
2025/06/09
みなさんは、マイケル・サンデルという名前を聞いたことがありますか?
『これからの「正義」の話をしよう: いまを生き延びるための哲学』(鬼澤忍訳、早川書房、2011年。原著2010年)という著書や、『ハーバード白熱教室』『マイケル・サンデルの白熱教室』といったテレビ番組をご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれません。サンデルは、ロールズらのリベラリズムを批判した政治哲学者として知られています。
そもそも、リベラリズムとは何なのでしょうか?そして、サンデルはどのようにリベラリズムを批判したのでしょうか?
今回の記事では、サンデルのリベラリズム批判に関する講義をご紹介します。本講義は学術俯瞰講義「正義を問い直す」第9回『法と道徳:同性愛を題材として』にて行われました。講師は、倫理学者の児玉聡先生です。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
サンデル対リベラルの前史 ハート=デブリン論争とは?
①ウォルフェンデン報告書
講義の中ではまず、1950-60年代に英国で行われた同性愛の非犯罪化をめぐる論争(ハート=デブリン論争)が取り上げられます。児玉先生は、このハートとデブリンの論争は、サンデル対リベラルの前史としても捉えられるのだと言います。英国において、同性愛は長きにわたり禁止されてきました。16世紀から19世紀半ばまでは、キリスト教的価値観に背くものとして絞首刑の対象であり、論争が勃発した1950年代においても、男性間の性交は罰金から終身刑まで課される行為とされていました。強制わいせつ等でなく、合意のある成人男性間で私的な場で行われようと違法とみなされていたのです。同性愛が犯罪化される状況に異を唱えようと提出されたのが、ウォルフェンデン報告書です。この報告書では、刑法の役割として、公序良俗を維持し、市民を不快または有害なものから守り、搾取から保護することが挙げられます。そして、道徳や宗教に基づいて市民の私的な生活に介入するのは刑法の役割を超えている、成人間で私的な場で行われる同性愛行為は非犯罪化すべきだという主張が展開されます。ウォルフェンデン報告書のこうした主張は、ミルの自由主義の立場にたっていると言えます。ミルは、ある個人の意志に反して権力を行使してよいのは、他者に対する危害の防止を目的としたときだけだとしています(他者危害原則)。「こうした方が本人にとってよいだろう」「本人の幸せのため」といった他者の意見や道徳は、個人の行動を抑制したり強制したりする理由にはならないというのです。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
②デブリンによるウォルフェンデン報告書批判
デブリンは、同性愛行為の規制緩和には賛成したものの、ウォルフェンデン報告書にみられるリベラルな理論を批判しました。デブリンは、法には「公共道徳」を守る役割があるのだと主張します。公共道徳とは、社会の成員の生活やふるまいに対する、社会全体の道徳判断を指します。デブリンによれば、公共道徳が守られなければ社会道徳が腐敗し、社会の崩壊に繋がるといいます。
③ハートのデブリン批判
そして、ミル的リベラリズムの立場から、デブリンを批判したのがハートです。デブリンは法による道徳の強制を認めましたが、ハートは法はあくまで個人を危害から守るものであり、法による道徳の強制は認められないと主張しました。法による道徳の強制がなければ社会が崩壊するというデブリンのテーゼは、実証性に乏しいとも指摘しています。ただし、ハートは法によって多数派の道徳を強制することを批判する一方で、個人の利益を守るための強制はある程度認められるとしています。児玉先生は、本人を怪我という不利益から守るためのシートベルト着用義務化を例として挙げています。
ハート=デブリン論争を簡潔にまとめるならば、デブリンー法には公共道徳を守る役割があるとするハートー他人に危害を与えない限り法は個人の行為に介入することができず、法によって道徳が強制されてはならないという、法と道徳をめぐる対立であると言うことができるでしょう。
サンデルはどのようにリベラリズムを批判した?
