だいふくちゃん通信

2024/11/21
本記事で紹介する講義は、東洋文化研究所の所長で中国哲学がご専門の中島隆博先生の「花する空気」という講義です。こちらの講義は、2023年度の学術フロンティア講義「空気はいかに価値化されるべきか」というシリーズの第2回目の講義として行われました。当シリーズは、“空気“をテーマにゲスト講師陣が様々な切り口から講義を行っています。中島先生によるこちらの講義、「花する空気」とは一体どういう意味なのでしょうか。本記事では、その解説とともに、中島先生が講義を通して伝えようとされていることをご紹介します。
まず、講義は「空気をいかに価値化するべきか」というテーマについて、再考します。「空気とは?」、「価値とは?」それぞれその言葉のもつあらゆる側面を見直し、“空気の価値化”というテーマから見えてくる、“私たちはどうあるべきか”を問い直すことで人間を再定義しようと試みます。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義2023 中島隆博
「価値」について
“価値”とは何でしょうか。一般的に“価値がある“というと、市場経済において価格がつくこと、として考えられています。しかし、中島先生は価格がそのものの価値を示す、ということを否定されます。「”価値“とはそれが独立したものとして存在するのではなく、関係性の中で成立するもの」、続けて、「豊かさとは金銭的なものではなく、『社会関係資本』をどれだけ有しているかである。」とお話されます。「社会関係資本」とは、周囲の人や社会との”関係性、つながり”のことです。例えば、ある億万長者が孤独で他の人とのつながりを持っていなかったとすれば、その人は貧しい、ということになります。これはみなさんもなんとなく想像ができるのではないでしょうか。いくらお金があったとしても精神的な豊かさは別問題である、ということです。
”価値“=”つながり、関係”であるならば、「空気の価値化」とは空気を媒介にした、”その他のものとのつながり“であると言えます。空気を媒介にする、ということは人間だけではなく、その他の生物、また生物ではないものと”私“との関係性について考えなければなりません。講義内では、人間と家畜などの食用とされている動物との関係性を例に挙げ、従来のやり方では問題があるという点について触れています。
「空気」について
このような、あらゆるものとの関係性は、私たちの社会に対するイメージ、”ソーシャル・イマジナリー”に起因し、それを見直していくことがそれぞれの関係性を変化させていく上で重要であると中島先生はおっしゃいます。
“ソーシャル・イマジナリー”とは、「私たちの社会とはこういうものだ」といった固定観念から、実際に社会を動かしている経済システム、国家というシステムなど、”共同幻想“と呼ばれるようなものも含まれます。
”空気“とは”場の空気”などとも言われるように、物質としての空気だけではなく、概念としての空気も考えられます。ソーシャル・イマジナリーもまた“空気“を土台にできあがっていくものであり、人間の関係性を条件づけるものとして、広義の”空気“として把握できるかもしれません。
「空気の価値化」を考えることは、個人と個人との関係性、個人と集団、集団と集団、個人と人間以外のもの、集団と人間以外など、あらゆる関係性を見直していくことだと言えるでしょう。また、「人間以外のものとの関係性を考えるとき、近代以降の人間中心主義的な考え方で形成されている、私たちの今の社会の在り方を考え直すべきだ」と中島先生は講義の中で強調されます。確かに、現在の人間社会の在り方は極めて人間に都合の良いように形成されています。昨今のエネルギー問題や温暖化現象が早急に対処が必要な問題であることは、誰の目にも明らかと言えるでしょう。
「空気の価値化」というテーマを通して、私たちの社会の枠組みや従来の常識として考えられていたような思考の範型について再考することが要請されているのです。
「花する空気」
ここまでで講義シリーズのテーマについて、講義導入部を概略して説明しました。ここからは「花する空気」という本講義のタイトルについてです。
「花する」という言葉はイスラーム神秘主義哲学の研究者、井筒俊彦の言葉です。井筒俊彦はコーランの日本語訳を初めて刊行した人物でもあり、様々な逸話のある偉大な知の哲人です。井筒は、著書『イスラーム哲学の現像』の中で、イスラーム神秘主義を説明する際に、あらゆるもの、例えば花は、「花が存在する」のではなく「存在が花する」と説明しました。どういうことかと言うと、神のような超越した存在が、たまたま花として顕現している、地上の全てのものは神の存在の限定的な顕れとして在るというのです。そのため、神が常に主語であり、その他のものは述語にしかなり得ない、と説明したのです。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義2023 中島隆博
しかし、中島先生は「”存在”が花するのではなく、”空気”が花する、あるいは人間である私たちやその他のものたちがともに花することが重要ではないか」とおっしゃいます。”存在”という言葉は長い西欧哲学の歴史の中で常に重要視されてきました。“存在”と“認識”について考えることが西欧哲学の歴史でもある、と言えるのです。井筒の言う存在も超越的なもの(無、純粋存在)を指します。井筒の哲学では、“私“と”超越的なもの“との関係性を語ることで意識の縦構造が創出されるのです。本来は”神“といった抽象的な概念がその縦構造の頂点であったにもかかわらず、国や宗教組織、権力者などがその構造を利用し、神の代理として自分たちをその頂点に据えるということが歴史上、繰り返されてきました。この成り替わりの行為によって、専制的、または独裁的な社会が構築されてきたと言えるでしょう。
中島先生は、私たちがともに花することを“人間/Human being”の再定義として「Human Co-flowering」あるいは「Human Co-flourishing」と名付けます。“他者とともに花する”、“ともに花開くこと”、縦ではなく水平的な意識構造へとシフトしていくことであり、それは独りではなく誰かとともに変容していくことです。現代にまで至る西欧由来のソーシャル・イマジナリーを変化させ、新しい社会の在り方を創造するための手掛かりとして、中島先生はこれらの概念を提示されています。
Q.「能力がないと望む権利がないのでは?」
講義内で中島先生は中世哲学の研究者である山内志朗先生を引用し、「花は目的なしに開く。私たちの生も、学校や会社、社会のため、といった自分の外部にある目的を達成させるためにあるのではない。また、同時に自身の内部にも目的/理由を持ってはいない。 “能力”をベースにした評価基準には限界がある。そうではなく、“望む”ことで違う人間へと変容していくことができる」とお話されます。それを受けて、講義終了後の質問時に学生から「歴史的に人間は能力によって判断、評価されてきた。そのため、能力のある人間しか望むことができないのではないか。」という質問が出ます。中島先生はこれを受けて、古代中国の禅僧を例に「私たちは老いていくことで、“できない”ことがどんどん増えていく。しかし、“望む”ことで自身や社会を変容させていくことは可能である」と答えます。続けて、「能力による人間の評価は、処理能力や記憶力などの限定的な要素を測るのみで、人間の生を豊かにはしない。どんな人生を望むのか、あなたはどんな言葉を発明しますか」と質問に対して問い返されます。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義2023 中島隆博
“どんな言葉を発明するのか”、これは“自分自身の生を生きることで新たな自分と出会うこと”、と換言できるのではないでしょうか。自身の外部にも内部にも目的/根拠はない、と中島先生がおっしゃるように、誰かとともに変容していくこと、それは全く新しい自己との遭遇であり、それが連鎖的に新しい社会の創造へとつながっていくということではないでしょうか。
ここでご説明した内容は講義の一部であり、他にも様々なトピックに触れ、広範に渡る内容となっています。上記の内容も説明が不十分な箇所があり、詳細に記述すると非常に長くなってしまうため、割愛しています。
さらに講義の形式自体も特殊であり、働く人や組織体に向けた内容にもなっています。そういった意味でも、様々な見方のできる刺激的な講義内容となっています。
あなた自身の生き方について、問い直すきっかけとなるかもしれません。哲学に興味のない方にこそ是非見ていただきたい、中島先生の熱いパッションを感じるおすすめの講義動画です!
