2025/12/12
かつて「教養ある人」といえば、膨大な知識を記憶している人のことを指しました。博覧強記――数多くの書物を読み、細部まで覚えていることに価値があるとされたのです。しかし、現代では、検索ひとつで必要な情報にたどりつくことができます。このような時代に、果たして「教養」とは何を意味するのでしょうか。
今回ご紹介するのは、2025年度開講「学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養)」の第12回「古典の最終章を書く」です。本講義では、哲学者の中島隆博先生が、先ほどの問いを出発点として、生成AIが脚光を浴びる時代に、私たちは「教養」のあり方をどう考えていくべきかを解説します。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 中島 隆博
「考える」を考える
まずは、「考える」ということを考えてみましょう。皆さんは、ひとりで呻吟しながら、あーだこーだと思う姿をイメージするのではないでしょうか。
しかし、ある経済史の研究者は、そのような状態は「妄想にすぎない」と指摘します。確かに夜中に思いつくまま書きつけた言葉を後日読み返すと、整理されておらず、自分でも何を言いたかったのか掴めないことがあります。では「考える」と「妄想」を分けるものは何でしょうか。その研究者によれば、「考える」とは共同⾏為であり、妄想は⾃分だけの世界に閉じたものだというのです。
「考える」が共同⾏為であるとは意外に聞こえるでしょうか。哲学者のイメージには、ひとり孤独に思考することが付きまとっているからです。もちろん、「考える」ことが孤独の底で⾏われることは事実です。しかし、その孤独は決して孤⽴ではありません。それは友情のもとでの孤独なのです。
「ひとの頭で考える」ということを考えてみてください。これはかなり素朴な直観に頼った表現です。友⼈や家族あるいは先⽣と話をしている場⾯を思い返してみてください。話をしているなかで、当初は曖昧だったことが、くっきりと輪郭をとった概念になって、⾃分が思っていたのはこういうことだったのか、と得⼼がいくことがあるかと思います。三⼈寄れば⽂殊の知恵とも⾔いますが、複数のひとと喋ると、発⾒的に頭が働き、それ以前には⾒えてこなかったことが⾒えるようになることがあるのです。
インテグリティーとインティマシー
では、なぜこのような共同性が必要になるのでしょうか。中島先生は、それは人間が本来もつ根元的な社会性に由来すると説明します。
近代、とりわけ西欧近代では、他者から影響を受けない「自律した個人」という理想像が重視されてきました。哲学者トマス・カスリスは、そうした個人像を「インテグリティー(完全無欠性)」という概念で説明します。インテグリティーは、傷つかず、揺るがない、独立した存在としての個人を前提とします。19世紀は、特にインテグリティーが強調された時代です。そうすると、考えるということも、インテグラルな個人が考えた所有物、となります。
しかし、人と人が関わるとき、感情の問題、共感の問題を避けては通れないと思います。別の⾔い⽅をすれば、「インテグリティー」の後景には必ず「インティマシー」というあり⽅が存在すると言います。そこには、親密で、相互関与的で、傷つきやすい特徴を⾒出すこともできるのではないか、カスリスはこのように問いかけます。
さらに、講義では、ヒュームやドゥルーズ、中国の思想家・戴震(たいしん)といった議論を通じて、共感は他者との関わりの中でこそ生まれるものだからこそ、適切に手入れされることで、人間の社会性にもとづく道徳が形づくられると説明しています。
AIは親密な他者になりうるか?
ここで、話を共同⾏為としての「考える」に戻してみましょう。中島先生は、「考える」も共感のように、根元的な社会性の上にはじめて成⽴するものではないか、と言います。
講義では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を禅の視点から読み解きながら、考えることによって「わたし」という存在そのものが変容しうる点に注目します。「考える」ことが変容すれば、「考える」エージェントである「わたし」もまた変容し得るのではないかということです。
禅における説法は、知識や情報の単なる伝達ではなく、⾃分の⼀部を分け与え共有する親密な知(インティマシーに⽀えられた知)です。古典の読者と古典、師と弟子といった他者との親密な関係があってこそ、「わたし」が変容するほどの、強烈な「考える」に晒されると言えます。
では、生成AIにおいて、いわゆる「壁打ち」で議論を⾏なうことは、「ひとの頭で考える」ことになり得るのでしょうか?そして、私たちはただ覚えることでは意味が薄くなってしまった古典や知識に対して、どのような関係を結び直せばよいのでしょうか?
講義内では、ここでは紹介しきれなかった考え方を中島先生が丁寧に解説しながら、この問いの答えを導いていきます。少しでも興味を持った方はぜひ講義動画をご覧ください!
