だいふくちゃん通信

2023/02/01

多くの病気の原因はいまだ不明であり、治療法もない。
医療は、いつも効果があるとは限らない。医療は、常に危険を伴う。

突然で驚かせてしまったかもしれません。
しかし、医学系研究科の康永秀生先生は、医療についてそのように語っています。

まさに医学の専門家である康永先生が、どうしてそのように語っているのでしょうか?

今回は、「臨床疫学」という学問分野の紹介をもとに、現代の医療について康永先生と一緒に考える講義を紹介します。

医療の不確実性に切り込む臨床疫学

あなたは医療に対してどのようなイメージを持っていますか?

「身体に不調があっても、病院で診察を受ければ、問題の所在と解決策を的確に示してくれる」といった具合に、
確実性をもった万能な知識体系だと感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

しかし、康永先生は、医療は全く万能ではないと言います。
むしろ医療はいつも効果があるとは限らず、常に危険をともなうのだそうです。

そもそも、人体のメカニズムも、病気の原因も、その多くは未だに解明されていません
そのため、動物実験や細胞実験で有効性が確認された治療法であっても、いざ個別の患者に施してみると、
効果がなかったり、もしくは予想していなかったアクシデントがおこったりするそうです。

人体がブラックボックスであるがゆえに、医療は万能ではなく、むしろ不確実な手段なのです。

そして、康永先生の専門である臨床疫学は、まさにこの医療の不確実性を前提とした学問です。

そもそも、この臨床疫学とはいったい何なのでしょうか?康永先生いわく、
多数の患者の診断・治療などに関するデータを統計学的手法を用いて解析し、医療の有効性や安全性を科学的に評価する学問
だそうです。

臨床疫学の研究の例を一つ挙げましょう。
脳梗塞のリハビリテーションについての研究です。

脳梗塞で入院した患者は、後遺症を防ぐためにリハビリテーションをおこないます。
しかしこのリハビリテーション、本人にとってはかなりの体力を必要とするそうです。ただ闇雲にやればいいというわけにはいかないのです。

そこで、どのようにリハビリテーションをおこなうのが適切かを検証すべく、約10万人の脳梗塞患者の事例を分析した研究がおこなわれました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 康永秀生

分析の結果、次の2つのことがわかりました。
① リハビリテーションの密度(1日あたりにおこなう時間)が高いほど回復が早い
② 同じ密度のリハビリテーションをおこなう場合、入院後の早い時期に始めている患者は、そうでない患者よりも回復が早い

このような研究結果は、実際の医療の場面で、どのような選択肢をとるべきか判断する際の有効な指針になります。

臨床疫学では、多数のデータを集めて分析をおこなうことで、医療の選択肢を客観的に評価することを可能にしているのです。

臨床疫学が成立するまで

臨床疫学が学問分野として成立したのは20世紀後半です。
しかし、同様のアイデアを持つ方法は、それよりもずっと前から存在していました。

これまでパンデミックを何度も起こしてきた感染症の一つに、コレラ菌を病原体とするコレラがあります。

コレラ菌が細菌学者のコッホによって発見されたのが1883年。
しかし、その30年ほど前の1854年にロンドンでの感染拡大を止めたのが医者のジョン・スノウです。

スノウはロンドン市内でコレラが流行ったとき、患者の居住地を地図に示しました
その結果、そこには共通して井戸があることを発見しました。
スノウは井戸に感染拡大のカギがあると考え、患者居住地にある井戸を使わないように呼びかけたところ、なんとコレラの感染を食い止めることができたのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 康永秀生

スノウはコレラ菌の正体こそ知りませんでしたが、統計学的な手法を用い、感染の経路を遮断することで疫病を防ぎました

彼の活躍は臨床疫学の芽生えとして位置づけることができるかもしれません。

スノウの活躍からおよそ100年が経ち、臨床疫学(Clinical Epidemiology)という語が使われるようになりました。

英語の教科書ができたのが1980年代。
日本では1990年代に大学での教育がはじまり、2016年に学会が設立されました。

萌芽は昔から見られていたものの、成立してからはまだ若い学問だといえるでしょう。

臨床疫学の背景にある理念

さて、臨床疫学にもとづく医療は、「科学的根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)」と呼ばれています。
この科学的根拠という概念は次の2つの方法論的な原則から構成されています。

再現性:科学の世界で自説を主張したければ、再現可能な方法を用いて、それが確からしいことを証明しなければならない。
② 統計的検証:観察や実験は、統計学と結びついて初めて「科学」と言える。

「科学的」とは、「この2つの原則からなる手続きに則っていて、現時点では最も真理に近い」という意味なのです。

そして、これらの手続きを支えているのが「医療ビッグデータ」です。

医療ビッグデータには、出生や死亡の情報が記録された人口動態統計や、定期検診や治療の情報が記録されたさまざまなデータベースなどがあります。

それらのデータはリアルタイムに蓄積され、科学的研究のために供されているのです。

政策と臨床疫学

個々の医療の現場を支える臨床疫学ですが、それ以外の場でも力を発揮することがあります。
例として、子供の医療費補助に関する研究を見てみましょう。

少子化対策のため、子供の医療費を補助し、ときには無償化する政策が多くの自治体でとられています。
この政策の妥当性を評価するため、患者366,566件のデータを集め、政策により子供の健康レベルが実際に向上しているのかを検証する研究がおこなわれました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 康永秀生

検証の結果、平均所得の低い自治体では子供の入院件数が減少したのに対し、平均所得の高い自治体では逆に増加していることがわかりました。

この違いは、政策が適切な初期治療によって防げる入院(=「避けられる入院」)にアプローチできているかによって生まれているそうです。

これまで気軽に医療を受けられなかった低所得層は、医療費補助によって早めに診療を受けることが可能になったため、「避けられる入院」を回避することができます。

しかし所得の高い層にはそうした作用がなく、かえって必要性の低い入院が増える分、医療費を増大させるだけの結果になる可能性があります。

このように考えると、一律に医療費を補助するのではなく、低所得層に限定して補助するのが良いのではないかという示唆が得られます。

以上のように、臨床疫学は医療の場だけではなく、政策の判断や評価の場においても力を発揮するのです。

そのように言われると、新型コロナウイルスに対する政策を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

経済や文化などさまざまな領域を考慮しながら、感染拡大の局面に応じて、それぞれの国や自治体が政策を選択しています。

そうした政策がどのような研究にもとづいて選択されているのか、また一度とられた政策が臨床疫学的な研究からどのように評価されるかを考えることで、
より深い現状の理解が可能になるかもしれないですね。

おわりに

ここまで、康永先生の講義をかいつまんで、臨床疫学という学問について紹介しました。
実際の講義では、いろいろな研究の事例や、先生のエピソードが紹介されています。

みなさんもぜひ講義動画を視聴して、現代の医療について考えてみてください。

今回紹介した講義:新しい医療が社会に届くまで ~データサイエンスが支える健康社会~(学術俯瞰講義) 第10回 臨床疫学―医療の不確実性に挑む科学 康永 秀生 先生

<文/小林裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/01/25

私たち大学生は日々大学に通い、さまざまな授業に出席して、「学問」をしています。しかし課題に追われる毎日の中で、学問とは何なのか、私たちは何のために学問をしているのか、見失う事はないでしょうか。

今回は、学問をすることの意味をより大きな文脈で提示してくれる講義をご紹介します。示される結論は、大学は学問を通じて「悪とたたかう」ための場だということ。学問が戦いだなんてすぐにはピンときませんが、どういうことなのでしょう。

システムが生む悪

今回紹介する講義の講師は、中国哲学の専門家石井剛教授です。

東アジア藝文書院が教養学部で行ってきたオムニバス形式の連続講義「30年後の世界へ—『共生』を問う」の最終回として、主宰の石井先生自ら、言語の問い直しとより良い大学の在り方について、新しい見方を提示する講義となっています。

まず、そもそも学問が戦っているという「悪」ってなんなのでしょうか。

それは、「中動態的な悪」と呼ばれる悪のことです。中動態とは、能動と受動のどちらとも言えない、中間的な状態のこと。中動態的な悪とは、自分から悪に加担しつつも、それを能動的に選び取ったという自覚がない、自発にも強制にも分けられない態度によって生み出される悪のことを言います。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

例として、戦時中に政府の命令で捕虜を生きたまま解剖することに従事した軍人たちがあげられます。彼らは自身の犯した残虐な行為について、責任や罪の意識をほとんど持っていませんでした。それは能動的にその行為を選んだという自覚が彼らに無いからです。

このように中動態論理の中では、普通の一般市民がいとも簡単に巨大な悪に加担してしまう事があり得るのです。

そしてこの中動態的な悪は、「システム的な悪」とも言い換えることができます。なぜなら、この中動態的な態度を生み出すものは、私たちが不可避に内包されている、「システム」だからです。

私たちは日本という社会から学校、家庭に至るまで、様々なシステムに含まれていますよね。それらのシステムは人々を巻き込みながら成長し、抗えない「勢い」を生み出すようになります。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

そしてシステムが悪の方向にシフトした時、すでにシステムの勢いに抗えなくなっている個人は、中動態的に悪に加担してしまうのです。システム的な悪が決して私たちに無関係なものではないことがわかっていただけたと思います。

悪は防げない?

