だいふくちゃん通信

2025/10/28
人は死者とどのようにつながっているのか。そのつながりから、私たちは何を見出すことができるのか。宗教学を専門とし、近年は「死生学」の研究に深く携わる池澤優先生は、講義の冒頭でこのような問いを提示します。
今回ご紹介するのは、2019年度開講の朝日講座『「つながり」から読み解く人と世界』より、『未来を拓く死者の「記憶」―生死のつながりの視点から―』という講義です。
ここで言う「死者」とは、宗教的な意味での霊魂ではありません。生きている私たちが、亡くなった人々との関係をどのように感じ、どのように記憶し、それが私たちの生にどんな意味をもたらすのか。その営みを学問的な観点から紐解いていきます。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 池澤 優
死生学とはどんな学問か
死生学は英語で「サナトロジー(thanatology)」と呼ばれます。語源は古代ギリシアの死の神「タナトス(Thanatos)」に由来します。
死生学が学問として始まったのは1959年。心理学者ヘルマン・フェイフェルの論文『死の意味するもの』を契機に、1960〜70年代にかけて死や死別をテーマとした研究が盛んになり、学問領域が確立されました。
当初の研究は「死の恐怖」と「不安」を主題にしていましたが、現代の死生学では「死別」や「死者と生者の関係」へと視野を広げています。
「二重過程モデル」と死者とのつながり
現代の死生学では、死をめぐる体験は単に「悲しみを乗り越える」直線的な過程ではないとされています。人は喪失の痛みと、日常生活への回復を行き来しながら、少しずつ新たな意味を見いだしていきます。
このような「死別の悲嘆」のプロセスを説明するのが、心理学者ロバート・ニーマイヤーによる「二重過程モデル(DPM)」です。死別を経験した人は、悲しみ(喪失志向)と前向きな生活(回復志向)の間を揺れ動きながら、自分なりの新しい物語(ナラティヴ)を作り上げていく。
この理論では、亡くなった人の存在は、悲しみを癒すだけでなく、新たな人生の意味を形づくる中核、「象徴的きずな」として機能します。
悲嘆とは、喪失と回復の間を行き来する「揺らぎ」であり、人を成長させる可能性を持つ過程でもあります。池澤先生はこの理論をもとに、阪神・淡路大震災の被災者の語りを紹介し、死者の記憶を保つことがどのように悲嘆を超える力となるかを説明しています。
ロバート・リフトンの「死者との一体化」
では、なぜ私たちは死者とのつながりを必要とするのでしょうか。この問いを考えるために、心理学者ロバート・リフトンの理論を見ていきましょう。
リフトンは、戦争や災害を生き延びた人々の心理を研究しました。とくに『ヒロシマを生き抜く(Death in Life)』では、被爆者への聞き取り調査を通して「生存者の心理」を明らかにしています。
原爆という未曾有の出来事の中で、人々は日常の秩序や道徳を失い、心を閉ざすことでしか自分を守れませんでした。この「心理的締め出し」は自己防衛の一種ですが、その後には「感じるべきことを感じなかった」ことへの後ろめたさ、つまり羞恥心が残ります。
「なぜ自分が生き残って、あの人が死んだのか」という答えのない問い。その問いの前で、人は「自分が生き残ったことを正当化しなければならない」という思いを抱きます。
リフトンはこのような生存者の心理を「死者との一体化」と呼びました。死者こそが純粋であり生き残った自分を「不純」と感じながらも、死者に向かおうとする生き方です。精神的麻痺の状態と、死者とつながっていたいという指向性の両方があると言えるのです。
リフトンは、現代では他者を思う感覚が薄れ、この一体化の傾向が弱まっていると警鐘を鳴らしました。だからこそ、死者とのつながりを意識することが重要になっています。
死者の記憶が生きる意味をつくる
池澤先生は、私たちが死者とのつながりを保とうとするのは、人が他者との関係の中で生きているという根源的な事実に基づくものだと言います。
そもそも私たちが自分の生を意味づける価値観は、無から生まれるものではなく、親しい他者との交流の中で育まれるものです。
そして、私たちが関係を持つ多くの他者は、自分よりも先に亡くなります。亡くなった人は、生きている人の記憶の中で「こういう人だった」という物語として残り、その物語の中には「今どう生きるか」「未来をどうありたいか」という理念や理想が含まれています。
たとえば、原爆で亡くなった人々の記憶には、平和への理念が刻まれています。その理念が未来に生かされるならば、その死は単なる犠牲ではなくなります。
死者の記憶に込められた理念を生きることは、他者の死を無意味なものにしない行為であり、同時に自分自身の死をも無意味にしない行為です。もし死者が自分にとって意味を持たないなら、自分もまた未来にとって意味を持たないことになります。
過去の死者とつながる現在と、未来を見つめる理念は、同じ流れの二つの側面で、過去の記憶の中には自ずと価値観が含まれていて、それによって私たちは現在の生を見いだし、未来への行動を起こすのだと池澤先生は語ります。
まとめ
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 池澤 優
池澤先生の講義は、死者を単に「過去の存在」としてではなく、私たちの生を支え、未来を拓く存在として捉えます。死者の記憶には、未来への理念が宿っています。その理念を生きることは、私たち自身の生を意味あるものとし、人類がどのような未来を築くべきかという根源的な問いへとつながっていくのです。
さらに詳しく学びを深めたい方はぜひ講義動画をご覧ください。
また、UTokyo OCWでは死生学に関連した他の講義シリーズの動画も配信しています。こちらもぜひご覧ください。死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)
〈文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:「つながり」から読み解く人と世界(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2019年度講義) 第4回 未来を拓く死者の「記憶」―生死のつながりの視点から― 池澤優先生
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2025/09/22
今や私たちにとって身近なものとなった生成AI。ChatGPTのことを「チャッピー」と呼んで愛用しているという人も多いのではないのでしょうか。
わからないことがあったとき、文章を書きたいとき、誰かに相談したいことがあるとき、今では気軽にAIを利用することができます。早く解決策が知りたい、楽をしたい、理解や共感が欲しい、といった欲望を瞬時に満たしてくれるAIですが、AIを使って「効率化」することは良いことばかりなのでしょうか。
この問いに対して、脳科学を専門とする酒井邦嘉(さかいくによし)先生は、AIを使うことはすなわち「脳を使わず楽をすること」だと警告します。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 酒井 邦嘉
今回ご紹介するのは、2025年度開講の学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養)から、「第5回 脳を変える教養、AIに変えさせない教養」。講師は酒井邦嘉先生です。
「対話型」ではなく「対話風」AI
酒井先生は、AIの使用に伴う懸念点を三つあげます。
一つ目は、自分で考える前にAIに頼り、迅速に答えを得られることによって、思考力や創造力が低下してしまうということです。
二つ目は、AIに「欲しい言葉」を言わせることによって、自己肯定感が過剰に増幅する可能性があるということです。例えば、AIとの対話上で人の悪口を言ったり、片思いの人との妄想を膨らませたりすることができます。
三つ目は、文章の書き手と読み手の間の信頼関係が損なわれてしまうということです。学生が提出したレポートがAIによって書かれたものなのか生徒が書いたものなのか、両者の共同でできたものなのか判断することは時に難しいことがあると言います。
