だいふくちゃん通信

2023/10/26

戦争、紛争、格差、貧困、差別……

私たちが生きるこの世界には、人間社会の誕生以来続く問題が、今もなお繰り返されています。

イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、次のような有名な言葉を残しています。

民主主義は最悪の政治形態だといえる。ただし、これまでの民主主義以外のあらゆる政治形態を除いて。

この言葉は、民主主義の有用性を主張するために用いられてきましたが、一方で現代の政治にまだ多くの問題が残っていることを示してもいます。

しかし、現状の課題を乗り越える新しい政治秩序とは、どういったものなのでしょうか?

そこでカギとなるのが、西洋とは異なる見方で世界を認識してきた、中国の思想です。

実は、中国では今まさに、国際政治学の分野で、西洋を中心に整えられた制度を乗り越えるような世界秩序が次々に提示されています。中国が新しい国際政治制度を考えるホットスポットであるとも言えます。

そして新しい世界秩序のうちのひとつに、長く中国の政治の基盤となってきた「天下」の思想をもとにしたものがあります。

天下思想というと、近代の国際化によって打ち捨てられた古来の思想のように感じる人もいるかもしれません。

そんな天下思想に、問題を解決するどのような可能性が秘められているのでしょうか?

近代の中国哲学を専門とする東京大学大学院総合文化研究科の石井剛先生と一緒に、これからの世界について考える講義を紹介します。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

「中国」はどこにあるのか

しかし、そもそも「中国」とは一体どこにあるものなのでしょうか?

講義はまずこのような問いを立てるところから始まります。

「中国」は「中華人民共和国」のことだろう、と自明に考える人もいるかもしれません。

しかし「中国」は、長い歴史の中で、中心となる王朝も、その支配が及ぶ領域も変遷してきた国です。

講義では、近代中国の思想家、梁啓超(1873-1929)や章炳麟(1869-1936)、康有為(1858ー1927)らによる、中国の捉え方が紹介されています。

時代はちょうど清朝が滅亡する変革期でした。3人はそれぞれ、ただ「中国」について定義したりその未来を予測したりしていたのではなく、中国を捉えなおすことによって、より良い「中国」のあり方を模索していました

いずれにせよ、「中国」を考える場合は、その長い歴史も視野に入れなければいけません。

「中国」はどこにあるのかという問いは、一見するほど自明な答えを持つものではないのです。

中国に一貫するものとは

それでは、中心から外縁にいたるまで、あらゆるものが変化してきた中国には、一貫するものはないのでしょうか?

講義では、この問いに正面から取り組む現代中国の歴史学者・葛兆光(かつ ちょうこう)が紹介されています。

葛兆光は、雑誌『思想』(2018年第6号)に寄せた論考で、「何が中国か?」という問いに答えています。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

ここでは、先ほど確認した「現代中国 のすべてのエスニック・グループ、領域と歴史を歴史上の中国のものとしてはならない」ということなど、中国の政治的・社会的な枠組みと実態が述べられています。

注目したいのは、5の「近代国家であり天下の帝国という複雑な性格を併せもつ現代中国は、当面の国際秩序の中で 多くのトラブルに直面しています」という文言です。

中国が古来より有してきたのは、西洋で生まれた近代国家の政治制度ではなく、天下による政治制度でした。

天下の政治制度を取ってきた中国は、19世紀から20世紀にかけての厳しい歴史のなかで、やむをえず近代化を進めてきました。しかし、天下の仕組みはまだ残っているため、中国では様々なトラブルが生じていると言います。

それでは、天下の政治制度とは一体どういうものなのでしょうか?

講義はこのあと、「天下」をキーワードとして進んでいきます。

地を天によって支配する

古代中国の世界イメージに「天円地方」というものがあります。

「天円地方」は、天下思想を反映したイメージで、講義ではそれを図にしたものが示されます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

その図では、天が円形、地が方形であらわされます。

大きさの異なる方形が中心から順に広がっていき、円で囲まれています。

最も中央にある方形は皇帝が治める天下の中心で、その次の方形が朝貢システム下の地域、一番外側の方形は、文明に属さない「野蛮な」地域です。

そしてその外側(ないしは2つ目の方形の外側)に、円、すなわち天があります。

古代の中国の世界観では、中国はひとつの国家だったのではなく、世界そのものでした。

そしてその世界こそが、広大な地を天によって支配する「天下」という言葉であらわされるものなのだと言えます。

天下による世界秩序

ここで紹介した「天下」は、古代中国の世界観でした。

しかし記事の冒頭でも紹介したように、この天下の考え方は現代の政治制度を見直すためのひとつのカギになっています。

天下をひとつのシステムとして捉え、新しい世界秩序を提案している中国の政治学者に、趙汀陽(ZHAO TINGYANG)という人がいます。

趙汀陽は、天のもとのあらゆる土地を、世界の人々全員による共通の選択によって治めるべきだと主張します。ここでの天下は、実質的に世界政府のような役割を果たします。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

世界政府というと、国際連合のようなものをイメージする人もいるかもしれません。

しかし国際連合は、国民国家を前提として成立しているという点で、趙汀陽の提案する世界政府とは根本的に異なります。

 天下による世界秩序は、国民国家を超えたところにある、全世界の共同体のようなものだからです。

趙汀陽は、「世界史は疑わしい概念だ。人類はまだ『世界を世界とする』には至っていない」と述べています。

ここで趙汀陽が主張しているのは、「世界史」は単なる各国の歴史の寄せ集めでしかなく、本来的な意味での「世界史」はまだ存在しないのではないかということです。

近年、歴史学の分野において、「世界史」を各国の歴史の集合体ではなく、世界全体のダイナミックな動きとして捉える「グローバルヒストリー」という潮流があります。

趙汀陽の天下システム論は、実際の政治制度において、グローバルヒストリーのような一体の世界の実現を想定していると言えるのかもしれません。

(グローバルヒストリーに興味のある方は、羽田正先生の講義をまとめたこちらの記事も併せてご覧ください)

天下システムの中心になるもの

さて、ここまで読んで、みなさんのうちには天下システムに多少の不信感を抱いた方がいるかもしれません。

なぜなら、天下システムとは、天下の「中心」を必要とするシステムだからです。

何か特定の国家や人種を中心に据えるのであれば、強い反発が起こるであろうことは容易に想像がつきます。現実に何を中心とすべきかは、難しい問題です。

趙汀陽は、「グローバル金融システム、グローバルテクノロジーシステム、インターネットのように真の意味で実効的な力をもっている機構や組織」が基礎になる可能性を考えています。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

つまり、「世界的にシェアしながら共有し共同管理するようなグローバルシステム」が天下システムの中心になるということです。

講義ではサイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させた社会「Society 5.0」が天下社会の具体例として紹介されています。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

天下のための世界理念

しかし、グローバルシステムによる世界秩序は、特に天下思想と関係なく実現可能のように思われるかもしれません。

事実、私たちの社会はインターネットや経済のグローバルシステムによって支配されつつあります。(それはある種のディストピアの様相もなしています。)

ですが、グローバルシステムはそのまま天下になるわけではありません。

なぜなら、グローバルシステムが利己的なものであれば、世界中の人々が利益をともに受け取れる世界制度を打ち立てることができないからです。現状のグローバルシステムは、グローバル資本、技術、サービスによって成立するシステム化権力であり、自らの利益と権力の極大化だけを追求しています。

そこで天下の政治制度に必要なのは、「世界理念」だと言います。

その世界理念とは、「天下を以て天下とする」という管子の原則や、「天下を以て天下を観る」という老子の原則です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 石井剛

国家権力やシステム化した権力は、世界全体を合理的に秩序立てる理念を受け入れることができません。

そのため、帝国主義的覇権とグローバルなシステム化新権力を牽制するためには、世界普遍秩序を構築することが必要になってきます。

天下の外縁

 天下システムは未来を見据えて提案されている理論です。

そのため、不確定なことも多く、様々な価値観や状況を踏まえながら論じなければいけません。

講義では、東洋と西洋、また過去、現在、未来と、数多くの知見や情報が取り上げられているのですが、この記事ではそれを十分に説明しきれていません。

また、話も抽象的で難解なため、この記事を読むだけでは疑問に思うことや納得がいかないこともあるかと思います。

そんな方はぜひ、講義動画を視聴して、石井先生が語ることを直接確認してみてください。

講義の終わりには、学生による質疑応答の時間もあります。学生の質問に対する石井先生の回答で、天下システム論の印象がこの記事によるものから変わってくるかもしれません。

この記事では、主に「天下の中心」について確認してきました。

しかし講義内では、「天下の外縁」についても述べられています。

外縁とはすなわち、どこまで天に含めるべきか、どこまでを天に含めることができるかという問題です。

それは、他者の排除(差別)や私たちの世界認識の限界の話にもつながります。

実は石井先生は、天と地の間の余剰こそが根本的に重要だと主張されています。

一体なぜ余剰について考えるべきなのか、講義動画を視聴して確認してみてください。

また、この講義はテーマの範囲が広いので、みなさんが興味を持っているトピックとつながる内容も多いはずです。

ぜひ、講義で語られる内容を、未来を考えるための足がかりとしてみてください。

<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:30年後の世界へ ―「世界」と「人間」の未来を共に考える(学術フロンティア講義)第11回 「中国」と「世界」:どこにあるのか?

●他の講義紹介記事はこちらから読む

2023/10/18

質問です!

みなさんは、どんなメディアを通して「物語」を楽しむことが多いでしょうか?

……少し分かりにくい質問ですみません、別の言い方をしてみます。

みなさんは、文学、映画、マンガ、演劇などのなかで、どの表現形式が好きでしょうか?