今日紹介した講義:2023年度学術フロンティア講義「30年後の世界へ― 空気はいかに価値化されるべきか」第2回 花する空気  中島 隆博先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
〈文/みの(東京大学学生サポーター)>
2024/11/14
「ことば」は我々にとって必要不可欠ですが、普段はあまり意識しないで自然に使っています。しかしながら、「ことば」には単なるコミュニケーションの道具という垣根を超えた、多面性を持ち、大きな力を持っているのです。
今回ご紹介する講義では、社会学者の佐藤健二先生が、「ことば」について、「身体性」「社会性」「空間性」「歴史性」の4つの観点から詳しく解説しています。
普段から使っている「ことば」について、佐藤先生と考えていきましょう。
UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 健二
人類の「ことば」獲得の意義
佐藤先生は「ことば」を、動物としての人間が最初に獲得した道具であり、
・カタチを持たないこと
・可能性に満ちていること
以上の点において特異性があるとおっしゃっています。ただ、道具といっても「ことば」には形はありません。しかし「ことば」を使うことによって、概念やイメージを掴んで分けたり、組み立てたり、他者に渡したりすることができるという点で、「ことば」は道具であると佐藤先生は定義します。
また、文学、哲学、科学、歴史など、今日の人間の発展の礎となる学問も「ことば」無しには存在し得ませんでした。佐藤先生は「無形の可能性に満ちた不思議な道具」であることに人類の「ことば」獲得の意義があると語っています。
この特異な道具を用いて、今現在、私たちが享受している文化を作り上げてきたのです。
「ことば」は社会だ
言葉は伝えるための道具の役割もありますが、他にも「ことば」は脳に近い役割も持っている道具だと佐藤先生は言います。ここでは、「ことば」の身体性と社会性について解説していきます。
「ことばが通じる」ということの段階性
「ことば」が通じることには大きく分けて2つの段階があります。それを理解するには、声のメカニズムに注目するとわかりやすいでしょう。
UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 健二
ステップ1:身体の共振と空間の共有
「通じる」ということに焦点を当てるとなると「ことば」を受け取る他者に注目するべきであると考えがちです。しかしながら、「通じる」という現象は他者のみならず、自己と他者の両者が関わっているものなのです。声は「振動」として、他者の耳に届き、受け取られるわけですが、このとき
・他者の耳の「振動」
・自己の耳の「振動」
これら両方が空気を媒介として同時に起こっているのです。言葉を話すとき、その声を話者自身も自分の耳で聞いています。このとき話し手と聞き手の間で同じ声を聞いており、両者の鼓膜の間で共振が起きています。
声のメカニズムについて身体性を中心にして考えると、
・自己と他者の身体の共振と、空間の共有が声という現象によって繋がっている
・さらに、その声を自己も聞いている
これが、「ことば」が「通じる」という現象の基礎であると先生はおっしゃっており、表層的な「ことばが通じる」もしくは「ことばが通じない」などの意味の共有はその後に起こるものだそうです。
ステップ2:意味の共有
私たちが一般に考える「ことば」が「通じる」というのは、「意味の共有」のことでしょう。それはステップ1でご紹介した身体の共振と空間の共有の中で起きていくものなのです。
ことばの意味は、身体の共振と空間の共有の中で調整されていくのだと先生はおっしゃっています。さまざまな状況、経験が作用しながら、安定した意味が形成されていくそうです。そのため、脳などが最初からことばに意味を込めているのではなく、その状況の中で意味が共有可能なものとして発生するのだそうです。このようなメカニズムを考えた方が、「声の身体性と言語の社会性を繋げることができる」というメッセージを先生は残しています。
「ことば」は何のためにあるのか
UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 健二
最後に、ことばの存在意義について考えてみましょう。皆さんは「ことばは何のためにあるのだろう」と考えたとき、どのような答えが思い浮かぶでしょうか。おそらく多くの場合、最初に思い浮かぶことは
・伝達の役割
ではないでしょうか。
もちろん、伝達の役割といった側面は言葉の存在意義のひとつであると言えます。しかしながら、それだけではなく、もう一つ重要な役割を担っています。それは、
・思考の手段
としての役割です。ことばは、自分の内面・思考を作り上げる手段であり、伝えるだけではなく、考える道具なのです。この二重性が、言語が、人間の社会、あるいは人間の存在にとって、他の動物とは違う内面世界、そして外の世界における社会関係を生み出してきた非常に重要なメカニズムであると佐藤先生は考えています。 
「ことば」は思考するための手段という点において、もうひとつの脳であるといえるでしょう。
ことばの不思議
佐藤先生は「ことば」は自分の考えを伝えるための道具である手であり、自分が考えを深めるための道具である脳であると指摘しています。「ことば」は日々の生活の中で未知のものに遭遇したときに、役に立つであろうと先生はおっしゃっています。
ことばには想像を超える力が潜んでいます。今回は、その社会性に焦点を当てて取り上げましたが、講義動画では他にもさまざまな特性が紹介されています。
私たちの生活に欠かせない「ことば」について、改めて考えてみませんか?続きが気になる方はぜひ講義動画をご覧ください。
今回紹介した講義:社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)第4回 ことばの不思議 -身体性・社会性・空間性・歴史性  佐藤 健二先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<執筆:悪七一朗(東京大学学生サポーター)>
2024/11/13
「そんなことをしたら、バチが当たるよ!」……皆さんは子どもの頃、こんな言葉を大人から言われたことはないでしょうか。これはいわゆる「因果応報」という考え方とも言えますが、「因果」とは仏教で使われる用語であり、人は行いの善悪に応じて報いを受けるということを表した言葉です。では、仏教において、果たして「偶然」いいことがあった、または悪いことがあった、という概念はあり得るのでしょうか?本講義では、仏教学者・僧侶の蓑輪 顕量(みのわ けんりょう)先生と、仏教やインド哲学、インド文学における「偶然」について考えていきます。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 蓑輪 顕量
そもそも、「偶然」ということはありうるのでしょうか?インドの基本的な了解は「善因楽果、悪因苦果」という言葉によく表されるように、どんな結果にも必ず原因がある、という因果律の考え方が一番基本に存在しています。インド哲学の代表的な考え方であるカルマン(業)の思想では、人々の行いが後々までも影響力を及ぼすと考えますが、ここからあらゆる事柄はカルマンの結果であり、偶然ということはありえないということになります。こうした思想的背景もあり、インドの世界では「偶然」という言葉はあまり正面に出てこないようです。
インドにおける「偶然」の捉え方
インドの文学作品においては、「偶然」と関連する言葉として「人事」(人間の努力)と「天命」(運命)という議論の方が多く、それらは常に表裏一体のものとして理解されています。また、「天命(運命)」と訳しうる単語としてdaivaという言葉がありますが、これは「神々」を意味するdevaに由来すると同時に、div(戯れる)という言葉とも関連するとも考えられています。どうもdaivaという言葉には「運命」と「気まぐれ」という二つの意味があり、これらが同一視される傾向があったようです。これは、運命的なものでありながら偶然的なものである、という解釈にもつながります。
ここで、インドの叙事詩である『マハーバーラタ』の記述を見てみましょう。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 蓑輪 顕量
私たちの日常生活の中では思いもかけなかった事態が起きることがよくあります。そのようなときに、私たちがなしていることと、私たちのなすことを超えた世界の運命や天命のようなものとの関係性が意識され、議論されるのです。インドにおいては、ことが計画通りに進まず不本意の結果を招くのは、人事と天命の両者が噛み合っていないことによる、と考えます。よって、「計画をよく吟味するだけでなく、果たして天の時が至り、機が熟しているか否かをよく見定めるべきである」という思想が存在したことが知られています。インドにおいては「人事」か「天命」か、というものの見方が多く、天命に相当するところに「偶然」というニュアンスが入ることがあるようです。
ナーガールジュナ(龍樹)の思想
初期仏教は、基本的に原因があって結果が生じるという考え方を主張していますが、大乗仏教になると、原因も結果も実態として存在せず、変わらない何かがあるとはしないという点が強調されるようになります。大乗仏教の形成で一番重要な人物として、2〜3世紀くらいに現れたナーガールジュナ(龍樹)という人物を挙げることができます。『宝行王生論』という著作には、初期仏教と大乗仏教の主張がどちらも含まれているものですが、その記述を見てみましょう。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 蓑輪 顕量
ここで出てくる戯論(けろん)とは、心が何かを認識して、次の思いを生じ、それがまた次の思いを生じさせていくということ、また後の時代には、私たちの心の中に生じる心の働きのことを指します。戯論とされるものには、名言(みょうごん、見たものに対するイメージに対する名前がつくこと)、分別(ふんべつ、そのイメージが他のものと区別されること)、尋思(じんし、イメージに対して心の中であれこれと考えること)があります。仏教では、こうした働きが人間には生まれつき備わっていて、これがさまざまな思いを生じさせ、悩みや苦しみの原因となっていると考えます。それでは、どうすればいいのでしょうか?それは、今実際に受け止めているものをそのまま受け止めることで、戯論の働きを先に進まなくすることです。例えば悪口を聞いても「悪口だな」、心配事があっても「心配事だな」でとどめてしまうことで、ノイローゼのような状態になってしまうことから逃れることができるのです。
ところで、「因果応報」という考え方は、日本においても古代から説話として人々の間に流布していたと考えられます。例えば『日本霊異記』と呼ばれる説話集には、「子の物を盗み用い、牛となりて使われ、異らしき表を示す縁」という話があります。この話には、子の稲を無断で取ってしまったために牛になってしまった父親が描かれていますが、生前の行いが今の報いを受ける原因になった、ということが述べられています。このように、偶然と思われるものも必ず宿縁のあったものなのだ、という意識が、仏教には大きく流れているのですね。
本講義は、蓑輪先生の講義に続いて、以下のテーマについてグループワークが行われています。・「人事を尽くして天命を待つ」との諺があるが、人事と天命の相互の関係をどう考えたらよいか・「偶然と考える」ことと「必然であると考える」ことに、どのような意味があるのか・ 「人の行いは影響力を持つ」とする業の考えや「物事には必ず原因がある」とする因果応報の考え方は、日本人の思考に影響を与えているのかグループワーク終了後には、参加者からの口頭発表と、それに対する先生のコメントが行われています。ぜひご視聴ください!
日常生活の中で、「偶然」に出くわすことは多くあります。時には、必ずしも納得できない「偶然」に見舞われることもあるでしょう。そんな中で、私たちは自分の物事の捉え方、考え方、ひいては生き方をどのように模索していくべきなのでしょうか?本講義は、そうした問いを考える上でのヒントになってくれるかもしれません。
<文/R.H.(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) 第12回 偶然と必然は表裏一体か・・・仏教者の見た世界 蓑輪顕量先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2024/11/08
「古典」とは何か。この問いに、みなさんはどのように答えますか?
高校までの授業で、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆくやまぎは…」や「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり…」など、有名な作品の冒頭を暗誦した経験のある人も多いのではないでしょうか。このように、枕草子や平家物語といった「古典」とされる文学作品は数多くあります。「古典」を読むにあたって、古典文法や古文単語をたくさん覚えさせられることもあります。さらに「古典」の授業では漢文も扱います。また、能楽や歌舞伎といった伝統芸能を思い浮かべる方もいるかもしれませんね。
この講義では、東京大学大学院人文社会系研究科の小島毅先生と一緒に、「古典とは何か」を考えていきます。
「古典」は心を豊かにする?
まずは、二人の学者の意見をもとに考えてみましょう。慶應義塾の学長として有名な小泉信三は、『読書論』で次のように述べています。
UTokyo Online Education 東京大学学術俯瞰講義 2016 小島 毅
昨今では、「役に立つか」ということが、特に大学などの教育現場において問題にされがちですが、小泉の言葉は「役に立つとは何か」を問う内容になっていると言えます。
もう一人、平安文学の研究者である池田亀鑑は、『古典学入門』で次のように述べています。
UTokyo Online Education 東京大学学術俯瞰講義 2016 小島 毅
小泉と池田によると、「古典」は「精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促し」たり、「心身ともに疲れきっているときに、古典の意味はいよいよ大きなものとな」ったりするようです。つまり、「古典」には「心を豊かにする」といった意味合いがあるのかもしれません。
高校までの「古典」とは?