これらの懸念点に対する解決策として酒井先生は、「AIを適切に規制し、読書を取り戻すことが必要だ」と強調します。
なぜAIを規制する必要があるのでしょうか。その理由は、「人間の脳についてまだ研究で明らかになっていないから」です。現在、人間が生まれつき持っている言語能力については、言語学や脳科学の分野で解明が進んでいます。しかし、経験を通して身につけていく「経験知」については、まだ科学的に解明されていないと言います。それにもかかわらずAIをデザインしようとするのは乱暴な行為になりかねないのです。
「普遍文法」を通して世界を解釈する
ここからは、脳の構造に焦点を当てて見ていきましょう。
「普遍文法」は、アメリカの科学者ノーム・チョムスキーが提唱した言語機能です。誰もが生まれつき持っていて、言葉を扱うために必要な言語の秩序であるということができます。この普遍文法が、脳の中に入ってくる情報を分析し、新しい組み合わせを合成し出力するという「生成」のプロセスの素となっています。
普遍文法は科学的に解明されておらず謎に満ちたものであるため、現時点でのAIは人間が脳で行っている「生成」の機能を搭載しているということはできません。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 酒井 邦嘉
私たちはそれぞれ異なる普遍文法を持っているため、同じ情報に触れた時でも全く同じように理解するということはできないのです。どんなに気が合う友人とも持っている脳は異なります。全く別の脳のフィルターを通して物事を理解し記憶するからこそ、会話をして解釈をすり合わせ、お互いの考えを理解しようと努めるプロセスが必要になるのです。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 酒井 邦嘉
ここで重要になるのが文学です。たった一つの正解があるわけでもなく、作者が何を意図したのか、他の読者はどのように解釈するのか、「想像」する必要があります。それを踏まえて、自分なりの解釈を「創造」し、それを話したり書いたりして他者と共有することができるのです。
教養とは:後付けの知識ではなく生まれ持っているもの
さて、次に酒井先生は「教養」について話を発展させます。教養とは、知識を学び吸収することではなく、もともと持っているものの方向性をどう変えるかということだと言います。どういうことでしょうか。
ギリシャ哲学において、プラトンがソクラテスと若者メノンとの対話を記した文章の中に、「ものを知らない人の中には、その人が知らないその当のことがらに関する、正しい考えが内在しているのである」という言葉があります。つまり、教養とは、新たに知識を学び身につけるというものではなく、もともと生まれ持っているものを呼び起こすということだと言うのです。
これを踏まえて「教養」というものを考えたとき、教育を通して身につけた知性や技術を正しい方向に導くということが重要だと言えます。あらゆる学問分野において、『その知識を人間にとって適切に利用できるか?」「そこにリスクはないか?」ということを問い続ける必要があります。
私たちはAI時代をどう生きるか
酒井先生は最後に、AI時代を生きる上での三つの戦略を提示します。
一つ目は、様々なことに取り組み、そして徹底的に努力する経験を得るということです。例えば10年間バイオリンを練習していたら、その練習方法や向き合い方を他のことにも応用することができます。やる気を失わず、慢心せず、自分の限界のギリギリのところまで負荷をかけたトレーニングを継続することが大切だと言います。
二つ目は、AIの意思決定を超える人間的なセンスを磨くことです。人間は大局的な流れや文脈を把握することに強みがあります。将棋を例に挙げると、人間の棋士は対戦相手の性格まで考え、流れを捕まえようとします。膨大なインプットと経験を積み重ねることによって、AIは持っていない「直感的なセンス」を磨くことができるのです。
三つ目は、芸術作品や文学作品を見極める感覚を育てることです。膨大なデータベースに照らして作品の価値を判断するのではなく、自分の直感を磨くことが大切だと言います。そのためには、美術館、博物館やコンサートに足を運び生の体験をする中で、自分なりの価値判断の土台のようなものを作っていくことができるはずだと言います。
さて、皆さんの脳は「AIを遠ざけることで教養を磨く」という酒井先生の主張をどのように解釈しましたか?もう少し詳しく話を聞きたい…そう思った方はぜひ講義動画全編をお楽しみください!
<文/下崎 日菜乃(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養)2025年度開講 第5回 人脳を変える教養、AIに変えさせない教養 酒井邦嘉先生
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2025/09/10
私たち日本人は、世界の中でも特に発酵食品に囲まれた食生活を送っています。納豆、日本酒、醤油、味噌...
そんな「発酵」の鍵を握っているのが微生物です。でも、食べ物がカビたり腐ったりするのも微生物の仕業。
「微生物」とは一体どのような存在なのでしょうか。
今回は、そんな微生物をテーマとした講義「人類に役立つ微生物たち――いろいろな境界線から微生物を語る――」をご紹介します。講師は東大農学部の微生物学系研究室の歴史を受け継ぐ大西康夫先生。
「境界線をめぐる旅」と題する講座の一部として、「発酵と腐敗の違い」「人類の敵か役立つか」「普通の菌か病原体か」といった「境界」に着目しながら行われた講義です。
では、さっそく微生物について学んでいきましょう!
そもそも微生物って何?
そもそも微生物とはどのような生物なのでしょうか。
講義では「小さすぎて肉眼では、はっきりとは認識できない生きもの」と紹介されています。肉眼では見えなくても顕微鏡では見えるので、研究もできるわけです。
有名なのは小学校などでも習うゾウリムシやミドリムシなど。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2013, 大西康夫
また、普通は肉眼で見ることのできない微生物も、集まったり広がったりすると見ることができるようになります。
その例がカビなど。
さらに、皆さんおなじみのキノコも、カビの子実体(胞子を作るための構造体)の大きなものであるため、微生物であると言えます。
微生物学の歴史
さて、ここからは微生物についてより詳しくなるために、微生物の歴史、そして人間と微生物の歩みの歴史を学んでいきましょう。
原始微生物、つまり最初の微生物が誕生したのが36億年前です。
そしてさらに11億年後の27億年前に、ラン藻という微生物が誕生します。ラン藻はシアノバクテリアとも言われ、光合成を行い酸素を生産します。
余談ですが、シアノバクテリアが活動の過程で海中の泥や砂粒を取り込んで固めてできた層状の堆積物は「ストロマトライト」と言われています。化石となったストロマトライトは世界各地の地層で発見されており、世界遺産にもなっているオーストラリアのシャーク湾など、一部の場所では現生しているものを見ることもできます。
ストロマトライト
さてその後、真核生物という少し複雑な微生物が出現し、9億年前に多細胞生物が出現します。
何億年前と言われても昔過ぎて、私たちにはなじみがないということで、大西先生が生命の歴史を1年に例えた年表を作成してくださっています。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2013, 大西康夫
原始微生物が誕生したのが元日だとすると、先ほどご紹介したラン藻が誕生して、酸素が生産されだしたのは四半期が経過した4月ごろ。皆さんが大好きな恐竜は12月に繁栄し、クリスマスには絶滅しました。人類が出現するのは大晦日で、紅白歌合戦も佳境を迎える23時半ごろ、現生人類が出現したそうです。
微生物の歴史が人類や恐竜の歴史に比べどれだけ長いか、イメージがつかめましたか?