今の世の中は、芸術作品からいわゆる娯楽作品まで、数多くの表現に溢れています。

そのなかで、「物語」を伝える表現も文学、映画、マンガ、演劇……と多様です。

「行間が自由に想像できるから小説が好き」という人もいれば、「視覚的に楽しめるから映画が好き」という人もいるでしょう。(ちなみに私は自分のペースで読めるのでマンガが好きです。)

そして、昨今ますます数が増えているのが、異なるメディアで物語が共有されること、いわゆる「メディアミックス」です。

「本屋大賞受賞の小説が実写映画化!」「大ヒットマンガがアニメ化!」なんてことが日常的に起こっている現在、ほとんどの人はメディアミックスされた作品を目にしていると思います。

しかし、そのように「異なるメディアで物語が共有されること」の効果や可能性について考えたことはあるでしょうか?

メディアミックスの作品を観たときに、しばしば「原作と違う」と不満な気持ちを抱くこともあるかもしれません。

ですが、異なるメディアが相互に影響し合うことは、また「物語」が新たに生まれていくことだとも言えます。

フランス文学研究者の野崎歓先生と一緒に、メディアの相互作用について考える講義を紹介します。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」 Copyright 2016, 野崎 歓

現実を再現したいという欲求

今回紹介する講義は2015年開講の「媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」)」の第3回「メディアの相互作用:文学と映画をめぐって」です。

この講義は、「メディア」をテーマに各分野の先生が話すオムニバス講義のうちの1回です。メディアの分野に関心のあるかたは、ぜひ他の講義もあわせてチェックしてみてください。

さて、野崎先生は文学でも映画でもなく、「ラスコーの壁画」に言及するところから講義を始めます。

ラスコーの壁画とは、フランス西南部の洞窟で見つかった壁画です。約二万年前もの昔に描かれた馬や牛、羊などの絵が、今も現存しています。私たちに残されている、最も古い「表現」のひとつです。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」 Copyright 2016, 野崎 歓

野崎先生はラスコーの壁画について、古代の人が描いたにしては写実的だと言います。

思想家のジョルジュ・バタイユ(1897-1962)もまた、ラスコーの壁画に対して「知的リアリズムという名称がふさわしいような実在の形象化の産物」だと述べています。

たしかに壁画は、画像としてみる限りでも、幾何学的な抽象画というよりは、今にも動き出しそうな現実感をもって描かれています。実際に洞窟に入ってみたら、そのリアリティはより一層感じられるはずです。

野崎先生は、このラスコーの壁画を例として、人間の内には自分を取り巻くリアルな世界を再現したいという欲求があると主張します。

しかしラスコーのリアリズムが直接現在につながるのではなく、表現の歴史は迂回した経路を辿っています。

そして究極のリアリズムの成立には、19世紀の写真の誕生を待たなければいけません。

写真が持つ「リアリズムの美学」

19世紀に生まれた写真という技術は、人間が介在しない初めての表現です。

もちろん、画面の切り取り方には撮影者の意図が反映されますが、映った対象は現実にあるものであり、そのまま現実が再現されています。その意味で、写真はメディアならざるメディアだとも言えます。

映画のリアリズムを語る上で重要なのは、フランスの映画理論家、アンドレ・バザン(1918-1958)です。

講義でも紹介されているバザンは、写真によって初めてもたらされたリアリズムの意味について論じました。

写真はそれまで、芸術に劣るものとして蔑視に晒されてきましたが、バザンの代表的な論稿「写真映像の存在論」(1945)によって、その認識は塗り替えられました。

その論稿では「たしかに写真は芸術ではない、しかしそもそも写真は人間の技ではない」ということが述べられていると、野崎先生は語ります。

つまり写真は、人間が介入するこれまでの芸術の文脈では捉え切れない、リアリズムの美学を持っているのです。

しかし皮肉なことに、写真は次第に芸術と見なされるようになっていきます。そして、写真を時間変化に合わせて動かした映画も次第に、単なる運動の記録ではなく、物語が加わって芸術化していきます。

これは「映画の逆説」とも言えるような事態です。20世紀は物語が様々なメディアを貫いた時代であったと、野崎先生は言います。

こうして映画と文学は、物語を共有することで、切っても切れない縁で結びつけられるようになりました。

(「写真映像の存在論」が入ったバザンの論稿集『映画とは何か(上・下)』は、野崎先生の訳で岩波文庫から刊行されています。また、野崎先生によるバザンの研究書『アンドレ・バザン 映画を信じた男』も春風社より刊行中です)

映画になった文学作品

講義では、小説が原作の具体的な映画作品について語られます。

川端康成の『伊豆の踊り子』の映画や18世紀フランスの小説『マノン・レスコー』の演劇、映画が例として挙げられます。

ただし、とても残念なことに、講義で紹介されていた映画の画像は、著作権の関係でほとんど見ることができません。

講義で5分ほど放映された森鴎外の『山椒大夫』の映画(溝口健二監督)も泣く泣くカットです……

ただし、重要な点はほとんど野崎先生が説明してくださっているので、話についていけなくなるということはないと思います。このパートで語られていることは、この講義の要点にもなっているので、ぜひ視聴して確認していただきたいです。

指摘されるなかで、ひとつの興味深いポイントは、小説で登場人物の外見が具体的に描写されるのは、19世紀になるまでほとんどないということです。

どうして人物の描かれ方が変化したのか、映画との関係も踏まえて野崎先生が語っています。気になる方はぜひ動画をチェックしてみてください。

文学と映画の相互作用

最後に、文学と映画の関わり合いについて語られます。

これまで、文学を元にして作られた映画、つまり文学から生まれた映画について確認してきました。

しかし映画もまた、文学に影響を及ぼしています。そのひとつが、小説におけるカメラの導入です。

野崎先生は、映画ができて以降、20世紀の作家たちはカメラを意識せずに小説を書けなくなっていると述べます。

つまり文学においても、ビジュアルの体験が重要になってきているということです。

イタリアの小説家・批評家のイタロ・カルヴィーノ(1923-1985)は、「これからの文学に必要なもの――それは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」である」と語ったといいます。

小説は映画の先駆でありながら、映画もまた小説の未来形になっているのです。

野崎先生は、「メディアは互いに反響しあい、「物語」に第二、第三の生を与える」と言います。

そして、「文化の創造は、メディアの相関関係の形作る渦巻きによって可能となる 」と結論づけています。

終わりに

講義の終わりには「小説(演劇、マンガ等)の映画化作品をどう楽しむべきか」というテーマで、学生がグループワークを行なってまとめた内容が語られます。

この記事の冒頭で述べたように、メディアミックスされた作品は、しばしば原作のファンから「原作と違う」と批判を受けます。

しかし、原作に忠実であることばかりがメディアミックスの価値ではないかもしれません。

最後には、学生の意見に対する野崎先生からのコメントもあります。ぜひ動画を最後までご覧になって、メディアミックスから生まれる「第二、第三の生」について考えてみてください。

<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第3回 メディアの相互作用:文学と映画をめぐって 野崎 歓先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

2023/10/12

みなさんは普段の生活のなかで、「死」について考えることはどれくらいあるでしょうか?

私たちはみな死を迎える存在でありながら、健康で日々の生活に追われていると、その事実に意識が向かなくなってしまうことがあります。

しかし一方で、いざ死というものが頭をもたげると、不安や焦りが襲ってきます。

死にどう向き合えばよいかというのは、人類がこれまでずっと向き合い続けてきた難問であり、いまだ明快な指標は出ていません。

しかし、そんな掴みどころのない死について、真剣に考える研究分野があります。

それは、「死生学」という分野です。

東京大学の文学部では、2002年より、「死生学」のプロジェクトやプログラムを開設してきました。

2011年には、21世紀COEおよびグローバルCOEプログラムの「死生学」のプロジェクトと、教育プログラムである「応用倫理教育プログラム」が統合される形で、「死生学・応用倫理センター」という研究組織が発足されています。

死生学という学問分野の歴史は浅く、もともと領域がはっきりとしてはいませんでした。そのため、哲学や宗教学などさまざまな人文知を用いることで研究が進められてきましたが、東大でのプログラムも開始から20年以上が過ぎ、段々と、まとまった知見が蓄積されてきています。

今回紹介するのは、2009年に開講された連続オムニバス講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想」の最終回、「死生の問いと現代の学術」です。

この全13回の連続講義では、哲学、宗教、文芸などの分野の研究者が、「生と死の思想」の展開について語っています。

(こちらの連続講義は、全ての回の動画をOCWで視聴することができます。こちらのページより、気になるテーマの講義動画をチェックしてみてください)

登壇されるのは、この連続講義のモデレーターでもある宗教学者の島薗進先生と、第9回、第10回で講義を行なった哲学者の熊野純彦先生です。(村松眞理子先生も登壇予定でしたが、私用により欠席)

UTokyo Online Education 死生の問いと現代の学術 Copyright 2009, 島薗 進、熊野 純彦、村松 眞理子

このお二人は、前述のCOEの死生学プロジェクトの立役者でもあります。

対談形式で進む講義の内容を確認しながら、死生学についての学びを深めてみましょう。

それぞれの専門分野から考える「死」

講義の前半は、島薗先生がこれまでの連続講義の内容を振り返る形で進みます。

清水哲郎先生による、臨床の現場での死への態度について考える講義、

逸身喜一郎先生による、西洋古典から「mortal」「inmortal」という概念を捉える講義、

沼野充義先生による、ロシア文学者と死の関係性を探る講義、

金森修先生による、フーコーの生権力に関わる死をめぐる歴史闘争を理解する講義など…

それぞれの先生方が、専門の領域と「死」を結びつけながら、講義で語られた内容に、島薗先生が解説を加えていきます。

そして、登壇されている熊野先生による、ハイデガーの哲学の講義については、島薗先生による質問に熊野先生が答えつつ、内容が確認されていきます。

UTokyo Online Education 死生の問いと現代の学術 Copyright 2009, 島薗 進、熊野 純彦、村松 眞理子

「死をめぐる講義でハイデガーを取り扱う必然性はどこにあるのか」という島薗先生の質問に対する熊野先生の応答など、対談形式の講義ならではの臨場感のあるやり取りは必見です。詳しい内容は、ぜひ講義動画を視聴して確認してみてください。

身体に魂はあるのか?