「古典」と言えば、中学や高校において国語の授業で教わるもの、と思われる方も多いのではないでしょうか。そこで、学習指導要領で「古典」がどのようなものとして定められているかを見てみましょう。
高校の学習指導要領では、「国語総合」という必修科目とともに、選択科目として、「現代文A」「現代文B」と対になるようにして「古典A」「古典B」という科目が定められています。それぞれの目標は以下の通りです。
UTokyo Online Education 東京大学学術俯瞰講義 2016 小島 毅
※2016年時点の話。2024年現在は「国語総合」という科目設定はなく、代わりに「現代の国語」と「言語文化」という科目が必修となっており、その「言語文化」において古典が教えられている。また、選択科目として「古典探究」が設けられている。
また、小島先生は、古典の授業の「古典」というのは「古文+漢文」からなっている、と言います。「古文」の授業では和文系の文章・作品を対象とします。一方、「漢文」の授業では古典中国語の文章を、訓読という技法を使って日本語として鑑賞することを目指します。ただし、漢文については作者の国籍や母語は問いません。
それではなぜ、漢文は国語の一部として授業で扱われているのでしょうか。それは、訓読という技法が発明され、中国語が日本語として読めるようになったこと、そしてそれによって中国の作品が日本の歴史や文化に大きな影響を与えてきたことから、「外国のものという感じではなくなったから」と小島先生は言います。
「古典の日」は「古典」をどのように定義しているか?
次に、「古典の日」に関わる宣言や法律から、「古典」とは何かを考えていきます。
「古典の日」というのは法律にも定められた日で、2008年11月1日に、源氏物語千年紀委員会によって「古典の日」宣言が出されています。
UTokyo Online Education 東京大学学術俯瞰講義 2016 小島 毅
この記述からは、「古典」の特徴が掴めてくるのではないでしょうか。
まず、「歴史と風土に根ざし」ているということ。これは数学といった他科目とは異なる特性だと言えるかもしれません。次に、「時と所をこえてひろく享受される」ということ。「古典」は特定の時代あるいは特定の地域に住む人しか楽しめない内容ではなく、時間や空間にかかわらず人々に受け入れられるものなのです。そして、「人間の叡智の結晶であり」「心を豊かにしてくれる」ということ。前述した小泉や池田の言葉にも見られるように、また学習指導要領にも「人生を豊かにする態度を育てる」とあるように、やはり「心を豊かにしてくれる」というのが「古典」の大きな特徴と言えそうです。
このような「古典の日」宣言に基づき、さらに「古典の日」推進基本構想が発表されています。
UTokyo Online Education 東京大学学術俯瞰講義 2016 小島 毅
ここで注目したいのは、三つ目の項目に「文学・美術・工藝・藝能など幅広く古典を知ることのよろこびを」と書かれていることです。つまり、「古典」は文学に限らないということがわかります。いわゆる国語の授業の中でテクストとして扱われるものだけではなく、絵画や音楽、工芸品、伝統芸能などさまざまなものを「古典」として捉えています。
「古典の日」宣言や「古典の日」推進基本構想を法律上に位置付けるのが、「古典の日に関する法律」です。この第二条に、「古典」の定義が示されています。
UTokyo Online Education 東京大学学術俯瞰講義 2016 小島 毅
ここでもやはり「古典」は文学だけではない、ということが読み取れます。ただし、文学を一番最初に挙げているのは、「古典」と言えばまずはじめに文学を想像するということに加え、後述するように「古典の日」の制定に源氏物語が深く関わっているという理由からです。
また、定義の後半にある「継承され」にも注目してください。日本国内で生み出された作品が「古典」とみなされるのは当然ですが、日本で生まれていない作品でも、国内で継承されることによって日本国民に恩恵をもたらしてきたものは「古典」とみなされる、ということになります。そのため、漢文も「古典」になるのです。
さらに、「優れた価値を有すると認められるに至ったもの」という文言も重要です。「優れた価値を有するもの」ではなく、優れた価値があると「みんなが認めている」場合に「古典」と呼ぶ、と法律で定義されているのです。
なお、「古典の日に関する法律」の第三条には、古典の日を11月1日にすること、加えて国及び地方公共団体は古典の日に「その趣旨にふさわしい行事が実施されるよう努めるものとする」と定められています。
なぜ11月1日なのでしょうか。それは、1008年の11月1日に、紫式部がその頃源氏物語を書いていたという記述が記録として残っているためです。
中国古典・西洋古典における「古典」とは何か?
最後に、日本の古典だけでなく、中国の古典や西洋の古典にも目を向けて見ましょう。
『キーワードで読む中国古典』は、中国哲学が専門の中島隆博先生と中国文学が専門の齋藤希史先生による著作です。そこには「中国だけでなく日本を含めて『近代』そのものを問い直し、 本質主義から脱却するために古典を読む。 古典への回帰や再生で はなく、古典による転回を行いつつ、現在の『知』について批評的であろうとする。」と書かれています。「古典」を読んでその内容に感銘を受けるだけではなく、「古典」というものを読み解いていくことによって「近代」を問い直し、現在の「知」を批評しようという試みが行われているのがこの本だということです。
日本西洋古典学会のウェブサイトでは、「日本西洋古典学会は、日本における西洋古典学(ギリシア語・ラテン語で書かれた哲学・歴史・文学、古代の美術・考古学を研究対象 とします)の振興を目的として1950年に設立されました。」とあります。ここでも、書かれたテクストのみならず、美術品や考古学で発掘された遺品なども「古典」に含めています。さらに、「ギリシア語・ラテン語で書かれた」という限定からは、西洋の人たちが自分たちの文化の源泉としてギリシャ・ローマを考えていることが読み取れます。
まとめ:「古典」とは何か?
「この講義だけで『古典』とは何かが簡単にわかってしまっては困る」
小島先生はこのように言います。ここまで、「古典」とは何かについて、小泉信三と池田亀鑑、高校の学習指導要領、「古典の日」宣言、中国古典と西洋古典、といった観点から考えてきました。この講義からは、少なくとも「国語の授業で入試で点を取るためにイヤイヤながら覚えさせられた」というイメージとは異なる「古典」の像が見えてきたのではないでしょうか。
しかし、「古典」とは何かということは、一時間の講義だけですんなり理解できるようなものではありません。大学の授業の醍醐味は常識を打ち破り自らの中にある社会通念を壊していくところにあります。「古典」とは何か、より深く知りたくなった方は、この講義を第一回とする全六回の学術俯瞰講義「古典は語りかける 」をぜひ視聴してみてください!
今回紹介した講義:古典は語りかける-ガイダンス:古典とは何かー古典は語りかける (学術俯瞰講義) 第1回 小島 毅先生、谷口 洋先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/長谷川凜(東京大学学生サポーター)>
2024/10/24
現代アートというと、興味がある方は美術館に展示を見に行ったりするかもしれませんが、興味のない方にとってはほとんど触れる機会がなく、「そもそもどうやって鑑賞するものなのかよく分からない」という方も多いのではないでしょうか。今回は、ご自身もアーティストであるとともに、現代美術批評家として本を出版されている山本浩貴先生の講義動画を紹介します。
山本先生は講義冒頭で、「現代美術の方法論はあらゆる人にとって有効な手段となり得る」とお話されています。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2023 山本浩貴
その中で、山本先生は現代アートを「来るべき世界に想いを巡らすために大切な想像力に深くかかわる実践」であると定義されています。
現代アートとは何か?