人類と微生物
さて年が変わる直前に人類が誕生したわけですが、人類が微生物を認識できるようになるのはさらに先のことです。
しかし、人類は微生物を認識するはるか前から、経験的に微生物を利用してきました。
代表的な例が酒や食べ物。酒の起源は神話の時代に遡り、日本では古事記に登場し、メソポタミアのビール製造や旧約聖書のワインなど、世界中で微生物が利用されてきました。
そんな微生物を初めて見た人間がレーウェンフックです。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2013, 大西康夫
レーウェンフックは自ら発明した顕微鏡を用いて微生物を観察したことから、微生物学の父と言われています。これは17世紀の出来事。
しかし、この段階ではまだ、微生物の役割までは解明されていませんでした。
微生物の機能の発見で知られているのが、フランスの生化学者であるパスツールです。彼は19世紀に、実験により生物の自然発生説を完全に否定したり、発酵の過程における微生物の役割を証明したりしたことから、近代微生物学の祖とされています。
また、同時期に活躍したドイツの医師・細菌学者であるコッホは、病原微生物を発見したり、微生物の純粋培養法(特定の微生物だけを人工的に増殖させる方法)を確立したりしたことから、彼もまた近代細菌学の祖とされています。
このころようやく、微生物の働きを人類が理解できたのです。
ここで東大にも目を向けてみると、大西先生も所属している農学部で、1900年に初めて微生物に関する講座が開講されました。大西先生はそんな微生物系研究室の系譜を受け継いでいます。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2013, 大西康夫
そんな研究室の系譜の三代目に当たる坂口謹一郎先生はお酒の博士としても知られています。
特に、沖縄で、泡盛の製造に欠かせない黒こうじ菌が第二次世界大戦で全滅してしまった際、坂口先生が東大で保存していた黒こうじ菌により再び泡盛製造が始められたというエピソードが有名だそう。その縁で、東大では「御酒(うさき)」という泡盛を販売しています。(本郷キャンパス構内のお店やオンラインでも購入できるので、泡盛好きの方はぜひ!)https://utcc.u-tokyo.ac.jp/user_data/sake
おわりに
さて、微生物の歴史と人類とのつながりを簡単にご紹介しましたが、講義ではここから、最初に紹介したような様々なトピックで微生物について説明されています。
講義終盤には遺伝子組換えについてのお話や受講生からの意見などもあり、倫理的な問題といった課題についても触れられています。
また、大西先生は講義中盤と最後に坂口謹一郎先生の「微生物に頼んで裏切られたことはない」という言葉を紹介しています。
微生物が敵か味方かを判断するには、各々が微生物のことを良く知っておく必要があるでしょう。ぜひ、皆さんも講義を視聴して、微生物の世界に飛び込んでみましょう!
<文/おおさわ(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:境界線をめぐる旅(朝日講座「知の冒険—もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2013年度講義) 第8回 人類に役立つ微生物たち――いろいろな境界線から微生物を語る 大西康夫先生
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2025/09/04
インクルージョンやダイバーシティを考える時、皆さんはどのような議論を思い浮かべるでしょうか?もちろんどのようなテーマも重要なものですが、実は精神障害について語られる機会はまだ多くありません。
今回ご紹介するのは、「学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養)第4回 教養の力で変える未来:インクルーシブな社会の実現に向けて」です。
本講義では2つの事例を精神保健福祉の観点から振り返ります。
ソーシャルワーカー(認定精神保健福祉士)、公認心理士である細野正人先生と一緒に、今私たちに求められる「教養としての福祉」について考えてみませんか?
※本記事では、発表者の臨床経験に基づく事例や自殺に関するデータ(公表されているもの)も取り扱われます。体調が優れない方や苦手な方はご注意ください。
20代女性大学生のケース
まずは20代女性、大学生のケースを説明します。
15歳で自閉スペクトラム症(ASD)と診断され、精神科外来・精神科デイケアを利用していました。大学に進学後、希死念慮に加え衝動行為が出現したことで急性期閉鎖病棟に入院。
しかし、入院中は問題行動が発生せずすぐに退院となり、その後入退院を繰り返す状態となりました。その中でより自傷リスクの高い行動をとるようになり、他界に至りました。
本ケースでは、家族支援を充実させることや入院治療のリスクとベネフィットについて、より検討する必要があったと考えられます。入院は非日常的な生活であるため、社会復帰が難しくなるというリスクにも目を向けることが必要です。
精神科における入院と急性期閉鎖病棟
精神科での入院形態は、大きく2つに分けることができます。本人が同意して入院する任意入院と、一般的に強制入院とも言われる非自発的入院です。
非自発的入院は、さらに医療保護入院、応急入院、措置入院、緊急措置入院の4つに分けられますが、大半は家族や周囲の人が本人の代わりに同意をして入院する医療保護入院です。
ここで皆さんに想像していただきたいのですが、もし急に医師から「あなたには今から入院してもらいます」と言われたら、どのように感じるでしょうか?私の症状はそこまでではないと思うんだけど…と感じる方が多いのではないかと思います。
医療保護入院は、大半の方が「自分は入院するほどではないはず」と感じている状態で、家族などの同意によって入院するケースで、全体の半分くらいを占めています。
精神疾患の好発年齢
本ケースは、当事者が大学生です。
近年、全国の大学の調査で、大学生の精神的な相談が増えているという結果が出ています。相談に行くことができる人が増えているのは良いことですが、これには大学生の年齢層が精神疾患になりやすい特性を持っていることも関係しています。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 細野 正人
こちらのグラフをご覧ください。実は、精神疾患は、17歳~35歳に発症しやすいというデータがあります。これには、人生の大きな転機がこの年齢に集中していることも関係していると考えられます。
日本国内の自殺者数の推移
続いて、データをもとに日本が置かれている状況を振り返ります。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 細野 正人
日本全体では、平成15年がピークで、最近は2万人程度に減少している傾向にあります。しかし、G7(日本・アメリカ・フランス・ドイツ・カナダ・イギリス・イタリア)では依然として最も高い自殺死亡率です。また、最近では中国、韓国で深刻化しているという問題もあります。
自殺予防は可能か?
では、自殺を防ぐことはできるのでしょうか?
細野先生によると、他の人にとっては突然起きたように思える自殺も、その人なりのプロセスが進行して発生しています。予防には精神科医療によるアプローチも必要ですが、コミュニティやエンパワメントの役割も大きいとされています。
また、助けを求める援助希求も重要な要素となりますが、実際のところでは、「助けて」が言えない人も多くいることを私たちは理解しなければいけません。
30年後、インクルーシブな社会を実現するためには、私たち一人ひとりが向き合うこと、「他人事ではなく全員が当事者だ」と考えることが重要だと細野先生は話します。
20代男性医師のケース
続いて20代男性医師のケースを取り上げます。
内科後期研修中(医師として4年目)に、患者との死別が多いことと恋人との別れが重なったことから、興奮が抑えきれず暴言を吐いたことで、精神科を受診。統合失調症(以降、急性一過性精神病性障害)と診断され、医療保護入院となりました。
入院初期は支離滅裂な言動や、強い興奮が認められ、初日から身体拘束となり薬物療法が開始されましたが、1週間で症状がある程度軽減され、退院し自宅療養となりました。結果的に、3カ月の精神科リハビリテーションと薬物調整によって症状はほとんどなくなり、負担の少ない診療科に転職し6カ月で復職に至りました。
本ケースでは、初期に極めて強い症状が出現したことで早期に介入ができ、回復の大きな要因になりました。また、復職を焦らずに精神科リハビリテーションに通い、安定した生活を送ったことも寄与していると考えられます。
メタ認知トレーニング
ここで、本ケースのリハビリテーションで取り入れられた「メタ認知トレーニング」という療法について説明していきます。
メタ認知トレーニングとは、ハンブルク大学のS.Moritz教授らが開発したもので、現在では日本でも精神科デイケア、作業療法など幅広く導入されています。
説明を読む前に、少し体験してみましょう。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 細野 正人
このスライドにある絵を見て、タイトルを当ててみてください。
皆さんは、a,b,c,dのうち、どれだと思いますか?