〈文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養) 第12回 古典の最終章を書く 中島隆博先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
今回ご紹介するのは、2025年度開講「学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養)」の第12回「古典の最終章を書く」です。本講義では、哲学者の中島隆博先生が、先ほどの問いを出発点として、生成AIが脚光を浴びる時代に、私たちは「教養」のあり方をどう考えていくべきかを解説します。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 中島 隆博
「考える」を考える
まずは、「考える」ということを考えてみましょう。皆さんは、ひとりで呻吟しながら、あーだこーだと思う姿をイメージするのではないでしょうか。
しかし、ある経済史の研究者は、そのような状態は「妄想にすぎない」と指摘します。確かに夜中に思いつくまま書きつけた言葉を後日読み返すと、整理されておらず、自分でも何を言いたかったのか掴めないことがあります。では「考える」と「妄想」を分けるものは何でしょうか。その研究者によれば、「考える」とは共同⾏為であり、妄想は⾃分だけの世界に閉じたものだというのです。
「考える」が共同⾏為であるとは意外に聞こえるでしょうか。哲学者のイメージには、ひとり孤独に思考することが付きまとっているからです。もちろん、「考える」ことが孤独の底で⾏われることは事実です。しかし、その孤独は決して孤⽴ではありません。それは友情のもとでの孤独なのです。
「ひとの頭で考える」ということを考えてみてください。これはかなり素朴な直観に頼った表現です。友⼈や家族あるいは先⽣と話をしている場⾯を思い返してみてください。話をしているなかで、当初は曖昧だったことが、くっきりと輪郭をとった概念になって、⾃分が思っていたのはこういうことだったのか、と得⼼がいくことがあるかと思います。三⼈寄れば⽂殊の知恵とも⾔いますが、複数のひとと喋ると、発⾒的に頭が働き、それ以前には⾒えてこなかったことが⾒えるようになることがあるのです。
インテグリティーとインティマシー
では、なぜこのような共同性が必要になるのでしょうか。中島先生は、それは人間が本来もつ根元的な社会性に由来すると説明します。
近代、とりわけ西欧近代では、他者から影響を受けない「自律した個人」という理想像が重視されてきました。哲学者トマス・カスリスは、そうした個人像を「インテグリティー(完全無欠性)」という概念で説明します。インテグリティーは、傷つかず、揺るがない、独立した存在としての個人を前提とします。19世紀は、特にインテグリティーが強調された時代です。そうすると、考えるということも、インテグラルな個人が考えた所有物、となります。
しかし、人と人が関わるとき、感情の問題、共感の問題を避けては通れないと思います。別の⾔い⽅をすれば、「インテグリティー」の後景には必ず「インティマシー」というあり⽅が存在すると言います。そこには、親密で、相互関与的で、傷つきやすい特徴を⾒出すこともできるのではないか、カスリスはこのように問いかけます。
さらに、講義では、ヒュームやドゥルーズ、中国の思想家・戴震(たいしん)といった議論を通じて、共感は他者との関わりの中でこそ生まれるものだからこそ、適切に手入れされることで、人間の社会性にもとづく道徳が形づくられると説明しています。
AIは親密な他者になりうるか?
ここで、話を共同⾏為としての「考える」に戻してみましょう。中島先生は、「考える」も共感のように、根元的な社会性の上にはじめて成⽴するものではないか、と言います。
講義では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を禅の視点から読み解きながら、考えることによって「わたし」という存在そのものが変容しうる点に注目します。「考える」ことが変容すれば、「考える」エージェントである「わたし」もまた変容し得るのではないかということです。
禅における説法は、知識や情報の単なる伝達ではなく、⾃分の⼀部を分け与え共有する親密な知(インティマシーに⽀えられた知)です。古典の読者と古典、師と弟子といった他者との親密な関係があってこそ、「わたし」が変容するほどの、強烈な「考える」に晒されると言えます。
では、生成AIにおいて、いわゆる「壁打ち」で議論を⾏なうことは、「ひとの頭で考える」ことになり得るのでしょうか?そして、私たちはただ覚えることでは意味が薄くなってしまった古典や知識に対して、どのような関係を結び直せばよいのでしょうか?
講義内では、ここでは紹介しきれなかった考え方を中島先生が丁寧に解説しながら、この問いの答えを導いていきます。少しでも興味を持った方はぜひ講義動画をご覧ください!
〈文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養) 第12回 古典の最終章を書く 中島隆博先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。