ここからは、サンデルのリベラリズム批判についての話題に移ります。サンデルは、ロールズらのリベラリズムに対する批判を行いました。
主流のリベラリズムは、正義原理は各人の善の構想とは独立に決定されるとする立場で、ロールズのリベラリズムも同様の性質を持つと児玉先生は言います。正義原理とは、社会秩序のあり方を意味する言葉だと考えられます。また、「善の構想」とは、各人の人生プラン、幸福、価値観を指す言葉として使われているそうです。つまり主流のリベラリズムは、社会秩序は何を幸福とみなすかといった各人の価値観に依らず、価値に中立性を保って決められるべきとする立場だと言い換えることができるでしょう。
サンデルのリベラリズム批判その1
これに対しサンデルは、「あなたはあなた、わたしはわたし」という風に、道徳が「私事化」されることがリベラリズムの問題だと批判しました。先述したとおり、主流のリベラリズムでは、社会秩序が各人の価値観に依らずに決められることが求められます。こうしたリベラリズムのもとでは道徳的・宗教的信念が政治の場から排除され、私的な問題として扱われているとサンデルは指摘します。各人の善や価値は「何かそっとしておくべきもの」のように扱われ、価値が公に議論されなくなり、公共道徳が不在になることを、サンデルは懸念しました。なお、公共の道徳・善を志向するという点でサンデルとデブリンの立場は重なりますが、公共の道徳・善を見つける方法は二人のあいだで異なっています。デブリンが公共道徳とは陪審席にいるような普通の人の判断だとしたのに対し、サンデルは、熟議によって公共善が見つけられるのだとしました。
サンデルのリベラリズム批判その2
また、サンデルは、リベラリズムが理想とするように、善に関して中立性を保ったまま正義を決定することは不可能だとも主張します。正義と善は不可分であるというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。本講義においては、同性婚を事例としてディスカッションを行うことで、サンデルのリベラリズム批判について理解を深めます。なお、この講義は2011年に行われており、同性婚訴訟等の社会状況は2025年現在と大きく異なります。さらに、同性愛やトランスジェンダーについて現在とは異なる社会通念のもとで発言がなされる点、このディスカッションは当事者の人生に想像を巡らせるというよりは、思考実験の色彩が強いものである点に留意した上で視聴する必要があると思われます。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
しかし、同性婚をめぐるこのディスカッションは、結婚について根本的に検討するきっかけを与えてくれます。例えば、「政府が本気で善に関する中立を貫くのならば、一夫多妻の婚姻は承認されるのか?」「人間と動物の婚姻は?」「あるいは一切「結婚」を認めない方が中立なのか?」といった問いが投げかけられます。
また、児玉先生以外の教員も本講義に参加しており、「リベラリズムの根源を中立性だとするのは誇張ではないか。リベラリズムの根源を中立性だとするサンデル的なリベラルの想定に問題があるのではないか。」といった批判も加えられます。この講義を入口として、「正義を問い直す(学術俯瞰講義)」の別の講義を視聴すれば、さらに思索を深めることができるでしょう。マイケル・サンデル氏による講義も視聴することができます。法や道徳、正義や善について、または結婚制度について根本から考えるきっかけに、ぜひ「法と道徳:同性愛を題材として」をご覧ください。
また東大TVでも、マイケル・サンデル氏を招いて安田講堂でおこなわれた「ハーバード白熱教室 in JAPAN」(日本語字幕付)を公開しています。
<文/井出明日佳(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:正義を問い直す(学術俯瞰講義)第9回 法と道徳:同性愛を題材として
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
『これからの「正義」の話をしよう: いまを生き延びるための哲学』(鬼澤忍訳、早川書房、2011年。原著2010年)という著書や、『ハーバード白熱教室』『マイケル・サンデルの白熱教室』といったテレビ番組をご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれません。サンデルは、ロールズらのリベラリズムを批判した政治哲学者として知られています。
そもそも、リベラリズムとは何なのでしょうか?そして、サンデルはどのようにリベラリズムを批判したのでしょうか?
今回の記事では、サンデルのリベラリズム批判に関する講義をご紹介します。本講義は学術俯瞰講義「正義を問い直す」第9回『法と道徳:同性愛を題材として』にて行われました。講師は、倫理学者の児玉聡先生です。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
サンデル対リベラルの前史 ハート=デブリン論争とは?
①ウォルフェンデン報告書
講義の中ではまず、1950-60年代に英国で行われた同性愛の非犯罪化をめぐる論争(ハート=デブリン論争)が取り上げられます。児玉先生は、このハートとデブリンの論争は、サンデル対リベラルの前史としても捉えられるのだと言います。英国において、同性愛は長きにわたり禁止されてきました。16世紀から19世紀半ばまでは、キリスト教的価値観に背くものとして絞首刑の対象であり、論争が勃発した1950年代においても、男性間の性交は罰金から終身刑まで課される行為とされていました。強制わいせつ等でなく、合意のある成人男性間で私的な場で行われようと違法とみなされていたのです。同性愛が犯罪化される状況に異を唱えようと提出されたのが、ウォルフェンデン報告書です。この報告書では、刑法の役割として、公序良俗を維持し、市民を不快または有害なものから守り、搾取から保護することが挙げられます。そして、道徳や宗教に基づいて市民の私的な生活に介入するのは刑法の役割を超えている、成人間で私的な場で行われる同性愛行為は非犯罪化すべきだという主張が展開されます。ウォルフェンデン報告書のこうした主張は、ミルの自由主義の立場にたっていると言えます。ミルは、ある個人の意志に反して権力を行使してよいのは、他者に対する危害の防止を目的としたときだけだとしています(他者危害原則)。「こうした方が本人にとってよいだろう」「本人の幸せのため」といった他者の意見や道徳は、個人の行動を抑制したり強制したりする理由にはならないというのです。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
②デブリンによるウォルフェンデン報告書批判
デブリンは、同性愛行為の規制緩和には賛成したものの、ウォルフェンデン報告書にみられるリベラルな理論を批判しました。デブリンは、法には「公共道徳」を守る役割があるのだと主張します。公共道徳とは、社会の成員の生活やふるまいに対する、社会全体の道徳判断を指します。デブリンによれば、公共道徳が守られなければ社会道徳が腐敗し、社会の崩壊に繋がるといいます。
③ハートのデブリン批判
そして、ミル的リベラリズムの立場から、デブリンを批判したのがハートです。デブリンは法による道徳の強制を認めましたが、ハートは法はあくまで個人を危害から守るものであり、法による道徳の強制は認められないと主張しました。法による道徳の強制がなければ社会が崩壊するというデブリンのテーゼは、実証性に乏しいとも指摘しています。ただし、ハートは法によって多数派の道徳を強制することを批判する一方で、個人の利益を守るための強制はある程度認められるとしています。児玉先生は、本人を怪我という不利益から守るためのシートベルト着用義務化を例として挙げています。
ハート=デブリン論争を簡潔にまとめるならば、デブリンー法には公共道徳を守る役割があるとするハートー他人に危害を与えない限り法は個人の行為に介入することができず、法によって道徳が強制されてはならないという、法と道徳をめぐる対立であると言うことができるでしょう。
サンデルはどのようにリベラリズムを批判した?
