だいふくちゃん通信

2025/05/22
 ”オリエンタル”という言葉は、あまり一般的に使用されなくなって久しいかと思いますが、みなさんはこの言葉についてどのようなイメージを持っていますか。従来は、美術における東洋趣味として「オリエンタリズム」という言葉が使用されていましたが、現在では違う意味で使用されていることの方が多いかと思います。「オリエンタリズム」という言葉は、アカデミズムの世界では一昔前にもてはやされた思想です。
 1978年にパレスチナ系アメリカ人の文学研究者、エドワード・W・サイードが『オリエンタリズム』という本を上梓しました。その本の中でサイードは、これまでの西洋における植民地支配や帝国主義を正当化する思想、概念であるとして「オリエンタリズム」を痛烈に批判したのです。サイードが批判したことにより、それまでの「オリエンタリズム」に支えられた帝国主義思想が見直されてきました。しかし、今回ご紹介する冨澤かな先生による講義動画『いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう? 』では、現在もなお「オリエンタリズム」は健在であり、私たちの日常に分断を生じさせている、と先生はお話されています。
現代の「オリエンタリズム」?
 冨澤先生は宗教学がご専門で、その中でもインド哲学と死生学を研究対象とされています。”宗教”、”インド”、”死”と一見異なるものを繋ぐ鍵として「オリエンタリズム」を掲げられています。研究者の間では「オリエンタリズム」は一昔前に流行した、と上述しましたが、すでに私たちは「オリエンタリズム」を克服したのでしょうか。
 「オリエンタリズム」という概念については、紙幅の都合上、詳細な説明は省きますが、先生は講義の中で、”権力を伴う自己と他者との利害問題”とご説明されています。概括すると、利益を得るために自己を正当化し、他者にネガティブなイメージを押し付ける、といった行為です。そのため、「オリエンタリズム」は東洋や近代の研究者の間だけの問題ではなく、すべての人にとって身近で重要なトピックであると言えるのです。
批判のジレンマ
 ここで講義は「宗教」についての議論に移ります。日本で”宗教”という言葉は、明治期に”religion”の訳語として採用されました。「宗教」という言葉はもともと「宗の教え」という意味であり、宗教そのものを表す語ではありませんでした。西洋から流入された概念に訳語を当てる際に、本来の概念からずれてしまうということは他の単語でもよくある上に、それは日本に限った話ではありません。インドにおいては、西洋から”spirituality”という言葉が流入してきた際に、それを単に受容したわけではなく、その語用が独自の解釈、主体性を持ったものであったという見解があります。このことを端緒に、”「オリエンタリズム」=分断”といった従来の等式ではない方法を模索していくことが重要であると先生はおっしゃいます。
 というのも、”西と東”、”自己と他者”などの分断を指摘すること自体が、二元論的な枠組みをより強固な概念として再生産、固定化してしまうということが、どうしても避けられないからです。西洋がいかにオリエンタリズムとして東洋を虐げてきたかという歴史を批判し、指摘すればするほど、その考えが反復と拡散と浸透により、その現実から抜けられない、という皮肉は様々な場面で見られる現象ではないでしょうか。
「みんなちがってみんないい」?
 それではどのようにして、優劣の二元論から抜け出ることができるのでしょうか。まず、”優劣”の概念を取り払うためには、複数性・多元性の概念を取り入れなければなりません。それぞれが違うということを認め、優劣は存在しない、という考え方です。これは一見、とても良い解決法に見えますが、相対主義に陥ることは免れません。互いに干渉せず他人は他人として関わらない、という相対主義は同化と異化の間をさまようだけで、他者との関係性においていずれ行き詰まってしまうのです。相対主義が全く無益というわけではなく、優劣を排除するためには多元的な相対主義が有効ですが、そこに安住してしまうと、他者との関係性において発展性が見込めなくなってしまうのです。そこからさらに一歩進めた関係性へと変化させていくためには、他者との間に共通性を探り、対話を始めなくてはならないのではないか、と議論は進みます。
インドにおけるスピリチュアリティ
 もともと”神秘的”や”宗教的”といった語は非合理的でネガティブな側面として西洋が東洋に押し付けたイメージですが、それらは普遍的価値を有した語でもあります。講義では、インドにおけるスピリチュアリティについて触れていきます。インドのスピリチュアリティを語る上で外せない人物としてヴィヴェ-カーナンダという宗教者がいます。ヴィヴェーカーナンダは、近代の「スピリチュアリティ」という概念形成に大きく寄与した人物であるとして冨澤先生はご紹介されています。
UTokyo Online Education いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう Copyright 2024, 冨澤 かな
 ここで冨澤先生は、ヴィヴェーカーナンダの考えていたスピリチュアリティがどういうものだったのかを研究する手法として、定量的な評価方法を採用されています。人文系の研究、とくに宗教学や哲学などの分野ではあまり採用されない手法ですが、抽象的な概念を語る際に一定の効果のある手法であると言えます。例えば、彼の全集の中で”スピリチュアリティ”という単語が何回使用されているのか、それが他の思想家や宗教者と比較して多いのか少ないのか、またその中でも利用頻度の高い文書は何年に発表されたものか、といったことを事細かに調査されています。
 その結果、ヴィヴェーカーナンダは「スピリチュアリティ」という言葉を、西洋からインドに帰国した直後に書いた文書の中で頻繁に使用していたことが分かりました。そのことから、西洋の影響を受けたのだろう、と一見すると推測できますが、ヴィヴェーカーナンダは西洋のキリスト教的な意味でスピリチュアリティという言葉を使用していません。あらゆる宗教の壁を越えた普遍的な意味での霊性、という現代的な意味用法としてこの言葉を使用しています。この意味での使用は、同時代の宗教家や思想家にはほとんど見られず、ヴィヴェーカーナンダ自身が独自の概念として使用し始めたことが分かります。
二元性を越えて普遍性へ
 ヴィヴェーカーナンダは、インドのスピリチュアリティを西洋による支配を逃れるものとして打ち立てただけではなく、それを超越し、東西関係なく普遍的なもの(=霊性)へと高めようとしていたことが、彼の文書から理解できます。二元性の対立ではなくそれを超越していこうとする彼の思想は、多元主義、文化相対主義的なものを越えて他者との間に共通言語を見出し、対話していこうとする態度とも言えます。
 講義後の質疑の時間に冨澤先生は、ご自身のインド留学時のご経験を語られています。インドの寮生活では、毎日のようにカレーを食べられていたそうですが、インドでの滞在が長くなるにつれ、カレーはカレーでもその違いが理解できるようになってくるそうです。経験により文化的な尺度の解像度が上がっていくことで、人は変われるということを身をもって体験されたそうです。通常人間は環境や習慣の変化を嫌います。しかし、自らが変化していくことで他者との関係性も変化していくことがあるのではないか、それは希望となり得るのではないか、と先生は強調されます。
UTokyo Online Education いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう Copyright 2024, 冨澤 かな
 また質問時に、講義内では時間の都合上触れることができなかった死のトピックや、仏教、ヒンドゥー教における量子力学的な認識についてもお話しされています。数十年前と現在では死の在り方が急激に変化し、死が社会から疎外されてきていることは誰にとっても他人事ではない問題です。 ”スピリチュアリティ”という言葉は”霊性”や”精神性”など文脈によりさまざま意味で使用されますが、”スピ”という言葉もあるように、一般的には前近代的で非科学的なものとして、周縁化した他者として考えられていることが多いかと思います。これもある種の分断=オリエンタリズムとして捉えることも可能かもしれません。このような自身が異化したい存在の中にこそ、自己の変化の種と気づきが眠っているのではないでしょうか。みなさんも冨澤先生の講義動画を視聴することで、無意識のうちに他者化してしまっている存在を見つめ直し、自己の変容を促すきっかけを得られるかもしれません。
〈文/みの(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義 (30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える) 第10回 いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう? 冨澤かな先生
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2025/05/08
はじめに
今回ご紹介する「歴史的建築工学-第6回歴史的木造建築技術と現代木造建築」(2020年度開講)では、木造建築技術の歴史と現代へのアプローチについて山田憲明先生が詳しく解説されています。
UTokyo Online Education 歴史的建築工学 2020 山田 憲明
私たちは、歴史的木造建築から何を学び、現代の建築へと活かすことができるのでしょうか。先人たちが紡いだ伝統技術と現代の建築技術が出会うことで生まれる新たな可能性を探ってみましょう。
木と向き合うこと
近年、歴史的建築物の保存や改修への注目が非常に高まっています。ひとくちに「保存・改修」といっても、アプローチ方法は多岐にわたります。新しい建物を造る際とは異なり、元の建物の良さを保存しつつ、現代の基準に沿ったものにする必要があります。そこには、構造・防火・省エネ・デザインといった複合的な要素を一つ一つ検証しなければならないため、さまざまな専門家との連携が不可欠です。
また、歴史的建築物の多くは木造であり、このことこそが保存・改修をより困難なものとさせる要因となっています。木は、現代建築で用いられる素材と異なる特有の性質を持っているため、木という素材に対する徹底的な理解が求められます。そのため、歴史的建造物と向き合うことは、木と向き合うことそのものなのです。
「素材としての木の多様性」と木造建築
山田先生は、構造物の構成イメージを素材・接合・かたちという大きく3つの要素からなるものだとおっしゃっています。その中で、木造建築を語る上で特に注目したい要素は、素材・接合です。木造建築は、鉄骨造や鉄筋コンクリート造と比較して、素材・接合の部分で独自の多様性を持っています。
これらの多様な素材と接合があるために木造建築独自の多様な“かたち”を生み出すことができるのです。ただ、裏を返すとその多様性は構造設計者の木造建築への取り組みにくさの要因ともなっているのです。
木材は、自然素材であるために、品質管理の難しさ・もろさなど、鉄筋コンクリート造などの現代建築技術においてはみられないデメリットがあります。そのため、設計や施工において慎重な検討を要するのです。一方で、素材の特性を活かした金物を用いない接合技術など、デザイン性・機能性ともに優れている面も、木材が自然素材であるが故に生み出す魅力のひとつであると言えます。
伝統木造建築へのアプローチ
伝統木造建築の保存・修築は、単に老朽化した素材を新しいものに置き換えるという作業では不十分です。実際、建物を解体した際にさまざまな問題が発見されることが多いのです。そのため、次世代へと建物を遺すために、さまざまな検討が必要となります。
補強・復元の実例
問題点の発見
歴史的建築物の解体修築例の一つとして、山田先生は香川県三豊市の本山寺五重塔の保存修理工事を挙げています。まず、建物を修築する上で、現状の問題を洗い出す必要があります。そのため、計算、模型作成などを通じてさまざまな検証が行われます。実際に、五重塔では経年劣化による耐久性の問題、建築素材の欠落などさまざまな改善点が見られました。
余談ではありますが、「解体を通じて、少ない素材を用い、工夫を重ねた当時の大工さんの努力などを伺える」と、先生は仰っており、私自身それも含めて伝統木造建築修復の魅力であると感じました。
修復時に意識すべきこと
伝統的な木造建築の補強作業に伴い、意識すべき重要なポイントがあります。それは、伝統的な意匠や技法を可能な限り維持するということです。建物を補強する上で、現代の優れた建築技術を用いることは必要不可欠です。地震や風などに耐えられるような再設計は現代の技術でしか補えない部分が当然あります。もとより、現代の技術で建造物を守ることが、伝統木造建築の修復の意義であると言えるでしょう。
しかしながら、ボルトやナットまみれになってしまうなど、現代建築技術が露骨にでるような修築では、伝統的な木造らしさが損なわれてしまいます。伝統木造建築の修復においてはそのような結果は求められず、新たな技術と、伝統技術の融合が必要とされるのです。
現代の木造建築
アナログさが生み出す温もり
私は、現代の木造建築に温もりを感じる要素の一つに、いまだに残るアナログさがあるのではないかと感じました。歴史的建造物の修復には、図面など、コンピューターを用いた作業など、現代的な技術が多く用いられています。ただその一方で、講義動画内では手計算のメモなど、計算ソフトを使わない、かなりアナログな手法が見受けられました。
UTokyo Online Education 歴史的建築工学 2020 山田 憲明
先述した通り、木材は自然素材であるためにひとつとして形が同じものは存在しません。容易に変形が可能な鉄素材などを用いた建築と比べると、木造建築は非常に形式化しにくいものです。そのため、ひとつひとつの木材との出会いは一期一会であるといえるでしょう。このような特徴は、木造建築のデメリットであると同時に、木造建築の奥ゆかしさを生む最大の要因の一つであると、講義を通じて感じました。
まとめ
本記事でご紹介したように、木造建築や伝統技術の歴史的価値と現代的な観点からみた実用性の両立は、今後の建築分野においても大きな課題であり続けるでしょう。技術の進歩は、“デジタル”一辺倒に置き換えられがちです。しかしながら、木造建築においては“アナログ”な手法が、建築を支える重要な要素の一つなのではないでしょうか。講義動画では、木造建築について具体例を交えてさらに詳しく紹介されています。気になる方はぜひ動画をチェックしてみてください!
今回紹介した講義:歴史的建築工学ー第6回 歴史的木造建築技術と現代木造建築 山田 憲明先生
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<文/悪七一朗(東京大学学生サポーター)>
2025/04/16
世界史は、地域や時代ごとに話がばらばらに出てきて難しい…皆さんはそんなイメージを持っていませんか?
入試のために勉強したけど、ほとんど忘れてしまった。年号や名称はなんとなく覚えていても、それが何を意味しているかは思い出せない…。という経験も少なくないはずです。
もしかすると、その原因は日本特有の歴史教育にあるかもしれません。
今回の講義では、様々な国の歴史の教科書を参考に、他の国ではどう歴史を教えているのか、日本の歴史の教え方との共通点や相違点は何か、考えていきます。
講師は歴史学者の羽田正先生です。学術俯瞰講義『「世界史」の世界史』から、第1回「世界の世界史」をご紹介します。
東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 羽田 正
歴史とは何か?
「世界史」について考える前に、そもそも歴史とは何か、考えてみましょう。
まず第一に、存在としての歴史があります。皆さんがこの記事を読んでいる今この瞬間も、世界中では色々なことが起きていますが、時間を軸にすると今よりも前に起きたことはすべて歴史と言うことができます。つまり、過去に起こった出来事とその変遷の総体としての歴史です。
しかし、今この瞬間に起きたことすべてを覚えておくことはできません。そこで必要となるのが、記録・叙述としての歴史です。
過去に記録・叙述されたものを集め、整理して、解釈、体系化する。まさに歴史学者の仕事ですが、これにより過去を現在に蘇らせることができます。