では、悪を生まないシステムを作ることは可能なのでしょうか。答えはNOです。なぜなら、システムが生成していく時点で善と悪はシステムに内包されているからです。

キリスト教的な世界の始まりを考えてみてください。創造主が「光あれ」と言った時点から、無の世界に光と闇の概念が生まれます。そしてこの二つの属性が様々なパターンで組み合わさっていくことで、世界というシステムが生成されてきました。

ここでいう光と闇は、あらゆる二項対立に置き換えて考える事ができ、その一つに善と悪があります。善と悪が色々な方法で組み合わさり、相互に作用することによって、世界が生成されていきます。

だから善や悪はシステムが生み出すものではなく、システムの駆動の根底に、元々存在しているものなのです。この議論は少し理解しにくいかもしれませんが、大切なのは悪が生まれる事自体を防ぐ事はできない、ということです。

対抗手段としての「文」

私たちはシステムの勢いに抗うことも、システムの悪を撲滅することもできない。ならこのシステムに対して、私たちはどのようなアプローチができるのでしょうか。それは、この講義のタイトルにもなっている、「文」という行為です。

私たちは、言葉を使うことで、自然と生成されていくシステムを秩序化する事ができます。この人間の知性による秩序の言語化のプロセスを「文」と呼びます。

つまり、私たちが認識できるのは、文を経て言語化された、システムの秩序だと言えるわけです。このように考えると、システムを考えることは、文を考えることと同義になります。

ここで厄介なのは、私たちがシステムを認識するのに用いる言語自体も、善と悪を内包したシステムだと言うこと。よって、言語を完全に信頼する事はできません

中国の思想家章炳麟は、「言語が病的でない事は不可能である」(章炳麟a 「正名雑義」219)と述べました。言語は記号でしかなく、名付けた瞬間からその事象の本質との隔たりが必ず生じます。この隔たりを章炳麟は病と呼ぶのです。

言語が生来病的であるからこそ、文は更新され続けなければいけません。それは不可能に挑み続けることだけれど、私たちは完璧な文を目指して、挑み続けなければならないのです。

「文」で最悪を防ぐ

なぜそれほどまで文が大切なのか。それは、システム的な悪に立ち向かう方法を私たちに与えてくれるのもまた文だからです。悪を撲滅することはできなくとも、文をうまく使えば、「最悪の悪」を防ぐために少しずつシステムを修正していくことはできます。

ここで人類が避けるべき、「最悪の悪」について石井先生は定義します。それは、システムの結末として起こりうる、人間の力では癒せないような悲劇的な事態を認識しながら、それでもそれを回避できると決めつけて突き進むことです。

例えば原子力の悪について考えてみましょう。原子力はクリーンなエネルギー源として世界に普及しましたが、歴史的な数々の事故で明らかになったように、人間の力で癒すことのできない甚大な被害をもたらす可能性を内包しています。

このような事態が起こりうる可能性が1%でもあることを知りながらそれを無視し続けることが、最悪の悪なのです。

ではこのような悪に加担しないようにするにはどうすれば良いのか。それはシステムの結果、人間の力を超えた力によってもたらされうる破滅の存在を、言葉によって宣言することです。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

原子力について倫理的に考察する仕事をしたフランスの思想家デュピュイは、「破局の到来を告げる言葉は、問題になっている破局の生起を防止することに成功する」(デュピュイ『ありえないことが現実になるとき』212)と述べました。このままでは悲劇的な結末を迎えることが明文化されたとき、初めて人はシステムを修正することができます。これが文の持つ役割の一つです。

また、人間存在そのものが悪なのではないかという悲観的な論も広まっています。人間によるシステムの駆動そのものが地球にとって悪ならば、私たちは何を目指せばいいのか。

ここにも文が一筋の希望を投げかけてくれます。例え人類が滅びたとしても、文の営みは何らかの形で世界に残りうるのではないかと考えるのです。言葉ではなくとも、何らかの形で他の生命と文を共有することができるかもしれない。

私たちには想像もつかないような次元の話ですが、私たちの人生が膨大な人類の歴史の中で泡のような儚いものでしかないように、人類の存在も巨大な世界の循環のほんの一部でしかないとしたら、どこまでも広がる新しい地平に立たされたような思いがしませんか。

「文」の場としての大学の役割

ここまで「文」の行為がシステム的な悪に歯止めをかける武器になり得ることを見てきました。そして実は、この「文」を行う場が大学なのです。

学問とは「文」の行為に他なりません。巨大な悪を内包した社会というシステムを、様々な問いを立てながら秩序化し、少しずつその修正を促すのが大学の役割です。しかもこの「文」は更新され続けなければいけません。その秩序化と更新という役割を、学問をする大学生一人一人が担っているのです。

私たちの日々の学びが、社会に潜む最悪の悪を防ぐのにどこかで役立っている。そんな広い展望で見てみると、普段の勉強も少し有意義に、面白く感じられるのではないでしょうか。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第13回たたかう「文」‐ 言語の暴力と希望について 石井剛先生

<文/下山佳南(東京大学オンライン教育支援サポーター)

2023/01/18

新年を迎えました。

年末年始、みなさんはいかがお過ごしでしたか?

今年もぜひ、たくさんOCWを見てくださいね!

年末年始は、日本で日常生活を送っていても、クリスマスやお正月などの宗教的・文化的な行事に触れる機会が多くなりますよね。

と同時に、クリスマスのお菓子・年越し蕎麦・お雑煮・おせち料理など「食」について考えることが増えます。

日本の中でも「地域によってお雑煮のお餅の形が違う!」という話で盛り上がったりしますが、外国だとさらに違って感じるかもしれません。

先日、アメリカ人とカナダ人がMCのポッドキャストを聞いていると、「日本人がクリスマスにフライドチキンの店に並んでるのはなぜなの!?」という話題で盛り上がっていました。「でも、カナダではクリスマスに日本のミカンを家族で食べたり大事な人に贈ったりするんだ」とも話していて、「え! 日本から見たら、そちらの方が意外で面白いのでは?」と感じました。

食の習慣って、自分たちでは当たり前だと思っていることが、違う国や地域の人から見たら独特に見えたり、実に多彩なんだなぁと実感します。

では、時代が変わると……?

ヨーロッパ中世の人々は「幻想」を食べていた?

今回ご紹介する授業は、池上俊一先生の「ヨーロッパ中世の幻想の食卓」です。

中世とは紀元500年〜1500年頃のこと。

近代のように台所の設備や調理器具が大きく発展する前の料理ですから、「味付けや見た目」「栄養バランス」という観点で見ると、現代人からは粗野だと評価されてしまうのかもしれません。

また、食文化というと着目されがちなのは「礼儀作法」「誰が誰に作るか、誰と食べるかなど、社会的な優越性や社交」

もちろん、1960年代から発展してきた食文化の研究は、社会史において政治経済などと関連する重要な要素を担ってきました。

しかし、この授業で池上先生は、当時の食卓を「何を考えながら食べるのか」という全く違う側面から説明してくださいます。

ヨーロッパ中世の人々にとって食べることは「幻想を共有すること」だったという先生。 

一体どういうことなのでしょうか?

どんな食材を食べていた?

授業では、当時の文学作品にも度々登場し、絵画の題材にもなっていた食材が具体的に取り上げられます。

・肉  :家畜。狩猟でとれる動物。

・鳥肉 :ニワトリなど家禽類。野鳥。

・パン :小麦で作る白パン。ライ麦や大麦など雑穀が混じる黒パン。

・果物 :ぶどう酒とりんご。

・野菜 :キャベツ・ネギ・ほうれんそうなど葉物。根菜類。豆類。

・香辛料:3大香辛料は胡椒・サフラン・生姜。ナツメグ・グローブ・シナモンは貴重。

・バラ水:バラのエキスを香り付けなどに使用。

・液体 :オリーブオイル・ミルク・ハチミツ。

これらの食材それぞれに強い意味付けやイメージがあったというのです。

そして番外編、なんと空想上の食材も!

・天国の食べ物:聖書に登場するマナ。

・地獄の食べ物:魔女の食べ物や、ハリー・ポッターの物語でおなじみのマンドラゴラ。

強い意味やイメージの方が先行して食材側が創造されてしまったパターンです。

左奥に植わっているマンドラゴラ、根っこの部分が人間みたいな姿で強烈なインパクトです。

マンドラゴラの絵
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

各食材につきまとうイメージとは?