ここからは、サンデルのリベラリズム批判についての話題に移ります。サンデルは、ロールズらのリベラリズムに対する批判を行いました。
主流のリベラリズムは、正義原理は各人の善の構想とは独立に決定されるとする立場で、ロールズのリベラリズムも同様の性質を持つと児玉先生は言います。正義原理とは、社会秩序のあり方を意味する言葉だと考えられます。また、「善の構想」とは、各人の人生プラン、幸福、価値観を指す言葉として使われているそうです。つまり主流のリベラリズムは、社会秩序は何を幸福とみなすかといった各人の価値観に依らず、価値に中立性を保って決められるべきとする立場だと言い換えることができるでしょう。
サンデルのリベラリズム批判その1
これに対しサンデルは、「あなたはあなた、わたしはわたし」という風に、道徳が「私事化」されることがリベラリズムの問題だと批判しました。先述したとおり、主流のリベラリズムでは、社会秩序が各人の価値観に依らずに決められることが求められます。こうしたリベラリズムのもとでは道徳的・宗教的信念が政治の場から排除され、私的な問題として扱われているとサンデルは指摘します。各人の善や価値は「何かそっとしておくべきもの」のように扱われ、価値が公に議論されなくなり、公共道徳が不在になることを、サンデルは懸念しました。なお、公共の道徳・善を志向するという点でサンデルとデブリンの立場は重なりますが、公共の道徳・善を見つける方法は二人のあいだで異なっています。デブリンが公共道徳とは陪審席にいるような普通の人の判断だとしたのに対し、サンデルは、熟議によって公共善が見つけられるのだとしました。
サンデルのリベラリズム批判その2
また、サンデルは、リベラリズムが理想とするように、善に関して中立性を保ったまま正義を決定することは不可能だとも主張します。正義と善は不可分であるというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。本講義においては、同性婚を事例としてディスカッションを行うことで、サンデルのリベラリズム批判について理解を深めます。なお、この講義は2011年に行われており、同性婚訴訟等の社会状況は2025年現在と大きく異なります。さらに、同性愛やトランスジェンダーについて現在とは異なる社会通念のもとで発言がなされる点、このディスカッションは当事者の人生に想像を巡らせるというよりは、思考実験の色彩が強いものである点に留意した上で視聴する必要があると思われます。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
しかし、同性婚をめぐるこのディスカッションは、結婚について根本的に検討するきっかけを与えてくれます。例えば、「政府が本気で善に関する中立を貫くのならば、一夫多妻の婚姻は承認されるのか?」「人間と動物の婚姻は?」「あるいは一切「結婚」を認めない方が中立なのか?」といった問いが投げかけられます。
また、児玉先生以外の教員も本講義に参加しており、「リベラリズムの根源を中立性だとするのは誇張ではないか。リベラリズムの根源を中立性だとするサンデル的なリベラルの想定に問題があるのではないか。」といった批判も加えられます。この講義を入口として、「正義を問い直す(学術俯瞰講義)」の別の講義を視聴すれば、さらに思索を深めることができるでしょう。マイケル・サンデル氏による講義も視聴することができます。法や道徳、正義や善について、または結婚制度について根本から考えるきっかけに、ぜひ「法と道徳:同性愛を題材として」をご覧ください。
また東大TVでも、マイケル・サンデル氏を招いて安田講堂でおこなわれた「ハーバード白熱教室 in JAPAN」(日本語字幕付)を公開しています。
<文/井出明日佳(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:正義を問い直す(学術俯瞰講義)第9回 法と道徳:同性愛を題材として
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