もちろん、膨大な過去の記録から何を選ぶかは歴史学者の環境や関心に拠るもので、特に何も記録が残されていないものは蘇りにくい点には注意が必要です。
そしてもう一つ、歴史小説や大河ドラマのような史実に基づいて作られた作品も、記録・叙述としての歴史に含まれます。実際に、私たちが作品から受けている影響は少なくありません。
最後に、私たちが「歴史」と聞いてすぐに思い浮かぶもの。それは高等学校で教えられる日本史と世界史です。
今回はこの学校教育の科目としての歴史に注目していきます。
何のために歴史を学ぶのか?
では、そもそもなぜ歴史が教えられているのでしょうか?歴史とは暗記科目で、入試のために勉強するもの、というイメージを持っている方も少なくないと思います。しかし、ただ単に固有名詞を覚えるだけのものだとしたら、私たちが本当に歴史を学ぶ必要はあるのでしょうか?
また、歴史を教えることには、負の側面もあります。例えば、中国や韓国からは日本の教科書に対して批判があがり、国家間で歴史認識の問題を引き起こしています。
それでもなお、歴史を学ぶ必要があるのはなぜなのか、羽田先生は受講生たちに問いかけます。
現在起こっている事象を理解したり、未来を予測できるようになる。一つの出来事にいろんな解釈があることを知ることができる。過去の反省を現在に活かすため…など考え方は様々です。
東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 羽田 正
歴史は世界共通ではない!
ここで、本題に入る前に確認しておきたいことがあります。それは、「歴史は世界共通ではない」ということです。
私たちは、1+1=2が世界共通であるように、歴史も同じように認識されていると考えがちですが、数学や物理学の法則とは違い、歴史は国によって教え方も教えられている内容も異なります。
よく考えてみると、そもそも世界史と日本史、という二軸で教えているのは日本だけだということがわかると思います。
日本の「世界史」
日本で教えられている「世界史」とはどのようなものでしょうか?
東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 羽田 正
皆さんがよく知る世界史の教科書を思い出してみてください。ある章ではイスラーム世界の成立を学び、ある章では中国の歴史を古代から学び…というように、地域ごとに時間軸に沿って語られていたと思います。
上の図のように、世界をいくつかの地域に分けて、それぞれ独自の歴史を持って現代に至っているという考えのもと、地域ごとの歴史が時代順に書かれているのです。そして、16世紀以降になるとヨーロッパが世界に進出し、現代はアメリカとヨーロッパが力を持ち世界の一体化が進んでいる、という全体像が描かれています。
この中で日本について触れられるのは一部で、世界史は日本以外の地域の歴史を学ぶものとなっています。
ここで問題となるのは、本当に「日本以外の」歴史と捉えてよいのか?地域ごとに独自の歴史が展開していると考えてよいのか?ということです。
実際に、他の国の教科書ではそのような書き方をしていないと羽田先生は指摘します。
フランスの教科書「歴史」
早速、フランスの教科書を見ていきます。講義内で羽田先生はフランスの教科書の表紙を提示していますが、タイトルから、フランス史や世界史と言わずに「歴史」としていることがわかります。
次は肝心の内容についてです。
第1巻「現代世界の基礎」では第1部:古代における市民権の例第2部:キリスト教の誕生と伝播第3部:12世紀の地中海海第4部:人文主義とルネッサンス第5部:革命と1851年までのフランスにおける政治経験第6部:19世紀前半のヨーロッパ
第2巻「世界、ヨーロッパ、フランス(1850-1945)」では、第1部:19世紀中葉から1939年の産業化の時代とその文明第2部:19世紀中葉から1914年のフランス第3部:戦争、民主主義、全体主義第3巻では第1部:1945年から今日までの世界 第2部:1945年から今日までのヨーロッパ 第3部:1945年から今日までのフランス という構成です。ここで、何か気付くことはないでしょうか?
実は、フランスの歴史教科書ではアジアや日本についてほとんど言及されていないのです。
日本について触れられるのは、19世紀半ばの明治維新と第二次世界大戦の話題のみで、江戸時代以前の話は全く出てきません。
日本ではフランスの歴史について詳しく習っている一方で、フランスの高校生は日本の歴史をほとんど教わっていないということがわかります。
イランの教科書「イランと世界の歴史」
続いてイランで使われている教科書「イランと世界の歴史」についてです。
イランといえばイスラム教のイメージ。イスラム教に基づく教え方をしているのではないかと想像される方もいるかもしれません。
実はイスラム教は、キリスト教と同じようにアダムとイブをこの世の始まりとしています。
もしイスラム教に基づく教科書となると、アダムとイブから世界が始まって現代に至り、最後の審判で世界が終わるという構成になるはずです。
しかし実際のところ、イランの教科書ではそのような描かれ方はしていません。
イスラム教はあくまで歴史の一部として触れられ、イランを中心にしつつもイラン以外の国や地域にも目を向けています。
細かな違いはありますが、教科書の前半部分は意外にも日本の歴史認識に近い書き方がされています。ただし、地域を分けずに書いている点が日本とは異なります。
中国の教科書「世界通史」
最後に、中国の歴史の教科書「世界通史」を紹介します。この教科書で特徴的なのは、中国についてほとんど書かれていないということです。
なぜかというと、中国史は別で学習しているためです。世界通史では、中国以外の地域の歴史を扱っています。
このことから、中国は中国で独自の歴史を持っているという認識に基づいて歴史を教えていることが推測できます。
日本との相違点・共通点
今まで見てきた通り、一口に歴史と言っても、国によって教え方に違いがあることがわかるかと思います。
そして、これらは「現在の自分たちのことを理解するためにどう過去を認識するか」に対する考え方の違いから生まれていると言えます。
例えば、中国や日本は、自国の歴史と他の地域の歴史を分けていますが、これは自国独自の歴史を学んだうえで、他の地域を知るために世界史を学ぶという見方が根底にあります。
一方で、フランスの場合は、歴史はあくまで自国の歴史を理解するためのものとして、周辺諸国の歴史は自国の歴史に影響している場合に限り学ぶという姿勢です。そのため、フランスの歴史にあまり関係しない日本についてはほとんど言及していません。
このような歴史理解はフランスだけでなくヨーロッパでは一般的で、ドイツやオランダでも似たような書き方がされています。
一方で、共通している点は何でしょうか?
それは、枠組みは違えどヨーロッパが頻出する点です。フランス、中国、日本、イランでも19世紀にヨーロッパ勢力が進出し、世界の一体化が進んだという書き方は共通しています。
それをもし世界史と呼ぶのであれば、「誰が世界史を書いたのか?」という点に目を向けることが重要になります。
まとめ
最後に、アメリカのプリンストン大学で発行されている、大学1・2年生向けの歴史の教科書を紹介します。
※著作権の都合で、教科書のタイトルや著者等の情報のみを記載した画像に差し替えています。
この教科書のタイトルは「Worlds together Worlds apart」、複数の世界(ある人間の集団)が合わさったり離れたりしていることを意味しています。
これを見てわかるのは、地域ごとで時代に沿って歴史を捉えるのではなく、ある一定のタイミングで世界全体を見る、横ぐしを刺す手法をとっていることです。
そもそも、人が生まれてから死ぬまで時間に沿って変化していくように、何かしらの主体が時間に沿って展開していくという考え方は、非常に近代的な見方です。
実は、私たちが世界史だと思っているものは、300年前の人は誰一人知らない、真実だと思わない、あくまで現代の人が認識している世界史であり、物理学の法則のように普遍的・絶対的なものではありません。
ではこのような非常に限定的な世界の見方はどのように生まれたのでしょうか?そして、そもそも世界史とは何なのでしょうか?学生との対話形式で進む講義で、ぜひ一緒に考えてみませんか?
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:「世界史」の世界史(学術俯瞰講義) 第1回 世界の世界史 羽田正先生
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2025/03/24
私達がギリシア・ローマの彫刻として目にする作品たちは、どのように産地や時代を特定されてきたのでしょうか?
背景にある研究や分析方法を知ることで、美術館や資料集で出会う様々な彫刻の見方が変わるかもしれません。
今回ご紹介するのは、デジタル・ヒューマニティーズ ― 変貌する学問の地平 ― (学術俯瞰講義)の第9回「古代ギリシア・ローマ彫刻と先端技術」です。
古代ギリシア・ローマの美術史を専門とする芳賀京子先生が、3D技術を用いた最新の分析方法を解説します。
古代彫刻の科学的分析
古代彫刻の科学的分析では、主に制作地、年代、制作方法、などを分析します。
具体的にいくつかの分析手法を見てみましょう。
■ブロンズの組成割合の分析
ブロンズの組成割合からは、年代を推定することができます。
ブロンズは銅と錫(すず)と少しの鉛から構成されていますが、後の時代のものほど鉛の割合が増える傾向があります。
1つの基準として、鉛が1%未満の場合はローマ以前のものだとみなすことができます。
よく知られている《祈祷する少年》の像は、当初はローマ時代の作品とみなされていましたが、組成割合の分析結果からヘレニズム時代(前323〜31年)の作品と考えられるようになりました。
■ブロンズ像のX線撮影
X線で撮影されたものを見ると、接合部に鉛のような何かをつめた跡があることがわかります。つまり、この像は部分ごとに鋳造したものを接合していたと推定できます。
このようにブロンズ像のX線撮影では制作方法を推定できます。
ただし、どの分析も確実ではないため、美術史的背景とかけ合わせて結論を導きます。
3D技術の活用
さて、ここからが本題です。
そもそも美術史一般において、3D技術がどのように活用されているのか、3つ例を見てみましょう。
1つ目は3Dモデル化による記録と再現です。例えば紛争地帯にある遺跡など、破壊の危機に瀕している遺産をデータで残す技術として活用されています。
2つ目はコピーの制作と展示です。例えば、ラスコーの壁画は、劣化の恐れから実物を見学することはできません。そこで、実際の壁画の凸凹を3Dでスキャンし、100メートル以上ある壁画をすべて原寸大で再現したものを観光客向けに展示しています
3つ目はVR技術の活用です。VR技術では虚像(仮想的な像)を比較的簡単に出すことができ、遠隔地でもデータを共有できる利点があります。
古代美術における3D技術の活用
これらの一般的な活用方法に加え、古代美術の分析に3Dが有用なのではないか、ということが言われています。
■古代ギリシア技術とは?
そもそもですが、分析対象となる古代ギリシア技術とはどのようなものでしょうか?
「技術」ときくと理系をイメージし、「美術」ときくと文系のイメージがあるかもしれません。ただしギリシア語で「美術」はテクネー、技術そのものを意味します。
古代ギリシアで、芸術家は最先端技術者でした。現代でも技術力が国力を示すのに使われるように、ギリシア時代でも有力な芸術家を有して立派なモニュメントを作ることが国力を示す政治的プロパガンダとして機能していました。
ここでは古代ギリシア技術の発展を時代ごとに見ていきます。
■前6世紀 アルカイック時代
古代ギリシアでは紀元前7世紀の後半にエジプトと接触したことで大理石彫刻技術が発達し、大規模な大理石像の制作手法も習っていたのだろうと考えられています。
こちらの写真を見比べてみてください。
右側のほうが、筋肉や関節、腹筋や背筋、表情の表現が豊かになっていることがわかります。
ギリシア人は競争を好む性格から、相手よりも優れたものを作ろうと絶えず彫刻家同士で競い合いました。その結果、たった50年で美しい男性の裸体像を彫るまでに技術が向上したのです。
■前480〜323年 クラシック時代
パルテノン神殿が作られたことでも知られる、クラシック時代。
ここで特に注目したいのは、中空のブロンズ像の鋳造技術です。
以前は中にブロンズをつめて制作する中に空洞を作らない手法(無空の手法)でしたが、こちらは重さの問題で大きな像を作れないというデメリットがありました。
そこで誕生したのが、中空で等身大のブロンズ像を鋳造する技術でした。
粘土で作った原型に蝋(ろう)を被せ、細部まで彫り込んだあと、蝋を流し出し、ブロンズを流し入れるための入口や道を設けたうえで鋳型を作ります。
全体を熱すると蝋の部分がすべて流れ出るため、その空洞として残った部分にブロンズを流し込んで鋳型を割り、余分な部分を取って仕上げをしたら完成です。原型の粘土を残したまま、蝋をブロンズに置き換えています。
蝋の原型で直接鋳型を作るため、直接失蝋法と呼ばれています。この手法によりブロンズ像は大きさを増し、自然さを増し、格段に質が向上したと言えますが、一点だけ問題がありました。それは制作段階で鋳型を割るため、1つしか制作できないということです。
そこで開発されたのが、関節失蝋法です。
この手法では、はじめに粘土で完璧な像を作って焼き、恒久的な原型を作ります。その後部分ごとに鋳型を作り、鋳型を接合したうえで中に蝋を塗って砂を詰めるというプロセスです。制作過程で原型を壊さないため、複製が可能な手法として普及しました。
■前323〜31年 ヘレニズム時代
続いてサモトラケのニケ、ミロのヴィーナスで知られるヘレニズム時代です。
ところで皆さんは、「ローマは政治的・軍事的にはギリシアを征服し、文化的にはギリシアに征服された」という言葉を耳にしたことはありますか?
ヘレニズム末期のローマはこのように表現されることがよくあります。これは、ローマがギリシア文化から非常に大きな影響を受けたことを意味しています。
実際に、質実剛健だったローマ人の間では私邸の豪華な装飾が流行し、装飾品としてギリシア彫刻の需要が急増しました。時を同じくして大理石像を精密に複製する技術が生まれたこともあり、クラシック時代の名作のコピーが多数作られました。
そして、傑作と呼ばれる作品は元の作品がほとんど残っていないため、研究にはこのローマ時代のコピーが使われており、3D技術はこのコピーの分析に有効だと芳賀先生は話します。
■3Dモデルによる形状比較
ここでは、美術史研究の基本的なアプローチである形状比較に、3D技術を活用した例を紹介します。
上の図を見てください。
これは、2つの石膏像、大理石像(図左下・右下)からレーザースキャナーを使って精密なモデル(図左上・右上)を作り、比較する部分を切り取って重ねたうえで、着色により違いを可視化したもの(図中央)です。緑色の部分は同じ、青や赤の部分は1mm単位での違いを示しています。
通常、彫刻を比較することは難しいと言われていますが、この3Dモデルでは実際に彫刻のモデルを重ね合わせることができ、さらには肉眼では識別不可能な1mm以下の違いも見つけることができるため、非常に有効な手段と言えます。
まとめ
この講義では、古代ギリシア・ローマ彫刻の研究に3D技術がどう活かされているかを紐解いています。
様々な例から、3Dは見て楽しむだけのものではなく、彫刻作品の研究においては非常に精密な比較や分析を可能にし、作品根本に関わる事実を知ることができる手法であることがわかります。
講義では3D技術を用いた作家の特定や鋳造方法の特定など、ここでは紹介しきれなかった例が紹介されています。ご興味のある方は是非動画をご覧になってみてください。
今回紹介した講義:デジタル・ヒューマニティーズー変貌する学問の地平ー(学術俯瞰講義)第9回 古代ギリシア・ローマ彫刻と先端技術 
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
2025/03/17
「中華主義」とか「中華思想」とかよく聞きますけど、皆さんはどのようなイメージをお持ちですか。今回ご紹介する2012年の講義「『中華』の世界観と『正統』の歴史」で、講師の杉山清彦先生は学生たちにこのような問いを投げかけることから始めます。
東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 杉山清彦