まず、押さえておくとよいポイントは、当時の貴族と農民の身分の差

身分によって、食べられるものが明確に違ったのですね。

例えば、貴族の食卓には、必ず、富とステータスの象徴である肉が、山のように並べられました。

狩猟は貴族の特権で、そこで得た肉は強い意味を持ちました。

狩猟の様子を描いた絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

珍しい食材を食べることもステータスでした。

パーティーの絵の中に登場するのは、丸ごとのクジャク!

切り込みを入れると生きた鳥が鳴きながら出て来るパイ、などというユニークなお料理もあったそうです。

中世の宴を描いた絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

対する農民は、主に根菜や豆類を煮たスープやチーズなどを食べていました。

地上の楽園=理想郷の絵には、真ん中にチーズの山、その上にスープの鍋が!

理想郷を描いた絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

12〜13世紀になると都市が形成され始め、町民が登場。

町民は貴族に憧れて着る物や食べ物の真似を始め、野鳥の肉や砂糖菓子を食べてリッチな気分を味わったようです。

パンには、白パンと黒パンがあると前述しました。

もともと、パン焼き窯を持っていたのは領主だけで、小麦100%の柔らかい白パンは貴族のもの、黒いパンは下の身分のものとされてきました。

やがて町民にもパンが広まると、貴族を真似て白っぽいパンを食べるようになるのだとか。

パンを焼く人と窯を描いた絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

中世では、食材そのものに人々が抱くイメージも、重要視されます。

例えば、動物では、鳥などのように天高く飛ぶものは神聖で、悪魔が住まう地面や泥の中に近いところにいる蛇やモグラなどは下賤なものとして忌み嫌われました。

植物においては、ぶどうやりんごなど貴族が好む果物は高いところに実がなるから価値が高く、農民が食べる根菜や豆類は地面で育つため価値が低いとされたのです。

食材の生息域の物理的な高低差が、そのまま貴賎の価値に反映されていたとは!

さて、ヨーロッパ中世について学ぶ上でもう一つ意識するとよいポイントは、古代ギリシャ・ローマから受け継いだ神話や伝統文化とキリスト教の強い影響でしょう。

ぶどう酒は、古代神話の神々の飲み物であり、キリストの血でもあります。

中世では、貴族たちの食卓には必ずぶどう酒が置かれ、騎士たちの気付け薬にも使用されました。

ぶどう酒を飲むバッカスとヴィーナスを描いた絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

キリスト教ではパンは聖体であり、洗礼などの儀式にも使用されます。

人間の友を硬いものの上に置いてはいけないと、布の上に置かれることもあったとか。

キリストの最後の晩餐の絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

オリーブオイル・ミルク・ハチミツなども、古代から重宝されており、聖書に登場する食べ物です。

「幻想」とは高貴さ・下劣さ・思い出・憧れ

先生は、中世とは、宗教的・感情的な意味や、古代への繋がり・未来への憧れなどが込められた時代であり、ヨーロッパ中世の食卓で大事だったのは、美食やテーブルアートではなく、カロリーや栄養素でもない、まさに高貴さ・下劣さ・思い出・憧れなどの「幻想」だったのだといいます。

ここで冒頭の話に戻ると。

日本でクリスマスにフライドチキンが求められるのは、「欧米では七面鳥をオーブンで丸焼きにするけど……うちではちょっと難しいし、ターキーレッグもそこらへんで売ってないし、チキンでも買って帰ろうかな」と、本場のすてきな雰囲気を取り入れるためなのですよね。

この時、チキンはチキン以上の意味を持たされていると言えるかもしれません。

個人的にツボだったエピソード

発想が豊かで愛すべきヨーロッパ中世の人々ですが、最後に、とりわけ面白いなぁと思った話を紹介します。

肉と言えば、豚肉。

旨味があっておいしいですよね。

その反面、泥の中を這い回っていて、不潔感などの悪い偏見を持たれていたり、揶揄に使われたりもしました。

「でも食べたい!」ということで、当時の神学者がすごい解釈(いいわけ)をひねり出していたのが面白かったです。

気になる方は、ぜひ動画でごらんください!

飼育される豚の群れと飼い主の絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

科学的な常識が今とは違う点にも注目です。

当時、「人間が生まれて初めて口にするのは蜜であるべき」と赤ちゃんの口にハチミツを塗る習慣があったそうで、とてもすてきな考えですが、今では(乳児ボツリヌス症予防のため)1歳未満には与えちゃダメと言われていますね。

また、牛乳を生で飲んだあと、歯に悪いからとハチミツ水ですすいだらしい、が、これもタイムマシンで行って「虫歯になるかもしれませんよ」と教えてあげたくなります。

蜂の巣と飛び交う蜂の絵画
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) 2015, 池上俊一

授業では、まだまだここで書き尽くせていない彼らと食材の魅力がたくさん語られています。

予備知識がなくてもとても理解しやすいように説明してくださっているので、おいしい物など食べながら、楽しい気持ちでご覧いただきたいと思います。

今回紹介した講義:「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義)第12回 ヨーロッパ中世の幻想の食卓 池上俊一先生

<文/加藤なほ(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/01/11

今もなお多くの人から愛される『ガリヴァー旅行記』。

「ガリヴァー旅行記」と聞くと、ほとんどの人は、小人たちに捕まるガリヴァーを思い浮かべるのではないでしょうか?

しかし実は、原作では、小人国のエピソードは全体のほんの一部

元々の『ガリヴァー旅行記』は、ガリヴァーがさまざまな国をめぐる物語です。4編で構成される物語のうち、小人国が出てくるのは、最初の1編しかありません。

全体の構成は以下の通り。

第1編:小人国(Lilliput)

第2編:巨人国(Brobdingnag)

第3編:ラピュータ(Laputa)、日本など

第4編:馬の国(Houyhnhnms-land)

なんとガリヴァーは日本にも訪れているんですね。

そして、この原作の『ガリヴァー旅行記』ですが、実は非常に政治的な小説です。

子ども向けにアレンジされた小人国のガリヴァーからは、想像できませんよね。
今回は、原作の『ガリヴァー旅行記』のストーリーを確認しながら、それが示唆する政治的立場について考える講義動画を紹介します。

他人を笑うものは自らも笑われる


今回紹介する講義の講師は、英文学者の武田将明先生です。

武田先生の専門は18世紀のイギリスの文学。今回紹介する『ガリヴァー旅行記』は、イギリス人(アイルランド生まれ)ジョナサン・スウィフトが1726年に執筆したものなので、まさに先生の守備範囲だといえるでしょう。

ただ武田先生は、そのほかさまざまな分野でも活躍されています。東大TVでは、「カズオ・イシグロはなぜノーベル賞を取ったのか?」というオープンキャンパスでの模擬講義の動画も公開されているので、そちらもぜひ併せてご視聴ください。

さて、『ガリヴァー旅行記』の政治性についてですが、よく知られている小人国の1編にも、政治的な描写が見られるといいます。

たとえば、小人国の内紛について言及された以下のパート。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 武田将明

ここでは、卵の割り方の対立によって、小人国に大きな内紛が起こったことが語られています。

「卵の割り方程度でどうしてそんな争いを起こすの?」と馬鹿馬鹿しさを感じてしまいますが、実はここでの「卵の割り方」は、現実世界における「宗教」に対応しているといいます。

スウィフトの時代は宗教戦争の記憶も新しく、カトリックとプロテスタントの対立も根深いものでした。

スウィフトは、「卵の割り方」に置き換えることで、カトリックとプロテスタントの争いを俯瞰的に捉えようとしたのです。

それでも、「卵の割り方」での争いというのは、「宗教」での争いと比べて、あまりに滑稽です。私たちの価値観ではその重みが全く違うため、宗教対立の渦中にある人が読んでも、きっと他人事として笑い飛ばしてしまうでしょう。

しかし、スウィフトは、人間の社会も小人の社会同様に愚かであることを伝えるために、巧みな構成を用意しています。

注目すべきは、小人国に続いてガリヴァーが訪れた巨人国での出来事です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 武田将明


ここでは、巨人がガリヴァーの祖国であるイギリスの国民を酷評します。その徳のなさを非難して、「虫けらの族」とまで言い放つのです。

小人国での風刺を笑っていた読者は、巨人国での批判を前にして凍りつくことになります。私たちはまさに、巨人族にとっての小人であり、「卵の割り方」で争いごとを起こすのと同じ程度に愚かな種族であるという事実が、まざまざと突きつけられるのです。

このようにスウィフトは、空想の物語を通して、政治的なことを私たちに伝えてきます。

「完全」な真理は素晴らしいのか

最後の第4編では、批判の対象が「人間」そのものへと高まります。

第4編、「馬の国」で登場するのは、退化した人間であるヤフー(yahoos)と、理性を持った馬であるフイヌム(Houyhohnms)。

ヤフーは、十分な量の資源を独り占めしようとする貪欲さを持っており、人間の悪い部分を抽出したような存在です。

一方のフイヌムは、単に人間のように思考する理性があるというよりも、それよりも更に進んだ、「完全」な理性を持っています。

「完全」な理性とはいったいなんでしょうか?