講義の後半では、島薗先生がご自身の専門である日本人の宗教観から、「死」について語られます。

島薗先生は、「生命倫理は死生観を反映する」として、欧米社会と東アジア(主に日本)では、脳死・臓器移植、安楽死、人工妊娠中絶、生殖補助医療、出生前診断・着手前診断に対する受け止め方がどのように異なるか、その背景にある宗教観とともに紹介しています。

UTokyo Online Education 死生の問いと現代の学術 Copyright 2009, 島薗 進、熊野 純彦、村松 眞理子

日本人の宗教観の特徴のひとつは、それが「アニミズム」に根付いているということです。

アニミズムとは、人間だけでなく、動植物や無生物など全てのものに魂があるとする考え方

たとえばみなさんも、“本を踏んづける”という行為に抵抗感を覚えないでしょうか? このような抵抗感は、ものに魂を見出すアニミズムの思想に通底する感覚です。日本のような多神教の国では、アニミズムが宗教的な基底を成しています。

一方で、キリスト教国家は、アニミズムを排除しながらその宗教観を形作ってきました。

キリスト教的な宗教観では、人間を他の動植物と区別しており、特に理性があることを根拠として「人間の尊厳」が主張されてきました。

このような東西の宗教観(死生観)の違いは、生命倫理の問題への取り組み方にも違いをもたらします。

たとえば講義で取り上げられたのは、脳死・臓器移植の問題

欧米社会では、臓器はまだ動いているものの、脳の機能が停止した人を「脳死」とみなして、臓器移植を行うことを積極的に推奨することが多いそうです。

一方、日本では身体が動いている人を「死んでいる」と捉えることへの抵抗感が根強くあります。それは、身体は理性によって動かされる機械ではなく、それ自体に魂があるものだという考え方が染み付いているからだと、講義の中で島薗先生は指摘します。

その結果、脳死制度の導入の程度は、日本と西洋諸国で大きく異なっています。

他者と生命を共有している感覚

脳死の例では、欧米社会が脳死の人を「死者」と割り切っているのに対して、日本のアニミズム宗教観は判断に留保をとっていました。

しかし、日本の宗教観の方が欧米社会と比較して、全ての面において生命を重んじているのかというと、そういうわけでもありません。むしろ個々の生命は、アニミズムの価値観のもとに、犠牲となることがあります

講義では、アメリカの政治学者、フランシス・フクヤマによる次のような主張が紹介されました。

仏教では人間と人間以外の自然を区別せずともに断絶のない宇宙の一部だと見なしている。キリスト教と比べた場合、仏教、道教、神道のようなアジアの諸伝統は、人間とそれ以外の被造物との間に明確な倫理的区別を立てない傾向がある。(中略)しかしこれは裏を返せば、人間の生命の神聖性(sanctity of human life) に対して敬意を払う度合いが、何ほどか低くなることをも意味する。アジアの多くの地域で、実際、中絶や幼児殺し(とくに女児)といった慣習が広まっている。

アニミズムを基底とする文化圏(アジア)で、中絶やいわゆる間引きなどの幼児殺しが行われやすいことを指摘しています。

16世紀に日本を訪れた宣教師たちも、日本で行われていた間引きや堕胎に難色を示していたようです。

現代においても、カトリックや一部の生命尊重派の宗派が根強い国や地域で、中絶自体が法律で禁止されているところは多く存在します。
(西欧で全く子殺しが行われなかったわけではありません。)

しかし、日本で全く平然と子殺しが行われてきたかと言えば、そうではありません。気が引けたり、悲しみが伴ったりすることもあったはずです。

その慰めとなる考え方として、子どもの生まれかわり信仰があったといいます。その信仰の背景を、波平恵美子は『いのちの文化人類学』の中で「いのちのプール」という言葉を使って説明しています。

そこでは、私たちは、一人一人の個別な人間であるというよりも、ひとつの大きなプールのなかから、ある時間だけ生まれ出てきて、死ぬとまた帰っていくようなものだと考えます。

島薗先生は、他者と生命を共有しているような感覚から、世代間の連帯が生まれていくことも指摘しています。たとえ個人がいなくなったとしても、集団は残るということです。

死生学の分野横断的な発展

島薗先生の講義のあとは、「アニミズム」や「死」を中心としたテーマについて、島薗先生と熊野先生が自由に語り合います。

このパートは、二人で進行するこの講義ならではであり、ぜひ皆さんに視聴していただきたい醍醐味ともいえる部分です。

会話はつらつらと進んでいくため、ここで内容を説明しきるのは難しいのですが、個人的に印象に残った部分を紹介します。

熊野先生は、宗教学や民俗学は、今なお息づく思考を掘り起こして活性化する学問だと語ります。

まさに、宗教学者である島薗先生が講義で説明した内容は、現代の私たちの生命倫理の基底にアニミズムの価値観があることを明らかにしたものでした。

しかし、熊野先生はアニミズムという言葉が、色々な概念を包括しすぎているのではないかと、疑問を投げかけます。

そして、別の言葉でアニミズムを語ることができないかと島薗先生に尋ねるのです。

これは、日々哲学のテキストを精読してその言葉の意味を精査している熊野先生ならではの指摘であり、二人で進行する講義だからこそ生じた問いです。

そもそも最初に紹介したように、死生学という分野自体が人文学を中心とした様々な学問分野の知を集結させる形で生まれてきたものでした。

二人で進められたこの講義は、このような死生学の分野横断的なあり方を実感できるものになっています。(講義前半の、島薗先生による他の先生の講義についての解説にも、そのような側面があります。)

皆さんもぜひ講義動画を視聴して、死生学についての学びを深めてみてください。

そして、死生学について興味を持ったら、連続講義の他の動画もぜひ併せて視聴してみてください。

他の回の講義紹介記事も併せてご覧ください。
ロシア文学研究者による『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』解説
20世紀最大の哲学者、ハイデガーについて知りたい方へ【「存在」とは何か】

<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)第13回 死生の問いと現代の学術 島薗 進先生、熊野 純彦先生、村松 眞理子先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

2023/10/06

多様な人々が共に生きる社会がめざされる現在。

しかし今なお、特定の宗教を信仰していることで、制約を受けたり、被害を被ったりする人がいます。

さらに、それぞれ異なる信仰を持った人同士が対立し、戦争やテロといった大きな事態に発展してしまうこともあります。

このような「宗教対立」はどうすれば解決できるのでしょうか?

この先を読む前に、みなさん、少し考えてみてください。

……

手段としてまずひとつ思いつくのは、相手の宗教をよく理解することでしょう。

つまり、互いに言葉を交わしその宗教をよく知る「宗教間対話」が、宗教対立の解消につながるということです。

みなさんのなかにも、話し合いによる異文化理解によって偏見をなくしていくことが重要だと考えた人がいるのではないでしょうか?

しかし実は、この「宗教間対話」という手法には、大きな落とし穴があるのです。

一見平和的で合理的に思えるこの方法に、どんな問題点があるのでしょうか?

そして、どうすればその「落とし穴」を乗り越えることができるのでしょうか?

宗教学者の藤原聖子先生による講義「宗教をめぐる共生の現在ー“異文化理解”的発想の陥穽」を通して、いっしょに学んでみませんか?

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

「宗教間対話」の落とし穴

それでは、「宗教間対話」のどこに落とし穴があるのでしょうか?

講義では、次のことが指摘されます。

まず、類似点の多い宗教でも対立が起こっていること。もし互いの無理解が対立を招くのだとすれば、それぞれかけ離れた宗教ほど対立するはずです。しかし実際は、似た教義を持つ宗教間でも対立が起こっています。それどころか、同じ宗教のなかでも対立が生じていることさえあります。

また、宗教についてよく知ると差別や偏見がなくなるかといえば、必ずしもそうではありません。「宗教についてよく知ると、相手の宗教をからかうのもうまくなる」と述べている宗教教育の先生もいるそうです。

そしてそもそも、宗教間対話に参加する人は、既に一定の価値観や利害を共有しているという前提もあります。元も子もない話になりますが、本当に共存を考えなくてはいけない人同士は、対話のテーブルにつくことがありません。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

それでは、私たちは共生のために何をすればよいのでしょうか?

どのような信仰を持つ人も「公平」だと感じる場

もともと、ある宗教を信仰する人は、異なる文化圏に入ったときに、その文化に同化するしかありませんでした。1970年代、藤原先生が中学生で、イギリスに住んでいたとき、そこではイスラム教徒やヒンドゥー教徒の友だちもみな同じようにイギリス風の生活に合わせていたそうです。

次第に「多文化主義」の価値観が広がり、多様な宗教を信仰する人が、自身のアイデンティティを尊重しながら暮らしていくようになります。

そして現在は「ダイバーシティ」の時代。宗教や信仰がオープンになっただけでなく、それらの共生、社会参加と統合がめざされるようになりました。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

このような異なる宗教の共生は、どうすれば実現できるのか? いまはこのような段階です。

正しい知識と、相手への思いやりや誠意があれば、なんとかなると考えている人もいるかもしれません。

しかし、先ほど確認したとおり、異文化の理解は根本的な解決につながりません。「尊重」はできても、「共生」はできないのです。

むしろ問題の本質は別のところにあります。

その「本質」を考えるために、次のシチュエーションを想像してみてください。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

新入社員の親睦会。そこには、宗教上の理由でアルコールが禁じられている人がいます。

会場はどのような場所を選ぶべきでしょうか?