学生たちが率直に返した意見は、「中国の漢民族が世界を支配する民族だという考え方で、他の民族は野蛮だから自分たちが啓蒙してやろうという考え方だと思います」「中国が一番中心で、他の国を属国として扱って、他の国を支配してよいという中国中心の思想だと思います」というようなものでした。同じような認識の方は、この記事の読者にもいらっしゃるのではないでしょうか。
先生も、「露骨に『覇権主義』のような意味で使われたりすることは、皆さんも見聞きするかと思います」と歩み寄ります。それとともに、先生は「けれど、それを『中華主義』と言うべきなのかどうかは、実態とマスメディアなどの用法とでズレるところもあります」と注意を促すことも忘れません。
この講義が行われた2012年12月3日当時は、2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件や2012年9月の尖閣諸島国有化、そして同月の中国における反日活動の激化から間もないころで、先生も不穏な日中関係などに言及しています。2012年からすでに干支(えと)一周以上の時間が流れましたが、残念ながら日中関係や中台関係はあまり楽観視できないままのようです。
本記事では、中国という国への正しい向き合い方を養うことのできる、東洋史研究者の知見をご紹介します。
「中国」とは何か
そもそも私たちが「中国」と聞いてまず思い浮かべるのは、現在、国家として存在する中華人民共和国の略称でしょう。この「中国」という言葉自体は、紀元前の春秋戦国時代の古典『詩経』にも「恵此中国、以綏四方」(この中国をめで、もって四方をやすんぜよ)と見えるものです。そのため中国人も日本人も、「中国〇千年の歴史」というように、遥か昔から数千年にわたり一貫して「中国」という国が存在してきたかのように考えてしまいがちです。
ところが、春秋戦国時代の「国」とは一つ一つが都市である都市国家であり、古代ギリシャのポリスのようなものでした。当時の「中国」とは、現在のような固有名詞ではなく普通名詞であり、その指し示す対象も都市国家連合の中心、いわば「首都」のような漠然とした領域だったそうです。
さて、その「中国」を構成していたのは何者だったのでしょうか。現在のマスメディアでもアカデミズムでも、私たちが「中国人」と言った時はほぼいつも「漢人/漢民族/漢族」と呼ばれる集団を指します。では、そういう人々が自らを高みに置いた言葉が「中華」なのかというと、これがなかなか難しい話だそうです。
重要なのは、「漢人/漢民族/漢族」と呼ばれる人々を規定するものが、血筋や出身地のような先天的な資格ではなく、身に着けた言語や文化などの後天的な素養だったということです。「中国」とはそのような漢人政権の支配領域であるため、政権によって外に広がることもあれば、内に縮むこともありました。どこからどこまでが「中国」の領土なのかは一定せず、例えば「万里の長城から南シナ海までが中国固有の領域」などという考え方は、近代以降のものだそうです。
「中華」と「夷狄」
そのような前近代の「中国」では、独特な対外意識が形成されました。それがいわゆる「中華思想」や「中華主義」であり、東洋史や中国哲学の研究者は「華夷(かい)思想」と呼ぶことが多いそうです。
この「華夷思想」は、天下(≒世界)を文字通り「華」と「夷」に分ける世界観です。「華」とは中華であり、「夷」とは夷狄(いてき)すなわち辺境の野蛮人を意味しました。自分たちを高みに置いて周囲を見下すというethnocentrism(自民族/自文化中心主義)はありふれていますが、華夷思想の特徴は、その中心となる集団の成員が(すでに述べたように)後天的な能力によって規定されるというところにあります。
しかも華夷思想において、「中華」と「夷狄」は対抗関係にはないことを先生は強調します。『詩経』などの古典には「溥(普)天之下、莫非王土、率土之濱、莫非王臣」(普天の下、王土に非ざるはなく、率土の濱、王臣に非ざるはなし)という有名な言葉があります。これは、「すべて天下で天子(≒中華皇帝)の支配下にない場所はなく、天下の果てまで天子の臣下でない者は存在しない」という意味であり、「中国」の外の「夷狄」が住む地域もやはり天下の一部です。しかも、「夷狄」は「中華」と全く異質な存在なのではなく、まだ「中華」の素晴らしさを理解できていないだけの存在だとされます。
東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 杉山清彦
ただし先生によれば、このような理念を心から信じている知識人は、中国の歴史にもほとんどいなかっただろうといいます。いわば本音と建前の使い分けであり、このような言動の様式は今も中国の根っこにあるそうです。中国の報道官が発する強い対日批判なども、そのまま受け取るのではなく、「お約束」の中から「本当に言いたいこと」を汲み取る必要があると先生は助言します。
「正統」と「正史」
さて、ここで「正統」という概念が関連してきます。現代日本語では「異端」の対義語とか、「正”当”」と同じような言葉として使われがちですが、本来これは「どの国が正しく天命(天下を支配する資格)を受けている中国なのか」を示す言葉でした。
「正統」な天子だけが行うことのできる特権の一つに、元号の制定がありました。空間と時間を支配する天子が定めた元号は誰もが使わなければならないものだとされ、天子以外が独自に年号を立てることは天子への反逆行為だと見なされました。また、周辺国が「中国」に朝貢して、「中国」から判子とともにカレンダー(「正朔」)が与えられることを「正朔を奉じる」といい、それは「中国」の支配下に入ったことを意味したそうです。
歴史書を作ることも、「正統」の思想と深く関連していました。「中国」の歴代王朝で作られた「正史」と呼ばれる歴史書の主たる目的は、現政権が「正統」だと証明するために、その政権までに権力がどのように受け渡されてきたかを明らかにすることにありました。その意味で、「正史」とは「正しい歴史」ではなく、「(現政権を)正しいとするための歴史」なのです。
そして、天下の国々が「正しく天命を受けている中国」とそれ以外に分けられる以上、複数の「中国」が同時に存在することはできなくなります。ここに、中国政府が「一つの中国」を主張し台湾問題で譲らない理由があるそうです。社会主義になったかどうかとは関係なく、中国の根底には今も「中華」や「正統」の思想が息づいていることを、先生は説き明かしました。
まとめ
本講義で先生が解説した「中華思想」は、私たちが想像する覇権主義のような意味とは必ずしも重ならないものでした。そして、中国にとって中華思想とはただの建前でしかない場合もあり、本音である場合もある、ということのようです。日本人にとってはやや実感しづらい考え方ですが、実感しづらいと理解することが、他者への理解の第一歩になるのかも知れません。本記事では紹介しきれなかったお話も少なくありませんので、ぜひ講義動画もご覧になってみてください。
<文/MS(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:「世界史」の世界史(学術俯瞰講義) 第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史 杉山清彦先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/03/04
まもなく東日本大震災の発生から14年が経ちます。震災や原発事故による被災地域では、インフラの復旧などが進みましたが、被災者支援など「復興」に向けた取り組みは現在も行われています。
ところで、「復興」とは何でしょうか?復興に終わりはあるのでしょうか?今回はそんな復興について、溝口勝先生が、自身の取り組みや考えを語った学術フロンティア講義「レジリエンスと地域の復興」を紹介します。溝口先生は農学生命科学研究科の教授で、福島県飯館村での調査など、震災復興に尽力されてきました。講義では震災直後から現在に至るまでの活動が軽快に紹介されています。
溝口先生わくわくグラフ
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
駒場生向けの講義ということもあり、講義の冒頭では、溝口先生の大学時代の話や、研究にハマっていった経緯も含め、自身のこれまでの経歴をそのときのわくわく度とともに紹介しています。ちょうど今年(2025年)3月をもって東大を退職される溝口先生ですが、様々なことに挑戦され続けてきたことがわかります。まずはこの部分だけでも講義を見てみてください。きっと続きが見たくなると思います。
原発事故と農業
さて、農業をするには、土壌や水資源の整備など、農業基盤を整えることがまず重要です。例えば、栄養のある土壌にしたり、水がないところに水を引いたり、反対に水浸しのところから水を除いたり。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
ところが、皆さんもご存知のように、東日本大震災に伴う原発事故により、福島などでは土壌に放射性物質が降り注ぎ、安全に農業を行うことが難しくなってしまった場所がありました。
この農業基盤が失われたという出来事が、土の研究者である溝口先生が復興に取り組んでいこうと思ったきっかけでした。
原発事故後の活動
原発事故直後、大学教授は動かなくてよいという指示が出ていたそうですが、そういわれるとむしろ動きたくなってしまう溝口先生は(本人談)、震災のわずか4日後、学内に東大福島復興農業工学会議を立ち上げます。その後、セミナーや講習会を行いながら、福島の飯館村に現地調査にも行きます。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
さらにその後は、農業再生に向け、農地除染法の開発や、放射性セシウムの調査、東大と連携した活動などを行っていきます。
大学との連携では、再生した土壌で米などを作っても最初は風評被害などがあるかもしれないと考え、酒米を作ってオリジナルの日本酒を製造しました。その名も「不死鳥の如く」。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
これは東大野球部の応援歌から名づけられたそうです。飯館村のふるさと納税返礼品として今も人気で、農学部がある弥生キャンパス近くの高崎屋商店でも購入できるそうです。お酒好きの方はぜひチェックしてみてください!
詳細は溝口先生の研究室HPから↓http://madeiuniv.jp/phoenix/index.html 
学問的な功績としては、地表に張り付いたセシウムを剥がして地中に埋めると、セシウムが地表に出てくることなく線量が減衰していくことを示しました。しかし、除染は国の公共事業として行われ、実績のある方法しか採用されなかったそうで、実際には剥がした土は廃棄物として別の場所に輸送され、処分されたそうです。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
復興農学とは?
さて、溝口先生はこれらの取り組みを「復興農学」として体系づけています。2020年には自ら「復興農学会」を設立しました。「復興農学(Resilience Agriculture)」という言葉にも溝口先生の思いが込められています。
「復興」という日本語は、英語だと”Reconstruction”という単語と対応させることが一般的で、例えば「復興庁」には”Reconstruction Agency”という英語が当てられています。しかし、溝口先生は”Resilience”という単語を当てています。
Reconstructionだと一度壊れたものなどを再び作り上げるという印象ですが、Resilienceという単語には、困難などの後に再びHappyになるという意味が含まれます。溝口先生は、それぞれがHappyになることが復興だと言います。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
ここに、講義のタイトルにもあるように「復興」と「レジリエンス」の結びつきが現れています。
また、最近では、復興知として取り組みなどを広める活動も行っています。自らを「Dr.ドロえもん」と称し、高校生や大学生など次世代教育や海外への情報発信にも力を入れています。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
農業の再生
話は農業に戻ります。除染を行ったとしても、農業にはたくさんの課題が残ります。除染により肥沃度が失われてしまったり、担い手が減ってしまったり。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
特に新しい農業の担い手を呼び込み、農業を持続可能にするには、IoTなどの活用や、そのための通信インフラの整備が重要だと溝口先生は言います。中でも、中山間地域や高齢者に適した技術を利用したスマート農業が重要になります。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
講義では実際の取り組みがいくつか紹介されているので、ぜひご覧ください。また、「そもそもスマート農業って何?」という方は、東大TVの講演を取り上げた「【データと技術で進化する農業】スマート農業の挑戦と実践」という記事をぴぴりのイチ推し!に掲載しているので、ぜひご覧ください。
復興の今後
さて、ここまで溝口先生の復興へ向けた取り組みや復興とは何かについてご紹介してきました。単に元通りにするのではなく、これまでよりも強く持続的な再建をし、そしてHappyだと思えるようにするのが復興の肝だといえるでしょう。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2024S 溝口 勝
講義では、ここではご紹介しきれなかった溝口先生の取り組みが、ジョークなども交えながら楽しく紹介されています。また、2024年1月の能登半島地震についても、現地に足を運んだ話やそこで感じたことが語られています。さらに、終盤の質疑応答では、「なぜ飯館村には新しい日本型農業を始めるチャンスがあるのか」「最近の溝口先生のわくわくは何か」「新たなテクノロジーの導入で本当に復興は可能なのか」といった興味深い議論が交わされています。ぜひ、最後までご視聴いただき、溝口先生の様々な取り組みと考えを通して、「復興」とは何か、学び、考えてみてください。
溝口先生の福島での取り組みについては、ご自身の研究室HPで詳しく紹介されており、東大TVでも講演などを視聴することができます。大学との連携や除染の話など、今回よりも詳細にお話されている動画もありますので、興味のある方はぜひご覧ください。
研究室HP
東大TV農業土木関係の取組み飯舘村に通いつづけて8年半:大学と現場をつなぐ農学教育除染後の農地と農村の再生
また、だいふくちゃん通信・ぴぴりのイチ推し!では地震・災害関連の講義紹介記事を他にも掲載しています。こちらもぜひご覧ください。
だいふくちゃん通信【インドネシアのアチェの人々に学ぶ! 多様化する社会での防災・災害対応とは?】スマトラが繋いだ世界【古民家っていいですよね】伝統的な木造建築と地震【対策を知って木造住宅の地震被害に備えよう!】
ぴぴりのイチ推し!【記憶を未来につなぐ】地図上に「災いの記憶」をデジタルアーカイブするということ楽しい実験動画満載!地震研究所の活動をのぞいてみよう!【地震の予測はなぜ難しいのか?】地震研究の大変さを知る
今回紹介した記事:学術フロンティア講義 (30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える) 第2回 レジリエンスと地域の復興 溝口 勝 先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/おおさわ(東京大学学生サポーター)>
2025/02/06
『UTokyo Open Course Ware』では、東京大学で開講された講義のスライド資料や動画を一般公開しており、日頃より多くの方からご視聴いただいています。
この度、2020〜2024年と連続して『学術フロンティア講義「30年後の世界へ」』シリーズを収録させてくださった東京大学東アジア藝文書院(ひがしあじあ-げいもんしょいん)の現院長、石井剛(いしいつよし)先生に、連携5年目を記念してインタビューいたしました。
 