それは、直感的に真理を掴むことができる理性です。

フイヌムの世界では、個人の意見というのは存在しないため、全員が合意して、平和に物事を進めることができるのです。

ガリヴァーは、このフイヌムの「完全」な理性を高く評価し、争いの絶えないヤフー、ひいては人間を憎悪するようになりました。帰国したガリヴァーが、自分の家族を見ても吐き気を催すほどの状態になって、この物語は終わります。

一見するとスウィフトは、この物語を通して、真理が分かる「完全」な理性の素晴らしさを伝えているように思います。

しかし、個人の意見が存在せず、全員が合意して真理に従う社会は、果たして本当に良い社会なのでしょうか?

ディストピア小説の金字塔『1984』の作者、ジョージ・オーウェルは、この「馬の国」に全体主義の予兆を読み取りました。

たしかに真理に強制的に従わせる「馬の国」のさまは、ナチスドイツなど、全体主義国家との類似性を感じさせます。

「誰も異論を唱えない社会というのは、実は誰も異論を唱えられない社会かもしれない」と、武田先生はいいます。

このような読みが生まれたことで、スウィフトは作中のガリヴァーとは異なり、フイヌム(全体主義)を批判していたのではないかと考える研究も出てきました。

しかし、スウィフトが何を意図して『ガリヴァー旅行記』を書いたのかということに対しては、いまだ共通の見解が得られていません。

想像力を駆使して徹底的に妄想する

武田先生は、最後にこんな一節を取り上げます。(英語原文です)

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 武田将明

これは、夫を亡くしたフイヌムの振る舞いが描写されたパートです。未亡人であるフイヌムが、参加したパーティーでほかの人と一緒に楽しく過ごしたものの、その3か月後には亡くなってしまったということが書かれています。

She died about three Months after.

この一文には、とくに亡くなった理由などは示されていません。

しかし、わざわざ書き足している以上、妻の死は夫の死に影響を受けていると見るべきです。

武田先生は、この一文を通して、「直感的な理性」が生物の感情を完全に支配することはできないのだと主張します。

些細な一文ですが、この描写を書くかどうかで、文芸フィクションの存在意義、想像力の意義、更には不完全な人間の存在意義まで賭けられているというのです。

架空の世界を描いた『ガリヴァー旅行記』は、そのテーマがキャッチーであるがゆえに、長く子ども向け絵本として愛されてきました。

しかし、その実は、人間という存在のあり方までを問う、示唆的な物語です。

架空の世界を舞台としたことで、スウィフトは人間について徹底的に考え、全体主義国家の盛衰まで暗示することになりました。

武田先生は、想像力を駆使して徹底的に妄想することが、長い目で見れば重要だといいます。

みなさんも、講義動画を視聴して、広く物事を捉える文学研究の世界を覗いてみませんか?

今回紹介した講義:30年後の世界へー「世界」と「人間」の未来を共に考える(学術フロンティア講義)第5回 小説と人間ーGulliver’s Travelを読む 武田 将明先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/12/21

現代思想を代表する哲学者、ミシェル・フーコー(1926-1984)。権力や知識の関係を論じたフーコーの著作群は、いまもなお強い影響力をもっています。

そんなフーコーは、しかし、自らを哲学者ではなく、むしろ「歴史家」だとしました。

フーコーの主たる業績は、「哲学」というべきものであったにもかかわらず、どうして「歴史」という呼称にこだわったのでしょうか?

今回は、主著のひとつである『言葉と物』を通して、フーコーの歴史観を理解するための講義動画を紹介します。

「エピステーメー」によって区分される西洋の歴史

今回紹介する講義の講師は、東京大学の名誉教授であった、哲学者の坂部恵先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

坂部先生は、2009年に亡くなるまで、日本を代表するカントの研究者として数多くの著作を残されました。講義で紹介されるフーコーの『言葉と物』でもまた、カントは非常に重要な人物として取り上げられます。

『言葉と物』で提示されるフーコーの歴史観は、一言でいうなら、「知識のあり方によって時代を区分する断続史観」です。

私たち人間の歴史は、時間的にはたしかに連続しているのですが、歴史としては、ある一定の時期に断絶が起こっているのだと、フーコーは主張します。

フーコーが「断絶」として提示したのは、以下の3つの時期です。

① ルネンサンス(有機的アニミズム的自然観)

② 17世紀(古典主義時代)(「表象」の時代)

③ 18世紀末〜19世紀初め(実証諸科学の成立、ロマン主義の衰退史観の登場、「モデルニテ」(「モデルネ」)の時代のはじまり)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

この時期に断絶が起こっているということが、自分の歴史認識としてもなんとなく納得できるという人もいれば、ピンとこないという人もいるかと思います。ただ、ひとまずここでは、フーコーが「断続史観」を提唱しているということを理解してください。

ここで時代を区分している「知識のあり方」というものを、講義中の言葉でもう少し丁寧に説明すると、それは「知識を生じさせる時代の深層の枠組」になります。この枠組みを示す「エピステーメー」という言葉は、『言葉と物』のキーワードです。

「人間」の時代としての近代

フーコーに従うならば、私たちがいま生きているのは、③の断絶後の時代です。

フーコーは、これ以降の時代を「モデルニテ」だとします。とりあえずはこの概念を「近代」として捉えることができるでしょう。

そして、このモデルニテのエピステーメーを作るのに強い影響力をもったのが、まさしく先ほど紹介したカントでした。カントが活躍したのは、まさしく③の断絶にあたる、18世紀の後半です。

モデルニテのエピステーメーの基盤のひとつは、カントが提示した「人間学への四つの問い」にあります。

カントは、哲学者ヒュームの哲学に触れたことで、外界の物体の存在を前提する学問のあり方を疑うようになり、人間の理性の探究と考察をその哲学の軸におきました。

(ここでのカントの気づきは、簡単にいうと、全ての物体は自分が認識したもの(仮象)に過ぎないから、それを実体と見なすことはできないということです。それゆえ、認識の客体ではなく、認識の主体である人間のほうを探求していくことになります)

そして、4つの問い、「私たちは何を知ることができるか?」(形而上学)、「私は何をなすべきか?」(道徳学)、「私は何を希望してよいか?」(宗教学)、「人間とは何か?」(人間学)を打ち立てます。これらの問いは全て、結局は人間についての問いであるため、4つ目の人間学の問いに集約されていきます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

このカントの問いを出発点として、モデルニテの哲学は「人間学」としてすすめられていくことになりました。

哲学の「思いあがり」

「哲学」が基本的に「人間学」であるのは、フーコーの時代も(そしていまも)変わりません。

しかし、フーコーはこの人間学の構想を「まどろみ」(≒正しいものが見えていない状態)だとします

冒頭で、フーコーは自身を「歴史家」と捉えているのだと述べました。それは、フーコーが「哲学」を外から見つめ、そのあり方に否定的な面を見出していたからでしょう。

なぜ人間学が「まどろみ」なのか、それは人間学に、「先験的(超越論的)」な部分と「経験的」な部分が相対する〈折り目〉があるからです。

このあたりの議論はとくに抽象的で分かりにくいのですが、人間学の「先験的」な部分を「哲学」に、「経験的」な部分を「実証科学」(生物学・経済学・言語学など)におきかえて捉えると、大きくずれることなくフーコーの意図をつかむことができるでしょう。

坂部先生は、人間学の時代になってから、実証科学が「経験的」になしえた成果を、哲学が「先験的」に覆い尽くすようになったといいます。これはつまり、実証科学の成果を理論化する役割を、哲学が担ったということです。

このような構図があるために、一部の哲学者のあいだで、哲学が経験科学より上に立っているのだという理解がなされ、哲学の「思いあがり」が進んでいきます。

一方、実証科学のほうにも、「人間は世界の諸現象を征服した」のだというような、別の思いあがりがあります。(これは進歩史観につながります)

坂部先生いわく、このような「思いあがり」ゆえに、「哲学者」は実証科学を見下す一方で、また馬鹿にされることになりました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

人間学の「まどろみ」から抜け出すために

それでは、私たちはどのようにして、人間学の「まどろみ」から抜け出すことができるのでしょうか?

