だいふくちゃん通信

2023/05/17
道徳的に正しいことと、正しくないこと。私たちは普段、この二つを特に意識することなく区別して生活しています。
しかし特殊な状況に置かれたとき、事態は一変します。何が正しいのかわからない。ある面では正しいと思われる選択が、他の面では間違っていることのように思われる。
こうしたジレンマを合理的に解決するための理論を、道徳哲学や政治哲学の先人たちは探ってきました。その結実の一つが、19世紀のイギリスで生まれた「功利主義」です。
ではそうした理論を用いれば、どんな状況でも迷いなく正しい行為を選ぶことができるのでしょうか?…どうやら、そうでもないようです。
今回は、医学系研究科(当時)の児玉聡先生と一緒に、倫理的に正しい行為について考え直す講義をご紹介します。
1.モラルジレンマ
いつも私たちは、「家族を大切にするのはよいことだ」「嘘をつくのはよくない」といった原則に照らし合わせて、倫理的に正しいことと正しくないことを区別しています。
その際、いちいち理屈をこねて論理的に考えているわけではなく、直観(直感)的に判断しています。正しいことは考えるまでもなく正しく、正しくないことは考えるまでもなく正しくないといった具合です。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2011, 児玉 聡
しかし、私たちが直観的に正しいと考えている倫理原則が衝突するケースがあります。この状態を「モラルジレンマ」といいます。
児玉先生がモラルジレンマの例として挙げているのが、山口良忠裁判官の事例です。太平洋戦争終戦後の食糧難の時代、政府の配給制度が麻痺していたため、人々は非合法のヤミ市で食料を入手して生きていました。しかし東京地裁の山口良忠は法を司る立場からヤミ市を使うのを拒否し、その結果栄養失調で亡くなりました。
この事例では、「何が何でも生き延びるべきである」という倫理原則と、「法を守らなければいけない」という倫理原則が衝突していることがわかります。
モラルジレンマが発生するケースにおいては、何をすべきか考えるために、直観に頼らない判断の仕方が求められます。すなわち、倫理的問題に対処するための合理的で一貫性のある理論が要求されます。
そして、その理論の代表が功利主義です。次章では、この功利主義について詳しく見ていきましょう。
2.功利主義
功利主義と呼ばれる考え方は、19世紀のイギリスでJ.ベンサムやJ.S.ミルらによって始まりました。
その基本的理念は、社会全体にとってより多くの量の幸福を生み出す行為が正しい、というものです。ベンサムの「最大多数の最大幸福」という端的な表現がこの理念をよく示しています。
児玉先生はより詳しく、功利主義の特徴を4つの性質に整理して説明します。
行為の正しさは予想された結果によって判断されるという「帰結主義」結果のなかで重要なのはその行為が人々にもたらした幸福であるという「幸福主義」一人だけの幸福ではなく、社会全体の幸福の総量を検証すべきだという「総和主義」幸福の総量を検証する際には一人ひとりの重み付けを等しくするという「公平性(不偏性)」です。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2011, 児玉 聡
こうした功利主義の特徴を確認するために、ベンサムと同時代の功利主義者であるW.ゴドウィンが提示した思考実験を見てみましょう。
ゴドウィンはこのように問います。あなたの前に火事の建物があり、そこから一人しか助け出せない。このとき、自分の母親である侍女(メイド)か、多くの人の心を動かす名著『テレマコスの冒険』(1699)を書く前のフェネロン大司教のいずれかしか助けられないとすると、どちらを助けるべきか。
さて、あなたならどうしますか?