石井剛先生とUTokyo OCWのマスコットキャラクターだいふくちゃん
 
前回『めんどくさそうだと思っていたOCWを5年間楽しく続けている理由』に引き続き、後半は、いわゆる「コロナ禍」の影響による収録形態の変化や、この5年間の講義の思い出などについて、より具体的に振り返ります。普段なかなか紹介する機会がない収録の裏側を、たくさんのお写真とともにお見せいたします。
 
このメンバーでお話しました(所属・職位等は2024年7月当時):
石井 剛  大学院総合文化研究科 教授(専門分野:中国哲学),東アジア藝文書院 院長
金子 亮大 東アジア藝文書院 教務補佐員,大学院総合文化研究科 大学院生
湯浅 肇  大学総合教育研究センター 学術専門職員,UTokyo Online Education スタッフ
三野 綾子 UTokyo Online Education スタッフ(2024年8月 退職)
加藤 なほ UTokyo Online Education スタッフ(2024年3月 退職)
 
左から加藤・金子・石井・湯浅・三野(2024年7月19日 駒場キャンパスにて)
 
後半のお話
 
2020年度、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、東京大学の授業は、基本的に全てがオンラインになりました。スタッフたちも在宅勤務を開始するにあたり、データの受け渡し方法や連絡手段の検討、自宅で動画編集するための環境整備など、技術的な問題に悩まされることに。『UTokyo Open Course Ware(以下:UTokyo OCW)』では、講義主催者の先生方や事務局の方に各自でオンラインの講義を録画していただき、そのデータを編集する形態をとりました。
 
オンラインで実施された講義の様子(2021年度 第4回より)
 
やがて2022年度になると、『学術フロンティア講義「30年後の世界へ」』は教室での対面授業に戻り、OCWの収録はスタッフが現地に足を運ぶスタイルに。カメラやレコーダーも2年ぶりの出番です。
 
2022〜2024年度の撮影隊の様子
 
しかし、以前と異なるのは、同時にZoomによるリアルタイムのオンライン配信を兼ねた、いわゆる「ハイブリッド形式」で実施すること。何度もテスト撮影を繰り返し、配線図や使用機材の見直しを続けました。
 