まずは「思いあがり」を捨てて、先験的・経験的〈折り目〉を取り払う必要があるでしょう。

さらにフーコーは、ある方針を打ち出しているのですが、それがどのようなものであるか知りたいかたは、ぜひ講義動画を視聴して確認してみてください。

講義で示されるフーコーの歴史観は、いまでもまったく古びておらず、現代に通底するエピステーメーを捉えるうえで、さまざまな示唆を与えてくれるはずです。

坂部先生の講義がみられる貴重な動画ですし、そして何より、人文学を学ぶうえでは、その専門家の主張をそのまま見聞きすることが、とりわけ重要だと思います。

今回紹介した講義:学問と人間(学術俯瞰講義)第10回 人間学のまどろみ 坂部恵先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/12/14

突然ですがみなさん、いま東京大学でどれくらいの数の授業が開かれているか知っていますか?

全部で1000くらい?いえいえ、桁が違います。

なんと、東京大学には、約12000もの授業が開かれているんです!(2018年時点)

もし、せっかく東大に入ったからにはできるだけたくさんの授業をとりたいと意気込んで、各学期30の授業を詰め込んだとしても(大分無茶ですが)、4年間で全体の100分の1程度にしかならないわけです。

大学で研究したことのある人ならば、研究の蓄積、知識の海の膨大さに、呆然としたことが、きっとあるのではないでしょうか。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

こんなにたくさん授業があると、どれが自分にとってより価値のある授業なのかわからなくなってしまいます。

できることなら、自分が学びたいことを知るためにはどの授業を受ければ良いのか、ガイドのように示してほしくはないですか?みなさん、示してほしいですよね?

実はなんと、東大の授業間の関係性が可視化されたデータベースが、すでにあるんです!

それがこのサイト→https://catalog.he.u-tokyo.ac.jp/search/

上部の検索窓に、好きなキーワードを入力してみてください。学部をまたいだたくさんの授業が、グループでまとまったり、線でつながったりした状態で表示されるはずです。

ここで活用されているのは、いまさまざまな分野で大活躍中の人工知能です。

そこで今回は、人工知能と自然言語処理を利用して、人文知を構造化する方法を紹介します。

講義動画を視聴して、データベースをうまく活用した、学問への新たなアプローチ方法について、いっしょに考えてみませんか?

人文ジャーナル『思想』を構造化する

講義動画で講師を務めているのは、人工知能による教育の体系化について研究されている美馬秀樹先生です。まさにこの美馬先生こそが、先ほど紹介した、東大学内のシラバスを構造化したご本人でもあります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

(美馬先生は、過去にこの講義動画を配信しているUTokyoOCWの運営を担当されていたこともあります。まさにOCWも、学問の知識・情報の重要な保存方法です。

OCWの授業動画を構造化したデータベースも、美馬先生によってすでに作られています。OCWのデータベースはこちら→https://ocw.u-tokyo.ac.jp/search/

講義では、美馬先生が担当された岩波書店が発行する人文系論文のジャーナル、『思想』を構造化するプロジェクトの概要が紹介されます。

『思想』は、1921年に創刊されて以来、講義時点の2018年で約900号まで刊行されていている雑誌で、その総ページ数は16万ページにも及びます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

これが人工知能によって構造化されれば、20世紀の日本の哲学・思想の流れを大きく捉えることができるようになるはずです。

さらに、ここで文献のデジタル化に関する方法論を確立することで、人文知の構造化のモデルケースを打ち立てることもできます。

しかし、古くから刊行されている『思想』のアーカイブには、いくつかの困難がありました。

『思想』アーカイブの障壁

まず、『思想』には、デジタルのデータがありませんでした。美馬先生いわく、デジタルのテキストデータだけでなく、画像データすらなかったそうです。

そこで、カメラで紙面をスキャンして、取り込んだ画像データからテキストデータを抽出するというやり方が取られます。(手動で入力するという方法ももちろんありますが、それには数億円!の費用がかかってしまうそうです。モデルケースとして打ち立てるには非現実的だといえます)

ここでデジタルテキスト化(OCR:Optical Character Recognion)が行われることになりますが、そこにもまた、障壁がありました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

『思想』の古い文献は、印刷の精度や、紙の状態が悪く、高い精度で文字を認識することができないのです。

OCRでは、文字を要素に分解して、その組み合わせを認識することでどの文字であるかを特定していますが、その文字自体の状態が悪いと、別の文字として認識されてしまう恐れが出てきます。

また、異体字や旧字体が使われていたり、フォントが特殊であったり、ルビや強調部分があったり、レイアウトが変則的であったり、テキストを抽出するうえで厄介な要素が、さまざまにありました。

このような状況であると、ほとんど元の文とは別物になってしまう可能性があります。

実際に文字の認識精度を年代別に確認してみると、古い年代になるほど精度が下がっていることがわかります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

そこで美馬先生たちは、人工知能を用いて読み取りの仕方を学ばせて、文字認識精度の向上に取り組むことになりました。

たとえば、文脈を踏まえて、読み取った文字をよりもっともらしい文字におきかえるというようなことをしています。

デジタルテキストが氾濫する現代を生きているとつい見過ごしてしまいますが、知識の構造化を進めるその前に、知識をデジタル化することそれ自体に、ひとつの大きな障壁(コスト)があるということを、忘れないようにしなければいけないと思います。

人工知能による人文知の構造化

デジタルテキストが揃ったら、それを構造化する作業に移ります。

授業で紹介されるのは、美馬先生自身が作成した「MIMAサーチ」です。

記事冒頭で紹介した東大の授業のデータベースも、「MIMAサーチ」のひとつです。

このMIMAサーチを使って、一体何ができるのでしょうか?

MIMAサーチの特徴は、それぞれの論文(授業)間のつながりがわかるということです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

人工知能がキーワードを拾い上げてグループをつくり、またそのグループをまたいだ関係性も、線のつながりで示されます。これにより、論文の位置付けが可視化され、より自分が求める論文にアクセスしやすくなります。

そのほか、MIMAサーチ以外にも、人工知能はデジタルテキストのさまざまな活用に役立てられます。

たとえば、係り受け関係検索。人工知能によって、特定の著者や論文のなかで、どのような係り受けが頻出しているかがわかります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

この検索を使えば、ある著者を理解するためのキーワードをつかむことができるでしょう。

次に、言及関係検索。誰が誰について言及しているかというのは、人文学における重要な要素ですが、人工知能を使えば、これもまた可視化することができます。

係り受け関係検索によって、ある著者のキーワードがわかるとするならば、言及関係検索では、ある時点における分野の「キーマン」をつかむことができるといえそうです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

これからの知の構造化のために

そのほかにも、人文知の構造化のために人工知能が果たせる役割は、幅広くあります。たとえば「科学技術」というような用語がいつごろから使われ出したのか、概念の変遷をたどるというのもそのひとつでしょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

知の構造化を進めるためには、人工知能の研究者だけでなく、この場合は人文学者など、諸学問の専門家が知恵を出し合っていく必要があります。つまり、ある種の文理融合が必須です。

美馬先生は、知の構造化が進めば、言語の壁を越え、海外の研究へのアクセスも行いやすくなるといいます。もしそうなれば、学問が新たな発展を見せることになるでしょう。

知の構造化は、間違いなくこれから進歩していく分野です。みなさんも、まずはこれらのデータベースを活用し、より良い活用法や今後の可能性について、考えてみてください。

今回紹介した講義:デジタル・ヒューマニティーズ ― 変貌する学問の地平 ― (学術俯瞰講義) 第6回  人工知能と自然言語処理技術を利用した人文知の構造化 美馬 秀樹先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/12/07

「宇宙ができる前って、一体何があったんだろう?」

「時間って、一体どうやって始まったんだろう?」

おそらく、ほとんど全ての人は、小さいころに(もしかしたら今も)そのような疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか?

そしてそのときに、同時に思ったはずです。

「誰か頭のいい人、自分が生きている間にこの謎を解明してくれ!」

少なくとも私は、小さい頃から既に人任せで、もっぱら誰か他の人の活躍に期待していました。

しかし大人になると、実際にこの謎がそう簡単に解き明かせるものではないということが次第に分かってきます。

それでは、あのころ頭に思い浮かべた「頭のいい人」は、実際に「宇宙の始まり」の謎にどこまで迫れているのでしょうか?