一般的に現代美術は広い意味で20世紀以降の美術とされていますが、現代美術の英語訳である、「コンテンポラリー・アート」という言葉は1990年代以降の美術を指します。講義内で現代アートとして言及されている内容や、引用される現代のアーティストたちの作品、一般に現代アートとして美術館などで発表されている多くの作品はこの90年代以降の「コンテンポラリー・アート」の分類に含まれます。「現代美術」と「現代アート」はほぼ同義ですが、西欧から入ってくる概念を日本語訳したときに、微妙に言葉の意味が日本流にアレンジされているのが実情です。
「現代美術」「現代アート」「コンテンポラリー・アート」と似たような言葉が少しずつ意味を変え、並列的に使用されている時点で、馴染みのない方からすると、どれが何を指すのか訳が分からなくなるかと思います。「現代アートはよく分からない」と感じることは、「普通の感覚で一般的」と山本先生も講義内でおっしゃっています。
それは現代アートが
評価基準が不規則で変わりやすいということ、
絵画や彫刻といった既存の媒体に捉われず、“美しさ”といった美学的価値にも捉われないこと、などが現代アートの特徴として挙げられ、分かりにくさの要因となっているのかもしれません。
現代アートは目に見える美学的価値よりも、その内容、作品のアイディアに重きが置かれているのです。
現代アートと社会とのかかわり
この講義は2023年に行われたものですが、2024年現在も論争の的となっている、環境活動家たちによる現代アートの文脈でのパフォーマンスが紹介されています。みなさんも「JUST STOP OIL」という団体をニュースやインターネットの記事などで見かけたことがあるのではないでしょうか。
講義内では、その手法の有効性や是非については論じていませんが、“美術作品を棄損する”という表面上の行為にのみ着目することは狭い見方に陥ってしまう、と山本先生はおっしゃいます。純粋な美や真の芸術的価値といったものを社会や政治的ネットワークから切り離して論じることは不可能であり、その社会や政治、すなわち外部の世界と現代アートは密接にかかわっています。
Activists threw soup at a Van Gogh painting in London. They were protesting new oil and gas production. Image Source: Just Stop Oil (CC BY-NC 4.0 ) https://juststopoil.org/news-press/
本講義は、「空気の価値化」というテーマの講義シリーズのうちの1つであるため、現代アートの手法を用いて“見えない空気を可視化”している作品を紹介しています。アーティストの小泉明郎さんの作品「若き侍の肖像」(2009)と「夢の儀礼 《帝国は今日も歌う》」(2017)や上村洋一さんの作品「HYPERTHRMIA―温熱療法」(2019)を紹介しています。通常、OCWでは著作権の関係により講義内で使用された映像をインターネット上に公開することが難しいのですが、本講義では「夢の儀礼《帝国は今日も歌う》」と「HYPERTHERMIA―温熱療法」の映像の一部を公開しています。そういった点でもこの講義動画はおすすめとなっています。
小泉明郎「夢の儀礼《帝国は今日も歌う》」2017,  写真 : 椎木静寧
また、本講義動画は最後の質問時にOCWスタッフも質問をしています。「学術フロンティア講義」という学内の授業ではありますが、開かれた議論の場を作るというファシリテーターの石井先生のご意向により、学生以外の人でも、積極的な参加が受け入れられる”空気”がこちらの講義シリーズにはあり、本講義のみならず「空気の価値化」シリーズ全体を通してのご視聴をおすすめします。
最後に・・・
講義内で、現代アートの起源を語るうえで欠かせない作品としてマルセル・デュシャンの「泉」という作品が紹介されます。著作権の関係上、画像を掲載することができないのですが、デュシャンの別の作品で同じく有名な通称“大ガラス”「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1923)のレプリカが東大の駒場博物館に収蔵されていることも有名です。
オリジナルはフィラデルフィア美術館に収蔵されていますが、レプリカは世界に3つしかなく、そのうちの1つである“東京バージョン”が東大内で鑑賞できるのです。無料で一般公開されているので、ぜひ一度、駒場博物館を覗いてみてはいかがでしょうか。講義内でも山本先生がお話しされている、イメージを通して思考すること、想像力の実践について、作品鑑賞を通してその端緒に触れてみることができるかもしれません。
今回紹介した講義:学術フロンティア講義「30年後の世界へ― 空気はいかに価値化されるべきか」第7回 現代アートにおける空気の可視化 山本 浩貴先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/みの(東京大学学生サポーター)>
2024/10/10
学術俯瞰講義「社会の形成― 人間はいかに共生してきたか」から、第10回『政府のいない社会における共生?』です。講師は、情報学環・学術情報学府の田中明彦(たなかあきひこ)先生です。
もし政府が存在しなかったら
私たちにとって政府とは
みなさんは“政府”をどのようなものとして捉えていますか?政府の役割はさまざまであり、一言で表すことは難しいですが、“政府”はいわば“リーダー”であり、私たちに指示をする存在であるということができます。具体的には、“法律”などのルールを作り、人々を上からコントロールするということです。場合によってはそのルールに違反したものに罰則を与えるような役割を果たすこともあります。つまり、政府は人々の集団に秩序を与える存在であると定義することができます。
政府が存在しないとどうなる?
このようなリーダーとしての立ち回りを担う政府が存在しない世界を想像したことがあるでしょうか。“政府が存在しない”という状況を考える上での個々の行動はどのように帰結するのでしょうか。全体としての秩序は生まれるのかなど、さまざまな疑問が浮かび上がります。本講義では、“人々の集団は政府が存在しない社会においてどのような行動を示すのだろうか”というテーマを、さまざまなモデル、理論を基に考えていきます。我々にとって当たり前のものとして存在する“政府”を改めて見つめ直し、私たち人間にとっての“共生”について深く考えてみましょう。
具体例からみつめる共生
シェリングの分居モデルから考える
いきなりですが具体例から先にお見せします。以下の写真はコンピュータ上のあるプログラムを作動させてランダムな赤と青の丸を動かしているものです。(図は左→右の順番で変化)
UTokyo Online Education 社会の形成-人間はいかに共生してきたか(学術俯瞰講義) Copyright 2006, 田中明彦
プログラムに任せて赤丸と青丸を動かし続けると、最初はランダムに並んでいた丸たちが、徐々に各々の色どうしでまとまるようになり、ある種の秩序が生まれていくように見えることがお分かりいただけると思います。このモデルはシェリングの分居モデルといわれるものであり、タイプの違う人間たちがそれぞれ違ったところに棲み分けをする様子を示しています。例えば、日本人と中国人が混在する地域において、どのように日本人街と中国人街が出現するかなどを、このモデルを用いて検証することができます。では、このモデルはそもそもどのような原理で動いているのでしょうか。
分居モデルの原理
このモデルにおいては、人と人を分けるある種の“差別”の原理が働いています。ただ、ここでいう差別は悪人のようなロジックに依拠したものではありません。このモデルにおける個人(写真でいう赤丸や青丸)は、自分の周りにどういった人間がいるかを確認し、行動をします。具体的なルールは以下の通りです。
・自分の周囲をみて、どういう人がいるか確認する・ある程度以上、自分と同類がいればそこに留まる・ある程度以上、自分と同類の人がいなければ、別のところにうつる
これらのルールにおける“ある程度以上”という水準は、それぞれの人間がその場に留まるか・移動するかの許容水準であり、これは仲間レートと呼ばれます。これらの要素を改めて整理すると、シェリングのモデルは以下のように説明することができます。
<シェリングのモデル>・2種類の人間がいる・それぞれがとどまる許容水準(仲間レート)がある・仲間レートを超えると移動する・仲間レートが高いと、分居が進むと予想される・仲間レートが低いと、分居はすすまない
それでは、個々人の差別意識、つまり仲間レートが低ければ差別的環境は生まれないのでしょうか。講義動画内では、プログラムにさまざまな数字を当てはめて検証がなされており、ある意外な結果を得ることとなります。仲間レートをどれほどまでに下げれば分居が進まず、多様な人々が散らばって共生するような状況になるのでしょうか。詳しくは講義動画をご覧ください。
分居モデルの具体例
それではここで、シェリングの分居モデルを用いて具体的な話を一つ紹介したいと思います。例えば、喫煙者と禁煙者をきちんと分けて分煙を進めるためにはどうしたら良いでしょうか。この場合における目的は分煙、つまり”分かれる”ことであるため、喫煙者・禁煙者、お互いの差別意識が高く、仲間レートが高ければ分煙が進むという考えです。ただ、コンピュータのプログラムを使って、仲間レートを高く設定したときの個々人の動きを検証すると、意外な結果が得られます。仲間レートを高く設定しているのにもかかわらず、なかなか分居が進まないのです。それどころか、いつまで経っても個々人が移動を続けてまったく定まりません。ただ、この結果をよく考えてみると、個々人が定位置につかない理由が納得できると思います。仲間レートを非常に高く設定しているために、周りに一人でも自分と違う人間がいる場合、その個人は移動することになってしまうのです。つまり、例えば禁煙者Aの周りのほとんどが同じ禁煙者であっても、一人でも喫煙者がいれば禁煙者Aは不満を抱きその場から移動するといった流れがあちこちで発生するため、各人の場所が全く定まらずいつまでも動き続けることになるのです。このような、多数のエージェント(上記の例の場合、禁煙者・喫煙者)がそれぞれのルールを基に、相互作用するとき何が生じるのかを確かめる手法をマルチエージェントシュミレーションと呼び、さまざまな事例を検証するうえで用いられています。
合理的な行動とは?