① お酒を飲むことが前提のバーや飲み屋はNG

② ソフトドリンクがあればバーや飲み屋でもOK

みなさんは①と②、どちらの回答に納得感があるでしょうか?

イギリスの「職場の宗教ハラスメント防止」ガイドブックには、①「お酒を飲むことが前提のバーや飲み屋はNG」と記載されているそうです。お酒を禁じる宗教は、自身が飲酒することだけでなく、酩酊した人のいる空間にいること自体が好まれないためです。

「一部の人だけが配慮されてずるい」と感じたでしょうか? もしそのような気持ちになったのであれば、そこにこの問題の本質が隠れています。

つまり、共生のための「落とし穴」とは、さまざまな宗教の人が共存する社会で、「不公平にならない」ようにしなければならないということです。

もし自分が一対一で飲食を共にするのなら、相手の宗教に合わせてあげればよいだけの話ですが、ほかにも人がいるのなら、どのような信仰を持つ人も「公平」だと感じる場をめざさなければいけません

つまり、共生のためのルールが必要なのです。

これには正解がなく、また知識や思いやりで対応できる話でもありません。

多文化主義政策をとる国(英、米、加、豪など)では、さまざまな宗教をもつ人のために、それぞれ異なる施策が実施されています。

講義で紹介されるのは、礼拝所の問題。

空港には、宗教用に礼拝室が設けられていることがありますが、その規模や仕様は国によって異なります。それぞれの国ではどのような施策が取られているのか、ぜひ講義を視聴して確認してみてください。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

学食のお茶は特別サービスなのか?

それでは、多文化主義政策があまり進んでいるとはいえない日本の場合はどうでしょうか?

講義で紹介されたのは、東大のイスラム教徒の学生の主張

困っていることはないか、藤原先生が尋ねたところ、「学食で、豚肉料理がのっていた他の人の食器といっしょに、自分の食器が洗い場に流れるのをみてゾッとした」と答えたといいます。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

この問題の解決方法を日本人の学生に聞いたところ、「マイ食器を持ってくる」、「有料の紙皿を提供する」という回答がありました。

イスラム学生への特別サービスになるので、自己負担ならOKだということです。

しかし、東大の学食ではお茶が無料で提供されています。ふだんお茶を飲まない人も、これがお茶を飲む人への特別サービスだと感じている人は少ないでしょう。一方、イスラム学生から見れば、お茶の方が特別サービスのように思えるかもしれません。

つまり、日本人の学生の多くは、「無宗教」の状態が社会のデフォルトであり、特定の宗教へ対応することは特別な優遇だと感じているということです。

一方、信仰をもつ学生(この場合イスラム学生)は、それぞれ宗教をもっているのが社会のデフォルトであり、一部の人だけ不便であってはいけないと感じています。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2014, 藤原聖子

このように、日本社会は「無宗教」が一般的なので、世俗主義をベースとして暗黙のうちにルールを設定しています

しかし、宗教ベースの社会からみると、そこには不公平に感じることも数多くあるのだといえます。

終わりに

ルール制定のためには、政治的な問題、社会の課題について話し合って、共に解決法を考えていく必要があるでしょう。しかし、その話し合いの前提自体が世俗主義の価値観をベースにしていることも多く、真の公正をめざすのは簡単なことではありません。

ただ、宗教の共生の障害として、特定の宗教への無知や偏見を挙げる段階はもう過ぎていることは確かで、これからは公正な社会を作るためのルールを考えていかなければいけません。

この講義動画は、OCWの動画としては比較的短く、1時間かからず視聴することができます。ぜひみなさんも動画を観て、学びを深めてみてください。

<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:共に生きるための知恵(朝日講座「知の冒険—もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2014年度講義)第6回 宗教をめぐる共生の現在―“異文化理解”的発想の陥穽 藤原 聖子先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

2023/09/27

みなさんは、自分は恵まれていると感じるでしょうか?

「まあまあ悪くない」と、ある程度現状に満足している人もいれば、そうではないと感じる人もいるかもしれません。

不満を感じていると、自分よりも恵まれていそうな人を羨んでは、憎んでしまうことも……

ですが、その憎しみがなぜか、強い立場にいる人ではなく、弱い立場にいる人に向いてしまうことがあります

弱い立場にいる人とは、たとえば、女性、エスニックマイノリティ、生活保護受給者など。

現代の日本社会では、このような社会的に立場の弱い人への批判的な運動が、一部で行われています。

本来、「被害者」といえるはずの彼、彼女たちが、どうして責められてしまうのでしょうか?

社会学者の北田暁大先生と一緒に考えてみませんか?

「日本社会は『右傾化』しているか」

今回紹介するのは、2016年に開講された「日本社会は『右傾化』しているか」という講義です。

講義が開講されてから時が流れ、語られる現状には少し変化が生まれていますが、取り上げられる問題は現在も本質的には未だ解決していません。

その本質的な問題とは、社会的弱者の平等の推進に対する「バックラッシュ(反動・揺り戻し)」です。

これまで社会的弱者の地位は、幾多の取り組みの末、部分的に回復してきました。

それに対して、不当だと声を上げ、平等化の流れに反発するのがバックラッシュという動きです。

北田先生は、このようなバックラッシュの動きを「右傾化」として捉えます。(そのため、「右傾化」は現状の維持を求める「保守化」ではなく、むしろ現状を改めようとする「反保守化」の動きとして起こっているといいます。)

講義では「トランプ現象」や「極右政党『ドイツのためのオルタナティブ』の伸長」、「フランスにおける価値統合問題」などが、バックラッシュの世界的な例として紹介されます。 日本でも同様のバックラッシュが起こっていて、北田先生は排外主義的な主張を行う「在特会」について言及しています。

印象論により行われる「現代的差別」

このような激しい政治的な運動が例となると、自分には縁のない話だと考える方もいるかもしれません。

しかし、この運動の背景になっているのは、「社会的な弱者に何かを奪われていると感じる剥奪感」です。

このようなそれなりに恵まれているマジョリティが感じる被害者意識は、ほかにも様々な形で表れています。

たとえば講義で紹介されたのは、生活保護受給者へのバッシング

生活保護受給者は、マジョリティよりも厳しい立場に置かれている社会的弱者ですが、「税金を食い潰している」として責められることがしばしばあります。

そのほかにも、いわゆるニートやゆとり世代へのバッシング、痴漢の被害者への批判など、本来「被害者」とも言えるような人が標的にされる例は枚挙にいとまがありません。

講義で紹介される概念に、「現代的差別」というものがあります。

これは、従来の「〇〇は△△に劣る」と主張する「古典的差別」に代わるものとして、作家の高史明が提示した概念です。

現代的差別は、「差別は既に解消しているにもかかわらず、彼らは自分たちの努力不足による結果による“区別”を受け入れないどころか、不当な特権を得ている」というロジックに依って行われます。

そこでは、実際の制度的な背景は無視され、印象論や身の回りの一部の事象を引き合いに、差別がなされるのです。

「〇〇化」について考えるときの3つのポイント

さて、今回紹介する講義のタイトルは、「日本社会は『右傾化』しているか」というものでした。

講義の前半では、日本社会に上述のようなバックラッシュの動きがあることが示されます。ですが、その現象を「右傾化」といえるか、すなわち過去と比べてその傾向が強まっているかどうかを判断するためには、もう少し詳細に考えていく必要があります。

そもそも、「〇〇化」というのは取り扱いが難しい概念で、正しく見極めないと、単なる印象論になってしまいます。

そしてその印象論は、特定の属性を持つ人々に対する間違った決めつけを生み、現代的差別に発展しかねません。

それでは「〇〇化」について考えるにあたっては、どのようなことに注意すればよいでしょうか?

授業の後半では、よく話題になる「若者の〇〇化」を例に、印象論について考察します。講義で紹介されたこちらのグラフ。

これを見ると、日本では、高齢者と比較して若者の愛国心が低くなっていることが分かります。

しかし、このグラフを見るだけで「日本国民の愛国心は弱まっている」と判断することはできるでしょうか?

下で紹介するのは、1969〜2009年の間、各年代ごとに全年齢と若者(20-24歳、25歳-29歳)の愛国心を抱く程度をまとめたグラフです。

このグラフから、「今の若者の愛国心が低くなっている」のではなく、「戦後日本では、どの年代においても、若者の愛国心は高齢者と比較して低い傾向がある」のだと見なすべきだと考えられます。

さらに、世代ごとの主張の時系列変化を見る際には、以下の3つの効果を意識する必要があります。

まずは「年齢効果」。これは年齢によって主張が変化していくということです。先ほどの愛国心の例はこの年齢効果を受けているといえます。

次は「コーホート効果」。世代ごとの主張は、その世代が育った時代の歴史背景に影響を受けるということです。たとえば戦争を体験したかどうかは、大きな主張の違いをもたらします。

そして「時代効果」。これは、特定の世代ではなく、特定の時代によって主張が影響を受けるということです。この場合、全世代の主張に変化が見られることになります。

この3つの効果のうちどれが働いているのか、いくつかのグラフを見比べながら判断することが、無根拠な世代語りに陥らないためには必要です。

「若者の関係が希薄化している」は真実か?

