授業が誰でも無料で受けられるって知ってましたか?【東大生じゃない人必見】【東大生も必見】」という記事も公開されています。

こちらの記事では、UTokyo OCWを含む東大の無料オンライン教育コンテンツの違いと使い方について分かりやすくまとめられています。

こちらも併せて確認してみてください。

UmeeTでは他にも東大生・卒業生へのインタビュー、海外での留学・休学体験記、東大生が主催するイベントやスタートアップについてなど、様々な記事が公開されています。

記事掲載サイト:東大発オンラインメディア「 UmeeT(ユーミート)」

2022/03/14

今から11年前、2011年3月11日に東日本大震災が起きました。

震災、そして被災地について、当時の自分の体験、自分の記憶に思いを馳せてみます。

どのような記憶とつながりましたか。
忘れてしまっていること、もしくは知らないままになっていることはありませんか。

震災は今もなお様々なかたちの記憶となって、ある記憶は語り継がれ、ある記憶は忘れ去られようとしています。

「巡礼」は、このような”忘却”に抵抗する1つの希望です。

「巡礼」とは、実際に現地を訪れて、そこにあるシンボルを巡ることをいいます。
しかしそこにはまた、ただシンボルを巡るだけではない、人々との出会い、人々による語りがあります。
そのような人々との出会い、人々による語りこそが、忘却に抵抗するための重要な鍵であると張先生は述べます。

「巡礼」という言葉を手掛かりに、”忘却”と向き合い、そして”忘却”への抵抗について考えてみませんか。

「巡礼」による忘却への抵抗について、第1の故郷を香港、第2の故郷を仙台に持つ、張政遠先生と考える講義動画を紹介します。

東日本大震災発生

2011年3月11日に東日本大震災が起きました。
当時は家屋の基礎だけ辛うじて残っている状態で、周りの生活世界が無くなっているような光景が広がっていたそうです。

当時津波の犠牲になった方の中には、逃げようとしない人を説得しているうちに逃げ遅れた方もいたそうです。
心の痛む話ですが、愛他心を持つ社会的動物である人間には、他人を見捨てて自分だけ逃げるという行為は難しいとされています。
このような、人間ならではの”優しさ”によって、悲しくもいくつかの悲劇が生み出されてしまったそうです。

香港

そして、張先生の出身地である香港に話は移ります。

実は、被災地と香港にはいくつかの共通点があるのをご存じですか。

その1つが原子力発電所です。
香港には深海から50km未満のところに原発が存在します。
東日本大震災による原発事故後には、住民による「”反核”不要再有下一個福島(”核反対”フクシマを再び起こしてはいけない)」というスローガンが沢山見られるようになったそうです。

記憶装置とその忘却

被災地と香港の共通点において、もう1つ重要となってくるのが記憶装置の存在です。

被災地では、震災発生後、目に見えるシンボルとなるようないくつかの建物などが記憶装置として存在しました。
しかし時間が経つにつれ、徐々にそれらも記憶装置として機能しなくなり、住んでいる人々さえ記憶が薄らいでしまう、また町全体の工事が進み、当時の記憶が町ごと土の中に消えてしまっている現状があります。

香港でも同様のことが起こりつつあります。
植民地支配、学生運動といった歴史の中で、重要なシンボルとして存在したいくつかの建物や像などもまた、記憶装置としての機能が薄れつつあります。

このようなことから分かること。

それは、記憶装置だけでは結局忘却されてしまう可能性があるということ、記憶装置だけでは足りないということです。

それでは、どうすれば忘却に抵抗することができるでしょうか。

「巡礼」による忘却への抵抗

そこで張先生は、「巡礼」による忘却への抵抗について述べます。

ここで言う「巡礼」とは、宗教上の意味の巡礼ではなく、むしろ忘れかけていた記憶を蘇らせる意味の巡礼であるとされます。

記憶を繋ぐために、歴史をたどるために人は動き、「巡礼」をします。
そしてそれは、人と出会う、人と話す巡礼であるとも言われています。
ただ目に見えるシンボルを巡るだけではなく、そこで人と出会い、人の語りを聴くということにむしろ価値があるとされています。

つまり、記憶装置だけでなく、人の語り、人の記憶がなければならない。
oral Historyがないと、記憶装置だけでは上手く機能しないというメッセージ
です。

30年後の世界へ

30年後の世界がどのようであるかは誰にも分かりません。

しかし張先生は、「未来は分からないけれど、想像することはできる」とおっしゃいます。

30年後、東日本大震災、そして被災地は、人々や社会にどのように記憶されているでしょうか。

もしかしたら忘却が進んでいるかもしれません。

その時、きっと「巡礼」は忘却に抵抗するための1つの希望となるかもしれません。

過去の記憶とつながり、そして未来へと記憶を繋ぐために重要な足掛かりになるはずです。

皆さんも張先生と一緒に、「巡礼」による忘却への抵抗について考えませんか。

今回紹介した講義:2020年度開講 30年後の世界へ ―「世界」と「人間」の未来を共に考える(学術フロンティア講義)第8回 30年後の被災地、そして ― 香港 張 政遠先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/03/14