この謎の解明に一番近いところにいるといえる、「宇宙物理学者」の先生が、科学の限界と、「人間原理」という宇宙についての考え方を語ります。

我々の宇宙がどうやってできたかは、全く分かっていない

今回紹介するのは、宇宙物理学者の須藤靖先生による「宇宙における偶然と必然、科学は世界をどこまで記述できるか」という講義です。

先ほど、「宇宙の始まり」の謎について、宇宙物理学者がどこまで迫れているのかと問いました。

結論から述べると、須藤先生は、「我々の宇宙がどうやってできたかは全く分かっていない」といいます。

そもそも、物理学は、ある初期条件のもと、物理法則によってどのように物体が振る舞うかを解明する学問です。

たとえば、ある特定のペンを、特定の高さからある仕方で落としたときに、どのようなスピードで落下するかは、物理学で分かります。それは「ペンの重さ」や「落とす高さ」などが、「初期条件」として設定されているからです。

驚くべきことに、物理学の力を使えば、誕生してから3分後の宇宙がどのようなものであったかを予想することもできるといいます。

しかし、「宇宙の始まり」というのは、この「初期条件」と「物理法則」が区別できない領域にある事象です。

宇宙が存在しない状態で物理法則が存在していたかどうかさえ、私たちは分かってないのです。

もし宇宙ができる前に物理法則がなかったとすれば、「宇宙の始まり」を既存の物理学で解明するのはそもそも不可能だといえます。宇宙誕生後の世界を記述するのとは全く違う難しさが、そこにはあるのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

須藤先生は講義中、軽妙な調子で次のようにいいます。

「宇宙が始まる前は、何もなかったと言うしかない」

「宇宙の始まりについて考え始めると、眠れなくなるからやめてくださいね」

宇宙物理学者にこんなことを言われてしまうなら、私たちは大人しくこの問題を諦めて、布団に入るしかないのかもしれません。

人類の誕生は、物理学でも解明できない「偶然」の事象

しかし、「宇宙の始まり」について解明できなかったとしても、この宇宙には不思議なことがまだまだたくさんあります。

たとえば、どうして無生物から生物が誕生したのかは、いまだに分かっていません。さらには、そこからどうして意識や文明を持つ人類が誕生したのかということも、謎に包まれたままです。

この宇宙は、生物を誕生させるために、あまりにも都合が良すぎる作りになっているのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

どうして私たちの宇宙は、私たちにとってこれほどまで都合がよく、生物、ひいては人類が誕生したのでしょうか?この謎を科学によって解き明かすことはできるのでしょうか?

須藤先生は、このような人類の誕生を「偶然」だといいます。

つまり、(少なくとも現在の)科学では、どうして人類が誕生したのかを説明することができないのです。

先ほどの主張に従えば、「偶然」というのは「初期条件」にあたります

確認したように、物理学は、初期条件を与えられたあとの振る舞いを説明することはできますが、初期条件そのものを説明することはできません。

もちろん、人類の誕生は宇宙の誕生とは違い、物理法則ができたあとの事象です。物理学を突き詰めれば、いつかは解明できるという考えもできるかもしれません。

全ての物理現象を第一原理から統一的に説明し尽くす理論を「究極理論」といいます。

この究極理論が存在する根拠はありませんが、須藤先生によれば、その存在を信じている物理学者は多いそうです。たしかに究極理論があれば、人類誕生についても説明することができるでしょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

それでは、人類誕生の謎を解き明かしたいなら、私たちは究極理論の存在を信じて、全ての「偶然」が「必然」として説明できる日が来るのを待つしかないのでしょうか?

私たちがいる宇宙は、必ず私たちにとって都合がよい

須藤先生は、別の可能性として、「人間原理」という考え方を示します。

人間原理とは、私たちが存在するこの宇宙が存在する根拠を、人間の側に見出そうとする考え方のことです。

「どうしてこの宇宙は生命を生み出すためにあまりに都合がよくできているのか」、

このような問いは、「既にこの宇宙に人間が存在している」という前提に立って考えると、ほとんど無意味です。

なぜなら、あまりに都合がよい宇宙であるからこそ、私たちが存在し、その奇跡的な環境を観測することができるからです。

もしこの宇宙が「平凡な宇宙」で、生命誕生の条件が揃っていなかったならば、その宇宙を観測できる知的生命体も生まれず、このような疑問も生まれません。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

この人間原理は基本的に、「マルチバース」という考え方と一緒に主張されます。

マルチバースとは、宇宙は多数(無限に)存在しているという考え方です。

それぞれの宇宙では、「初期条件」や、場合によっては「物理法則」が異なります。

宇宙が無数に存在しているのであれば、人類が誕生する奇跡的な環境の宇宙がどこかに生まれるのも当然です。

宝くじで1億円が当たる確率は非常に低いですが、必ず誰かは当選しています。

それは、宝くじが無数にとは言わないまでも、非常にたくさんの数、売れているからです。

無数にある宇宙のうち、私たち人類がいる宇宙が私たちにとって特別都合がよいものであるのは、全く不思議なことではない(むしろ必要条件)のです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

宇宙や人類の謎は、まだまだ解明されていない

ただし、マルチバースは特に否定する根拠も見つかっていませんが、正統な科学的考察対象だともいえません。須藤先生は、あくまでひとつの解釈のひとつと理解すべきだといいます。

私たちが子供のころに不思議だと感じた、宇宙や人類についての謎は、まだまだ解明されきっていないというのが実情のようです。

ただしこの講義では、その科学(物理学)の現状がどのようなものであるのかの説明が丁寧になされています。(この記事では全然語り尽くせていません)

さらに講義中に、より詳しく宇宙について知りたい人のためのブックガイドも提示されています。(全て物理学者の著作です)

この講義は、「不思議」について考える際の、大きな助けになると思います。また、物理学者がこの世界をどう見ているのかというのも、よく分かる講義になっています。

ぜひ講義動画を視聴して、宇宙の壮大さを感じてみてください。

今回紹介した講義:第4回 宇宙における偶然と必然、科学は世界をどこまで記述できるか 須藤 靖先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/11/17

突然ですが皆さん、長寿に影響するライフスタイルと聞いて思い浮かぶものは何ですか?

喫煙、飲酒、運動、食生活……

多くの方がこの辺りを思い浮かべたのではないでしょうか。

しかし、実は一番長寿に影響するのは、社会との「つながり」なのではないかと言われています。

「つながり」が人に及ぼす影響は、生理学的にも証明されています。

人は孤立感を味わうと、肉体的苦痛と同じ脳内処理が行われる(同等のストレスを被る)ことが明らかにされているのです。

高齢化が進む現在の日本において、心身共により長く健康でいるためにはどうすれば良いのか、「つながり」をヒントに考えてみませんか。

公衆衛生学、老年学を専門とされている村山先生の講義をご紹介します。

1.生涯にわたるつながりの量の変化

まず最初に、生涯に渡るつながりの量の変化を見ていきます。

下図は、個人の生涯に渡るつながりの量をプロットしたグラフです。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

20〜30代はつながりの量が増えますが、中年期以降はどんどん減ることが分かります。

なぜ高齢期になると社会とのつながりが縮小するのでしょうか。

この背景の一つに、「社会情緒的選択理論」があると講師は述べます。

社会情緒的選択理論とは、高齢期には残された時間が限られると知覚することで、 情報獲得よりも情緒的調整が社会的相互作用の中心的な目標になり、この目標の達成にとって効果的な相互作用を選択的に行うようになるという考え方です。

これを「つながり」という文脈で考えると、

それまでのように、あの子とも友達になろう、あの会に行ってみよう、というようにどんどんつながりを広げるのではなく、残り時間が少ないと自覚すると、今あるつながりをできるだけ大切にしようとシフトチェンジする

ということになります。

これによって、高齢期には良い意味でつながりが少なくなってくるのです。

このような心理的要因、あるいは社会的要因によって中年期以降は社会とのつながりが縮小していくと講師は言います。

2.社会との「つながり」と健康

さて、ここからは本題である、社会との「つながり」が人の健康に及ぼす影響について見ていきます。

つながりといっても、友人とのつながり、サークルや部活動、ボランティアといった社会的グループへの参加など、様々な形態があります。

例えば、近所付き合いの程度と主観的な健康感との関連を調べた調査では、近所付き合いが密なほどより自分が健康であると感じ、また、将来への不安が少ない傾向があることが分かりました。

また、運動グループへの参加・運動頻度と要介護状態との関連を調べた調査では、実際に運動はしていなくても、グループに参加しているだけで要介護のリスクは低くなるという結果が示されました。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

3.「つながり」が健康に影響を及ぼすメカニズム

では、なぜ「つながり」は我々の健康に影響するのでしょうか。

その理由の1つに、生理学的なメカニズムがあると言われています。

下図は、人が阻害(孤立)された場合の脳内処理について、MRI(磁気を利用して、身体の中の断面を写す検査)を用いて明らかにした画像です。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

人は孤立感を味わうと、肉体的苦痛に反応する脳の部位と同じ部位が刺激される、つまり肉体的苦痛と同等のストレスを被ることが分かっています。

また、つながりが少ないと、心理的ストレスを感じて、免疫機能が低下して感染症や心疾患にかかりやすいという研究も沢山存在すると講師は述べます。

このようなバイオロジカルなメカニズム以外にも、つながりを持つことが健康にもたらす恩恵として、ソーシャルサポートを得たり与えたりすること、健康に役立つことにアクセスしやすくなることなどがあるとされています。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