正解は……
aの訪問者です。(Carl Spitzweg,1849)
絵をよく見てみると、左の窓枠に鳥がとまっているのがわかると思います。そして描かれている人物も本ではなく鳥を見ていることから、この絵のタイトルは訪問者であると言えます。
しかし、一体これのどこが治療につながるんだ?と思われた方も多いのではないでしょうか。
実際の現場では、患者さん同士で答えを話し合ったうえでトレーナーが答えを教え、困ったときは大事な人に相談してみるなど「情報を多く集めることの大切さ」を繰り返し話します。
実は、メンタルヘルスの問題を抱えると、性急な判断をしてしまいます。例えば、自分が大丈夫だと思える要素をすべて無視して「自分はここにいてはいけないんだ」というような単一的な情報を選択してしまうことも少なくありません。
このトレーニングを繰り返すことで、メタ認知、いわゆる「自分のことに対する認知」が高まりメンタルヘルス不調を防ぐことにつながります。
自分らしさは取り戻せるか?
今回のケースにおいて、当事者は医学部生時代と初期研修医時代に精神科医療を学んでおり、自身が保護室で身体拘束されるという絶望は計り知れません。
身体拘束に関しては自尊心を傷つけるという報告もありますが、本ケースではその後のサポート体制が充実していたことで回復したと考えられます。
看護研究では、その人らしさとは「内在化された個人の根幹となる性質で、他とは違う個人の独自性をもち、終始一貫している個人本来の姿、他者が認識する人物像であり、人間としての尊厳が守られた状態」とされています。
当たり前、と思われるかもしれませんが、入院中にそれが守られていなかったり、日々の生活でも皆さんの尊厳が守られていない状態というのは、残念ながら実際にあることです。
ここで重要となるのは、個人を尊重してパーソナル・リカバリーを理解することです。パーソナル・リカバリーについては講義でさらに詳しく説明されているので、ぜひ動画をご覧ください。
まとめ
本講座では、2つの事例を取り上げながら、精神保健福祉の観点から考察を加えています。
細野先生は、最後に、 精神障害など困難があったとしても、リカバリーを目指し自分らしさを取り戻す可能性は十分にあると言います。
しかし、そのためには、多様性を尊重する(認める)文化ではなく、さらに一歩進んだ、他者を認め・共感し「自分らしさ」を当たり前に実現できるような文化・社会が必要です。
また、心理的安全が確保されたコミュニティがあることも非常に重要です。私たちは様々なコミュニティに属していますが、その中に「自分が否定されない」「自分の情報が漏洩されない」といったことが保証されているコミュニティが必要なのです。
私たちが教養としての福祉を身につけ、エンパワメントやピア・サポートなどが充実した社会になることで、30年後の未来は変わるかもしれません。
講義動画では、ここでは紹介しきれなかった事例や先生ご自身のエピソードも語られています。少しでも興味を持たれた方は、ぜひ動画をご覧ください。
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養) 第4回 教養の力で変える未来:インクルーシブな社会の実現に向けて 細野正人先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/08/14
「楽しいとは何か?」
そう問われたとき、私たちは意外と答えに詰まります。自分が何をしているときに楽しいのか、どのような条件を満たすと「楽しい」と感じるのか、実は明確には分かっていないのかもしれません。
哲学の世界では、一般に「美しい」の方が「楽しい」よりも高尚なものとされてきました。そのため、「美しい」に関する議論は数多く存在しますが、「楽しい」についての哲学的議論は多くありません。楽しみそのもの、そして楽しむためだけに存在する「嗜好品」についても同様です。
この「嗜好品」という言葉はドイツ語の「Genußmittel」を翻訳したものです。「Genießen」は「楽しむ」「味わう」といった意味の動詞で、「Genuß」はその名詞形。「Mittel」は「手段」ですから、「Genußmittel」とは「楽しむための手段」、すなわち嗜好品というわけです。
講義では、「Genuß」を「享受の快」と訳し、この概念を通してカントが人間の楽しみをどう捉えていたのか、そしてその考えが現代社会においてどのような意味を持ちうるのかを考えていきます。
今回ご紹介するのは、2025年度開講の学術フロンティア講義(30年後の世界へーー変わる教養、変える教養)「第2回 享受の快--カントと嗜好品」。講師は『暇と退屈の倫理学』『手段からの解放』などの著書で知られる哲学者・國分功一郎先生です。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 國分功一郎
カントの理論体系
早速、本題に入ります。まずは、カントの理論体系を踏まえ「享受の快」がどう位置付けられているか見ていきます。
カントには三つの主著、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』があり、それぞれ人間の異なる能力を扱っています。この三冊をもって、カントは人間の経験全体を説明しようと試みました。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 國分功一郎
『純粋理性批判』では認識能力を、『実践理性批判』では欲求能力、すなわち「善をイメージしてそれを実現したいと欲求して行為する」能力を吟味しています。そして、『判断力批判』が対象とするのは人間の「感情能力」です。(ここでの「批判」はケチをつけることではなく、吟味するという意味です。)
表が示しているように、カントはそれぞれの能力を高次と低次に区別しています。たとえば、欲求能力においては「やらなければならないからやる」ことが高次とされ、「何かのためにやる」ことは低次とされます。
人間の「快」は4種類しかない?
そして、カントによれば、人間にとっての「快」は4種類に分類されます。(「快」は、快楽や快感とも訳せますが意味が限定されてしまうのでここでは「快」と訳します。)
快の対象は、快適なもの、美しいもの、崇高なもの、(端的に)善いものの4つのいずれかに当てはまると考えられ、このうち「快適なもの」(Angenehmen)という概念が、「享受の快」に結び付けられています。
4つの快の対象の配置
では、先ほどの快適なもの、美しいもの、崇高なもの、(端的に)善いものは、カントの理論体系においてどのように配置されているのでしょうか?