若者に対する印象論について、もう一つの例を見てみましょう。

しばらく前に「若者の関係が希薄化している」ということが主張され、話題になりました。

そこでは「今の若者は(職場で)昔の若者より形式的な人間関係を望んでいる」と考えられました。

しかし、実際にはどうなのでしょうか? 講義で紹介されるグラフを見てみましょう。

全体的に形式的な付き合いを望む割合が増えているように見えます。つまり、形式的な付き合いを望むのは、世代の効果ではなく「時代効果」だと考えられそうです。

講義ではさらに情報を絞ったグラフが紹介されます。

これを見ると、なんと若者(20代)の形式的付き合いを望む比率は1973年と2003年であまり変わらないのに対して、40代〜60代の比率は大きく上昇しています。

北田先生はここから、若者ではなくむしろ、職場で中堅以上を担う年齢層が、以前よりも形式的な人間関係を望んでいるといったほうがよいと主張します。

それにもかかわらず、世間では「若者の関係が希薄化している」と言われていたのです。

北田先生は、このような実態と異なる認識が生まれてしまう原因に、人々が「自分自身を固定的なアクターとして設定すること」があると指摘します。つまり、自分の変化には自覚的になることができないため、代わりに他の世代を社会の変化の要因にしてしまうということです。

「自分の若い頃と現在の自分との差異」を「世の中一般の昔と今の差異」として捉えてしまう。そして、「昔と今の差異」をもたらした要因として、新しい世代・若者が見出されてしまう。これが講義で説明される「若者論」の理由です。

「若者の関係が希薄化している」という主張は、実態と異なっていました。このようにピックアップするものを間違えると、誤った印象論になってしまうのです。

現代的差別を行わないために

講義の終わり、北田先生は、現代的差別に対処するために、講義を受けた聴講生に行ってほしいことがあると述べます。

それは、印象論に陥らないことです。

自分の身近なことは大切ですが、一般化する前に、それらについての調査や研究を調べてほしいといいます。

講義を通して、適切にグラフを理解することで、現状が明らかになることが示されてきました。家族や友達などのあり方は、社会制度によって大きく変わってきているため、実態を正しく捉えることが大切だといいます。

「若者は○○だ」「生活保護受給者は○○に違いない」といった対象への誤った見方が、人々を現代的差別に走らせる一つの要因になると考えられるからです。

この講義は、日本や世界の現状が理解できるだけでなく、自分の認識やあり方について問い直すこともできるような内容になっています。

記事では伝えきれなかったことも多くあります。興味を持った方は、ぜひ講義動画を視聴して、学びを深めてみてください。

<文/竹村 直也(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:現代日本を考える (学術俯瞰講義)第2回 日本社会は「右傾化」していてるか?北田 暁大先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

2023/09/20

「デジタル・ヒューマニティーズ」という言葉を知っていますか? 
デジタル技術を用いて行う新たな人文学研究のあり方です。
デジタル化が急速に進む現代において、人文学の分野でもデータベースなどの存在が研究のあり方に変化をもたらしています。
急速なデジタル化の中で掴みきれないほどの広がりを持つ「デジタル・ヒューマニティーズ」を学ぶことにどんな意味があるのでしょうか?

今回紹介する講義では、中国の古典を専門とする齋藤希史先生が、孔子や朱熹、中島敦といった東アジアの文学作品を通してこの問いに取り組みます。

中島敦『文字禍』

みなさんは青空文庫を知っていますか? 
著作権がない作品や著者が許可した作品が無料で公開されているデータベースです。
作品名を検索したらネット上で無料で読むことができた、という経験をしたことがある人も多いと思います。

ここでは中島敦の『文字禍』を例に挙げて、紙ベースとデジタルにおける読書を比較します。

まず、紙ベースの本を手に取ると、1942年に雑誌「文学界」で『山月記』と同時に発表されたということや、その時代の広告、本の価格など、作品の内容以外の情報を得ることができます。
作品の時代性に触れるという経験は、青空文庫で読むときには得られないものです。

一方、青空文庫からアクセスすると、旧字・旧仮名が現代遣いに変換されていることがわかります。
これによって、過去の作品も現在のものと同じように処理ができ、より手軽に読むことができます。

中島敦『文学禍』|青空文庫

『文字禍』の舞台はアッシリアです。
齋藤先生は、この作品のテーマは文字の物質性であり、本=物ということを強烈に具現化するために、竹簡や木簡、紙ではなく粘土板を使用したアッシリアを舞台に選んだのだろうと言います。
ここでは、本が意味を持つということはその物質性、つまり粘土板であることによって保証されていて、データにしてしまうと、本は意味を持たないのです。
『文字禍』において明らかにされているメッセージは、文字とは物質としての書籍そのものであるということです。

デジタル人文学研究

次に、論語の冒頭を取り上げて、東アジアの観点から人文学について考えていきます。

論語などの重要な書物には、原文の他に2種類の注釈があります。
一つ目は原文をわかりやすく解説する「注」、二つ目はその注をさらに細かく解説した「疏(そ)」です。
古典が読み継がれるうちに、どんどん注釈が増えてその内容も多様化していくと言います。
そのように繁殖していった注釈を含めて、今日では数々の古典がデータベース化されているのです。

現在、古典書籍をデジタル化してさまざまな分析に活用する「デジタル人文学研究」が行われています。
例えば、論語注釈のデジタル版は、OCR(PDFの文書を文字起こしできるツール)を利用してデータ化されています。他にも中国古典の様々な文書がデータベース化され、内容の関連などをデータ上で分析できるようになっています。
また、東京大学総合図書館では、『直江状』という江戸時代の資料を「訓点がついてルビなしの文」、「書き下し文」、「カタカナをひらがなに変換した書き下し文」など、原文データの表示形を自由に変えることができるデータベースを所蔵しています。

このようなデジタルと人文学の関係は私たちに何を示唆しているのでしょうか?

まず、これらは「物としての書物や文献」をデータに移し替えるという行為であるということができます。

ヒューマニティーズは、ギリシャやラテンの研究のように、古典という書物を相手にしています。
また、漢字の「人文」という言葉を辞書で調べると、人間の築いた文明、人の書いた物・文章・書物という語義であることがわかります。
ヒューマニティーズと人文では西洋と東洋の違いはありますが、根本はおそらく同じだろうと言います。
その根本とは書物や古典であり、『文字禍』における粘土版です。

書物をめぐる人文学は以下のように三つの時期に分けることができると言います。

①近代以前:書物は私有されていて誰もが自由に読めるものではありませんでした。

②近代以降:公的な図書館ができ、書物が占有から公有へと変化していきます。

③現在:デジタル化によって、物からデータが分離しています。論語のような貴重な書物をデータベース上で誰でも見ることができるという意味で、公有であるということができます。

書物というものを中心に考えていくとき、我々は書物を読むことで知識や情報を自分の記憶に入れ、それらを言葉として話すことができ、文字として書くことができるというように、体の中に「知」というものを入れ込んでいく作業を行っています。
書物を身体に取り入れて、書く・話すことによって、「知」が身体化されていくのです。

試験の時に暗記した知識を取り出す、という作業は、身体化できているかどうかを試す、いわば体育のテストのようなものだということができます。

この観点から、読書とは知識を体に収める過程であり、書記とは身体からそれらの知識を離して物質化する過程であるということができると言います。

朱子語類『読書法』

次に、東アジアの人文学に多大な影響を与えた人として、朱熹を取り上げます。朱子語類の『読書法』において、書物の身体化はどのように捉えられていたのでしょうか?

本というものはその物質性によって価値が保証されているのであり、竹簡や木簡から書き写して物質性が失われることで、価値が損なわれてしまうという批判が書かれています。
竹簡や木簡を利用していた当時、中国の古典を読むためには訓練が必要でした。

少し前まで、我々がこれらの内容を探すためには、図書館へ行き朱子語類を頭から読んでいく必要がありました。
しかし、デジタル化されることによって、訓練されていない人でも容易に該当箇所を探し出し、類似した記述を他の作品とリンクして検索することができるようになったのです。

また、朱熹は読書を食事に例えています。最初に噛み付き、咀嚼して崩していくと滋味が自ずから出てくるのだと言います。
さらに、書物を音読することにも重きを置いていました。
こうした「身体化」的な読書の仕方が東アジアのスタンダードだったのです

デジタル・ヒューマニティーズの在り方

これらを踏まえて、現在のデジタル化は人文学にとってどんな意味を持つのでしょうか?

あらゆるものを対象として数字化することにより、データ処理速度が上がり、データの複製や共有が急拡大しています。また今日では、デジタルを用いて調べることが一般的になり、意識しないと物に触れることができなくなっています。
昔は「技法」であったデジタルのあり方が逆転したのです。

さらに斎藤先生は、手順や訓練に重きを置く人文学において脱身体化が進み特定の分野に発信されてきた文学や哲学、歴史学が他の分野に発信可能になったり、誰でも簡単に書物を読み解くことができるようになったことで人文学の研究者が謙虚になることを迫られたりするのではないかといいます。

Googleマップがどんどん精密になっていくように、情報のデータ化・脱身体化が進む中で、それでもこの身体がある場所の感覚と私たちとを切り離して生きることはできないという「身体性」を一つの方法として扱うことはできないのでしょうか?