これまでマクロな視点で多様な状況における個々人の行動を観察してきましたが、今からは、より基礎的なこととして、”そもそも個人が行動を合理的に決めるとはどういうことか”について、よりミクロな視点で観察していきます。それに加えて、“複数が合理的な行動をすると何が起こるか・それは無政府社会においてどのような帰結をもたらすか”についても考察していきます。
合理的意思決定のモデル
ミニマックスの基準
ー不確実性における意思決定ーそれでは、何が起こるか予測することのできない不確実な場合における合理的な意思決定の方法を傘を例に紹介します。
UTokyo Online Education 社会の形成-人間はいかに共生してきたか(学術俯瞰講義) Copyright 2006, 田中明彦
上の図から、傘を持っていくか否かの2つの選択肢と、雨か晴れかという要素により最終的に4通りの結果を得ることができます。それぞれの状況の良し悪しを具体的に点数で示したものが右の数字であり、ここでは数字が高いほどいい結果ということになります。傘を持っていった、持っていかなかったそれぞれの場合における最悪の結果は(2)の傘を持っていって晴れだったときと、(1)の傘を持っていかなくて雨だったときです。ここで、両方の場合におけるそれぞれの最悪の結果比べ、良い方を選ぶと、(2)の傘を持っていって晴れだったときになります。これら一連の流れは合理的意思決定の一つであり、最悪の状態を比べて、そのなかのマックスを選択するという手法であり、ミニマックスの基準と呼ばれています。傘の例の場合、ミニマックスの基準に当てはめると、“傘を持っていく”という選択が最も合理的であるといえます。
ただ、これは不確実な場合における状況であり、今の例に“降水確率”のような確実性のある要素が加わるとどうなるでしょうか。
期待値最大化による合理的決定
ー確実性における意思決定ー
UTokyo Online Education 社会の形成-人間はいかに共生してきたか(学術俯瞰講義) Copyright 2006, 田中明彦
降水確率などの確実な要素がある場合、合理的決定がより具体的なものとなります。数学的な話はここでは省略しますが、図のように、より具体的な数字を算出し、それらを比べて合理的な意思決定を行います。この場合でも、”傘を持っていく”ことが合理的選択であるとわかります。このように確実性がある場合における合理的意思決定を、期待値最大化による合理的決定といいます。
講義動画内においては、ミニマックスの基準、期待値最大化による合理的決定を真珠湾攻撃などの歴史的事実に当てはめてより具体的な検証が行われています。気になる方はぜひ動画をご覧ください。
合理的決定方法のジレンマ
いままで紹介した合理的意思決定方法は非常にロジカルで有効な場合もありますが、実際、問題点も存在します。まずは、そもそも決定論的世界はあまりないという点です。我々にできるのはあくまで予測であり、その予測は我々自身が決定した前提に基づくものです。事象が複合的に絡み合うプロセスを経たものが結果であるために、決定論的な世界は前提としてあまり存在しないのです。そのため、確率を正確に付与できる場合も少なく、それに加えて、これまで二つの選択肢の中からどちらを選ぶかというやり方で合理的決定をしてきましたが、そもそも本当に選択肢が二つに帰着するのかという疑問も残ります。つまり、合理的決定と言えど、どのような基準に依拠しているか、どのような選択肢を提示するかにより、結果が全く変わってくるのです。そのため、合理的決定それ自体に常に不確実性がつきまとうということがいえるのです。
相互作用と意思決定
多くの場合、人間は相互に相手の状態を考えながら決定を行うため、上記のような単純な手法では不十分です。そこで、ここからは複数の主体が合理的に相互作用した場合何がおきるのかについて考えていきます。講義動画では、真珠湾攻撃やラバウル・ラエ輸送作戦など、歴史的事実を具体例に挙げて、複数の主体の相互作用を考慮したときの合理的意思決定方法について触れられています。
2種類のゲームの状況
ここからは、“ゲーム”における合理的意思決定についてご紹介します。まず、ここでいう”ゲーム”の状況は以下の通りです。
ー相手がいるー相手の出方を考慮して自らの行動を決める(自分一人で勝手にやっているわけではない)ー自分と相手の行動が相まって一つの結果が生じる
そして、相互作用がはたらくことを考慮したゲームの状況において行われる意思決定は
・ゼロサム・ゲーム的状況・ノン・ゼロサム・ゲーム的状況
というように大きく2種類の場合に分けることができます。これらのゲームは、相手と自分の損得をどちらとも考慮した上で状況を区別する手法です。しかしながら、これらの場合分けを行ったとしても常に十分な合理的意思決定を行うことはできないのです。その理由は、“相互作用”にあります。多くの状況において相互作用を要因とするジレンマが発生するために、確実な選択を行うことができないのです。
現代社会における合理的意思決定
ー均衡と調整ー
最後に“調整のゲーム”について紹介します。このゲームは、自分だけが得するように選択を変えようとしても、得することができない状況であるという特徴があります。相手と自分の利益を相互に鑑みて合理的な意思決定を行うため、その意味での“調整”が行われるのです。調整が行われた結果、両者にとって最適な選択がとれる状況が“均衡”のとれた状況に落ち着くことができます。この調整が行われる際、重要な鍵となる要素があります。それはずばり、”コミュニケーション”です。両者の意思疎通が図られることにより、互いの損得を認識し、スムーズに“調整”を行うことができるのです。このコミュニケーションを通じて、調整がなされるのと同時に秩序の発生もみられます。
調整のゲームと政府
調整のゲームはさまざまな場面において適用させることができるために、合理的意思決定において非常に有効な手段だということができます。このゲームはコミュニケーションができれば実行することができるというメリットも持ち合わせています。それに加えて、コミュニケーションを通じて秩序が生まれるという特性もあります。これらを鑑みるに、記事冒頭で述べた法律の制定などにより秩序をつくるという政府の役割が、調整のゲームで秩序が発生するため、わざわざ政府が存在する意味がないのではないだろうかという疑問が生まれてきます。ただ、調整のゲームにおいて政府はあると便利な存在であるということができます。理由としては、リーダーの役割を果たすものがいると、つまり指示を出す存在がいることとなるために秩序づくりをしやすくなるからです。この調整のゲームによる意思決定の合理性の精度をより高めるものとして、パレートの原理という原理があります。気になる方は講義動画をのぞいて、その原理がどのようなものかを学んでみてください。
まとめ
合理的な意思決定を行うための手法が数多く存在することをご理解いただけたでしょうか?共生、相互作用など、さまざまな観点から合理的意思決定について触れてきましたが、実際にはどのような手法においても事象を取り巻く要素の不確実性が付随するために、確実に合理的な決定を選択するというのは難しい場合が多いのです。当記事においては紹介することのできなかった具体例などが講義動画内においては多く紹介されています。ご興味のある方は是非動画をご覧になって、意思決定の“合理性”の奥深さ、そして私たちの“共生”をカタチ作る要素についてを追求してみてはいかがでしょうか。
<文/悪七一朗(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:社会の形成-人間はいかに共生してきたか(学術俯瞰講義) 第10回 政府のない社会における共生? 田中明彦先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2024/09/25
今年、2024年の夏に、フランスのパリでオリンピックおよびパラリンピックが開催されました。来年、2025年には、大阪万博の開催が予定されており、現在、施設の建設が進行中です。
このような大規模な催しを、過去の日本人はどのように開催し、また、どのように捉えていたのでしょうか。
今回ご紹介する木下直之先生の『明治の祝祭と博覧会』では、明治時代の人々がおこなっていたお祭りや博覧会の様子を、当時の地理や政治的な背景事情とともに解説しています。
この講義は、『変化する都市-政治・技術・祝祭(学術俯瞰講義)』シリーズの第10回目で、同じく木下先生による、第9回『江戸時代の祝祭と開帳』の続きの内容となっています。徳川幕府が治めていた江戸の街は、新政府による明治時代の到来とともに、どのように変化していくのでしょうか。
写真や絵が満載で、視覚的にもとても分かりやすいので、日本史や宗教学に詳しくない方も、安心してご覧いただけます!
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
変化を迫られる、「お祭り」の形
例えば、江戸時代にも行われていた、神田明神の神田祭(かんだまつり)。このお祭りには、長く続く歴史と伝統があります。
現代では、お神輿がかつがれ、ハッピを着た人々の行列と観客で大賑わいのイメージがあります。しかし、江戸時代には、もう少し静かに練り歩く行列で、その列は江戸城の中まで入っていました。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
明治になると、新政府からは派手なお祭りに圧力が掛かりました。一つには、このお祭りの祭神が平将門であり、「朝敵」だからという理由があります。(当たり前と言われれば当たり前ですが、現代人である筆者は普段あまりそういったことを意識しないで生活しているため、「あ、そうか」と、驚いてしまいました。)
また、東京の街に電気が普及し、多くの電線が走るようになってから、かつてのように高く盛った派手な山車を、物理的に出しにくくなったということがあるそうです。(これについても、筆者は、「あ、そういえばそうか」と思いました。)
やがて、お祭りは、時代の目的に合わせて「憲法発布」や「天皇陛下の銀婚式」などといった節目に執り行われるようになります。銀婚式などは、それまで日本の文化には存在しませんでしたが、このように、皇室にも少しずつ西洋の慣習が取り入れられていきます。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
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西洋に追いつけ追いこせ、博覧会
この講義の1つ前の講義では、江戸時代に行われていた寺社の参詣と「ご開帳」の文化を取り上げています。開帳とは、普段宗教施設に保管されている聖なるもの、秘仏や秘宝を、特別に拝観できるようにする行事のことです。(これは、現代でも行われています。)
つまり、展示されたものを観覧するという習慣は、江戸時代の庶民の間にも存在していました。そして、現代の展示会の図録に通ずるような物も存在していました。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
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さて、明治時代に入り、西洋文化が流入すると、展示形式の催しは、その意味合いを少し変化させます。
みなさんは、東京の上野を訪れたことがあるでしょうか。有名なのは、夏目漱石の『こころ』にも登場する不忍池(しのばずのいけ)、上野動物公園などの観光スポットです。そして、その周辺には、多くの美術館・博物館が密集しており、真ん中に広大な広場があります。週末は非常に大勢の人で賑わう場所です。
もともと、この地には、東叡山寛永寺の巨大な敷地がありました。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
しかし、寛永寺は、幕末の「上野戦争」というたった1日の戦で焼失してしまいます。上野戦争とは、徳川幕府側についていた彰義隊が官軍(新政府軍)に討伐された戦いのことで、彰義隊が立てこもっていた寛永寺は、官軍からの攻撃に巻き込まれて焼け落ちてしまったのです。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
この跡地で、明治政府は勧業博覧会を開催しました。そして、さらにその後、同じ地に博物館を建造します。当初の建物は著名な建築家のジョサイア・コンドルが設計したものでしたが、こちらは残念ながら関東大震災で倒壊し、再建されたのが現在の国立博物館です。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
上野で行われた本格的な勧業博覧会の前にも、湯島聖堂などで博覧会が開催されていました。湯島聖堂といえば、東京大学の本郷キャンパスから歩いて20分程度で行ける場所にあります。また、九段でもおこなわれています。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
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では、ここで改めて「博覧会」とは何か、考えてみましょう。「博覧会」と「博物館」の違いはなんでしょうか?
福沢諭吉が、『西洋事情』に、その答えを詳しく書いています。博物館の展示は、人々に見聞を広めるためにあるものです。しかし、世の中は日々進歩しているため、博物館に収蔵されているものは、やがて「古いもの」になっていきます。(特に、この時代は産業革命後に目まぐるしく技術的な進歩がありましたから、余計にそのように感じられたことでしょう。)博覧会とは、世の中の新しいものを集め、数年おきに大会を開き、常に新しい見聞を広めるためにおこなわれたのです。
少し上に戻って、陳列されている物の画像をご覧ください。動物の剥製や頭骨などがたくさん並んでいます。木下先生は、これはまさに「新しい時代」を象徴していると語ります。つまり、人間の頭骨とゾウの頭骨が対等に並べられる時代になったのです。(「人間が一生物として客観視された」と言い換えても良いかもしれません。)
また、上野の寛永寺跡地で開催された博覧会では、徳川将軍家の墓所があるにもかかわらず、すぐそばに、家畜を含む動物を展示する動物館が作られました(器械館、農林館、美術館、水産館というように、展示物のジャンルごとに建物を分けていました)。そして、湯島聖堂では、聖なるものとして存在した孔子像を一展示物として扱い、隣に動物が並べられました。このように、それまでには考えられないような陳列方法が実施されたのです。長らく中国に学び、社会の秩序や理念としての儒学を重んじていた日本が、西洋文明・科学技術を追い始めたことを、よく表した出来事でした。
かくして、博覧会は、啓蒙として有効な装置の一つとなってゆきました。
催しは、メッセージ
ご覧いただいたように、祝祭や博覧会というのは、単に楽しいだけの娯楽のイベントではなく、さまざまな宗教的・政治的な影響を受ける側面を持つことがあります。
その後、みなさんもご存知のように、日本は「富国強兵」というスローガンを掲げ、西洋に向けて自国の文化を発信したり、列強諸国に負けじとオリンピックに参加するなど、どんどんと外の世界に向かって飛び出して行きます。やがて、「戦争」が、祝祭の一つのきっかけとなってゆきます。
画像は、軍隊が凱旋したときに建つ、仮設の凱旋門です。仮設というのは、丸太で作った骨組みにモルタルを塗ったものであり、数ヶ月ほどの耐久力しかありません。見た目はとてもよくできていたようです。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
まだまだ続く、おもしろエピソード
さて、今回のコラムで紹介したのは、講義のほんの一部の情報です。紹介しきれなかったおもしろいエピソードがたくさんあり、正直に申し上げて、筆者は、どれをお伝えするべきかかなり迷って、削りに削って書きました。
チラッとお見せすると......