教室の内外から登壇する講師に扮しての音声テストと配線図の試作
 
幾度か教室の変更があり、その度に設備が変わるため、機材を組み直しました。音声トラブルや配信ミスを起こしつつも、できるだけ全ての参加者がインタラクションできる方法を探りました。例えば、オンラインの人が話す声が教室のスピーカーから流れるようにしたり、オンラインで登壇する先生が教室の受講者の様子を見ながら講義できるようにしたり工夫しました。
 
ハイブリッド授業の講義の様子(2023年度 第2回より)
 
 
 
ゲスト講師が遠隔から登壇する講義の様子(2023年度 第11回より)
 
このように、2022年度から全く新しい取り組みに挑戦することになったため、既存の人員・やり方では太刀打ちできない場面も多々生じてきました。そこで、新たに、東アジア藝文書院(以下:EAA)から、授業の実施のみならず配信・収録まで垣根を超えて共に行うメンバーとして、教務スタッフとして働く金子亮大(かねこりょうたい)さんにご協力いただきました。金子さんは、大学院総合文化研究科の現役大学院生でもあります。
金子:石井先生がSNSに投稿した公募情報がたまたま回ってきて。募集要項を見たら……「呼ばれている! これは僕のことを言っている!」と思いました。
皆:(笑)
金子:今年で駒場に通って10年目になりますが、「そんな人がいたんだ」「そんな組織や取り組みがあったんだ」ということはしょっちゅうで、それが駒場の一番面白いところだと思います。面白そうに感じて応募しました。
 
  
石井:金子さんが来てくれたとき、スタッフみんなで本当に喜んだんですよ、「素晴らしい若者が来た」って。EAAの取り組みをどうやってオンラインで外に向けて開いていくかということが当時の大きな命題で、テクニカルなことができる人がほしかったんです。
湯浅:初めてお会いしたのって、2022年?
石井:ちょうど、わたしたちがハイブリッドでやろうとしていたときですよね。
金子:そうです。いろんな物事をハイブリッドでやるのはすごく難しいんだってことが、世の中のいろんなところで、ちょっとずつ分かってきて。春先に教室の下見をして、機材の構成を設計する段階が一番苦労しました。「ああでもない、こうでもない」と一緒に考えて。そもそも、当然のことですが、「授業そのものの実施に責任を持つのがEAAで、撮影・収録を担当するのがUTokyo OCW」という本来の役割分担があります。しかし、今回はハイブリッド配信の都合などもあり、お互いに相乗りでやったほうがうまくいく部分も見つかりました。その両者のリエゾンという立ち位置が、わたしのお仕事の一番大事なところだと思ってやらせていただいています。
湯浅:これほど一緒に二人三脚でやるのは初めての出来事だったので、インタビューの動機としては、こういう事例を残しておきたいというのもありました。
石井:楽しんでくれているんですよね、この仕事を。金子さんがいてくれたから、一緒にやることが余計に楽しくなったし。
 
大活躍の金子亮大さん
 
EAAにとっては、2019年に創設して「いよいよ始動」という矢先にパンデミックに見舞われた、大変な期間でしたね。ところで、2020年の春、全国の大学がオンライン授業への移行を迫られて混乱している時期に、SNS上で石井先生の投稿がやや拡散され、「すごいことを言っている先生がいる」「かっこいい」と、ちょっとした話題を呼びました。当時はまだ、不安や不満などネガティブな意見が溢れている最中のことでした。
【オンライン授業に不安を感じる東大新入生の皆さんへ】その不安は杞憂ですので、まずはZoomから授業に出てみてください。(中略)わたしたちは、誰一人として取り残さないためのオンライン授業を構築しようと決意しています。(2020年03月27日)
石井:あのときはね、そんなにちゃんとできる自信はなかったんです。だけど、頑張ってやるしかない。先行して全学オンライン化を決定していた北京大学に電話をして、やり方を聞いたりしました。それで、「全員がちゃんとオンラインで授業を受けられるようにしないと成功じゃない」と、3月からわりと明確に意識していました。やっぱり、わたしたちはマイノリティのことを考えなきゃいけないと思ったんです。
 
お言葉のとおり、遠隔の参加者への配慮を怠らず、丁寧に授業を進行する姿が印象的だった石井先生ですが、一方で、「キャンパスに集うことの大切さ」について繰り返し語っていますね。
 
キャンパスでの授業の再開を喜ぶ2022年度(2022年度 第13回より)
 
石井:わたしは、オンライン授業は「緊急避難先」で、大学はキャンパスを共有することによって初めて大学たりえると、今でも思っています。想定していた以上にオンラインの期間が長くなりすぎました。本当はイヤなんです、スクリーンに向かって話しかけるのは。
金子:オンライン授業開始初期に、「まるで宇宙に向かって話しかけているようだ」「無人島で瓶に手紙を詰めて大海原に向かって送り続けているような感じだ」とおっしゃった先生がいて、卓抜な比喩だなと思いました。
石井:教室では、学生さんが反応してくれているか、面白がっているか、表情を見ながら言葉を選んでいますからね。オンラインであっても、中国との会議に出ると、わりと皆さん平気でカメラをオンにするんですよ。そうすると急に臨場感が増すことはあります。だから、「どちらか」というふうに二元論的に考えちゃうと良くなくて、わたしたちは、「オンラインだからこそできたこと」をちゃんと評価して、対面に戻った今も続ける必要があります。オンライン・ツールを得たことは、大学にとって間違いなくいいことですから。2020年の秋学期に、IARU(国際研究型大学連合)で国際授業をやったんです。当時の議長大学が東大で、北京大学と一緒に、複数国の学生が同時に受講できるコースを開講しました。国際的な授業には、オンライン・ツールってすごくいいなと思いました。でも、地球の反対側の人たちは時差のせいでだんだんと脱落していってしまいました。時差は、今のところ、技術的に解決できないことなのかもしれません。
加藤:コロナ禍の当時は、うち(大学総合教育研究センター)の事業なども含め、オンライン授業をできるだけきちんと本質的なものに近付けようという試みがなされていて。わたしと金子さんは、偶然なのですが、過去に学内のオンライン系をサポートする趣旨の業務でもご一緒していました。その時期にはオンライン・ツール上で、顔を見たことがない、名前とアイコンしか知らない人たちと仲良く働いていました。
石井:実は、わたしも現在研究活動で一番仲良くしている人たちは、オンライン時代に知り合った人たちなんです。去年から実際に国際的な行き来が可能になってきましたが、オンラインで出会った人たちと初めて対面で会ったときはとても嬉しかったですねえ。オンラインだけでは味わえないもので、会ったから感動するんですけど。
 
  
金子:何らかの事情でその場から離れられない人にオンラインで留学するチャンスがあるのはいいことですが、「アメリカの大学の授業をオンラインで受けられるから、君はアメリカに行かなくてもいいよね」とか、「オンラインコンテンツがあるから授業はいらないよね」というふうになってはいけなくて。選択肢が増えたと考えるべきだというのは間違いないですよね。いろんな選択肢を全部保証するのは、やる側にとってはすごく大変なことですけれども。
石井:オンラインじゃなければ学問にアクセスできない人もいますから、可能な限りアクセスの方法があった方がいいんじゃないかと思います。ただ、それらをどういう場面でどういう意図で使うのかということを、使う人が明確に意識していないと、せっかくのツールも活かせません。
金子:技術・ツール・メディアなどが、そのコンテンツの中身を規定することもありますね。一体不可分なのだと思います。
石井:わたしたちの講義の場合は本当に不可分で、ハイブリッド配信じゃなければいけない。産学連携をしているダイキン工業株式会社の方々にもリカレント教育として講義にご参加いただいていますが、全国の社員が参加できる方法は、やはりオンラインですから。ときどき、海外のダイキンの方も参加してくれているはずです。
 
2023年度「空気の価値化」ではダイキンの方にも講義をしていただきました(2023年度 第6回より)
 
教員として、授業の実施形態やOCWの収録形態の変化は、コースそのものにどのような影響を与えたと感じていますか?
石井:……あんまり何も感じていないから続けていられるのかもしれませんね。個人的なことですが、基本的に、皆さんにいてもらうのが、ただ楽しいんです。それしかないので、あんまり振り返ったことないんです、実は。良くないですね、立派じゃないですね(笑) 楽しいことをやりたいんです、わたしは。
加藤:だから、とりあえず全部やってみた?
石井:ええ。で、実際、ホラ、やってくれる——「やりたい」って言ってくれる人たちがいたわけですし。楽しいですもんね、端的に。
 
たしかに楽しそうですね
 
石井:海外の大学との共同講義や大学に来られない人への配信のように地理的に離れているということとは別に、オンラインだからこそ上手くいった授業というのは、やっぱり明確にあります。それは、2022年度の青山和佳(あおやまわか)先生の回です。あれは、オンラインでなければできませんでした。というのは、青山先生ご自身が非常に深刻なPTSDを抱えていて、それを「自伝的物語」というタイトルで話してくださったんです。ご自身の心の安定を保たないと話せないことなので、事前にビデオを録画なさって、質疑応答のときだけオンラインで学生さんたちの質問に答えてもらいました。
 
青山和佳先生の講義の様子(2022年度 第2回より)
 
せっかくなので、スタッフの皆さんにも思い出に残っている回や印象深い回についてお話してもらいましょう。
湯浅:特に印象に残っているのは、2020年度の國分功一郎(こくぶんこういちろう)先生と熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)先生の回。自閉症や依存症がテーマの講義で、OCW掲載時にはカットした部分ですが、質疑応答のときに学生さんが、人生相談じゃないけど——
石井:あぁ、そうそうそう。
湯浅:本当に人との繋がりが断たれていた時期だったので、先生が「仲間だよ」っていうふうに言ってくれていて、良かったなぁって。
石井:ただ同時に、「その問いには答えられない」ということも率直に言っていて、応答のしかたが非常に巧みでしたよね。國分さんと熊谷さんのパーソナリティーが大きかったと思います。偶然、國分さんの考えはわたしたちEAAが考えていたことと一致していました。「ひとりの教員が教室を支配するのではなく、学生には、教員同士が話しているところに参加してもらうのがリベラル・アーツとしてあるべき姿だろう」と。依頼した際、すぐに「熊谷さんと一緒にやります」と言ってくれたんです。
 
國分功一郎先生・熊谷晋一郎先生の講義(2020年度 第13回より)
 
三野:わたしは人文系の内容に興味があるので、2022年度が面白かったです。自分が収録に関わった2022年度から2024年度を通して一番印象に残っているのは、中島隆博(なかじまたかひろ)先生です。熱いパッションが感じられるので。すごくファンになりました。
石井:うんうん。
湯浅:中島隆博先生の世界哲学の授業は、再生回数も多くて、皆さん視聴されています。
 
中島隆博先生の講義の様子(2020年度 第4回より)
 
湯浅:1コースごとの再生回数は、大体、年間で9,000の後半ぐらいです。
石井:そんなにあるんですか。へぇ、すごい。
湯浅:わたしが感じた小さな影響としては、だいふくちゃん通信・ぴぴりのイチ推し!*の学生ライターさんの中に、「前年度に学術フロンティア講義を受講していたからOCWの存在を知っていた」という方がいました。
石井:そうですか。
*だいふくちゃん通信・ぴぴりのイチ推し!:UTokyo OCWと東大TVの講義動画紹介コラムのページです。東京大学の学生サポーター・卒業生・UTokyo Online Educationスタッフを中心に持ち回りで執筆しています。
金子:僕は、いかにも鼻息の荒い1年生が鼻息の荒い質問をしてくれるのを見ると、ニコニコしますね。最初の年は特に、1年生で質問している人が多かった印象があって、それを見てニコニコしていました。
加藤:おじいちゃん目線(笑) 何年か通して受講して、沢山質問している学生さんがいましたね。毎年内容が変わるから固定ファンが付くのかな。
石井:4年間履修してくれた人もいるし。
三野:思い出深い。毎年テーマを作るのは大変そう。
石井:OCWに出していないものも含めて、2019年から2021年までの最初の3回は「EAAが何を考えているか」をテーマ化していました。2022年度からは「EAAが誰と一緒に仕事をするか」によって決めるようになりました。来年度も社会連携を意識しながら作るつもりでいます。
湯浅:こうして全体を振り返ると、毎年ひとつのテーマに沿いながら、本当に縦横無尽に話している。「哲学」から「食」「空気」といった身近なところまで。EAAだからこそできるっていうのがいいな、って。
 