ゴドウィンの答えは次のとおりです。助ける相手を選ぶにあたり、その人が自分の身内であるかどうかは道徳的重要性を持たない。公共の功利性の観点から考えて、社会に多くの幸福を生み出すことになるフェネロンを迷わず助けるべきだ。
このゴドウィンの主張に対して、多くの批判が寄せられました。直観的に正しいと思われる「家族を大切にするのはよいことだ」という倫理原則と、大きく対立しているからです。
ここでいったん整理しましょう。私たちは普段、直観を用いて行為の倫理的正しさを判断しています。しかしその直観どうしがぶつかるケースがあるため、功利主義という合理的な理論が編み出されました。しかしその功利主義の立場を貫き通すと、人々の倫理的判断を支える直観に反してしまうのです。
ここにおいて、「直観と倫理との関係をどのように考えるべきか」というテーマが立ち現れてきます。功利主義者たちはこれまで、このテーマについてどのような答えを示してきたのでしょうか。
3.直観と理論との関係を考える
直観と理論との関係を考えるとき、直観を批判するというのが功利主義者の手法の一つです。
たとえばイギリス出身の哲学者J.J.C. スマートは、功利主義者としての立場から、直観を人々の「混乱」の産物だとして低い位置に置きました。
その一方で、より洗練された考え方で直観と理論との折り合いをつけようとした人もいました。同じくイギリス出身の哲学者であるR.M.ヘアがその一人です。
ヘアは道徳的思考を「直観レベル (intuitive level)」と「批判レベル (critical level)」の二層に分けて考えました。
日常生活においては、「約束を守る」「身内を大事にする」などの直観的に正しく感じられる原則にもとづき、個別のケースに対処できます。これが「直観レベル」の思考です。
しかし、モラルジレンマが発生するようなケースや全く新しい事態に直面するようなケースでは、直観レベルの思考では正しい行為を判断することができません。ヘアは、こうしたケースでは功利主義にもとづいて合理的に判断をすべきだと述べます。これが「批判レベル」の思考です。
日常の場では直観レベルの思考を用いてうまく生活しつつ、道徳が根底から問われる特殊な場合においては批判レベルの思考を用いて合理的に考えるという、思考スタイルの使い分けをすべきだというのがヘアの主張です。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2011, 児玉 聡
児玉先生によれば、直観と理論との関係を考えることが様々な道徳や政治哲学の理論の中で主要な論点になってきているそうです。
ヘアの主張はそうした議論の現在地の一つとしてとらえられるでしょう。
そして先生は、どのような行為が正しいのかを考えるためには、自分の直観を起点にするのではなく、まずは直観そのものを「一つ一つ石をひっくり返すように」検討してみることが重要であると言います。
その取っ掛かりの一つとして、道徳哲学でどのような議論がおこなわれているかを調べてみるのは面白いかもしれませんね。
以上、道徳における直観と理論との関係について考えてきました。
児玉先生は功利主義は「直観に反する」主張を提起し続けているとおっしゃっています。功利主義者が他にどんな主張を繰り広げており、それがどんなふうに自分の「石をひっくり返し」てくれるのか、もっともっと知りたいと思わせられるような講義でした。
とてもおすすめの講義です。気になった方はぜひ講義動画を見てみてください!
今回紹介した講義:正義を問い直す(学術俯瞰講義) 第2回 モラル・ジレンマと功利主義 児玉 聡先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/小林裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>
2023/05/10
仕事が生き甲斐で残業もがんがんこなすAさん
趣味が生き甲斐で定時で帰るBさん
みなさんはAさんとBさんどちらに共感しますか?