カントは、欲求能力の高次の実現に「善いもの」、感情能力の高次の実現に「美しいものと崇高なもの」、低次の実現に「快適なもの」を位置づけます。
UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2025S 國分功一郎
こちらの表を見てください。このように配置された4つの枠(象限)に、右上から反時計回りに番号を振ってみます。
すると、お気づきの方もいるかと思いますが、快の対象は4つの象限に不均等に配置されていることがわかります。
そう、第3象限(欲求能力の低次の実現)には、快はないとされています。これは驚くべきことです。なぜなら、私たちの日常生活はほとんどこの領域、つまり「何かのためにやる」ということで成り立っているからです。
例えばいい会社に入るために受験勉強を頑張る、単位を取るために授業に出るのも、この第3象限に当てはまります。
しかし、カントはそこに満足はあっても快はないと言います。なぜなら、自分で自分の行動を決めるのではなく、何かに駆り立てられて行動しているからです。例えば、いい会社に入るために受験勉強をしようと考える時には、いい会社に入るのが良いことだという社会通念に駆り立てられていると言えます。カントは、このような行為を「病的(パトローギッシュ)」とさえ表現しています。
一方で、第4象限(感情能力の低次の実現)は、高次の実現である第1象限と第2象限とグルーピングされています。これを踏まえると、カントはこの第4象限、つまり「享受の快」を重視しているのではないか、とも考えられるのです。
手段と目的からみる「享受の快」
この4つの象限を目的と手段という観点で見つめ直したとき、「享受の快」の特徴が浮かびあがります。カントにおいて、目的は「あるべき姿」を意味するもので、第2象限の善は人間のあるべき姿、目的ということになります。
また、カントによれば「美」の体験というのは、あらかじめ「こうであるべきだ」とわかっているわけではないものを見て、つい「こうあるべきだ」と感じてしまうことです。
國分先生は、彼岸花を初めて見たときの経験を例に挙げています。庭の草むしり中にふと目にし、その複雑で独特な形に「なんだこれは?」と思いながらも、心惹かれ「きれいだ」と感じた経験です。
また、カントは崇高なものというのは、圧倒してくる自然物を前にしたときに、自らの人間性というあるべき姿(目的)を再発見することだと言います。
つまり、快の対象として挙げられた4つのうち、「快適なもの」以外は目的性、「こうあるべき」というべき性質があります。
カントが快適なものを説明する際に最初にあげている例は、ワインです。ただおいしく、ただ単に満足を与えるもので、そこに目的性はありません。
しかし、この中で特に問題になるのが、第4象限と第3象限の区別です。
たとえば、「今日は疲れたからビールを飲みたい」と思っているとしましょう。このとき、目的は「リラックスすること」、ビールはその手段です。実際に飲んで「やっと飲めた」と感じたときの快は、「目的を達成したこと」による満足です。
しかし、ここでの「快」と、ビールそのものの味わいが与える「快」とは異なります。「おいしい」と感じるその感覚は、「享受の快」として第4象限に属するものです。
食事についても同様です。栄養摂取が目的であることは間違いありませんが、たとえ栄養のために食べていたとしても、「今日のご飯はなんだかおいしい」と感じる瞬間には、栄養という目的を超えた「享受の快」が生まれているのです。
つまり、目的達成による満足と、対象そのものが与える快とは、概念的にも区別されなければなりません。
嗜好品と違法薬物の明確な区別、そして依存症の問題
ここで皆さんに考えていただきたいのは、「もし、第4象限が失われ、第3象限のみになると何が起こるか?」ということです。
たとえばアルコール飲料。これが第4象限の「享受の快」を失い、第3象限的な「酔うための手段」としてだけ消費されると、アルコール依存という病的状態へと至ります。このとき、飲酒は何らかの苦しみから逃れるための手段になっていることがあります。
さらに深刻な例が薬物依存です。薬は通常、何らかの症状を抑えるためというような明確な目的があり、手段となるものです。薬は人間が生きていくうえで大切なものですが、それを日常生活が送れない状態になるまで使ってしまうのが薬物依存です。薬には「享受の快」を与える要素が全くないため、純粋に第3象限に閉じ込められていると言えます。
こうした依存症の多くは、人生の苦しみと深く関わっており、その苦しみから逃れる手段としてアルコールや薬を使ってしまうことがあるということを、私たちは心にとめておかなければなりません。
まとめ
「享受の快」がはく奪された「生」、つまり第3象限のみで生きている状態では、すべてが目的と手段の連関の中に組み込まれてしまいます。何かを楽しむことが全くなくなってしまったとき、人は第3象限だけで生きることになるのです。
では、どうすればそのような状態を避けられるのでしょうか?
それは一概には言えないものの、人間にとって「快適なもの」、つまり「享受の快」をちゃんと取っておくことが大事なのではないかと國分先生は言います。
今の世の中では、このようなものを徹底的に排除する傾向にあると言えます。たとえば、たばこ、酒、砂糖のようなものは、健康の観点から忌避されつつあります。流行りである「コスパ」や「タイパ」も、すべて目的と手段だけで回していく考え方で、世の中全体が第3象限に切り詰められていっているとも言えます。
生の中で確かに大事なはずの「ただ楽しむだけのもの」。それが失われていく世の中で良いのだろうか?と國分先生は問いかけています。
講義動画では、ここでは紹介しきれなかった話題も少なくありません。また、内容だけでなく、哲学的な考察を日常と地続きの言葉を使い明快に解説する國分先生の語り口も動画の魅力です。
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義(30年後の世界へ――変わる教養、変える教養) 第2回 享受の快--カントと嗜好品 國分 功一郎先生
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2025/08/04
皆さんは「分解」と聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか?精密機器をバラバラにする作業や、生き物が土に還っていく過程を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、分解とはそれだけではありません。
分解を多角的に捉えなおした藤原辰史先生の著作『分解の哲学』は、音楽、芸術など多様な分野から大きな反響を呼びました。
藤原先生は、これまでの学問では大量に「つくる」ことばかりに集中していて、「捨てる」「捨てられたものが腐る、発酵する、粉々になる」ということを無視してきたのではないか、と言います。
今回ご紹介するのは、学術フロンティア講義 (30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える)から、「第11回 分解の哲学——「食べる惑星」の脱領域的研究」です。
「分解」を考える契機=使い捨て時代
まずは「分解の哲学」を考えるモチベーションとなる、現代の状況について考えていきましょう。
すぐに思い浮かぶのは、核実験や原発事故によって拡散している放射性物質の存在です。これらは分解されず、10万年もの間、毒性を放ち続けます。また、分解されにくいプラスチックが海の生物に影響を与え、それを食べる私たちも無関係ではいられない状況です。
さらに、ILO(国際労働機関)の調査によれば、約5000万人が「現代奴隷」として賃金が支払われないまま労働を強いられています。
このように、私たちは人もモノも「使い捨て」にしながら、自然の循環に還らないモノを次々と生み出しているのです。
「分解」されない人間
「分解」されなくなっているのは、実は人間も同じです。現代では、私たちの身体は土に埋められて微生物に分解されるのではなく、火葬によって灰になります。
さらに、生物の循環という観点から人間が引き離されている状況があります。
日本抗加齢医学会は、一部の組織では若返りも可能な状況になっており「老化が病」になる時代が来る、と主張しています。
しかし、老化とはそれほどまでに忌み嫌うものでしょうか?
藤原先生の考えでは、老化というのは自然に戻っていく美的な過程。「いつまでも若くいなければならない」という風潮に、生きづらさを感じる人も少なくないのではないでしょうか。
分解とは何か
では、そもそも「分解」とは何なのでしょうか。
分解とは、基本的に私たちの見えないところで進行している現象です。たとえば、『地面の下のいきもの』という絵本からは、地中の世界の豊かさを知ることができます。
この豊かな分解の営みは、地中だけでなく、海中や私たちの腸内にも広がっているのです。
The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024S 藤原 辰史
生態学における「分解」
学問的にはどう定義されているのでしょうか。
まず、生態学における分解の定義を見てみましょう。
「分解は、死んだ生物組織が徐々に崩壊することと定義され、それは物理的作用と生物的作用の両方によって進行する。分解は、複雑でエネルギーに富んだ分子が、その消費者(分解者とデトリタス食者)により二酸化炭素、水、無機栄養塩にまで分解されて終わる。」(M. Megon, J. L. Harper, C. R. Townsend 『生態学Ecology』(第四版、京都大学学術出版会、2013年、426頁)
また、土壌学においては次のように定義されています。
土壌のもつもう一つの重要な機能は、[……]「分解者」としての機能である。森林の落葉・落枝((らくし))はいつか分解されて、その中に含まれていた植物栄養は再循環される。動物や人間の作り出す排泄物も土壌に還すことによって「こやし」としての価値を得る。これらはいずれも土壌のもつ分解者としての機能に負っており、環境の保全と浄化に果たす土壌の役割はきわめて大きい。従来は、土壌の働きを、もっぱらその生産者としての
機能によって評価し、物質のリサイクルに果たしてきた土壌の分解者としての機能はほとんど評価されてこなかったきらいがある。(久馬一剛編『最新土壌学』朝倉書店、1997年、7頁)。
土壌学においては土壌の分解者としての機能が重要であること、そしてそれが過小評価されてきたのではないかという問題提起もなされています。
太田先生も、私たちは分解の過程によって生命を維持しているにもかかわらず、そのことを忘れてしまっていると警鐘を鳴らしています。
The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024S 藤原 辰史
この問題について教育学の立場から考えたとある学者を紹介します。
ドイツのフリードリヒ・フレーベルという人です。
実はこのフレーベルの名は、『アンパンマン』の絵本を出している出版社にも使われています。その理由は、私たちが今もお世話になっている二つの重要なものを生み出したからです。
一つ目は「Kindergarten(キンダーガルテン)」。ドイツ語で、今でいう幼稚園や保育園を指します。フレーベルは、これまでは家で過ごしていた子どもたちに、教育の場が必要だと考えました。「Garten(庭)」という言葉には、植物を育てるように、あるいは植物が育つ中で人間も育てなければならない、という考え方が表れています。
そして2つ目は、積み木。フレーベルはこれを“分解の世界”を学ぶ道具と捉えました。
たとえば1~3歳の子どもは、積み木の色や形を観察し、動かしたり、硬さを確かめたりします。やがて新しい特徴や使い方を発見しようとして、完成品を壊したり、その形を変えようとします(『フレーベル全集 第四巻』より)。
子どもは積み木を積んではすぐに壊すという遊び方をよくしますが、大人にはもったいなく感じられるかもしれません。
しかし、フレーベルによればこの「壊す」という行為こそが重要なのです。例えば、家だったものを壊して馬を作り、またその馬を壊して何かを作ることで、物質は壊れて別の生き物の素材になることが繰り返されるという分解の世界を学ぶことができるのです。
食現象の拡大的理解
生態学では、生き物を生産者・消費者・分解者の3つに分けて考えてきました。
分解者は、生産者や消費者の死骸を分解して、二酸化炭素、水、無機栄養塩に変えてくれます。この3つは、生産者である植物が生きていく上で必要なもの。エネルギーの循環の中で分解者が果たす役割は非常に大きいのです。
そして、この3つの分類においては、人間は「消費者」とされてきました。しかし、人間は本当に消費者なのでしょうか?