さて、楽しいことが大好きな石井先生、今後チャレンジしたいことは何ですか?
石井:もう既に始めていますが、EAAがやっていることを世界的なアソシエーションにすることです。地球的危機に対して学問のレベルで真剣に考えている人たちが、世界中に、同時多発的にいっぱいいます。例えば「ロシアとウクライナ」「イスラエルとパレスチナ」とか、対立構造ばかり見えてしまうけど、両者の中に似たようなことを考えている人たちがいるはずなんです、個人や集団として。世界が決裂・分裂しそうなときにも、その次の「よりよい世界」のことを考えている人たちがいる。それを、なるべく広くネットワーク化して、ひとつのダイナミックなアソシエーションとして機能させたいんです。それで、ときどき意見交換して、学問的責任の中で、「解決」は無理かもしれないけど、一緒に知恵を絞るんです。
加藤:国連や政府が抱えるシンクタンクなどの公式な動きとは違うところで、別途、勝手にお友だちになるという意味ですか?
石井:両方です。両方必要だと思うんですよ。わたしたちのような組織や個人、つまり点と点がそれぞれお友だちになって線で結ばれていく横の繋がりがありつつ、その個々の点は、たまたま国連などと一緒にプロジェクトをやっているといった縦の繋がりを持っているかもしれません。実際、既にOECDや国連に対するアプローチや知見のフィードバックの試みもあります。あちこちで横と縦にネットワークが広がって、思いが伝播していく——そうじゃないと、世の中、動いていきませんから。「思い」といっても、必ずしもみんなが全く同じ思想ではないかもしれない。だけど、「希望」はみんな持っているに違いないんですよね。
加藤:「世界をよりよくしよう」ぐらいの統一感ということですか?
石井:何が本当に「よい」のかは分からないですからね。あちこちに「希望の種」があるって知りたいし、それを使って、また別のところに「希望の種」を分けられるじゃないですか。
 
  
石井:この講義の先生方も、地に足の付いた研究をしていて、それぞれの現場があるからこそ成り立っていることが分かりましたよね。リベラル・アーツって、体が伴ってないとダメなんですよ。福永真弓(ふくながまゆみ)先生は、講義の中で「地球にまみれる」と表現していました。ひとりひとりがそれぞれの現場の土にまみれる——ものすごく生活に密着していることなんです。例えば、北京大学の呂植(ろしょく)先生はチベットの土にまみれる人で、チベットや四川省のパンダの保護区に住んでいる人たちのマインドを、30年かけて「自然保護に意味がある」というように変えていった。そういう人が存在するという事実を知ることは、わたしたちが自分たちの土に戻る(現場に立ち返る)ときに、とても大事なことではないでしょうか。そうやって地球にまみれる人たちが世界中にいっぱいいて、彼らがひとつの場を共有できるとすれば、それは学問の場になりますし、別々の現場同士を繋ぐことこそ、まさに学者の役割で、政治には難しいことなのではないかと思います。そういういろんな泥臭い人たちがあちこちから集まって来ているのが「大学」で、その場を確保していくのが駒場キャンパスの役割だと思うんですよね。
加藤:そのような力を持つ組織や機関に所属していない、いわゆる一般の個人が「賛同するよ」っていう場合は、どのように応援できるんですか?
石井:それは簡単です。OCWを見てもらえばいいんですよ。
湯浅・三野・金子:おぉ〜!(笑)
加藤:いいことを言いましたね。
石井:そのためにやっているんですから。OCWも書籍も、その方法のひとつですよね。
 
毎回コースの最後の締めくくりは石井先生の講義(2023年度 第13回より)
 
湯浅:本当に、EAAがテーマにしているようなことは、ますます重要度が増していますよね! コースが始まった頃から比べて、やっぱり、危機というのが本当に迫って来ているなぁという感じがする。日々暑くなってるし。いろいろな戦争も……
石井:人々も熱くなってね。
湯浅:そういうふうに、思います。
最後は、先生ではなく、湯浅さんが締めくくってくれました。
 
終わりに
 
先生の夢は、大学が教育資源を通じて世界中に「知」の繋がりと再生産を促すOpen Educational Resourcesの考え方とリンクするところがあり、UTokyo OCWがEAAと長らく手を取り合うことができた理由の一端を見つけられたように感じました。「知」の共同体のようなものが持つ広く大きな繋がりの中には、もちろん、わたしたちのコンテンツを視聴してくださる皆さまもいらっしゃることでしょう。
そして、新たにコンテンツをご提供くださる先生方のことも、心からお待ちしております。(お問い合わせ方法につきましては、こちらをご参照くださいませ。)
 
〈編集:加藤 なほ,校正校閲:中谷 静乃〉
 
その他 学術フロンティア講義「30年後の世界へ」に携わった UTokyo OCWスタッフ(2024年度に在職中の職員のみ記載,50音順):佐藤 芙美・蒋 妍・田中 かおり・中谷 静乃・古田 紫乃・村松 陽子・山本 直美
  
おまけとして、スタッフの思い出やメッセージを紹介いたします:
スタッフとして聴講させていただきましたが、先生方の声の温度やそこに乗せられてくる思いや情熱が伝わってくるような気がして、毎回、心から楽しみにしていました。普段、著作権確認でパソコンの画面上でしか伝わってこないものが、liveだと心に沁みる感覚があります。そうした先生方のご講義を、まるで教室で講義を受けているかのような感覚で全世界に届けることができるんだということに、感動とやりがいを感じます。特に印象に残っているのは、羽藤先生の『復興の未来』、岩川先生の『パンデミックを銘記する』の回です。
溝口勝先生『レジリエンスと地域の復興』で、応援団長がエールを送ってくださったのがとても印象的でした。また、どの先生もOCW収録に関する一連の作業に丁寧にご対応いただき、感謝しています。
この授業は、基本的にどのご講義も、学生だけでなく一般の方が聞いても興味深いお話が多いように思います。自分は、撮影業務に集中しているため、その場ではそれほど内容が頭に入ってくることはありませんでしたが、福永真弓先生の『藻と人間』は先生の表現力が素晴らしかったこともあり、お話に引き込まれました。結果、私はプライベートの会食で幾度となく「藻」の話を友人たちに披露しており、最近ではこすり倒して、若干、話が上手くなってきています。
OCWの大ファンだという学生さんと話ができたことが良かったです。
わたしが大学生の頃受けていた講義は、ここまで講師の専門性に大きな幅があるものはなかったように思い出されます。同じ「30年後の世界へ」という命題でも毎年毛色が違うこと、「共生」や「空気」、「希望」といったキーワードにそれぞれの講師が自分の専門分野から切り込んでいくことに学問の多様性や可能性を感じ、また、それを持ち寄ってさまざまな側面からみんなで未来を考えていくことの包含する発展性のようなものを、強く感じました。今年の講義シリーズでは、前半によく取り扱われた復興に関する講義が、どれも心に残りました。自分の視野の狭さを思い知るとともに、また、自分の知らなかった復興への多様な取り組みを知ることで状況が着実に前進しているという安心感、テーマにある希望のようなものが胸に響きました。この講義を多くの人に聞いてもらいたいと、この事業の役割について初心に立ち返る思いがしています。
私は、溝口勝教授の責任感と行動力に深く感銘を受けました。日本の学者の方々と接する機会がある中で、溝口先生の姿勢は特に印象的でした。先生は被災地に対する強い責任感を持ち、小さなことでも率先して行動されています。東京大学の教授という立場でありながら現場に寄り添う姿勢に感動すると同時に、その献身的な取り組みに深い敬意を表します。石井教授のご活動にも大変感銘を受けています。以前、私も先生方にご講義をお願いするイベントを企画したことがあり、その際の調整の難しさを経験しました。今回の撮影を含むイベントでは、さらに多くの行政手続きや調整が必要だったことでしょう。それにも関わらず、石井教授が長年にわたってこのような活動を継続されてきたことに、心から敬服いたします。両教授の献身的な姿勢と、社会貢献への揺るぎない意志に深く感謝すると同時に、大きな励みとなっています。このような素晴らしい先生方と共に活動できることを、心から光栄に思います。
いつも笑顔で話しかけてくださる働き者のEAAスタッフの方々・野澤先生、既に退職されたUTokyo OCW教職員の方々、東京大学出版会の方に、この場をお借りしてお礼と拍手を。皆さまあってこそでした。全ての回がおすすめなので……直感でピンと来たものから、気ままにご自身のペースで、お散歩のように訪ね遊んでみてください!(加藤)
2025/01/31
『UTokyo Open Course Ware』では、東京大学で開講された講義のスライド資料や動画を一般公開しており、日頃より多くの方からご視聴いただいています。
わたしたちのウェブサイトは、講義の収録やデータ提供をご快諾くださる、多くの部局および先生方のご協力によって、成り立ってまいりました。
この度、2020〜2024年と連続して『学術フロンティア講義「30年後の世界へ」』シリーズを収録させてくださった東京大学東アジア藝文書院(ひがしあじあ-げいもんしょいん)の現院長、石井剛(いしいつよし)先生に、連携5年目を記念してインタビューいたしました。
 
石井剛先生とUTokyo OCWのマスコットキャラクターだいふくちゃん
 
わたしたちが連携した5年間を改めて振り返ってみると、2020年度、パンデミックの影響によって突如授業が全面オンラインになり、数年後には再び対面授業に戻るなど、技術的なルーティーンを崩され、幾度かの変革を迫られた、少し特殊な期間でもありました。普段、視聴者の皆さまには主に完成したコンテンツだけをお届けしておりますが、この機会に、収録や編集など製作過程の裏側も少しお見せしたいと思います。
このインタビューは、数年にわたって講義収録・ハイブリッド配信を担当したスタッフたちが石井先生を囲む座談会の形で行われました。その内容を、前編・後編にまとめてお届けいたします。
 
このメンバーでお話しました(所属・職位等は2024年7月当時):
石井 剛  大学院総合文化研究科 教授(専門分野:中国哲学),東アジア藝文書院 院長
金子 亮大 東アジア藝文書院 教務補佐員,大学院総合文化研究科 大学院生
湯浅 肇  大学総合教育研究センター 学術専門職員,UTokyo Online Education スタッフ
三野 綾子 UTokyo Online Education スタッフ(2024年8月 退職)
加藤 なほ UTokyo Online Education スタッフ(2024年3月 退職)
 
左から加藤・金子・石井・湯浅・三野(2024年7月19日 駒場キャンパスにて)
 
意外にも、最初は講義の収録・公開に対して「なんだかめんどくさそう、やりたくない」という印象を持っていたという石井先生。そんな先生が、なぜ5年間もの長い間、積極的に取り組んでくださるのか……その謎にも迫ります!
 