これはご開帳の図録の仏像に見立てたお魚の干物で、先生が携わった企画展にて実際に再現してみたそうですよ。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
そして、身分などによって日頃の髪型や服装が規定されていた人々が、お祭りの日には、特別な衣装を着たり、仮装をしたりすることが許されていたそうな。なんてかわいい絵なんでしょう。「非日常」を味わうために、ハロウィンの日に仮装して渋谷に集まる現代日本人には、親近感を持てるところがあるかもしれません。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
こちらは、先生が携わった、昔のお祭りを復元する試みです。先頭の彼は役者志望で、大きな声で当時の人になりきっていたとのこと。
UTokyo Online Education 明治の祝祭と博覧会 Copyright 2008, 木下直之
実は、まだ、この他にもいろいろあります。1つ前の回の講義 第9回『江戸時代の祝祭と開帳』とあわせて、ぜひ、動画をご覧になってください!
<文・加藤なほ>
今回紹介した講義:変化する都市-政治・技術・祝祭(学術俯瞰講義) 第10回 明治の祝祭と博覧会 木下直之先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2024/09/18
2023年度Sセメスター学術フロンティア講義「30年後の世界へ― 空気はいかに価値化されるべきか」から、第10回『人と空気の歴史社会学(空気にも歴史がある)』です。講師は、総合文化研究科の佐藤健二(さとう けんじ)先生です。
空気の価値とは?
私たちにとって“空気”とはどのような存在でしょうか。説明するまでもないですが、空気は我々人間たちが生きる上で必要不可欠な要素の一つです。そのため、当然ながら空気は価値があるものとして捉えられます。しかしながらそれと同時に、手に取って見ることのできない性質やその無限性から人間が発見しにくい自然資本、社会的共通資本としての側面も持ち合わせています。本講義は、この”空気”に対して大きく二つの話題とともに進められていきます。一つ目の話題は、空気の「価値化」についてです。このキーワードをもとに、「価値化」それ自体の含意の拡がりを価値と価値意識の研究から考え、佐藤先生に社会学の立場から解説していただきます。二つ目の話題は、ひとが「空気」を論じてきた枠組みについてです。空気に対する理解の社会的な変化についてを歴史社会学の視点から考察していきます。加えて、空気そのものだけではなく、それを管理する技術、空気との関係、環境の捉え方などから価値意識の変化に触れ、そこに存在する問題について言及していきます。
「歴史」とはなにか
空気の歴史について語る前に、そもそもの「歴史」について簡単に定義しておきましょう。”全ての歴史は現代史である”と佐藤先生は語ります。しかしながら、この言葉に違和感を感じるひとも多いのではないでしょうか。歴史は一つ一つの事象の足し算であるというような捉え方をされる場合が多いです。ただ、それぞれの出来事が独立して存在しているのではなく、むしろ各々が複雑に絡み合うことで成立しているのです。歴史は過去の事実の掛け算であり、変化・進化・退化は全てそれらの事象の掛け合わせの結果なのです。そのため、過去の事象でも今起きていることと繋がりをもつことから、全ての歴史は現代史であると形容することができるのです。
「価値」のコトバの意味
価値とは、価値化とは一体なんなのでしょうか。その意味を改めて捉えるために、辞書をひいてみると、下記の通り、そのコトバ自体のコンセプトが極めて曖昧なものであることがわかります。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2023 佐藤健二
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2023 佐藤健二
これらの意味の曖昧さから、「ひょっとしたら”価値”というコンセプトは日本語としてけっこう新しいのではないだろうか?」という疑問が浮かび上がってきます。
”価値”という言葉はどちらも”あたい”を意味する漢字から成り立つ。”価”の字は、適合する・すりあう・多用するという意味を持ち、交換・交易・市場のなかでの言葉です。”値”の字も同様に市場の中で使われる言葉であり、このことから、”価値”というコトバは市場交換の性質が生活感覚に入り込んできた中でつくられた言葉なのでは?ということが推測できます。
上記のようにコトバの意味を探ることは、実は狭義の言語論の範囲に留まる話ではなく、社会学的研究の方法論とリンクするのです。
新しいコトバの登場・使用または、従来ある言葉の新しい意味での使用はそれ自体が社会の大きな構造変容、システムの変化の兆しである場合が多いのです。必ずしも、社会システムの変容があると常に新しいコトバが生み出されるわけではないものの、使われているコトバの意味、新しいコトバの必要性の高まりは社会の変動の一つの指標になります。これらのコトバの変容は「歴史は過去の事実の足し算ではなく、掛け算である。」という話題に大きく結びつくものです。
「価値」をめぐる主題の拡がり
ということで、改めて”価値化”とは一体何なのでしょうか?価値化について図式化したのが以下のものです。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2023 佐藤健二
価値というのは、”客体の属性”つまり、対象に備わっている性質・値打ちだけではなく、価値観や価値意識などの主体的要素が掛け合わされて初めて成立しているのです。つまり、ここも掛け算なのです。
よりわかりやすくするために、金(GOLD)を例に挙げて説明するとします。金はものとしての希少性、変化しにくい鉱物であるという特徴があり、これが客体、ここでいうと金の属性です。ただ、これら属性のみで金の価値を語ることはできず、誰もが金に対して”値打ちがある”と思っていることが前提条件です。この前提条件の発生、すなわち主体のモノへの”価値観”や”価値意識”といった主体的要素があって始めて金に価値が生まれるのです。
金以外のモノにおいても、モノの価値はそれ自体の価値ではなく、そのモノを取り巻くストーリーも相まって”価値”が成立します。主体による”意味付け”が、”価値”を語る上で非常に重要な役割を果たしているのです。そのため、空気の価値化を語る上で、空気にどのような意味を与えているのかという人間側の問題意識、価値観を深く考察する必要があるのです。
価値意識の構成要素ー欲求と規範ー
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2023 佐藤健二
今回の講義を担当した佐藤先生の恩師であった社会学者の見田宗介氏によると、価値意識の構成要素は欲求と規範の二つであるそうです。欲求は人を突き動かす力であり、規範は人間がすすむ方向、動き方をコントロールする枠組みであり、これらは心理学の基本的な概念になります。
欲求について
三つの段階的位相
欲求にはさらに三つの段階的位相があるといいます(見田、「人間的欲求の理論」より引用)。欲求には必要・要求・欲望の3つのレベルに分かれており、それぞれ違う性質を持っています。必要は欲求の客観的・絶対的な段階、自然的・身体的基盤であり、例えば栄養があるから食事を摂るといった行為が挙げられます。これは満たされればなくなる欲求と区別することもできます。要求は一般的に高次化したレベルでの欲求であり社会的・人間的なことをベースとして発生する欲求です。最後の欲望については、欲求の特定方向への昂進、発展性をともない、これらは無限性も持ち合わせている、個性的・文化的基盤による欲求です。これは身体的制限から解放され、歯止めなく膨らんでゆく、人間固有の駆動力です。
欲求における他者の存在
これら三段階の欲求の位相を語るうえで、押さえておきたいポイントは個人、主体だけが欲求を持つのではなく、他者もまた同様に欲求を持っているということです。これをどう共存させるかが、人間社会の問題として存在するのです。人間は複数の欲求をもち、多様性がある一方で、他者との共存から、他者の欲求の保持も認識しており、そのなかで共存することがいわば宿命付けられています。”他者との共存と欲求”について例を挙げるとすると、”食欲”はその例の一つです。
例えば、自分がお菓子を食べたいとしましょう。一方で他者もお菓子を食べたいと考えており、ここでの主体(自分)は他者(客体)も同様に”お菓子を食べたい”という欲望を抱えていることを認識しています。そこで、主体は他者と仲良くしたいし、自分だけ食べて気まずくなるのを避けるために、お菓子を独り占めせずに一緒に食べるという解決方法が取られます。これら一連の動きは極めて人間的な解決であり、動物がそのようなプロセスを踏んで、人間のような解決をするかは甚だ疑問です。
規範について
このあたりで価値意識の理解において、欲求とともに”規範”というもう一つの構成要素が深く関わっていることが見えてきます。
規範は、依るべきルール、基準であるのと同時に、望ましい在り方を指し示すものでもあります。見田氏によると、欲求が性向しているのが幸福、規範が性向しているのが善です。
ここでの問題は、幸福と善、つまり欲求と規範のそれぞれの性向がいつも自然に、自動的にピッタリと重なり合うわけではないということです。個人の中でも、それを超えた社会にしても、善と幸福との間でギャップが発生するために、不安、失望、無気力などの人間の悩みが生み出されるのだといいます。
使用価値・交換価値
価値意識の理解において使用価値・交換価値という、非常に経済思想史的な概念によって光が当てられている部分も忘れてはなりません。これら二つの価値区分は商品の存立を分析する資本的な枠組みです。簡潔に説明すると、
・使用価値
主体としての人間が、自ら利用することにおいて生ずる価値
・交換価値
使用せずに市場にだして、他の財と交換する局面で語られる価値
というふうに区分されます。
これらの価値は互いに、人とものとの関係が大きく異なっており、
主体と客体どちらに焦点を置くかに違いがある、つまり前提となっている構造がちがうという訳です。
「使用価値、交換価値」の概念の性能
これらふたつの価値区分について改めて説明すると、
・使用価値:対象となるものが持つ属性、内容、特質が具体的に認識されている
それに対して、
・交換価値:抽象化、一般化、ときに記号化される
ということです。
交換価値はモノの価値の抽象化、一般化、ときに記号化がなされるため、そのものの有する性質から離れ、不透明化していきます。価値が直接的な要素をもとにするのではなく、数字という形で抽象化されて、それ自体が自立して意味を持ち始めるのです。これら一連のプロセスが”使用価値→交換価値”の矢印の動きを語る上で非常に重要な役割を果たしており、この動きに先述した”人間の欲望の歯止めの無さ”が関わってくると、交換価値は実際のものの持っている価値から乖離して分離して、無制限に高騰していく、暴騰していく、コントロール不可能になっていくという問題があります。マグロの競りやポケモンカードの売買などにおける価値はまさに”使用価値→交換価値”のプロセスにおける人間の欲望の無制限さを表す良い例でしょう。