人間は、発生の初期段階において、まず口から肛門までが一本の管(チューブ)のようにつながった構造として形成されます。まさに「ちくわ」のようなイメージです。
免疫学者の多田富雄先生によりますと、人間の体は基本的に「管(チューブ)」であると考えることができます。この管の内部、つまり消化管を通して、私たちは体の外から入ってくる食べ物(つまり他の生物の亡骸)から栄養を取り出し、不要なものを排泄しています。
このように、私たちの内臓は体の中にあるように見えて、実は「外界に開かれた内側」、つまり「内なる外」ともいえる場所にあります。その管の中を、食べたものが通っていくのです。
さらに、私たちは腸内でおよそ30兆から100兆もの微生物を飼って、分解をしています。このような視点から見ると、人間の体は、まるで「分解者のデパート」のような存在で、私たち自身が「分解者そのもの」であると言っても過言ではありません。
The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024S 藤原 辰史
太田先生によると、人間を含め「消費者」と呼ばれる存在も、じつは分解を行う仲間のひとつです。つまり、「分解」とはもっと広い意味をもつ現象だと言えるのです。
先ほど述べたように、「生産・消費・分解」という言葉は、もともと生態学から生まれたものです。ただし、生態学そのものは20世紀初頭にできた、比較的新しい学問です。そのため、当時すでにあった経済学の「生産」と「消費」の概念を用いて、そこに経済学にはない「分解」という概念を加えた、少し無理のある枠組みともいえます。
だからこそ、いま改めてこの考え方を見直し、かみ砕いて考えてみることが重要なのです。
人間社会における分解
ここまでは生物に関する「分解」について見てきましたが、社会の中でも、モノが分解されて再び活用されることは多くあります。
たとえば江戸時代には「くず拾い」という仕事がありました。当時の江戸は世界有数の出版文化を誇っており、街には多くの和紙が落ちていました。それを集めて、浅草の紙漉き職人が紙を漉き、「浅草紙」、今でいうトイレットペーパーを作っていたのです。
現代でも、リサイクルという形でゴミが分解され、新たなモノとして生まれ変わっています。
分解の副産物としての芸術
さらに視点を広げてみると、「分解」は芸術の世界とも深い関わりを持っていることがわかります。
太田先生によると、ある芸術家の方が、「今、世界では破壊が大きく進んでいる。その中で、どんな言葉を使えばこの状況を語れるのか分からないが、『分解』という言葉がしっくりくるのではないか」という内容をお話されていたそうです。
日本でもかつて、中国から陶磁器を輸入していましたが、荒れた海を越えるうちに割れてしまうことも多かったそうです。そこで、日本独自の漆で修復するという発想から生まれたのが金継ぎです。最近では、その美しさと哲学が再び注目されています。
The University of Tokyo 学術フロンティア講義 2024S 藤原 辰史
そして、こうした表現は日本に限ったものではありません。例えば、1920年代のヨーロッパでは、ダダイストたちが街角のごみを集めて一つの芸術作品に仕立てました。有名なピカソも、自転車の錆びたハンドルと古いサドルを使って作品を制作しています。
このように、「分解」と芸術は非常に相性が良いことが分かってきています。
最後に
本講義では、「分解」というテーマについて、生態学・社会学・芸術学の観点から解説されており、その多様な広がりを存分に味わうことができます。
さらに、講義動画では、今回ご紹介しきれなかった話題も数多く取り上げられています。
たとえば、「分解」を考えるうえで重要なモチベーションとなる「食と農業と公害」の問題や、生物だけでなく人間社会におけるモノの分解、そしてそれに関わってきた人々の物語など、思わず聞き入ってしまうようなお話が随所にちりばめられています。
本記事を読んで興味を持たれた方は、ぜひ講義動画をご覧ください!
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:学術フロンティア講義(30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える) 第11回 分解の哲学——「食べる惑星」の脱領域的研究 藤原辰史先生
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2025/07/14
UTokyo OCWで公開中の講義『コンピュータシステム概論』(講師:小林克志)が、NVIDIA社が運営する学習ポータルサイト「AI Learning Essentials」にて紹介されました。
このポータルサイトは、NVIDIA Deep Learning Institute(DLI)が提供するAI・データサイエンス分野のオンライン教材を紹介するサイトです。生成AIや大規模言語モデル(LLM)の進化に欠かせない検索拡張生成(RAG)などの概念を、段階的に学ぶことができます。
AIを学ぶための基礎リテラシーとして外部の優良教材を紹介しており、UTokyo OCWのコンテンツがその一つとして取り上げられました。
■掲載された講義情報講義名:コンピュータシステム概論講師:小林克志講義概要:コンピュータシステムを利用した情報サービスの知識はあらゆる分野で求められている。 本講義では、情報サービスの提供に必要な知識・スキルに加えてそれらの獲得方法を学ぶ。OCWコースページ:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/course_11482/
『コンピュータシステム概論』は、数理・情報教育研究センターが開講している数理・データサイエンスに関する公開講義のうちの一つで、全18コースが開講されています。トピックごとに5分〜60分程度と短く分かれており、学び直しに最適です。詳細:数理・データサイエンス e-learning教材
AIやデータサイエンスに関心のある皆さまの学びに、ぜひUTokyo OCWをお役立てください。
掲載先リンクNVIDIA「AI Learning Essentials」公式ページ:https://www.nvidia.com/ja-jp/learn/ai-learning-essentials/
2025/07/08
2025年7月6日、小学館が運営する情報メディア『@DIME(アットダイム)』にて、当センターが運営するUTokyo OCWおよび東大TVの取り組みについての取材記事が掲載されました。
記事では、当センターが提供している東京大学の授業動画やシンポジウム映像などの公開コンテンツが広く社会に活用されている現状が紹介されています。また、視聴者の年齢層や関心が高い講義のテーマについても詳しく取り上げていただきました。
私たちが推し進めているOpenCourseWareの取り組みや、今後の方向性について丁寧に取り上げていただいています。ぜひご一読ください。
▶︎ 掲載記事はこちら(@DIME):「東京大学の講義資料・映像が無料で見放題!どんな人が何を見ているのか調べてみた」
2025/06/09
みなさんは、マイケル・サンデルという名前を聞いたことがありますか?