前半のお話
 
東アジア藝文書院(以下:EAA)が、わたしたち『UTokyo Open Course Ware(以下:UTokyo OCW)』を知って、講義コンテンツの提供を始めようと思った一番最初のきっかけは、何だったのでしょうか?
湯浅:X(旧Twitter)のEAAのアカウントが、UTokyo OCWのアカウントに「いつかEAAのコンテンツもOCWで公開できますように」とメッセージをくださり、こちらから「では、ぜひお話させてください」とお声がけしたのが発端だったかと。
石井:当時EAAで活躍していた特任助教の前野清太朗(まえのせいたろう)さんがキーパーソンです。わたしは、今回教えてもらうまで、その投稿のことは知りませんでした。彼がいたからこそ始まった、大事な人です。そちらのセンター(東京大学大学総合教育研究センター)の『フューチャーファカルティプログラム(東大FFP)』で学んでいたときから、OCWを知っていて関心があったみたいです。当時、「石井先生、OCWをやってください」って言われて、わたしは「イヤだ」って言ったんです。
皆:(笑)
石井:正直、「講義資料の著作権処理とか、しなきゃいけないのかな」「なんだかめんどくさいな」と思ったものですから。でも、EAAでは若い人がやりたいって言うことを基本的にノーと言わないので、「やってみましょうか」と。明確に声を上げてくれた人がいた、というのがきっかけですね。
 
先生がおっしゃるように、わたしたちは、講師の皆さまからいただいた講義スライドを確認し、使用されている素材について、出典調査および編集処理をしています。講義をOCWのような形式で一般公開する際には、厳格な著作権処理が必要となります。
 
著作物に出典を記載した例(2023年度 第1回より)
 
湯浅:やっぱり、先生方には「負担が増えちゃう」というイメージがあるんでしょうか?
石井:実際に大変だったのは、わたしじゃなくてOCWのスタッフの方々ですよね。基本的に、すごくプロフェッショナルな仕事をしてくださるので、教員側で何か負担が増えるということはあまり無くて、全然めんどくさいことはないですね。もちろん、教員はどういう資料を出すべきか考える必要はありますが、その点さえご自身でコントロールできれば、さほど大変ではないはずです。わたしの場合は、スライドに使う素材として、最初から著作権の上で全く問題ないものだけを選ぶようにしています。
加藤:フィールドワークのように、多くの他者が関わる題材を扱う先生は、大変かもしれませんね。
 
公開時にモザイク処理や許諾申請などをすることも(画像は編集者作成)
 
石井:映画などを題材に授業をなさってる方もいますからね。そして、処理されていないものを提供することにこそ意味があるというタイプの授業もあります。先生方はきっと、「授業を通じて自分の研究を深めていきたい」という強い希望をお持ちなんですよね。だから、なんでもかんでも一般公開向けだと困るわけです。「秘密」って結構大事なんですよ。要するに余白と余剰——それが学問の多様性を保証しているので。キャンパスに集まって、そこで授業をしたり授業を受けたりすることって、やっぱり意味があると思うんです。それは「秘密」が共有できるからです。OCWへの向き・不向きは、その授業の性質にだいぶ左右されるのではないでしょうか。例えば、わたしには1・2年生向けに中国語を教える仕事があるのですが、映り込んだり発言したりする学生たちを守らなければならないし、授業中の雑談っていろんな「秘密」めいたこともいっぱい話しますから。
加藤:他大学で、そういった性質の講義を、作り込んだダイジェスト版として公開するケースがありました。
石井:それは大学のPRとして有効な手段だと思います。やり方次第ですね。この『学術フロンティア講義「30年後の世界へ」』については、わたしがゲスト講師の方々に登壇を依頼する際は、あくまでも教員としてお願いしているので、著作権など細かい事務手続きの説明はしていなくて、毎年、コースの趣旨文を長めに書いているけれども、それに沿って、参加してもらうことの教育的・学問的な意義を説明して、理解してやってくださる方にお願いしています。ただし、あらかじめ「OCWとして動画コンテンツ化されます」「将来的に書籍にまとめて出版される可能性があります」ということを申し上げておくので、先生方は公開されてもいいように内容をアレンジしてくださっています。
 
それでは、EAAが講義シリーズ『学術フロンティア講義「30年後の世界へ」』を長期にわたってUTokyo OCWに提供してくださっているのは、一般公開と相性がいい講義ということでしょうか? また、単発ではなく長期間継続してOCWに携わることのメリットはなんでしょうか?
石井:この講義は、OCWで積極的に展開していくことによって、授業自体の価値が高まるタイプのものです。「30年後の世界へ」というテーマが続く限り、OCWに収録に入ってもらいたいと思っている、それぐらい欠かせないものになりました。こういうやり方自体、少なくとも教養学部における前期課程向けの授業としては、全く新しい形態です。学生だけでなく、社会に向けても開かれている——「駒場キャンパスでやっている教養教育を、いかに、より大きな社会のリカレント教育と結び付けるか」というチャレンジを、OCWと協力することによって可能にしたのだと思っています。実際にそれをやってしまいましたからね。EAAが標榜する「東アジアからのリベラル・アーツ*」の具体的な実践として、「学術フロンティア講義 × OCW」は、厳然たるひとつの形式になっているわけですよね。
*リベラル・アーツ:一般的には、多角的な視点・批判的思考・さまざまな手法によるアプローチなどを身に付けるため、「文系」「理系」といった枠を超えて幅広い学問領域を横断的(学際的)に学ぶことをさします。
 
撮影と配信が入る教室の様子(2022年度 第11回より)
 
石井:コンテンツ公開と一体になっていることが、ほぼプロジェクトの定義になった——これは、わたしたちEAAの最大の収穫です。以前はそんなふうに思っていませんでしたから。イメージが「変わった」というよりも、「生まれた」というふうに言った方がいいかもしれません。もともとゼロだったものだったのですから。
加藤:ゼロではなくマイナス(笑)
石井:「最初はやりたくなかった」というのはマイナスかもしれませんね。
 
  
石井:このコースでは毎年違うテーマを設定していますが、問い続けること自体、ある種、わたしたちが社会的に前に進んでいくためのエンジンになっていて、長期間OCWを続けることは、利点どころか「それ以外にはない」ということだと思います。教室における当日のレクチャーがあり、その録画を公開すること、そして書籍として出版すること——この三つが連動するという形が、確固たるものとなっています。
加藤:先日の授業で、それらの三つを「(それぞれに)ちょっとずつ違うんですよ」と語っていましたね。
石井:それはシンプルな話で、実際にそれぞれ異なる加工(編集)が入るからです。
 
2022年度の講義を元に刊行された書籍『裂け目に世界をひらく』(詳細はこちら)
 
石井:特に大事なことは、その三つの過程において、講義を担当した先生方の考えが変わっていくことだと思っています。教員は、最初から答えと結論を持って授業に来ているわけではないんですよ。まずは、自分が抱えている問いを——ラフな生のアイディアを、学生さんにぶつけるでしょう? そして、その場で学生さんからリアクションをもらう。その後、OCWでいろいろな編集を経て公開される。さらに、最終的に——といっても本当に最終じゃなくて暫定的な結論として本にするときには、それらを踏まえて改めて書き直します。先生自身が、考えを深め、ちょっとずつ変わるんですよね。すごく面白いじゃないですか。そのような学術生産のプロセスを、あえて一般公開してしまっているんだけれども、それ自体は、実はすごく異例なことだと思います。
金子:先生方が問いと答えを深めていかれるプロセスに学生が関われるのは、このコースのコンセプトのひとつとして、質疑応答の時間を長く取るからだということがあると思うんですけれども。
石井:そうです。学生さんには「先生方のお話は60分ぐらいで、残り時間は皆さんとのインタラクションです」と伝えてあります。EAAを始めた最初の頃から、「ひとりの教員が教室を支配するのをやめよう」と思っていました。通常、オムニバスの講義だとコース・コーディネーターの先生はあまり出てこないと思うのですが、わたしは全部に出ようと決めています。それで、最初にわたしがレベルが低い変な質問をしてあげると、ハードルが下がって、学生さんたちも質問しやすくなるでしょう? これは、EAAの理念に関わることですが——2019年の創立以来、最初の数年間を引っ張ってくれた中島隆博(なかじまたかひろ)先生が、人間の定義を「Human Being」でなく「Human Co-becoming」だと言うんです。人間は、単独の存在ではなく、誰かと共に変容しながら成長していくというわけです。その人間として当たり前の姿を、ちゃんと具体的に実践して、体現してみせることが大事だと思っています。授業・動画・本というプロセスに学生が入ってくることによって、自動的に「Human Co-becoming」が示されていると思います。
 
中島隆博先生の講義の質疑応答の様子(2023年度 第2回より)
 
OCWは、そのような一連の流れの中でお役に立つことができていたのですね。Co-becomingという意味では、もちろん視聴者の皆さまの存在も共にあるような気がいたします。さて、そのような存在意義の他に、OCWのようなオンライン教育コンテンツの蓄積・公開という活動には、どのような価値があると考えられますか?
三野:例えば、EAAの公式ウェブサイトにも、ブログなど、活動の記録の蓄積がありますよね。一般的に、公式ウェブサイトって、部署の再編や改組などが起きると、伴って無くなってしまったり移管したりということがあるかと思います。アーカイブを(消失の危機から守るために)分散させておいた方がいいのかなって。
石井:もちろん、そういう意味でも意義はありますよね。
金子:OCWの効果って、必ずしも直接的に目に見えてご利益があるかというと、多分そういうわけではなくて。やってみる中で何かいいことがあるかもしれないし、もうちょっと大きな目線で見ると、大学・学問の営みにとっての意義があるとか、あるいは、このように一緒にやっていくやり方そのものが楽しいとか……そういったことを、石井先生は前向きに捉えていらっしゃるんじゃないかと。
石井:EAAの取り組みをなるべく広く人々にお見せして、関心を持ったり批判したりしていただくことが大事なので、より沢山の人が見てくだされば、それだけ効果が大きいということは、一般論として言えますよね。同様に、やっぱり、大学全体として「知的な営み」が持つ意味を社会にアピールする必要も、絶対にあります。オンライン教育コンテンツをその一部として位置付けることは、もっと積極的に考えられて然るべきですよね。現状は、わたしたちEAAのような自主的にやりたい人たちだけがやっているというふうに見えます。
 
 
石井:そもそも、大学がオンライン教育コンテンツを公開する取り組みは、アメリカなどを中心に始まったと思いますので、本来は、英語の講義動画を「やがて我が大学に来てくれるであろう世界中の人たち」に届けるという戦略だったのではないでしょうか。日本の大学の場合、主に日本語でコンテンツを公開する以上、オーディエンスが自ずと限られてくる(英語のコンテンツと比較すると視聴数を稼げない)ので、英語圏のグローバル戦略とは何か違う意図を持たないと、続けていけないですよね。もしも、そこに意味を見出すとするならば——例えば、少なくともわたしたちEAAがやろうとしているのは、一義的には「生活態度としてのリベラル・アーツ」みたいなものを社会に向けて提供していくことですが、当然、そこにはもうちょっと戦略性があって、日本社会の新しいイノベーティブなマインドを日本社会において作り出すことに意味があると考えているんです。大学全体ということになると、EAAがやっている実践レベルとは違うレベルで考えなければいけないでしょう。いろんな可能性があると思いますね。大学としてもっとお金を投入する、もしくは、社会からお金を頂戴するような形にまでなっていくといいと思いますけれども。
 
  
加藤:例えば、以前勤めていた他校では、欧米にバックグラウンドのある先生方で、「わたしはいい授業をやってるから、撮ってどんどん公開してくれ」という人たちが何人もいて。そのマインドは面白いと思うし、マネタイズとは別に、そういう純粋なモチベーションも必要で。個人的には、「理念」だけで支えられている美しいものが残されている世の中であってほしいな、と思っています。
石井:そもそも、マネタイズは「理念」がないと上手くいくはずがないですね。
 
  
石井:わたしは最近、「生活態度としてのリベラル・アーツ」を、SDGs(持続可能な開発目標)の現在ある17項目を牽引する18番目のゴールにするべきだと主張しています。「生活態度としてのリベラル・アーツ」というのは、結局のところ、知的な問いを持ち続ける習慣のことです。わたしたち人類は、問うことをやめてしまえば前に進めなくなってしまうでしょう。イノベーティブなマインドは、問いの立て方に関わってくるはずです。大学が社会に提供するリカレント教育は、世の人々がそういう習慣を育んで生活をより豊かにし、社会全体をよりよい方向に導いていくために行われるべきで、EAAとUTokyo OCWのコラボレーションもそうした試みのひとつですね。
 
後編に続く!
 