<文/下崎 日菜乃(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:デジタル・ヒューマニティーズ ― 変貌する学問の地平 ― (2018年度開講 学術俯瞰講義) 第12回 デジタル・ヒューマニティーズと東アジアの人文学 齋藤 希史先生

他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

2023/09/13

コンサートやミュージカル、お笑いのライブ、古典芸能(能、歌舞伎など)と、世の中には様々な種類の「舞台」があります。憧れの役者さんや芸能人に直接会うことができたり、非日常の感覚を味わうことができたりして、好きだという方も多いと思います。

では、現代の舞台演劇の公演、いわゆるお芝居の舞台についてはどうでしょうか? このコラムの筆者は歌手のコンサートやライブにはたまに行くのですが、実は演劇の公演にはあまり足を運んだことがありません。なんとなく理解するのが難しい、敷居が高い、というイメージがあるのですが、共感してくださる読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか……?

さて、今回ご紹介する2017年の講義「演劇における偶然性 観客の立場から」は、そんな「演劇」がテーマです。演劇の「難しさ」の理由を丁寧に解きほぐしながら、「対話」をキーワードに現代演劇の姿に迫っていきます。

ロシアの演劇や文学をご専門とする楯岡求美(たておかくみ)先生による、現代演劇入門にもぴったりの充実した講義です。

演劇の特質

まずは、演劇の特質とは何か、他の芸術と比べた時に何が演劇の特徴なのか、という問いから講義は始まります。それは、演劇が「時空間芸術」であることだと先生は言います。

たとえば映画では、スクリーンの上で人や物が動きますが、それは本物の人が動いているのではなく、人の映像(影)が映っているにすぎません。それに対して演劇では、必ず舞台の上に俳優がいて、客席にお客さんがいる、ということが必要になります。このように、パフォーマーと観客が時空間を共有することが演劇の基本的な性質です。

さらには、俳優が客席から登場するような演出や、観客から俳優に対する掛け声、拍手など、舞台と客席が「接触」することによる臨場感も、重要な特質の一つです。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 楯岡 求美

これをふまえて、先生は今回考えたい「問い」を提起します。以上のような俳優と観客の交流は、かねてより演劇の特色としてよく論じられてきたことですが、では、観客が実際に(物理的に)演劇の舞台に参加し、介入することは可能なのでしょうか? それはどのような場合に可能になるのでしょうか? 

この一見不思議な、大きな問いについて考える前提として、講義の以下では演劇論の基礎が紹介されていきます。

演劇を論じる難しさ

さて、楯岡先生によると、(現代の日本で)演劇を論じることにはいくつかの難しさがあると言います。

まず一つは、演劇を理解するためには、ルールやスタイルを習得し、「演劇言語」を知っていることが必要なことです。英語を全く知らない人が英語のスピーチを聞いても、言っていることがわからないのと同じように、演劇には特有の表現方法や言語があることを知っていないと、演劇が「わからなく」なってしまうのは当然です。

しかし、いざ「演劇言語」を学ぼうと思っても、そこには困難が待ち受けています。日本ではそもそも演劇を見る機会が多くはないのです。映画館や美術館は、時間ができたからふらっと行ってみる、という鑑賞体験が簡単にできます。しかし演劇ではそれが難しいです。演劇は時空間芸術であり、俳優と観客が同じ時空を共有する芸術だと先ほど紹介しましたが、それはある特定の時間と場所にい続けなくてはいけないということに他なりません。さらに、チケットが高額なケースもあります。時間もお金もかかる演劇鑑賞は、必ずしも日常的にできることではありません。

しかも、こうした困難を乗り越えて真剣に演劇を学ぶことができたとしても、演劇が「わかる」ようになるのか、というと、また違った難しさがあります。演劇を論じるための記号論(文法)が発達途上だからです。すでに20世紀初頭にはボガトゥイリョフやロラン・バルトなど記号論の論者によって演劇論がなされ、以降100年以上も演劇論が積み重ねられてきましたが、完成しないのだと楯岡先生は言います。現代芸術の表現は常に、一旦完成したものを壊し、変化していくものであるため、それを論じるための言葉も常に刷新され続けなければならないのです。

何を求めて芝居を見るのか?

以上のように、演劇を論じることには様々な難しさがあります。それでも演劇について考えるために、そもそも私たちは、劇場にお芝居を見に行く時、そこに何を見に行っているのか? を考えてみましょう。楯岡先生は、「俳優」「物語」「演出」「ハプニング」の4つを挙げて説明しています。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 楯岡 求美

まずは「俳優」です。当然ですが、舞台を見に行くと実際の俳優に生で会うことができます。これは大きな特徴かつ魅力です。演劇は〈会いに行ける〉芸術なのです。

次に「物語」です。演劇では、1〜2時間の決まった時間内に、目の前で物語が展開されるので、手軽に物語のあらすじを知ることができ、まるでVRのように物語世界を体験することができます。また、等身大のリアルな登場人物に感情移入して、共感・共鳴するという楽しみ方もあるでしょう。

さらに、「演出」という要素も大きいです。たとえ暗記するほどよく知っている物語であっても、予想外の演出や表現方法によって、話が違って見えることもあります。舞台装置や衣装などを現代アートとして楽しむこともあります。

最後に楯岡先生は「ハプニング」を挙げます。演劇を見ていると、俳優がセリフを間違えてしまうなどのハプニングが起こることがあります。そんな時、見ている観客はなぜか「お得感」を感じませんか? この「お得感」を感じるのは、このお芝居がたしかに今、ここで起きているということの保証であり、自分が今ここで演劇の空間を共有していることの保証になるからだと先生はいいます。

現代演劇と「対話」

ここからは、より具体的な例にそって、演劇の核心に迫っていきます。

演劇では様々な人同士の「対話」が行われます。物語の中の登場人物の対話はもちろん、俳優と観客の対話、そして演出家や俳優とテクストとの対話もあります。こうした「対話」としての演劇が後半のテーマとなります。

講義動画では、実際の舞台公演の映像が引用され、それに即して演劇と「対話」の関係が語られます。講義の後半部分については、なんといっても文字でまとめるだけではうまく伝わらない部分もあるので、ぜひ講義動画で、舞台の映像と楯岡先生の解説をご覧ください。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 楯岡 求美

おわりに

講義部分のみの動画は50分程度と比較的コンパクトなサイズですが、内容はぎっしりです。「観客は舞台に介入できるのか?」というディスカッション課題に関する教室の学生の答えや、質疑応答も収録されており、講義のライブ感を感じることができますので、講義動画もぜひチェックしてみてください。

ちなみに他にも、東大TVにて楯岡先生による高校生向けの模擬講義の動画が公開されています。「物語」や文学についての講義で、東大TVのコンテンツの中でも人気の一本ですので、ぜひこちらもご覧ください。

楯岡求美「物語の形:聞こえるものと見えるもの」ー高校生のための東京大学オープンキャンパス2019 模擬講義

<文/W.H.(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義)第11回 演劇と偶然② 楯岡 求美先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

関連記事:身の回りの「文化」をみつける—災害・民俗文化財・神田祭

2023/09/06

夏の風物詩の一つといえば、怪談ですね。

ということで、今回は怪談のような怖い話から紹介します(といっても、ホラーのような話ではないので、苦手な方も安心してご覧ください)。

1984年のある日、アフリカの国・カメルーンの、のどかな湖畔で起きた事件の話です。早朝5時ごろ、12人の人が一台のトラックに乗り(アフリカの田舎なので荷台に人が乗ってもあまり問題がないらしい)、市場に向かっていました。すると突然、トラックのエンジンが止まりました。荷台に乗っていた人たちの何人かが様子を見るため、トラックを降りました。

すると、その人たちは次々と倒れていったのです。それに驚いてトラックを降りた運転手たちも倒れてしまいました。

トラックの上に乗っていた2人はそれを見て、しばらく降りずにいましたが、流石にずっとそのままいるわけにもいかず、時間が経ってから降りました。すると、その2人は助かりましたが、倒れた人たちは亡くなっていました。

近隣でも同時刻に人々が倒れ、37名の死者が出ました。しかし、この事件の真相は謎に包まれたままでした

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

2年後の1986年8月、同じカメルーンにある、別の湖の周辺でも、再び似たような事件が起きました。

湖周辺の村落からの連絡が突然途絶えたことを受け、近隣の人々が訪れると、牛や鶏といった動物をはじめ、なんと1746人もの人々が亡くなっていました

どうやら短時間で多くの命が何者かによって奪われたようでしたが、人間や動物に外傷はなく、周囲の植物や建物なども無傷でした。

さあ、これらの事件の犯人は一体何なのでしょうか。

今回紹介するのは、こんな不思議な事件の話から始まる、もう導入から面白い、穴澤活郎先生の『不思議な災害(カメルーン)』という講義です。穴澤先生は、以前『【温泉で学ぶ!】「中和」という化学反応』というだいふくちゃん通信で紹介した講義も担当されています。

事件の犯人は誰だ

さて、それでは講義に沿って事件の真相に迫っていきます。

災害の数日後、国際救援活動と、日本、アメリカ、フランスなどの火山学者らによる調査が始まりました。面白いことに、フランスには火山が少ないのですが、他の国に行って調査などをしており、日、米と並び三大火山研究国に数えられているそうです。火山のたくさんあるイタリアで、イタリアの研究者よりも火山の調査をしているのだとか