『これからの「正義」の話をしよう: いまを生き延びるための哲学』(鬼澤忍訳、早川書房、2011年。原著2010年)という著書や、『ハーバード白熱教室』『マイケル・サンデルの白熱教室』といったテレビ番組をご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれません。サンデルは、ロールズらのリベラリズムを批判した政治哲学者として知られています。
そもそも、リベラリズムとは何なのでしょうか?そして、サンデルはどのようにリベラリズムを批判したのでしょうか?
今回の記事では、サンデルのリベラリズム批判に関する講義をご紹介します。本講義は学術俯瞰講義「正義を問い直す」第9回『法と道徳:同性愛を題材として』にて行われました。講師は、倫理学者の児玉聡先生です。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
サンデル対リベラルの前史 ハート=デブリン論争とは?
①ウォルフェンデン報告書
講義の中ではまず、1950-60年代に英国で行われた同性愛の非犯罪化をめぐる論争(ハート=デブリン論争)が取り上げられます。児玉先生は、このハートとデブリンの論争は、サンデル対リベラルの前史としても捉えられるのだと言います。英国において、同性愛は長きにわたり禁止されてきました。16世紀から19世紀半ばまでは、キリスト教的価値観に背くものとして絞首刑の対象であり、論争が勃発した1950年代においても、男性間の性交は罰金から終身刑まで課される行為とされていました。強制わいせつ等でなく、合意のある成人男性間で私的な場で行われようと違法とみなされていたのです。同性愛が犯罪化される状況に異を唱えようと提出されたのが、ウォルフェンデン報告書です。この報告書では、刑法の役割として、公序良俗を維持し、市民を不快または有害なものから守り、搾取から保護することが挙げられます。そして、道徳や宗教に基づいて市民の私的な生活に介入するのは刑法の役割を超えている、成人間で私的な場で行われる同性愛行為は非犯罪化すべきだという主張が展開されます。ウォルフェンデン報告書のこうした主張は、ミルの自由主義の立場にたっていると言えます。ミルは、ある個人の意志に反して権力を行使してよいのは、他者に対する危害の防止を目的としたときだけだとしています(他者危害原則)。「こうした方が本人にとってよいだろう」「本人の幸せのため」といった他者の意見や道徳は、個人の行動を抑制したり強制したりする理由にはならないというのです。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
②デブリンによるウォルフェンデン報告書批判
デブリンは、同性愛行為の規制緩和には賛成したものの、ウォルフェンデン報告書にみられるリベラルな理論を批判しました。デブリンは、法には「公共道徳」を守る役割があるのだと主張します。公共道徳とは、社会の成員の生活やふるまいに対する、社会全体の道徳判断を指します。デブリンによれば、公共道徳が守られなければ社会道徳が腐敗し、社会の崩壊に繋がるといいます。
③ハートのデブリン批判
そして、ミル的リベラリズムの立場から、デブリンを批判したのがハートです。デブリンは法による道徳の強制を認めましたが、ハートは法はあくまで個人を危害から守るものであり、法による道徳の強制は認められないと主張しました。法による道徳の強制がなければ社会が崩壊するというデブリンのテーゼは、実証性に乏しいとも指摘しています。ただし、ハートは法によって多数派の道徳を強制することを批判する一方で、個人の利益を守るための強制はある程度認められるとしています。児玉先生は、本人を怪我という不利益から守るためのシートベルト着用義務化を例として挙げています。
ハート=デブリン論争を簡潔にまとめるならば、デブリンー法には公共道徳を守る役割があるとするハートー他人に危害を与えない限り法は個人の行為に介入することができず、法によって道徳が強制されてはならないという、法と道徳をめぐる対立であると言うことができるでしょう。
サンデルはどのようにリベラリズムを批判した?
ここからは、サンデルのリベラリズム批判についての話題に移ります。サンデルは、ロールズらのリベラリズムに対する批判を行いました。
主流のリベラリズムは、正義原理は各人の善の構想とは独立に決定されるとする立場で、ロールズのリベラリズムも同様の性質を持つと児玉先生は言います。正義原理とは、社会秩序のあり方を意味する言葉だと考えられます。また、「善の構想」とは、各人の人生プラン、幸福、価値観を指す言葉として使われているそうです。つまり主流のリベラリズムは、社会秩序は何を幸福とみなすかといった各人の価値観に依らず、価値に中立性を保って決められるべきとする立場だと言い換えることができるでしょう。
サンデルのリベラリズム批判その1
これに対しサンデルは、「あなたはあなた、わたしはわたし」という風に、道徳が「私事化」されることがリベラリズムの問題だと批判しました。先述したとおり、主流のリベラリズムでは、社会秩序が各人の価値観に依らずに決められることが求められます。こうしたリベラリズムのもとでは道徳的・宗教的信念が政治の場から排除され、私的な問題として扱われているとサンデルは指摘します。各人の善や価値は「何かそっとしておくべきもの」のように扱われ、価値が公に議論されなくなり、公共道徳が不在になることを、サンデルは懸念しました。なお、公共の道徳・善を志向するという点でサンデルとデブリンの立場は重なりますが、公共の道徳・善を見つける方法は二人のあいだで異なっています。デブリンが公共道徳とは陪審席にいるような普通の人の判断だとしたのに対し、サンデルは、熟議によって公共善が見つけられるのだとしました。
サンデルのリベラリズム批判その2
また、サンデルは、リベラリズムが理想とするように、善に関して中立性を保ったまま正義を決定することは不可能だとも主張します。正義と善は不可分であるというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。本講義においては、同性婚を事例としてディスカッションを行うことで、サンデルのリベラリズム批判について理解を深めます。なお、この講義は2011年に行われており、同性婚訴訟等の社会状況は2025年現在と大きく異なります。さらに、同性愛やトランスジェンダーについて現在とは異なる社会通念のもとで発言がなされる点、このディスカッションは当事者の人生に想像を巡らせるというよりは、思考実験の色彩が強いものである点に留意した上で視聴する必要があると思われます。
UTokyo Online Education 法と道徳:同性愛を題材として Copyright 2011, 児玉 聡
しかし、同性婚をめぐるこのディスカッションは、結婚について根本的に検討するきっかけを与えてくれます。例えば、「政府が本気で善に関する中立を貫くのならば、一夫多妻の婚姻は承認されるのか?」「人間と動物の婚姻は?」「あるいは一切「結婚」を認めない方が中立なのか?」といった問いが投げかけられます。
また、児玉先生以外の教員も本講義に参加しており、「リベラリズムの根源を中立性だとするのは誇張ではないか。リベラリズムの根源を中立性だとするサンデル的なリベラルの想定に問題があるのではないか。」といった批判も加えられます。この講義を入口として、「正義を問い直す(学術俯瞰講義)」の別の講義を視聴すれば、さらに思索を深めることができるでしょう。マイケル・サンデル氏による講義も視聴することができます。法や道徳、正義や善について、または結婚制度について根本から考えるきっかけに、ぜひ「法と道徳:同性愛を題材として」をご覧ください。
また東大TVでも、マイケル・サンデル氏を招いて安田講堂でおこなわれた「ハーバード白熱教室 in JAPAN」(日本語字幕付)を公開しています。
<文/井出明日佳(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:正義を問い直す(学術俯瞰講義)第9回 法と道徳:同性愛を題材として
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2025/06/05
みなさんにとって、「家」とはどのような場所ですか?
