【パンデミック、マイノリティ、不平等】物語が果たす役割とは?(「パンデミックを銘記する」岩川 ありさ先生)
2025/05/29

みなさんにとって、COVID-19によるパンデミックはどのような経験でしたか?

そして、私たちが暮らす社会にとって、パンデミックはどのような経験だったのでしょうか。

薬が手に入らない。時としては福祉が行き届かなかったり、生命の序列がつけられたりする。

あるいは特定の国や人種と疫病が結びつけられ、差別の対象になる……。

このように、パンデミックは不均衡な世界を浮き彫りにしました

本講義では、世界の不均衡を捉え、「どうすればこの世界で、多くの人が生きられるのか」を考えていきます。手がかりは、ジュディス・バトラーの思想と、川口晴美の詩です。

講師は岩川ありさ先生。早稲田大学文学学術院准教授で、フェミニズムやクィア批評、トラウマ研究をされています。

The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024 岩川 ありさ

コロナ禍とエイズ危機の共通点?

まずは、ジュディス・バトラー(Judith Butler)について。

『ジェンダー・トラブル—フェミニズムとアイデンティティの攪乱 新装版』(竹村和子訳、青土社、2018年。原著1990年)という著作の名前を耳にしたことがある人もいるかもしれません。

バトラーは、社会の特定の集団に対して支援のネットワークが欠落し、根本的な不平等が生じていることを理論化し、指摘してきました。

具体的にどういうこと?と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。

バトラーは、1980年代にアメリカ合衆国を中心に世界の都市部で起こったエイズ危機を念頭に置きながら、理論を組み立てています。

ということで、エイズ危機において、いかに特定の集団に支援のネットワークが欠落し、不平等が生じていたのかを見ていきましょう。

①エイズと特定の集団を結びつける報道が繰り返された

エイズは1981年に症例が報告され、1980年代前半にはそのメカニズムが解明され、治療方法の研究も進められました。

しかし、メディアにおいて、特定の人間とエイズを結び付け、それらの人々を排除し攻撃する報道が繰り返されたのです。特に、HIVのハイリスクグループと名指されたのは、同性愛者、人種マイノリティ、薬物依存症の人たちでした。

エイズはメカニズムの解明された感染症であるにもかかわらず、特定の集団と結びつけた報道が繰り返されることによって、「真っ当で正常な我々」と「異常な彼ら」という認識の枠組みがつくられていきました。

②アメリカ政府は無策であった

1981年に症例が報告されてから、統計に出ているだけでも1987年までに4万人以上の方がエイズで亡くなっているそうです。それにも関わらず、アメリカ政府は1987年までエイズに言及しませんでした。

政府によって感染対策の周知や社会福祉の整備がなされなかったことは、エイズ危機の一因となります。

The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024 岩川 ありさ

“メディアでは攻撃され、公的な支援は欠如している。”

ハイリスクグループと名指された人々は、見殺しにされ、この世界から居場所を失くしてしまうという状況にありました。

“沈黙すれば殺される。”

そして切実な危機感のもと、人々は命を支え合い、抗議運動を行います。(エイズ・アクティビズム)。

このように、バトラーが理論を組み立てるにあたって念頭においたエイズ危機では、特定の集団が根本的に不平等な状況に置かれていたのです。

バトラーは、生が生として維持されるためには、公教育、住宅、食料などが行き渡るなど、インフラストラクチャーや社会制度、支援のネットワークといった条件が満たされていなければならないことを指摘しています。

ある子どもが生まれた時に、将来においてその生が死ぬまで維持されるよう、社会の条件が整えられていることが重要だと言います。

“そうでなくてはその生は失われてしまう。”

誰もが生き続けられる世界になるには問題が山積みですが、いま生まれてきた子どもの生が維持される未来へと変えられるように、現在においてできる限りのことをやるのだと岩川先生は訴えます。

追悼される死、されない死

さらに講義動画では、エイズ危機において死者が十分に追悼されなかったという話がされます。

自分の身内がエイズで亡くなったとは言いにくい社会状況であったため、公に悼むことができなかったり、葬儀場に拒否されたりしたのです。

1987年10月には、故人との思い出を描いたキルトを敷き詰めて、公に追悼する「大行進(the Great March)」が行われました。

ただし、大行進までにどれだけの数の人がエイズで亡くなってきたのでしょうか。

問題は、数だけではありません。

自分の体温、物語を持つ人が追悼されたり哀悼されたりすることすらなかった,ということを受け止めねばなりません。(=つまり、“血の通った一個人”として弔われなかった)このように、この世界には大々的に伝えられて追悼される死がある一方で、誰にもかえりみられない死もあるのです。

岩川先生は、この事態について考え続けることが必要であり、その際に重要なのはさまざまな言語表現や物語、報道やドラマやアニメといった表象文化ではないかと言います。

そうした言語表現の例として、講義後半では川口晴美の詩が取り上げられます。

この詩は、路上生活をしていた女性が2020年に渋谷区のバス停で殺害された事件を受けて書かれたものです。講義前半でみてきた世界の不均衡は、自分の日常とは切り離されたもののようにも思えます。しかし、この作品は、私たちの世界の見方をときほぐす視点を与えてくれます。

The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024 岩川 ありさ

世界の不均衡を無視せず、多くの人が生きうる未来へと向かう、「復興の技法」となる言語表現とはいかなるものなのでしょうか。

ぜひ、皆さんの目で確かめてみてください。

この講義で紹介される思想や言語表現、そして岩川先生の語り口は、あなたと世界との関わり方に変化をもたらすかもしれせん。

<文/井出明日佳(東京大学学生サポーター)>


今回紹介した講義:学術フロンティア講義 (30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える) 第12回 パンデミックを銘記する

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