このように、色々なメカニズムを介して、つながりと健康は結ばれているのです。

4.どのようなつながりを持てば良いか

どのような「つながり」が健康に良いかは、それぞれの人の特性によって異なってくると講師は述べます。

近所付き合いがあることをありがたく思う人もいれば、ストレスに感じる人もいます。

親と同居することで、女性では脳卒中を発症する危険が高まりますが、男性では変わらないことを示したデータもあります(女性は家事全てを担うため、負担が増え健康を害するが、男性には影響がない)。

そのため、一概に「近所付き合いをしましょう」「親と同居した方がいいですよ」とはなかなか言いづらいと講師は言います。

何よりも大切なのは、色々なつながりをたくさん持っておき、その時の自分にとって居心地の良い関係を持てることであると講師は述べます。

その理由を以下で述べていきます。

下図は、社会環境を表す時に使う社会的コンボイモデルです。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

真ん中に集まるのが、家族、配偶者、親友といった、自分にとって近い存在、外側にあるのが、隣人、上司、専門家といった、普段あまり密に付き合わない遠い存在を示しています。

近い存在、遠い存在、それぞれに別の役割、機能があると、講師は言います。

例えば配偶者や親友は自分にとって親密な存在ですが、かかりつけ医のような役割をしてくれるかと言うと、そうではありません。

遠い存在であっても、その人なりに大事な役割があるのです。

さらに、親友や配偶者がずっと一緒にいてくれるのならば良いですが、必ずしもその関係が永遠に続くわけではありません。

そこしかつながりが持てなかった人は、一気につながりが無くなってしまうということも起こり得るのです。

このように、リスクマネジメントの観点からも、つながりは選りすぐりせずに色々な選択肢を持っておくことが大事であると、講師は述べます。

もう一つ、このような考え方を支持する理論として、「弱いつながりの強み」があります。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

これは、つながりが緊密な人より、弱いつながりでつながっている人の方が有益で新規性の高い情報をもたらしてくれる可能性が高い、という考え方です。

家族や親友といった、普段から近い付き合いを持つ人は考え方が似ている人が多く、得られる情報も似通った情報となる場合が多いです。

一方、たまにしか会わない人は、新規性の高い情報、普段やり取りしている人とは別の情報をもたらしてくれます。

実際に健康という観点でも、多世代や異性とのつながりが沢山ある人が、将来の抑うつの割合が低いという研究も存在します。

このように、健康面から見ても、弱いつながりに目を向けることが大事なのです。

5.まとめ

最後になりますが、皆さんは、社会的処方(Social Prescribing)という言葉をご存じですか?

公衆衛生や在宅医療の現場において最近注目されている方法で、医療者が患者さんに対し薬を処方するだけでなくて、同時に、運動やボランティアなど参加できるグループ活動、つまり「社会とのつながり」を処方することを指します。

人や社会とのつながりはわたしたちの健康に強く影響する、無視できない存在です。

しかし、日本人はつながりが少ない人が多いとされていて、この傾向は今後高齢化に伴い、ますます加速することが見込まれます。

このような状況の中で、現在、そしてこれからの日本において、

社会的孤立を防ぐ、見守るためにはどうすれば良いのか。

つながりを醸成するにはどうすれば良いのか。

一緒に考えてみませんか。

おまけ.

社会的孤立への対策として、実際に地域でもいくつかの取り組みが行われています。

現在実施されている取り組みやその課題、成功事例などについて気になる方も是非、こちらの講義、見てみてください。

今回紹介した講義:「つながり」から読み解く人と世界(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2019年度講義)第6回 つながりと健康格差 村山 洋史先生

文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/11/09

他者と「共生」していくために必要なことは何でしょうか。

 自分と異なる価値観を受け入れ、他者に寛容であること?

みなさんのなかには、周囲の人とうまくやっていくために言いたいことを我慢してしまう人も多いのではないでしょうか。

しかし、他者と「共生」していくために必要なことが、「批判を避けること」ではなく、「批判すること」だとしたら?

「共生」について考える中で、文学研究の在り方が現代社会の在り方を示唆してくれる、

そんな可能性に満ちた講義を紹介します。

30年後の世界へ―「共生」を問う(学術フロンティア講義)

 東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, 以下EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。

EAAは2019年度以来、「30年後の世界へ」を共通テーマとするオムニバス講義(学術フロンティア講義)を行なってきました。2022年度の講義では、「30年後の世界へ―『共生』を問う」と題して、「共生」という概念について問い直すことが目指されました。

2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行により、他者と「共生」するということについて考えさせられることが増えました。

同居する家族が濃厚接触者になってしまうということ、感染症対策やワクチン接種についての考え方の違い、また、ロックダウンなどの対応は、「他者との共生」が脅威になりうるという事実を我々に突きつけてきました。

私たちはいかに他者と「共生」することができるのでしょうか。

「共生」を既定の事実として理想化するのではなく、私たちが生きるべきよりよい生のあり方について根本から捉え直す講義です。

その観点に立ち、哲学、文学、社会学、生物学など様々な分野の教員が講義をおこなっています。さらに、東京大学内だけでなく、北京大学、香港城市大学など、学外の講師による講義も行われました。

新型コロナウイルス感染症や生物の多様性、緊迫した国際情勢など、今を生きる私たちが直面している身近な問題も講義内で取り扱っているので、興味を持って視聴することができるでしょう。日常生活の中でなんとなく感じている息苦しさを和らげてくれるかもしれません。ぜひ、ラジオ感覚でリラックスしながら受講してみてください。

 文学研究は他者の言葉との「共生」

今回ご紹介するのは、全13回の講義のうち第11回目の講義です。

講義をされるのは、東京大学総合文化研究科所属で日本戦後文学を専門にされている村上克尚先生です。

この講義では、文学の観点から「共生」について考えます

「共生」と聞いて私たちが思い浮かべるイメージは、

自分と異なる価値観を受け入れたり、他者に寛容になったりすることです。

しかし、村上先生は、

「批判」を文学研究における「共生のための技術」として提案します

「共生」とは対立するように思える「批判」が、「共生」のための鍵になるのです。

クリティークとポストクリティーク

 この講義のキーワードは、

「クリティーク(critique)」・「ポストクリティーク(postcritique)」です。

カントによれば、クリティーク(批判的に読む)とは

「自分の読みやその判断の基盤を絶えず疑うことで、作品が持つ可能性や限界を確定しようとする行為」です。

ここで「作品」を「他者」に置き換えると、私たちの現代社会の話にもつながります。

つまり、私たちは「自分自身を省みることで、他者を解釈することができる」ということです。

批判という行為に、自己と他者との「共生」が存在すると言えそうです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

クリティークへの批判

ヴァージニア大学英文学者のリタ・フェルスキ(1956〜)は、従来の文学研究がクリティークを過度に規範化していると主張しました。

クリティークは、テクストが読者に及ぼす多様な力を軽視するといいます。

文学作品に対して「より批判的であること」を追求することで、どんどん厳密で強権的な読み方になっていき、私たちのような一般読者の自由な読み方とはかけ離れていってしまうのです。

強権的な読み方とはどういうものでしょうか?

例として挙げられたのは、教科書でも馴染み深い夏目漱石の「こころ」です。

第一部から第三部までで構成された「こころ」ですが、高校の現代文の教科書には第三部の「先生から私への手紙」だけが記載されています。

この「文章の抜き出し」こそが、強権的な読み方であると言えます。

なぜなら、第三部を文脈から切り離すことで、先生からの手紙の中に明治の精神や特定の価値観を見出そうとする読み方が高校生に強要されることになるからです。

ポストクリティークの主張

フェルスキは、別の読み方の可能性として「ポストクリティーク」を提唱します。

ポストクリティークは、

「批評家と批評されるテクスト」という主従関係ではなく

「読者とテクスト」という対等な関係を目指します。

読者とテクストが「共生」するためのビジョンを模索するのです。

つまり、クリティークの持つ暴力性に抵抗して提唱されたのが、ポストクリティークです。

クリティークが「作品への批判」だとするなら、ポストクリティークは「作品への愛」だということができるかもしれません。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

批判は「共生的」である

ポストクリティークの考え方は、批判を恐れて避けようとする私たちの考え方にも通じるところがあります。

日常的な感覚でも、批判を避けて良好な関係を築くことが「共生」のために大切なように思えます。言いたいことをそのまま口にしていたら、周囲の人と対立することが多くなってしまいますよね。