睡眠のため、食事のため、、趣味のため・・・そこですることは千差万別です。また、進学や就職、共同生活の開始など、ライフステージに合わせて人は住む家を変えたり、新しく建てたりします。
私たちの生活にとって「家」は、なくてはならないもののように思えます。
しかし、もし自分ひとりで暮らしていたとしても、そこは完全な「ひとりだけの空間」というわけではありません。家に住むためにかかるお金は日々の支出でも大きなものですし、私たちはそれをどこからか得る必要があります。また、家で癒したいストレスは家の外から持ち込まれるものかもしれません。
何気なく過ごしている「家」には、その外にある社会との関係があります。 そうした目で「家」を見てみると、私たちにとって「家」とはどのような空間なのか、少し明らかになるのではないでしょうか。
今回はそうした「住居」に関して「居場所」という観点から迫っていく、文学部社会学研究室の祐成保志先生の講義を紹介します。
「バンキング・オン・ハウジング」と福祉
住居に関する典型的な問いとして、「持ち家に住むか、それとも賃貸に住むか」というものがあると思います。みなさんはどちら派でしょうか?
この「持ち家か賃貸か論争」ですが、実は、単に個人の価値観だけに還元される問題ではないのです。なぜなら、持ち家と賃貸のどちらを獲得するかが、社会を生き抜く上での立ち位置や有利不利に影響を及ぼすことがあるからです。
そのため、自分の住まう社会が陰に陽にどちらの選択を重視しているかが、その社会の政治・経済的な状態や方向性を示す、ひとつの判断材料になるのだそうです。
このことを、祐成先生はイギリスの住宅政策の歴史から説明します。
政治学者スチュアート・ローが著書『イギリスはいかにして持ち家社会となったか』という本で重要な概念として提示しているのが、「バンキング・オン・ハウジング」という言葉です。これを祐成先生は、「金庫としての住宅」と訳しました。
イギリスでは、住宅のエクイティを担保にして、新たに借金をすることができる仕組みがあります。「エクイティ」とは、自身の住宅の市場価値からローンの債務を引いた、住宅の「実質的な価値」のことです。つまり、住居自体を売却するのではなく、持ち家という現物資産の実質的な価値を担保とすることで、自宅の価値を現金化するということです。
これによって、人々は持ち家さえ保有していれば、医療や教育などの福祉サービスを得るのに必要な多額の出費を、公的な福祉制度に頼らずに、自力で調達することができるようになりました。
しかしなぜ、このような動きが発生したのでしょうか。
実は、このバンキング・オン・ハウジングの流れは、イギリスの福祉国家政策が縮小していく過程と軌を一にしているのです。戦後から続いてきたイギリス型福祉国家政策が崩壊していくなかで、個人が現物資産の現金化を通じて福祉サービスを獲得できるようになったことは、政府による福祉支出の抑制へと繋がりました。
このような、持ち家に代表される個人の資産(アセット)を重視する福祉のあり方を「アセット・ベース型福祉」と呼びます。こうした状況下では、より良い福祉サービスにアクセスするために人々はなんとかして、賃貸よりも持ち家を購入しようとするでしょう。イギリス流の福祉国家がアセット・ベース型へと再編成するとする過程で、賃貸よりも持ち家を選択することが重視される社会へと変わっていったのです。
この例から分かるのは、私たちの住居への関わり方には、社会や政治、市場との関係が大きく影響している場合があるということです。
住居の脱商品化と「もうひとつの政治」
以上の例は、住居が市場で取引されている(=商品である)ということを前提としています。
しかし、すべての社会で住居が商品として扱われているわけではありません。市場が整備されておらず実質的に持ち家しか存在しない「未商品化」の状態の社会もあれば、市場で住宅を入手できない人のために、政府が市場の外部で公営住宅や社会住宅などを分配する「脱商品化」を実行する社会もあります。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2018 祐成 保志
祐成先生は、住宅の脱商品化の多様な側面に注目しながら議論を展開していきます。
先に述べた公営住宅のように、脱商品化には市場における購買力ではなく人々の必要度に応じて住宅を分配するというものがあります。これは、市民の社会権の保障を目的とした脱商品化です。
これとは別に、重要な脱商品化の動きとして先生が指摘するのは、人々による「自作化」です。
「DIY」といった言葉に代表されるように、商品やサービスを市場で購入するのではなく、自分たちでそれらを作ってしまおうという動きです。ここには、社会や経済が不安定化していくなかでどのように生き抜いていくか、という人々の切実な問題があると祐成先生は指摘します。
イギリスの社会学者レイ・パールは、『分業論(Divisions of Labour)』という本の中で、現代社会における人々の自作化について研究しました。そこで見出されたのは、”home-centered way of living” と呼ばれる、自分の拠点である住居や町を中心として生活を行うライフスタイルです。
雇用の不安定化や福祉の削減など、従来のような完全雇用や十分な福祉政策に頼ることができなくなった人々にとって、雇われて賃金を受け取り、政府から福祉を享受するというこれまでのやり方は通用しなくなりました。そうした局面では「狭い意味での働き方」よりも、「どこに住むか」そして「いかに住むか」という「住むということ」が重大な関心事となります。
さらに、パールが指摘していく自作化への促進要因のなかで、祐成先生が特に重視するものがあります。
それが、「自作による楽しみや充実感」、そして「自分の見渡せる範囲をコントロールしたいという願望」です。不安定な世界で、自分が関与できる範囲に自分の能力を使い、自分にとっての価値を表現できるような世界を制作していくことです。
パールは、こうした住居や私生活への向き合い方は投票行動や社会運動などのいわゆる「フォーマルな政治」とは異なるものの、住居に向き合うことによって自分の人生や社会との関わり方を調整するような「もうひとつの政治」ではないかと主張します。実際、持ち家は失業や収入減に対する保険としても機能するため、住居を管理することが貧困の回避に直結するという意味で、それは切実な問題意識に基づいてもいるのです。
「ルーフ」と「ルーツ」
以上のような住居に対する感覚は、現代の日本ではどれほど共有されているでしょうか。
パールが研究していた20世紀後半のイギリスほど明確な形ではないかもしれませんが、従来のような、職業と住居をはっきりと区別した上で、雇用と福祉がいつまでも続くような生活のビジョンは、今の日本ではどれほど信じられるでしょうか。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2018 祐成 保志
祐成先生は、「住むこと」の意味を「ルーフ」と「ルーツ」というふたつの言葉にまとめました。
「ルーフ(roof)」とは屋根のことで、環境に境界を引き、緊張を解いて睡眠や休息をとることのできる、守られた空間という側面です。社会のなかで能動的にふるまうことへの期待から解放される、受動的な私たちのあり方が強調されています。
一方、「ルーツ(roots)」とは根のことで、しっかりと根をおろすことのできる空間という側面です。家に守られながら、その内部で自分を見つめ直したり、新しい家のかたちを作り出したりなど、社会的役割とは異なる能動性や、創造性のある私たちのあり方が強調されています。
このように、「住む」こととは、その外部の社会からの激しい影響を意識しながら、その上で安らぎを得たり、新たな意味を創り出していくことなのです。家での何気ない行為が、私を取り巻く様々なものとの相互関係にあるということを考えてみると、些細な日常も変わって見えてくるのではないでしょうか。
朝日講座
こちらの講座は、朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2018年度講義 「「居場所」の未来」で行われました。第一回である今回の講座から始まり、さまざまな分野を横断して「居場所」について考察する一連の講義は、すべてこちらで公開されていますので、ご興味があればぜひご覧ください。
<文/中村匡希(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:「居場所」の未来(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2018年度講義) 第1回 退却の作法 祐成保志先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。