ただ、これまで語ってきた使用価値、交換価値の尺度は資本論において商品の存立のメカニズムの分析のなかで工夫されているものの、商品・市場の存立を論ずる目的に縛られていて、これらの問題を批判した後の社会を論ずるところでは実は非常に物足りません。
社会的共通資本(本講義に限った話題で言えば”空気”)の議論は、使用価値の復権というような色彩を持ちます。しかし、実はそれだけではない議論の広がりを捕まえられるかは、そもそもこの概念には限定があり、非常に難しいのです。
そのため、議論の範囲を広げるために
・共存価値
・共生価値
といった、使用価値・交換価値とは理想の異なる新しい概念を導入することが必要なのではなかろうかと佐藤先生は提案されています。どうやら空気の価値化という議論は、”既存の価値を論じてきた枠組みで論じきることはできないのでは?”、”新しい概念、切り口が必要なのでは?”ということも問題提起する必要があるそうです。
ひとと「空気調和」の歴史を見渡す
それではいよいよ空気の歴史について、本題に入っていきます。
・空気についての議論の始まり
空気のことについて論じられ始めたのは1920年代、30年代あたりであり、空気調和装置ができてくる時代と重なります。ただ、この時期よりも前に空気の価値は論じられています。
例えば、岸田吟香は1877年に読売新聞にて「水とコレラの汚れだけではなく、空気の良し悪しも非常に重要である。」とし、『「腐った空気」は病気と関連する』と語っている。記事内ではとりわけ、家の内部のかまど、火鉢、炭火からの炭酸ガス、年における集住の中での風通しの悪さなどについて述べています。「空気の良し悪しを水の良し悪しと同じように考えないのは非常に文明的ではないのではなかろうか?」というのが彼の意見であり、これらの考えは当時からすると非常に先駆的でした。そして、仕事場・工場での空気の問題が論じられるようになります。ただ、この当時は窓を開けるなどの対策しかなされませんでした。
・空調の出現
1930年代に入ると、”空調”の語が百科事典に載るようになります。これはまさに、先述した”新しいコトバの登場・使用または、従来ある言葉の新しい意味での使用はそれ自体が社会の大きな構造変容、システムの変化の兆し”であることの一例です。当初は印刷工場における湿度管理の重要性などから、空調は温度よりも湿度に焦点が当てられました。その後、丸ビルのような都市空間におけるオフィスビルディングの登場に並行して、丸の内病と呼ばれる”換気ができないことによる空気の問題”が1930年代後半に話題となったのです。そこで、オフィスビルディングのような、従来は存在しなかった巨大空間に空調が対応しなければならないという流れになりました。また、宇沢氏の「自動車の社会的費用」で述べられているような、銀座などにおける自動車の激増による空気汚染の問題など、まさに空気の社会的共通資本論の幕開けであり、社会の多くの場面で空気について活発に論じられるようになります。ただ1930年代当時の解決策は、”排気口を従来よりも上に設置する”などといった、今考えると非常に未熟なものでした。また、空調設備を整えたはいいものの、在郷軍人病と呼ばれる冷却装置の水に繁殖したレジオネラ菌という細菌による病が広がるなど、閉鎖空間における空気コントロールが温度管理以外の副作用をもたらしてしまうという問題もありました。
・空調の意味の狭義化
1970年代に入ると公害問題が日本の各地で発生し、そこでも空気に対する議論は広く活発に行われました。しかしながらその後、本来さまざまなレベルでの「空気調和」を意味すべき「空調」という言葉が、建造物内の閉鎖空間における「空気調整」という意味に狭められていくようになります。その要因は一体何なのでしょうか。動画内において、複数の要因が紹介されておりますので、ご興味のある方はぜひ講義をご覧ください。
まとめー空気の価値化の議論ー
いい空気、幸福な空気とはいったいどのようなものを指すのでしょうか。本講義では空気を空調の歴史と共に語ってきましたが、空気は調整される対象としてだけではなく、「空気を読む」などのコンテクストにおける空気、人同士を取り巻く空間としての空気など、さまざまな意味を含みます。コロナ禍を通じて、オンライン会議の普及などの、ひととひとの対面的な、空間における関係性の見直しなど、空気に関する課題は現代社会において、考えるべき非常に重要なテーマです。それらの”空調”の意味が狭義化しているいま、我々は「空気の価値化」について改めて考えるべき局面にいることを理解するべきであると感じました。その第一歩として、共存価値や共生価値といった、モノの”価値”について考えるうえでの新たな尺度が必要なのではないかと佐藤先生は考えているのです。講義動画内では、本記事で書き切ることができなかった空気についての話題がより詳しく説明されていますので、気になる方は是非動画をご覧ください。
<文/悪七一朗(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義「30年後の世界へ― 空気はいかに価値化されるべきか」 第10回 ひとと空気の歴史社会学:空気にも歴史がある 佐藤健二先生
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2024/09/04
みなさんは「偶然」を感じたことはありますか?「ご縁がある」「運が良い」「持ってる」「神ってる」といった言葉は日常的に耳にするように、私たちの生活はさまざまな偶然に取り囲まれています。偶然というものは、私たちが生きている上で必ず出会うものです。その「偶然」という言葉を、学問研究はどう考えるのか。この講義は、「偶然」を様々な切り口から考えていく朝日講座「〈偶然〉という回路」の第一回です。
「日本文学にとっても、偶然という要素は切り離せません」と渡部泰明先生は言います。渡部先生は東京大学文学部教授(2017年当時・現在は国文学研究資料館の館長)で、和歌文学を専門とされている方です。
この講義では、渡部先生と一緒に、和歌と「偶然」の関係について考えていきます。
和歌と「偶然」ー序詞とは何かー
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 渡部泰明
和歌と「偶然」を考えるうえで重要なのが、「序詞」という修辞技法です。
「序詞」とは、「二句もしくは七音節以上から成り、和歌の主想部・本旨を導き出す働きをする語句」のことです。和歌は五・七・五・七・七という三十一音からなる短い文学ですが、序詞は、そのうちの二句(たとえば最初の五音と七音の部分)、あるいは七音以上を使った表現で、「その和歌が最も伝えたい内容」を導くためのものである、ということです。
序詞には三つの特徴があります。第一に、序詞は一首の前半に置かれることが多いということ。たとえば、上の句が序詞で、下の句は序詞によって導かれた主想部になる、といった例が多く、下の句に序詞が来ることはほぼありません。第二に、序詞は景物を主とするということ。景物というのは自然の風物のことです。第三に、序詞によって導かれる主想部は心情を主とするということ。つまり、序詞で自然の風景や物を詠んだあと、心情を述べる表現が続く、という構造になります。
和歌と「偶然」ー序詞の種類ー
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 渡部泰明
さらに、序詞には三種類あります。ここでは具体的な和歌とともに学んでいきましょう。
一つ目が、類音の繰り返しに基づく序詞。「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな(古今集・恋一・四六九・よみ人知らず)」の和歌では、「あやめ草」までが序詞で、「あやめも知らぬ恋もするかな」が主想部です。植物「あやめ草」の「あやめ」という音だけ借りてきて、下の句の「あやめも知らぬ」というフレーズを導き出しています。「あやめ」というのは物の筋目のことで、「あやめも知らぬ」では、物の道理もわからなくなる、闇の中を彷徨うような恋の様子を描いています。そんな恋の思いを表現するにあたり、特に「あやめ」という言葉を導き出すためだけに、序詞を用いているのです。それなら、序詞は無駄な要素だと言えるのではないでしょうか。たった三十一音しかない和歌の十七音分を、一番言いたいこととは異なる序詞に費やすのはなぜでしょうか。
また、「浅茅生の小野のしの原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき(百人一首・源等)」の和歌では、「浅茅生の小野のしの原」までが序詞で、「しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」が主想部です。「しの原」という語が「しのぶれど」の「しの」を導き出しています。「浅茅生の小野のしの原」という情景は、和歌の意味とはあまり関係がありません。ただ「しの」を導くためだけに「浅茅生の小野のしの原」と表現されています。「しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」という、我慢して我慢してそれでも我慢しきれない恋心を伝えたいのに、なぜ序詞を使うというまわりくどいことをするのでしょうか。
二つ目が、比喩に基づく序詞。「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし(百人一首・二条院讃岐)」の和歌では、「沖の石の」までが序詞で、「人こそ知らねかわくまもなし」が主想部です。「誰も知らない(人こそ知らね)」ことと「いつも濡れている(かわくまもなし)」こと、両方を兼ね備えた表現が「潮干に見えぬ沖の石」です。私の袖は潮が引いても見えない沖の石だ、だから、誰も知らないけれどもいつも濡れている…序詞の部分で「我が袖」を「沖の石」に喩えており、その情景と重なる心情が下の句に続きます。これは序詞の内容と心情が重なり合っているため比較的理解しやすいですが、それでもなぜこのように比喩を用いるのかは疑問が残ります。
三つ目が、掛詞に基づく序詞。掛詞とは、一つの言葉に二つの意味を持たせる洒落のような技法です。「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝む(百人一首・柿本人麿)」の和歌では、「しだり尾の」までが「長々し」を導く序詞、「長々し夜を独りかも寝む」が主想部になっています。この和歌で最も言いたいことは夜の心理的な長さですが、その「長々し」を導くために、心情とは関係のない序詞で十七音も使ってしまっています。
このように見ていくと、序詞というのは「音が重なる」というのが一番大事な要素であることがわかります。特に類音の繰り返しに基づく序詞や掛詞に基づく序詞は、「偶然同じ音だった」ということだけで言葉を選んでいるように思えます。和歌というのは詩であり、詩というのは内面の表現です。それなのに、なぜ内的な必然性に基づく表現ではなく、「音が偶然同じだった」という外的な偶然性に基づく表現を用いるのでしょうか?
