仏教における「偶然」とその思想
2024/11/13

「そんなことをしたら、バチが当たるよ!」……皆さんは子どもの頃、こんな言葉を大人から言われたことはないでしょうか。これはいわゆる「因果応報」という考え方とも言えますが、「因果」とは仏教で使われる用語であり、人は行いの善悪に応じて報いを受けるということを表した言葉です。では、仏教において、果たして「偶然」いいことがあった、または悪いことがあった、という概念はあり得るのでしょうか?
本講義では、仏教学者・僧侶の蓑輪 顕量(みのわ けんりょう)先生と、仏教やインド哲学、インド文学における「偶然」について考えていきます。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 蓑輪 顕量

そもそも、「偶然」ということはありうるのでしょうか?
インドの基本的な了解は「善因楽果、悪因苦果」という言葉によく表されるように、どんな結果にも必ず原因がある、という因果律の考え方が一番基本に存在しています。
インド哲学の代表的な考え方であるカルマン(業)の思想では、人々の行いが後々までも影響力を及ぼすと考えますが、ここからあらゆる事柄はカルマンの結果であり、偶然ということはありえないということになります。こうした思想的背景もあり、インドの世界では「偶然」という言葉はあまり正面に出てこないようです。

インドにおける「偶然」の捉え方

インドの文学作品においては、「偶然」と関連する言葉として「人事」(人間の努力)と「天命」(運命)という議論の方が多く、それらは常に表裏一体のものとして理解されています。
また、「天命(運命)」と訳しうる単語としてdaivaという言葉がありますが、これは「神々」を意味するdevaに由来すると同時に、div(戯れる)という言葉とも関連するとも考えられています。どうもdaivaという言葉には「運命」と「気まぐれ」という二つの意味があり、これらが同一視される傾向があったようです。これは、運命的なものでありながら偶然的なものである、という解釈にもつながります。

ここで、インドの叙事詩である『マハーバーラタ』の記述を見てみましょう。

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私たちの日常生活の中では思いもかけなかった事態が起きることがよくあります。そのようなときに、私たちがなしていることと、私たちのなすことを超えた世界の運命や天命のようなものとの関係性が意識され、議論されるのです。
インドにおいては、ことが計画通りに進まず不本意の結果を招くのは、人事と天命の両者が噛み合っていないことによる、と考えます。よって、「計画をよく吟味するだけでなく、果たして天の時が至り、機が熟しているか否かをよく見定めるべきである」という思想が存在したことが知られています。
インドにおいては「人事」か「天命」か、というものの見方が多く、天命に相当するところに「偶然」というニュアンスが入ることがあるようです。

ナーガールジュナ(龍樹)の思想

初期仏教は、基本的に原因があって結果が生じるという考え方を主張していますが、大乗仏教になると、原因も結果も実態として存在せず、変わらない何かがあるとはしないという点が強調されるようになります。
大乗仏教の形成で一番重要な人物として、2〜3世紀くらいに現れたナーガールジュナ(龍樹)という人物を挙げることができます。『宝行王生論』という著作には、初期仏教と大乗仏教の主張がどちらも含まれているものですが、その記述を見てみましょう。

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ここで出てくる戯論(けろん)とは、心が何かを認識して、次の思いを生じ、それがまた次の思いを生じさせていくということ、また後の時代には、私たちの心の中に生じる心の働きのことを指します。
戯論とされるものには、名言(みょうごん、見たものに対するイメージに対する名前がつくこと)、分別(ふんべつ、そのイメージが他のものと区別されること)、尋思(じんし、イメージに対して心の中であれこれと考えること)があります。仏教では、こうした働きが人間には生まれつき備わっていて、これがさまざまな思いを生じさせ、悩みや苦しみの原因となっていると考えます。
それでは、どうすればいいのでしょうか?それは、今実際に受け止めているものをそのまま受け止めることで、戯論の働きを先に進まなくすることです。例えば悪口を聞いても「悪口だな」、心配事があっても「心配事だな」でとどめてしまうことで、ノイローゼのような状態になってしまうことから逃れることができるのです。

ところで、「因果応報」という考え方は、日本においても古代から説話として人々の間に流布していたと考えられます。
例えば『日本霊異記』と呼ばれる説話集には、「子の物を盗み用い、牛となりて使われ、異らしき表を示す縁」という話があります。この話には、子の稲を無断で取ってしまったために牛になってしまった父親が描かれていますが、生前の行いが今の報いを受ける原因になった、ということが述べられています。
このように、偶然と思われるものも必ず宿縁のあったものなのだ、という意識が、仏教には大きく流れているのですね。

本講義は、蓑輪先生の講義に続いて、以下のテーマについてグループワークが行われています。
「人事を尽くして天命を待つ」との諺があるが、人事と天命の相互の関係をどう考えたらよいか
「偶然と考える」ことと「必然であると考える」ことに、どのような意味があるのか
「人の行いは影響力を持つ」とする業の考えや「物事には必ず原因がある」とする因果応報の考え方は、日本人の思考に影響を与えているのか
グループワーク終了後には、参加者からの口頭発表と、それに対する先生のコメントが行われています。ぜひご視聴ください!

日常生活の中で、「偶然」に出くわすことは多くあります。時には、必ずしも納得できない「偶然」に見舞われることもあるでしょう。そんな中で、私たちは自分の物事の捉え方、考え方、ひいては生き方をどのように模索していくべきなのでしょうか?本講義は、そうした問いを考える上でのヒントになってくれるかもしれません。

<文/R.H.(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) 第12回 偶然と必然は表裏一体か・・・仏教者の見た世界 蓑輪顕量先生

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