東日本大震災が発生してから今年、2022年で11年。

月日が経過した今でも、私たちは3月11日に震災犠牲者の死を悼み、追悼しています。「追悼」という行為は尊く、意義のある行為です。

しかし、一体私たちはそこで何を悼んでいるのでしょうか?

一般的には、暴力的な災害によって無慈悲に命を奪われた死者に対して、可哀想だと感じる気持ちが追悼の原動力になっていると言えるでしょう。しかし、人は死んだらいなくなってしまうという前提に立てば、死んでしまった時点で悲しみを感じる主体にはなりえないわけです。

死によって、苦しい、悲しいと感じる主体がいなくなるとすれば、その「害」を可哀想だと感じるというのはどういうことなのでしょうか?

苦しい、悲しいと感じる主体が既にいないのであれば、そこに可哀想だと感じるべき何かしらの「害」はあるのでしょうか?

死は「害」だと本当に言えるのでしょうか?

死者を悼むとはどういう行為なのか、一ノ瀬正樹先生と考える講義動画を紹介します。

東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2012,一ノ瀬正樹

「死は害ではない」という考え方と、それに対する反論

先ほど紹介した考え方は「死無害説」に基づくものです。
死無害説では、「それを感じる主体が存在しないという点で、死は無益であり無害」だと考えます。(古くは古代ギリシアの哲学者、エピクロスまで遡ることのできる思想です)

この考え方に照らすと、「追悼」という行為は全く理解できないものです。それどころか、死無害説では死は害ではないと考えられるため、「殺人は加害ではない」という一見常識はずれな主張まで生じてきます。

東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2012,一ノ瀬正樹

この死無害説には、それを論破しようとする対抗議論があります。

たとえばその一つである「剥奪説」は、死は生きていることに伴うさまざまな利益を奪うので害だと主張するものです。

また、時間的に隔たった対象にも存在を認める「四次元枠」の考え方などもあります。


しかし、「じゃあ誰がその害を受けているの?」という死無害説からの決定的な反論に、これらの説は応答できません。私たちの実感から離れたところがあるにしても、たしかに死無害説には一定の理論的根拠があるのです。

「声主」として経験を共有する

それでは「追悼」という行為に意義はないのでしょうか?

一ノ瀬先生は、死無害説の主張を汲み取りながら、「追悼」という態度を意義づけるために、「害グラデーション説」という新たな説を提示します。(一ノ瀬先生のオリジナルの仮説です)

死無害説では死ぬその瞬間のみに害が発生すると考えますが、害グラデーション説では害は死ぬ瞬間に極大になるが、その前後にもグラデーションをなして広がっていくと考えます。

遺品が現物として残っているだけでなく、生前のかすかな匂い、生前の声による空気の振動が、亡くなった人の死後も、もちろん次第に薄らいではいきますが、今この世界にも影響として確かに残っているのです。

ただ、この主張に対しても、「じゃあ誰がその害を受けているの?」という反論は可能です。それに答えるためには、この害グラデーションの考え方を踏まえたうえで、害経験の主体についても論じ直さなければいけません。

一ノ瀬先生は、害経験の主体である「person」を互いに共鳴し合う「声主」と捉えます。(「person」の語源である「persono」は「声を出す、響かせる」という意味だそうです)

東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2012,一ノ瀬正樹

「声主」は独立した存在ではなく、他の人と接することによってできあがっていきます。

死者もその「声主」だとすれば、その害経験は本人にしかアクセスできないものではなく、広く共有可能なものだと考えられるのです。

死者が今現在も何らかのかたちで私たちに影響を与えているからこそ、そして、私たちは互いに共鳴し合うことで存在しているからこそ、人は死者を悼むのだという一ノ瀬先生の考えは、人間のあり方を考えるうえで私たちに救いをもたらしてくれると思います。

他者を慈しみ、死者を悼むという感情は、誰しもが持つものですが、それを意識的に捉えようとする人は多くないはずです。ぜひこの動画を視聴して、他者、死者との向き合い方について、じっくり考えてみてください。

今回紹介した講義:震災後、魂と風景の再生へ(朝日講座「知の冒険—もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2011年度講義)第4回 死者とは誰なのかー震災犠牲者を想いながら 一ノ瀬 正樹先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>