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 渡部泰明
和歌と「偶然」ー現代短歌の序詞的表現ー
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017 渡部泰明
上記の疑問を解決する糸口を見つけるため、今度は現代短歌における「序詞的な表現」を見ていきましょう。
「くろ髪の〜」の短歌は、「みだれ髪」までが下の句の「かつおもひみだれおもひみだるる」を導いている、同音の繰り返しによる序詞的表現となっています。 
「大工町〜」の短歌は、この短歌で最も言いたいことは「老母買う町あらずやつばめよ」であり、それを導くために「大工町寺町米町仏町」と表現している序詞的表現です。
さらに、渡部先生は、「サバンナの〜」の短歌は「サバンナの象のうんこよ」が序詞的表現だと言います。もし、「サバンナの象のうんこよ」が無かったら、どうでしょうか。「聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」だけでは、自意識の垂れ流しのようで、誰も共感できないのではないでしょうか。ところが、「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ」と表現されることで、広大なサバンナという空間のイメージが加わるほか、「自分は広大なサバンナの中の象のうんこくらいしか価値がない人間だ」といった自己の隠喩が含まれます。その情景があって「聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」と言われることで、自己表現が共感を得るものへと変貌していっています。
このように、序詞の効果は、心情の表現が具体的なイメージと対置されることで、共感を得るものに変わっていくことにあるのです。共感を得るものへと変わる理由は、「外からきたものが自分の内面にいつの間にか寄り添う」という体験ができるからだと渡部先生は言います。遠いと思っていたことが結びついていくんだ、全然無関係なものが結びつくんだ、という運命的な出会いを序詞によって経験できるのです。
課題ー和歌・短歌を作ってみよう!ー
上記で述べたような運命的な出会いは、実際和歌・短歌を作ってみてこそわかるものです。そこで、この講義の後半では、実際に短歌を作るという課題に取り組みます。
まず、心情を表す下の句(七・七)を各々作ります。次に、その下の句をシャッフルされたうえで個々人に割り当てられ、自分に割り当てられた下の句に序詞をつける、という作業です。ただし、「東大」に関わる言葉を必ず一つ入れる、という条件もあります。
受講者がこのように共同作業で作った短歌を、グループワークで鑑賞・批評する、というのがこの講座の特徴になっています。
見応えのある短歌五首とその鑑賞が見られますので、ぜひ動画を最後までご覧いただき、序詞による「運命的な出会い」を体験してみてください!
<文/長谷川凜(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) 第1回 偶然と日本古典文学 渡部泰明先生
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2024/08/21
私たちが昔の歴史や文学、宗教について本気で知ろうとしたら、洋の東西を問わず、どうしても古い文字資料を使うことになるでしょう。大抵は、アクセスしやすい図書館にある文庫本とか、オンラインで手軽に見つかるテキストデータとかで事を済ますことになります。
しかし、あなたの目に入った文字資料は、果たして信頼に足るものなのでしょうか。古い時代のものほど著者本人の自筆本などは残っておらず、その文章が他人による書写や出版の作業過程で改変されてしまった可能性は排除できません。たった1文字のタイポ(誤字や脱字)のせいで、文章全体の意味が変わってしまうことすらあり得ます。そのため、人文学を専門とする学生や研究者は、自分の使う資料の信頼性に敏感であることが求められます。
今回ご紹介したい講義は、デジタル人文学などをご専門とする永崎研宣(ながさき きよのり)先生による「デジタル時代のcriticism」です。講義自体は2018年度のものであり、その後にデジタル技術の更なる進歩などもありました。本記事の読者の中には、「自分はこの分野の専門家になりたいわけではない」という人もいるでしょう。ですが、この講義で永崎先生が解説しているデジタル人文学の理念は今日なお維持されているものであり、また専門外の人であっても有益な知見が得られるのではないかと思います。
UTokyo Online Education デジタル時代のcriticism Copyright 2018, 永崎 研宣
“criticism”の意義
まず先生は、この講義を「デジタル時代のcriticism」と題した理由を説明することから始めます。通常は「資料批判」または「史料批判」という言葉を使うそうですが、現代の日常語で「批判」は後ろ向きなニュアンスがあるため、あえて「criticism」にしたといいます。いずれにせよ、これは歴史学者のレオポルト・フォン・ランケ(1795–1886)が提唱した概念で、様々な周辺情報も駆使して「自分の見ている史資料がどれくらいあてになるか」を確認しようとする学問的手続きであり、大きくは「外的批判」と「内的批判」に分けることができるとします。
外的批判は、「この史資料は後世に偽作された偽文書ではないのか」という根本的な検討から始まって、「いつ、どのような場で書かれたのか」や「どのような経緯で発見されたのか」などの分析に進むそうです。他方の内的批判は、著者の思い込みや勘違い、願望、利害関係が史資料に影響した可能性を慎重に見極める作業となります。
ここで先生が紹介した「個人的に衝撃だった」事例は、日本の「慶安の御触書」です。32の条文と奥書から成るとされるこの農民への教諭書は、徳川幕府の第3代将軍家光が江戸前期の慶安2年(1649年)に出した幕法として、先生が10代だったころには歴史の教科書にも載っていました。しかし、慶安2年に発布されたはずの原本が見つからず、しかも写本が一部地域から見つかるだけなので、今日では「幕法ではなかった可能性が高い」として教科書からほぼ消えたそうです。
このように、教科書で取り上げられたような有名な史資料でさえも、最新のcriticismによる結果が「怪しい、疑わしい」となれば排除または留保せざるを得なくなります。逆に言えば、criticismは従来の常識を覆す可能性を帯びた、それだけ重要な手続きだということです。
時代は紙からデジタルへ
明治以降の日本では、東洋と西洋の校勘(こうかん。複数の伝本を比較検討して、本文の異同を明らかにしたり正したりすること)の伝統が混ざり合い、本文の上や下の欄外に「この字は別の本ではこうなっている」という校勘記の付いた本が作られていきました。
UTokyo Online Education デジタル時代のcriticism Copyright 2018, 永崎 研宣
そのような校勘本は便利で有益なものですが、読者が見られるのは校勘者の出した結論だけです。例えば、校勘記で「この字は○○図書館所蔵の写本ではこうなっている」と書かれてあっても、本当にそうなっているかを確認するために読者がその図書館を訪問し、所蔵本を閲覧することは手間です。古典籍の多くは厳重に管理されているため、閲覧を申請してから許可されるまで時間も掛かります。
そこで近年、世界各地で活用されつつあるのがデジタル技術です。貴重な古典籍をデジタル撮影して(または過去に撮影されていたマイクロフィルムなどをデジタル変換して)画像をネットで公開することで、見たい古典籍の画像がいつでもすぐに見られるようになります。そのデジタル画像へのパーマネントURL(ウェブサイトのリニューアルなどがあっても変更されないURL)が論文などに付記されれば、議論や検証が飛躍的に容易になります。
一部の研究者は、このような新技術の活用に抵抗感があるようです。ですが先生は、従来も影印(えいいん。古典籍を撮影して印刷したもの)が活用されてきたのだから、デジタル画像は必ずしも異質なものとして警戒しなくてよいと解説します。また、「デジタルデータは簡単に書き換えられる危険がある」という意見については、バージョン管理(旧いバージョンも消さずに残す)がきちんとできていれば、むしろ紙よりも効率が格段に高いとします。それどころか、様々な古典籍のデジタル画像を深層学習(Deep Learning)で横断分析させれば、人間の力では分からないことも分かるようになるかもしれません。
デジタル時代の現在と未来
近年は、単純なデジタル画像化とそのネット公開だけでなく、ソースコードで各本の異同の比較検討をより効率化しようという事業も進められています。ある古典籍のある個所が諸本でどのように表記されているのかを比較する作業時間は、これまでよりも格段に短縮できます。このようなデータベースが公開されれば、専門の研究者に限らず、広く学生や愛好家もまた恩恵を受けられるようになるでしょう。
UTokyo Online Education デジタル時代のcriticism Copyright 2018, 永崎 研宣
UTokyo Online Education デジタル時代のcriticism Copyright 2018, 永崎 研宣
最初にお断りしましたように、この講義は2018年度に行われたものです。その後にデジタル技術が日進月歩の発展を続けていることは、皆さんもご存知の通りです。ですが、これまでは紙と人間(の手と目と頭)に頼って行ってきたcriticismをデジタル技術によって効率化し、しかもそれをオンラインで公開していこうという方向性は今も変わっていません。ここでは紹介しきれなかった部分も少なくありませんので、今後とも発展を続けるだろうデジタル時代のcriticismの基本理念を知るためにも、先生の講義動画をご覧になってみてはいかがでしょうか。
<文/MS(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:デジタル・ヒューマニティーズ ―変貌する学問の地平― (学術俯瞰講義) 第3回 デジタル時代のcriticism 永崎研宣先生
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