しかし、実は批判も「共生」には欠かせないのです。

なぜなら、批判という行為そのものが、そもそも「共生的」だからです。

言い換えると、「喧嘩は一人じゃできない」ということです。

自分が我慢していることを他人が自由にやっているとき、なんだかイライラしてしまうものですよね。

自分と他者を比べて、「相手がおかしい!!」と思うからこそ批判が生まれます。

自分と他者の両方が存在し、他者に興味を抱いて初めて批判が成り立つのです。

村上先生は、文学研究において、ポストクリティークが主流となりクリティークが軽視されることを危惧しています。

現代社会における批判の忌避

文学研究と同様に、現代社会においても批判が忌避されるようになっています。

一つは、政治においてです。

・野党の機能が形骸化

・保守主義・新自由主義的な傾向の強まり

などは、現代社会における政治の特徴だといえます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

さらに、文学研究(学問の世界)だけでなく、社会のなかの文学においても、「批評」が衰退し「書評」へと向かう傾向にあるといいます。

作品の欠点を作者に向けて批判する「批評」から、作品がどれほど優れていて面白いかを読者に向けてアピールする「書評」への変化。

これは、文学自体の縮小に伴い、作者同士が協力していこうとする姿勢の表れでもあります。本の購入を促すための肯定的な評価のみがなされつつあるということです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

現代社会におけるこれらの傾向は、批判を避け協調を重視するという点でポストクリティークと似通っているのです。

批判と愛の「共生」

ポストクリティークは、テクストと読者(を取り巻くすべてのもの)が「共生」することを目指します。

しかし、ポストクリティークだけでは、批判が生まれず、政治も文学作品も洗練されることがないまま進んでいってしまいます。

クリティーク(作品への批判)とポストクリティーク(作品への愛)は、共に手を取り合っていく必要があるのです。

クリティークとポストクリティークの「共生」は、どのように実践していくことができるのか、村上先生は私たちに問いかけています。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

“批判は共生のための技術になり得ないのか?” 

他者と「共生」するために私たちに必要なことは何でしょうか。

講義動画を見て、村上先生の問いかけに向き合ってみませんか?

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)
第11回 文学研究と「ポストクリティーク」 ― 批判は共生のための技術になり得ないのか? 村上克尚先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>

2022/11/02

戦後から1970年代までの日本の文壇で活躍した知識人に、竹内好(たけうちよしみ)という人がいます。

日本文化についてさまざまな論考を残している竹内ですが、ほとんどの人はその名を耳にしたことがないでしょう。

今回紹介する講義の講師である中島隆博先生も「竹内の主張は無視されてきた」と述べます。

日本では忘れ去られてしまったともいえる竹内ですが、その竹内が提示したあるひとつの考え方がいま、中国や韓国といったアジア諸国で受容されつつあります。

その考え方は、「方法としてのアジア」というものです。

違和感のある表現かもしれません。「方法」と「アジア」という慣れ親しんだ言葉をつかっているにもかかわらず、それが組み合わさると、なんとなく不安な印象があります。しかし一方で、何か新しさも感じさせてくれる言葉です。

いったい、「方法としてのアジア」とは、どのような考え方なのでしょうか?

今回は、「方法としてのアジア」という考えをもとに、「普遍化」のプロセスについて考える講義動画を紹介します。

(竹内について知りたい方は、こちらの記事もチェックしてみてください【講義紹介】30年後の世界へー学問とその”悪”について(学術フロンティア講義)第12回 私たちの憲法”無感覚”-竹内好を手がかりとして

西洋をもう一度東洋によって包み直す

講師をつとめる中島隆博先生は、中国哲学を専門とされており、とくにその概念の普遍化に取り組まれています。

中島先生は「方法としてのアジア」について、「普遍を考えるための重要な概念」だと述べます。

「普遍」とは文字通り、すべての事物に当てはまるもののことです。近代以降、西洋は世界の「普遍化」を推し進めるのですが、その試みはある種の限界にぶつかりました。

たとえば授業では、「普遍的なもの」の例として「人権」が挙げられます。「世界人権宣言」というものがあるように、人権は世界中の人に普遍的に適用可能なものと想定されています。

しかし、この人権という概念は、そう簡単に普遍的だと言い切ることができません。西洋が作り出したのそのままのかたちで、他の国でも受け入れられる保証はないし、実際に不和を起こしている場面もあるからです。

中島先生は、西洋で生まれた「人権」という概念がより普遍的になるためには、西洋の外での経験を踏まえる必要があるといいます。この経験を通して、より突き詰めていくことで、人権という概念の普遍性が鍛え直されていくのです。

この鍛え直しのプロセスが、竹内の主張した「方法としてのアジア」です。

竹内は、「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」(『〈竹内好全集5〉方法としてのアジア;中国・インド・朝鮮;毛沢東』筑摩書房、1981年)と述べています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 中島隆博

いまの世の中には、「民主主義」、「科学」、「資本主義」など、西洋から生まれた「普遍的」なものが数多くありますが、これらを本当に普遍化するためには、西洋の思想それ自体を外部から変形させていく必要があるのです。

「近代の超克」の「超克」

しかし、「東洋によって西洋近代の世界を普遍化する」とだけ聞くと、当たり前で、なんとなく聞き覚えのある話だと感じる人もいるかもしれません。

じっさい、東洋の側からの西洋近代の乗り越えは、竹内が活躍するよりも前から目指されていたものでした。

東洋と西洋の対抗関係の解決を目的として開かれた有名な座談会に、「近代の超克」というものがあります。これは竹内が「方法としてのアジア」というエッセイを出す1961年より約20年も前、1942年に開かれたものです。この座談会で目指されていたのも、まさに西洋近代の乗り越えでした。

一方で竹内は、この「近代の超克」を否定的に捉えてもいました。

竹内は「近代の超克」について、「亡霊のようにとらえどころがなく、そのくせ生きている人間を悩ませる」(『〈竹内好全集8〉近代日本の思想;人間の解放と教育』筑摩書房、1980年)と評しています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 中島隆博

なぜ「亡霊」なのでしょうか?それはこの「近代の超克」論が、戦後になって捨て去られてしまった議論だからです。

太平洋戦争開戦の直後に開かれたこの座談会は、戦争遂行とファシズムを思想的に支持したとして戦後批判されました。つまり、「近代の超克」は、国家主義を導く危険な思想だと考えられたのです。

たしかに、「東洋によって西洋近代の世界を普遍化する」というのは、かえってアジア中心的すぎる試みのようにも思えます。丁寧に実践していかないと、簡単に東洋を西洋より優位な立場に置くことになるでしょう。

そういう理由で「近代の超克」論は捨て去られたものの、その主張が捉えようとしていたものは亡霊となって残っていると、竹内は考えます。竹内は、その「亡霊払い」をするために、「方法としてのアジア」という主張を打ち立てました。

「方法としてのアジア」が「近代の超克」論と異なるのは、「方法」という立場をとっているということです。

「東洋の側からの西洋近代の乗り越え」を行うには、「東洋」というものがまず何であるのか捉える必要があります。

しかし、そこで東洋という「実体」を掴もうとしてしまうと、「近代の超克」と同じように、ナショナリスティックな議論に陥ってしまう可能性があるでしょう。国の「実体」というのは、ある種のイデオロギーの拠り所になりうるからです。

竹内は、東洋を「実体」としてではなく「方法」として捉えることで、「近代の超克」を「超克」しながら、「東洋の側からの西洋近代の乗り越え」を行おうとしたのです。

(注:ただし竹内自身は、「近代の超克」について、「戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかった」(『〈竹内好全集8〉近代日本の思想;人間の解放と教育』筑摩書房、1980年)と述べています。)

「方法としてのアジア」とは何か考えていくために

しかし、東洋を方法として捉えるとは、どのようにすれば良いのでしょうか?

実は竹内は、「方法としてのアジア」というものを「明確に規定することは私にもできない」と述べています。

「方法としてのアジア」が具体的にどういうもので、どのようにそれを実践するかということは、後世の研究者に委ねられてしまっているのです。

冒頭で、中国や韓国で「方法としてのアジア」という考え方が受容されつつあると述べました。講義では、現在の中国や韓国の知識人の間で、「方法としてのアジア」がどのように受容されているのか、実際のテクストを読みながら解説されています。そこでは「方法としての中国」がどういうものであるのかについても語られます。

また冒頭では、「日本で竹内の主張は無視されている」とも述べました。

それでは、「方法としての日本」というものについては考察されていないのでしょうか?

まさに、この講義を担当されている中島先生こそが、日本でそれを行っているのだといえるでしょう。

どうすれば西洋近代中心の世界観を捉え直すことができるのか、そのような問題に関心がある人は、この記事を読むだけでなく、ぜひ中島先生の講義動画も視聴してみてください。

講義の最後には、30分ほどの質疑応答タイムもあります。実際に学生から出た質問と、それに対する先生の答えは、この問題をより理解する助けになるはずです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 中島隆博

今回紹介した講義:第5回 東アジアにおける概念の循環――方法としての日本そして儒教 第一講 中島 隆博先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>