河川の流れに沿うように被害者が出ていたため、水が原因の一つとして考えられました。しかし、短時間で多くの被害が出たこともあり、この線はなさそうです。

また、周囲に火山があることから、火山ガスが原因に挙げられました。火山ガスは有毒な物質を含むことが多く、短時間で多くの被害が出る危険なものです。

実際、穴澤先生は薩摩硫黄島で調査をしていた際、音のなる機械で調査を行っている最中に、背後で音もなく起きた水蒸気爆発に気づかず、危うく命を失いかけたそうです。

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

再び少し脱線してしまいましたが、話を戻します。

研究者たちは火山ガスの調査を行います。

しかし、水に含まれる物質や植物への被害などを調査した結果、どうやら犯人は火山ガスでもないようです。では、一体何なのでしょうか。

研究者たちが辿り着いた答えは、そう、我々の身近にも存在する、ある物質だったのです。

それが二酸化炭素です。

しかし、「あれ、二酸化炭素ってそんなに危険なんだっけ?」と思われる方も多いと思います。二酸化炭素は濃度が低い分には健康に大きな被害はないので普段気になることはありませんが、非常に濃度が高く、肺が二酸化炭素で満たされると、一瞬にして人の命を奪うことができます。

この事件の真相は、高濃度の二酸化炭素による窒息という災害だったのです。

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

では、一体どうして多くの人の命を奪うほどの二酸化炭素が発生したのでしょうか。

この原因として、「水蒸気爆発」と「湖水爆発」という二つの原因が考えられました。

水蒸気爆発というのは、マグマだまりから直接二酸化炭素が発散する現象で、湖水爆発というのは、湖底に徐々に滞留した二酸化炭素が過飽和状態(今にもあふれそうな状態)となり、それが何かのきっかけで爆発的に噴出するという現象です。

そして調査の結果、原因は湖水爆発であるという結論が出ました。ただ、その直接的な原因となったトリガーは未だに分かっていないそうです(有力なのは地滑りとされています)。

また、トラックの上にいた2人が助かったのは、二酸化炭素が周囲の空気より重く、トラックの上では二酸化炭素の濃度がそこまで高くならなかったからでした。

事件が再び起きないように

災害の原因が分かったということで、次は再発を防止する対策が行われます

湖水爆発は湖底に二酸化炭素が過度に溜まることにより起きるので、それを除去する「脱ガス」をすれば防ぐことができます。

湖底までパイプを降ろし、パイプ内の水をポンプで引き出すことで、あとは二酸化炭素の圧力によって自然と湖底の水が噴出されるというのが、脱ガスの仕組みの簡単な説明になります。

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

これらの対策の結果、実際に湖の溶存二酸化炭素量は減少し、災害の再発を防ぐことができています。

下の写真は、穴澤先生が実際に現地で調査してきたときのものです。講義では、度々穴澤先生が直接現地に調査に行った時の画像や動画などが体験談とともに紹介されています。

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

この写真に写っているのが穴澤先生ご本人で、その後ろに3本立ち上っている水しぶきが、実際に脱ガスが行われている様子です。

穴澤先生曰く、お風呂もない現地の調査では、湖に浸かって汗を流すのが一番の楽しみだそうです。

湖のその後

脱ガスにより湖の二酸化炭素は減少しましたが、全てが上手くいったわけではありません。

下の画像のように、パイプを追加した2013年には噴出量が減少し、湖面が赤くなっているのが分かります。

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

なぜ噴出量が減少し、何が湖の水を変色させたのでしょうか。

ここで穴澤先生は身体を張って実験をします。何と、湖の水を飲んで自分の舌で確かめたのです。曰く、「化学者にとって味見は大切で、舌で味を見るという化学反応を使うのが早い」そうです。

UTokyo Online Education 人間環境システム学 2021 穴澤活郎

さて、水はどんな味がしたのでしょうか。そして何が分かったのでしょうか。

その結果や湖面の色が変化した理由は、ぜひ講義で確かめてみてください。

講義では、事件の真相や原因、そしてその対策やその結果まで、より詳しく説明されています。

また、先ほども紹介したように、実際に現地に行って調査をしている穴澤先生の写真や動画、体験談も沢山使われており、楽しみながら研究されている様子が伝わってきます。

恐らく多くの人は知らないであろう災害とその対策について、ぜひ講義を通じて学んでみてください。

今回紹介した講義:人間環境システム学 第9回 不思議な災害(カメルーン) 穴澤 活郎先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

関連記事:【温泉で学ぶ!】「中和」という化学反応

<文/大澤 亮介(東京大学学生サポーター)>

2023/08/30

 最初にちょっとしたクイズです。以下の4つの状況を満たす国はどこでしょうか?

  • 平均寿命が40代前半(男性43.9才、女性44才)  
  • 家庭への電気普及率は約2%  
  • 高校進学率は1割以下  
  • 乳児死亡率(1歳まで)は約15%

 急速な経済発展を遂げつつも、未だ発展途上と言えるような東南アジアの国? それとも、貧困のイメージが強く、そのイメージは当たらずといえども遠からずといったようなアフリカや中米の国々でしょうか?

 実は、1890年の日本が、上に挙げた条件を満たす国なのです。およそ130年前であり、年号で言えば明治ですが、決して遠い昔の話ではなく、世代で言えば3世代ほど前の話です。

 つまり、何が言いたいかというと、わずか百数十年の間に日本だけでなく、世界各地で異常と言えるような経済成長が起こっているということです。

 ただ、日本に関してみると、ここ30年ほどは大きな経済成長を遂げているとは言い難い状況です。日本は、1960年ごろから急速な成長を遂げ、1980〜1990年代にかけてはOECDにおける1人当たりの名目GDPがアメリカを上回ってトップでした。ここ数十年の失速の原因は、人口構造や社会構造の変化に対して、日本の労働市場が対応しきれなかったことというのが今回の内容です。講義を詳しく見ていきましょう。

 (以下で取り上げられているデータは講義が行われた2015年時点のものです。最新のデータについてはご自身でご確認ください。)

50年後にはカナダ1国分の人口が減る?

東京大学 UTokyo OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2015, 宮本 弘暁

 日本の人口が減少傾向にあることは周知の事実ですが、実際どのくらいのペースで減ると考えられているのでしょうか? 宮本先生は、2015年の統計によると50年後には生産年齢人口は半減し、その数はカナダ1国分の生産年齢人口と等しいと言います。GDPは大まかに「生産性×労働者数」で考えることができるので、労働者が半減するということは、大きくGDPが低下してしまう可能性を示唆しています。

 また、日本の問題は人口が減ることだけでなく高齢化が進む点にもあります。2010年には現役世代2.8人で1人の高齢者を支えているような状況でしたが、50年後の2060年には現役世代が1人で高齢者1人を支えるような状況になるのではないかという推計もあります。更に、高齢化に伴う介護問題も深刻だといいます。まだ働けるにもかかわらず、介護のために離職してしまうような労働者もおり、これは労働人口の更なる減少につながっています。

 このような状況を打破するために、安倍元総理大臣は「新アベノミクス」と呼ばれる「3本の矢」(宮本先生によれば「3本の的」)を打ち出しました。GDP600兆円、出生率1.8、介護離職ゼロがその内容であり、政府も労働人口の減少に大きな危機感を抱いていることが分かります。

「失われた20年」って結局何?

「失われた20年」とはバブル崩壊後1990年ごろからの経済低迷を指す言葉で、その大きな要因は長期的なデフレだと宮本先生は言います。

東京大学 UTokyo OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2015, 宮本 弘暁

 デフレとは、ざっくり言うと、物価が下がりお金の価値が上がることを指します。宮本先生はデフレのことを「経済衰退の病」と言います。しかし、私たち一般の市民にとっては、物価が下がるのは嬉しいような気がします。いったい、デフレの何がいけないのでしょうか? 経済学の基本ともいえる、需要供給曲線を用いて見ていきましょう。

 まず、デフレに陥るということは日を追うごとに商品の値段が下がっていくということです。そうすると、今日買うよりも明日買う方が得になるので消費や投資意欲が下がり、総需要が落ち込みます。結果的に需要曲線が下側にシフトするので、供給曲線との均衡価格が下がり、商品価格の低下や株安を招きます。同時に円高が発生し、輸出不振に陥るため、関連する株式がさらに低下します。以上のようなからくりで、経済停滞を引き起こしてしまうのだと宮本先生は言います。

東京大学 UTokyo OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2015, 宮本 弘暁

 この経済停滞に対して挑んでいったのが、アベノミクスです。まず安倍元総理が最初に打ち出したアベノミクスでは大胆な金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という3つの経済政策パッケージでデフレ脱却を目指しました。3つのうち、主に金融緩和によりお金の価値が下がり、円安が起こって輸出増からの株高が発生したため、アベノミクスはある程度の成功を収めたように見えます。

 ただ、宮本先生はデフレ脱却成功のカギは労働市場が握っていると言います。一体どういうことなのでしょうか?

デフレ脱却には賃金上昇が不可欠!

 日本では1997年をピークに賃金水準は低い状態にあります。これは日本特有の現象であり、ITバブルの崩壊やリーマンショックなどの不況を経ても、他国の賃金水準は右肩上がりの状態です。これは、不況期にも賃金は下がりにくい性質があるからとされています。では、なぜ日本では賃金が下がっているのでしょうか? 