今回のお話では、東アジアを拠点に日本語・中国語・英語の3カ国語を使って学術活動する石井先生ならではの着眼点から、貴重なヒントをいただくことができました。日本語のコンテンツの世界的な拡散の難しさはスタッフも痛感しているところですが、それと同時に、母国語で専門的な高等教育を受けることができる日本の学問環境は、世界的にも恵まれており、守られるべきものであるとも感じました。せっかく持っている豊かな教育資源をどのように有効活用していくべきか——わたしたちの今後の課題と言えるでしょう。
次回『わたしたちの「コロナ禍」と「ポスト・コロナ」を振り返る』では、『学術フロンティア講義「30年後の世界へ」』について、5年間の技術の変遷や、授業の内容そのものを振り返ります。引き続き、お楽しみください!
 
〈編集:加藤 なほ,校正校閲:中谷 静乃〉
 
学術フロンティア講義「30年後の世界へ」の動画視聴・スライド資料閲覧はこちらから:
2020年度 「世界」と「人間」の未来を共に考える
2021年度 学問とその“悪”について
2022年度 「共生」を問う
2023年度 空気はいかに価値化されるべきか
2024年度 ポスト2050を希望に変える
 
東アジア藝文書院の活動詳細はこちらから:
東アジア藝文書院|East Asian Academy for New Liberal Arts > 学術フロンティア講義「30年後の世界へ」
 
東京大学の教員・部局の担当職員の方で『UTokyo Online Education』に講義動画・講義資料を掲載することにご興味がある方はこちらから:
UTokyo Online Education > 教材の公開/作成
2025/01/24
あなたは昨日何を食べましたか。その料理の中にはどんな野菜や穀物が使われていたでしょうか。そして、その野菜や穀物はどこでどのように地球環境に負荷を掛けながら育てられたのでしょうか。農業というと豊かな自然や緑をイメージする方も少なくないと思います。しかし、農業の環境負荷は大きく、あなたが食べたものも気候変動や水質汚染に関わっているかもしれません。多くの人にとって、食べ物は生産するものではなく、お金を出せば買えるもの。食べ物のもとはどこから来て、食べたものはどこへ行くのか。普段は考えなくても生活できる、食べ物の背景にある「みえないもの」について、考えてみませんか。今回は「クールヘッド・ウォームハート-みえない社会をみるために」と題された学術俯瞰講義より藤原徹先生の「第6回 栄養の循環と社会」をご紹介します。
化学肥料と品種開発が叶える穀物増産
東京大学 UTokyo OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2015, 藤原徹
図を見ると分かる通り、世界の人口は急速に増加しています。人口が倍増すれば、穀物を食べる人間は倍になる。つまり、倍量の穀物を生産する必要があります。では、そのために何が行われてきたかについて見てみましょう。まず、なぜ肥料が食糧生産において重要なのでしょうか。食糧は植物から生産され、植物は土壌中に含まれる元素を吸って生命を維持しています。現在、植物の生育に必要な元素は17種類あると知られています。
東京大学 UTokyo OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2015, 藤原徹
植物は必須元素を正常な量、摂取できなければ十分に生育しません。ところが、たいていの土壌において、植物は十分に生育できるだけの必須元素を摂取できないのです。土壌内の多くの元素が結合しているために植物が利用することができず、生育の維持が困難になります。そこで、植物の生育に必要な元素を補うために、19世紀以降に肥料が工業的に生産されるようになります。特に画期的だったのが、1900年代初頭に開発された、ハーバーボッシュ法です。これは、空気中の窒素ガスをアンモニアに変換する化学反応の方法です。窒素は植物の生育において、最も重要な元素です。空気中の5分の4は窒素ガスで構成されているにも関わらず、私たちはこれをそのまま利用することができません。しかし、ハーバーボッシュ法によって、空気中に大量に存在する窒素ガスを、生物が利用可能な形に変換できるようになったのです。こうして、工業的な肥料の生産に伴い、人口増に応える食糧の増産が実現されていきます。さらに、アメリカの農業学者であるNorman Borlaugによる矮性品種の開発も手伝って、さらなる増産が可能になります。矮性品種とは、人為的に小さく作られた品種です。与えた窒素肥料が、草丈を伸ばすことではなく種をたくさんつけることに使われるため、単位面積当たりの収量が増加します。高収量である矮性品種への大量の施肥等は穀物の大量増産を導き(緑の革命)、Normanはノーベル平和賞を受賞しました。
化学肥料がもたらす環境負荷
しかし、化学肥料の量が過多になると、冒頭で記したような環境負荷が問題になります。過剰に与えられた化学肥料は植物に吸収されず、バクテリアの働きによって空気中に窒素や温室効果ガス(亜酸化窒素)として空気中に排出され、気候変動の要因となります。あるいは、肥料成分が地下水、川を経て海へと流れ出し、飲み水の硝酸濃度の上昇に繋がったり、赤潮等の微生物の異常発生をもたらしたりします。
東京大学 UTokyo OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2015, 藤原徹
つまり、肥料は人口増を支える食糧の増産を実現してきた一方で、空気中や水中に流出した肥料成分は好ましくない効果ももたらすようになったのです。
以上のような問題点が指摘される化学肥料ですが、化学肥料なくして増加する地球人口分の食糧を供給してゆくことはできません。また、農地面積の限界や、農地の劣化といった課題もあります。それでは、環境に配慮しながら、これからどのように食糧増産を叶えればよいのでしょうか。講義では、「植物の性質を変える」というアプローチが紹介されます。ぜひ講義動画をご覧いただき、それがどのような方法なのか確かめてください。また、講義動画では、窒素の循環や日本の米農家の現状といった、この記事では省略したトピックが、具体的な数字を用いて解説されています。
藤原徹先生の講義で、普段はなかなか気に留めない、食べ物の背景にある「みえないもの」たちを知り、考えてみてはいかがでしょうか。
<文/井出明日佳(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:クールヘッド・ウォームハート-みえない社会をみるために(学術俯瞰講義) 第6回 栄養の循環と社会 藤原徹先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/01/08
ここ数年でAIは私たちの生活に非常に身近なものになってきました。これにより世の中が大きく変わってきており、みなさんの日常生活の中でもその変化を感じる場面は多くあることでしょう。そんなAIに関連して、
「仕事を奪われる」
「いつか人間を超える」
といったネガティブな議論を耳にする機会も増え、そのような脅威に怯えることもあるでしょう。しかしながら、実は私たち人間がAIに対応する力を身につけるべき時代でもあると須藤先生はおっしゃっています。
今回ご紹介する「ビッグデータ時代の人工知能学と情報社会のあり方(学術俯瞰講義)第8回 ビッグデータ・AIの社会展開と課題――第4次産業革命を超えて」(2016年度開講)では、AIがこれからどのような軌跡をたどっていくのか、そして私たちはそれとどう付き合っていくかについて、須藤修先生が詳しく解説されています。
UTokyo Online Education ビッグデータ時代の人工知能学と情報社会のあり方(学術俯瞰講義) Copyright 2016, 須藤 修
この講義自体は今から数年前のものであり、AIは間違いなく当時よりも着実に進化を遂げています。しかしながら、AIの発展自体のみならず、私たちがそれとどう付き合っていくかを考える上では非常に意義のある講義となっていますので、是非最後まで記事をご覧ください。
ビッグデータとAI
普段の我々は、AIからさまざまなかたちで答え・結果をもらいます。では、それらの答え・結果は何をもとに得られるのでしょうか。答えはズバリ、ビッグデータです。ビッグデータとは膨大な量のデータの蓄積であり、あまりに量が多いため人間の力だけではそれらを全て処理することは不可能でした。しかしながらAIは、それらのデータを処理することを非常に得意としており、これが我々の世界を大きく変えることになるのですが、具体的には何が変化したでしょうか。
AIがもたらした大きな変化
分かることが増えた
あまりにも直球で、頭に「?」が思い浮かんだ人も多いでしょう。しかしながら、この当たり前の結果が我々のAIに対する対応力の必要性を高める最大の要因となっています。このことを考えるにあたって、一つの具体例をご紹介します。
保険会社とAIの例から
UTokyo Online Education ビッグデータ時代の人工知能学と情報社会のあり方(学術俯瞰講義) Copyright 2016, 須藤 修
保険会社の自動車保険にまつわる話です。今日の車には、運転手の運転の特性を全てデータとして内蔵しており、そのため事故の可能性の高低をAIのデータ処理により把握することができます。これにより、保険会社はきちんとしたデータを元に顧客それぞれに合った保険を勧めることができます。
元来、保険というのは事故を起こすかどうか分からないという不確実性を前提とした商品です。その不確実性の上に商売が成り立っていたのですが、正確な分析が可能になってしまったため、かえって保険会社の売上が下がってしまうことがあると須藤先生は指摘しています。そこで、保険会社は生命保険と損保保険の垣根を撤廃した新たな金融商品を作ることで、売上の減少に対応するという現象が起きるのです。
AIへの私たちの対応力の必要性
ご紹介した保険会社の例のように、AIの進展により今までわからなかったことがわかるようになったことで、私たちに変化を迫るという場面が増えてきています。先生は、今後もそういった流れが増え続けるであろうとおっしゃっています。つまり、AIが勢いを増す時代において必要なことは、その脅威に怯えることではなく、AIがもたらす力に対応する能力なのです。
AIと私たちのこれから―須藤先生のメッセージー
UTokyo Online Education ビッグデータ時代の人工知能学と情報社会のあり方(学術俯瞰講義) Copyright 2016, 須藤 修
先生は、いま安泰とされている職種がAIに脅かされる可能性は大いにあるとおっしゃっています。人間に残される仕事はクリエイティブなものや、マネージメント、ホスピタリティなど、アイディアの創出や、人間相互間の高度なコミュニケーション能力を必要とするものであるという意見があります。しかしながら、先生はこの意見にも懐疑的であり、希望的推測に過ぎないのではないかという厳しいコメントもしています。その一方で、AIが分野の垣根を超越するきっかけとなり、既存のイメージを変えるような非常に柔軟な時代がやってきたというメッセージも残しています。
まとめ
今回ご紹介した講義は、「これからの時代は、AIに圧倒されるという時代というよりもむしろ、AIに対応する我々の力が試されているのではないか」そんなことを考えさせられる内容となっています。さらに詳しいことが気になる方はぜひ講義動画をチェックしてみてください。
今日紹介した講義:2016年度開講 ビッグデータ時代の人工知能学と情報社会のあり方(学術俯瞰講義) 第8回 ビッグデータ・AIの社会展開と課題――第4次産業革命を超えて  須藤 修先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
〈文/悪七一朗(東京大学学生サポーター)>