 それには大きく3つ理由があると宮本先生は言います。ボーナスの存在、非正規社員の増加、労働者の賃金交渉力の低下です。なぜこれらによって賃金が低下したのか、詳しくは講義をご覧ください。

 更に、宮本先生はミスマッチの増加も労働市場が抱える課題だと言います。日本の失業率は低い状態にありますが、景気による失業は少なく、有効求人倍率も上昇基調です。つまり、人手不足になっているということです。人手不足であれば賃金が上がっていくのが原則なのですが、そのようなメカニズムが働いている様子はありません。これらは地域や職種間でのミスマッチが原因ではないかということです。

 以上のような状態を引き起こしているのは、日本の労働市場が根本的な原因を抱えているからだと、宮本先生は言います。では、その原因とは何なのか。是非、ご自身で講義を見ていただければと思います。

今回紹介した講義:クールヘッド・ウォームハート-みえない社会をみるために(学術俯瞰講義) 第8回 日本経済と労働市場 宮本 弘曉先生

関連記事:

不正は絶対に「悪い」もの?会計の世界から見る「決まり事」のあり方

他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

<文/園部 蓮(東京大学学生サポーター)>

 

2023/08/23

みなさま、この暑い夏をいかがお過ごしでしょうか。
日頃、だいふくちゃん通信をお読みくださり、誠にありがとうございます。
だいふくちゃん通信は、東京大学で学ぶ現役大学生・大学院生を中心に、卒業生やOCWのスタッフを交えて、持ち回りで執筆しています。

この記事は、学生ライターの大澤亮介さんが、2022年12月にチームメイトに向けて書いた内部のコラムです。
大変良い紹介文だったため、みなさまにもご覧いただきたく、この度、公開いたしました。
暑い夏に、大澤さんの熱い思い、お届けいたします!

一部、編集してお送りします。
また、アクセスランキングは執筆当時のものであり、現在は更新されております。
ご了承くださいませ。

(OCWスタッフ)

2022年だいふくちゃん通信アクセスランキング ベスト5

だいふくちゃん通信とは、UTokyo OCWの動画を紹介しているブログ特集記事のことです。
まだUTokyo OCWを見ていない方々に、動画の内容に興味を持ってもらうために、毎週記事を更新しています。

現在の、学生ライターがだいふくちゃん通信を書く体制になって1周年!(2022年12月当時)
ということで、2022年に公開されただいふくちゃん通信の閲覧数をOCWスタッフの方に集計していただき、ベスト5をランキングにしてみました。
集計期間は、2021年12月01日〜2022年12月01日です。

2022年に公開されただいふくちゃん通信の記事は50本以上!

まだ読んだことがないという方、どれを読んだらいいか分からないという方、この機会におすすめの記事を読んでみましょう!

第5位 20世紀最大の哲学者、ハイデガーについて知りたい方へ【「存在」とは何か】

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_711/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2009s_gfk_09kumano/

  • 2022年05月25日 公開 
  • 1,334 PV(2022年12月当時)

「存在」とは何かという極めて哲学的な問いに対し、ハイデガーはどうアプローチをしたのか。
「現存在」や「世界内」とは、どんな概念なのか。
簡単には分かりにくいハイデガーの功績を紹介するとともに、「他者」「死」とは何かという、これもまた哲学的な問いに続くヒントを与えてくれる記事です。

第4位 【今一度 振り返ってみよう 日本の宗教観】宗教はあぶない?!

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_82/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2006a_gfk_sueki/

  • 2022年08月24日 公開
  • 2,221 PV(2022年12月当時)

多くの日本人は特定の宗教を信じていないとされていますが、かといって宗教に無縁かと言われると、全くそんなことはないはずです。
日本では政教分離が原則となっていますが、2022年の日本では政教分離や宗教というテーマに触れ、考える機会が多くありました。
今に続く宗教観はどうやってできあがったのか。
近代日本における政治と宗教の関わりを紐解いていくことで、日本の宗教がどんなものなのか、理解していきます。
「オウムから10年」、同時多発テロ、イラク戦争、首相による靖国神社参拝といった政治と宗教に注目が集まるできごとを経た時代、2006年に行われた講義を紹介した記事が、時事要素も相まってか、4位に!!

第3位 「善」を求める正義感が「悪」に転じうるのはどうして?【「善」と「悪」のパラドックスとは】

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_2077/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/eaa06/

  • 2021年12月10日 公開
  • 3,825 PV(2022年12月当時)

「『自分は正しい、正義だ』という思い込みが危険だという実感、ありませんか?」という問いかけから始まる、この記事。
「善」と「悪」の繋がりについて、「善が実は悪であること」「悪が実は善であること」「善と悪は同じであること」という3つのパラドックスを簡潔に紹介しながら、考察していくことができます。

第2位 【自閉症の人は不安を感じやすいのか】不安の仕組みについて考える

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_2028/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2020a_asahi_watanabe/

  • 2022年05月31日 公開
  • 6,438 PV

「不安症」と聞くと、あまり馴染みがないかもしれませんが、単に「不安」と言われれば、おそらく誰もが経験したことがある感情でしょう。
この、不安を極度に感じて日常生活に支障が出る不安症と、自閉スペクトラム症(ASD)と呼ばれる発達障害は、似たような難しさを抱えています。
誰もが感じる不安を発端に、不安症とASDの関係性、そして、その他の様々な精神的な症状や発達障害に、どう対処していくべきなのか、我々はどう捉えればいいのか、考えることができます。

第1位 ウクライナ情勢をより深く理解するために〜国際法入門〜

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1317/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/2014_asahi_11_mori/

  • 2022年03月08日 公開
  • 17,541 PV

国家同士の関係を規律している国際法。
国家間の関係にルールがありながらも、ロシアのウクライナ侵攻という事態に至ってしまったのは、なぜなのか。
そもそも国際法とはどんなものなのか、そしてどうやってできていったのか。
武力不行使原則や、日本でも度々話題になる集団安全保障といった仕組み・原則を学びながら、ウクライナ侵攻に繋がった国際法の「穴」を知ることできます。
今年、世界を揺るがした時事問題を、国際法という側面から紹介した記事が、全記事の中でもダントツの人気となりました。

番外編 その1 第6位〜10位

惜しくもベスト5を逃した6〜10位の記事も紹介します!!

第6位 【東大の建築はなぜゴシック様式?】東大を作った建築家・内田祥三に迫る

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1249/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/gfk2014s-03/

第7位 「家族」の基準って何?「家族」って誰のこと?【「家族」の境界線について考える】

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1237/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2013a_gfk_akagawa/

第8位 少数派のヒトラー政権が権力を集中させるまで【緊急事態条項について考える】

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_2033/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/asahikouza-2020-09/

第9位 哲学が戦争を支えてしまった歴史を知っていますか?【京都学派の田辺元と九鬼周造の思想を知る】

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_2075/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/2021s_eaa_04/

第10位 ロシア文学研究者による『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』解説【だいふくちゃん通信】

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_709/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2009s_gfk_numano/

番外編 その2 大澤の印象に残った記事

ここからはおまけです。

私(大澤)は、だいふくちゃん通信の校正作業などで、比較的、だいふくちゃん通信をたくさん読んでいる方だと思っています。

せっかくなので、ここで、個人的に印象に残っているおすすめの記事を2つ紹介します。
(記憶力がないので2つとも下半期からです、すみません。)

みなさんも、ぜひ、自分のお気に入りを見つけてください!!

数学と物理学が形作る暗号の未来

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1120/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2012a_gfk_koashi/

シーザー暗号の導入が、まず、好きです。
RSA暗号や量子鍵配送といった、難しそうだ(というか難しい)けど身近に使われている手法を、馴染みのない人にも分かりやすいように説明してくれます。
そして、これらの理解に必要な素因数分解や量子についての基礎知識も提供してくれていて、数学や物理がどのように社会で役に立つかということにも気づくことができます。
全人類に読んでほしい!!

【「お化け」のうさわさはどのように広まるのか】クダンの誕生から近世の社会を考える

講義動画はこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_827/
コラムはこちらから:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2010a_gfk_satou-2/

導入部分に、「『お化けから社会に迫ることができるなんて、なんか面白そう!』 まずはこんなふうな、軽い気持ちで読み進めていただければと思います」という文があるのですが、本当にその通り。
そもそも、私は「社会学」がどんなものかよく知らないし、しかも「お化け」がその研究対象になっているなんて、よく分からなすぎる!
しかし、この記事を読むと、「へ〜、こんな研究やアプローチがあるのか〜」と納得してしまいます。
面白い大学の授業を世に広めることができる、OCWの真髄を体現するかのような記事だと思いました。

引き続き だいふくちゃん通信をよろしくお願いいたします

以上、大澤さんが書いてくださった、2022年の振り返りでした。
このように、学生同士でも互いの記事やOCWの講義コンテンツそのものを楽しみながらお仕事しています。

2023年度も引き続き、だいふくちゃん通信を継続的に公開しています。
今年度はさらに、理系の記事、経済やアートに関する記事も増えてまいりました。

ちなみに、2022年のこのコラムの執筆時以降、最も反響が大きかった記事は、2007年に公開された故・坂本龍一氏の講義を紹介する記事 「教授」坂本龍一の東大講義録【「自己表現」でない音楽とは? です。

また、同2022年、「東大発オンラインメディア UmeeT」にて、OCWをはじめとする UTokyo Online Educationの取り組みを2回に渡って紹介してくださいました。
こちらの記事も、だいふくちゃんライターを兼任している学生さん(当時)による力作です。併せてお読みくださると、よりUTokyo OEの楽しみ方を詳しく知っていただけると思います。

東大の授業が誰でも無料で受けられるって知ってましたか?【東大生じゃない人必見】【東大生も必見】

【進学選択お役立ち】無料公開されている東大文学部教員の授業動画を全てまとめました【人文学について知りたい方も】

今回のランキングで掲載していない記事も、全て一つ一つが、オリジナリティ溢れる視点と豊かな感性によって書かれた、かけがえのないものです。

それはもちろん、OCWの大元のコンテンツである講義資料・講義動画あってこそです。
貴重な教材の提供にご協力くださる講師のみなさまに感謝いたします。

そして、OCWはご視聴・ご活用くださるみなさまに支えられて活動を継続しております。
今後とも、UTokyo OCW・だいふくちゃん通信をお楽しみただけましたら幸いです。

(OCWスタッフ)

<文/大澤 亮介(東京大学学生サポーター)・加藤なほ>

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。