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2018 水町 勇一郎
こんな問いかけから始まる授業を紹介します。
この授業をしたのは、東京大学社会科学研究所で労働法を研究されている水町勇一郎先生です。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2018 水町 勇一郎
働き方改革や女性が働きやすい職場についての議論がすすむ今、「日本で働くことの意味」について考えます。
労働の起源
「働くこと」に対する意識は、人間の文明の起源に遡ります。
古代ギリシャにおいては、労働は生きていくためにやらなければならない不自由で動物的な行為と考えられていました。
人間という概念を生み出した古代ギリシャにおいて「人間らしい活動」とされたのは、「真善美」(真理を探る哲学、社会的な善悪を極める政治、美しいものを眺める芸術)でした。
この真善美と対極にある労働は、戦争で集めた奴隷にやらせる卑しい行為だったのです。
また旧訳聖書の中では、労働は神から原罪を償うために与えられた拷問として位置付けられています。
「labor」という英単語には①労働②分娩・出産という二つの意味があります。これは、罪を犯したアダムとイヴに対して神が与えた罰が労働であり出産であったからだといいます。
このようにして、ローマ帝国の広がりとともに、ヨーロッパではキリスト教的な「労働=非人間的活動」という考えが長く続いていきます。
労働に対する意識改革
転換点となったのは宗教改革です。
ルターやカルヴァンなどのプロテスタントが神の発言の再解釈を行い、
「労働=神が与えた罰」→「労働=神が与えた美しいものであり一生懸命働くことは神に従うということ」
というふうに、労働に対する意識を「罰」から「良いおこない」に転換したのです。
これにより、月曜日から土曜日まで一生懸命働いて日曜日に教会で神に祈る、という生活が定着していきます。
この労働観の転換が後の産業革命に大きな影響を与えたと指摘したのが、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。
日本の労働観の歴史
日本においては、労働に対する意識はどのように変化してきたのでしょうか。
江戸時代くらいまで、働くということは、日本独特のイエ概念における「家業」でした。
当時の労働に対する認識は、
①家族の生活のための生業
②社会から与えられた分を果たすという職分
の二つの側面から成り立っていました。
家族のために一生懸命働くという意識は今でも十分共感できるのではないでしょうか。また「職分」とは、武士は武士、農民は農民、というように身分に応じた働きを全うするべきだという考えです。江戸時代に思想家の荻生徂徠や石田梅岩らが主張しました。
このような「家業」としての労働が、「働くことはいいことだ」という今日の私たちの意識の根底にあるかもしれません。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2018 水町 勇一郎
日本で転換点となったのは、近代化です。明治維新で士農工商という身分制度が解体され、身分によって定められた労働(職分)という考えが薄れていきます。
家族や社会のために努力して立身出世を目指すという風潮の中、明治から昭和に移るとき、「会社」という組織が生まれます。
日本では、会社は擬似家族のように位置付けられ、社員は疑似家族の構成員になっていったといいます。
現在でも、英語圏では職業欄にemploeeやworkerといった単語を使うことが多い一方で、日本では主に「会社員」という言葉を使います。ここからも「会社の一員」という意識の強さが読み取れます。
働くことの二面性
ここまで、労働の起源やヨーロッパ・日本における労働観について見てきましたが、続いて「働く」ということの意味や性質について考えていきます。
水町先生は、「働くこと」には二面性があると言います。
一つ目は社会性や経済性といったプラスの側面です。共に働く仲間がいる、自分のアイデンティティがある、お金が稼げるといった性質は、人が社会的に生きるために重要な要素です。
二つ目は他律性や手段性といったマイナスの側面です。やりたくないことをやる、自分の欲求を我慢して他人の指示に従いながら働く、という他律性。そして、生活や遊びに使うお金を稼ぐために働くという手段性。
趣味や旅行に使うお金を稼ぐために重い足取りでバイトに向かう…なんて大学生も多いのではないでしょうか。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2018 水町 勇一郎
労働には複数の性質があることから、どの性質を大きく捉えるかによって、労働観は十人十色であるということが言えます。
江戸時代の日本で「働くことは喜びであり職分である」という考えが身分制度による統治のために使われていたように、労働観は社会や統治者によって刷り込まれたものであることさえあります。
同じように、歴史的背景を持つ様々な労働観が世界中にあります。
仕事に対する自分の意識が周囲の人や社会に刷り込まれたものではないか?と一度考えてみてもいいかもしれません。
日本の職場はどうしていくべきか?
今、日本では過労死や過労自殺が起きています。
死ぬまで働く・働かされるという背景には、先ほどの「働くことはいいことだ」という歴史的な価値観が存在しているかもしれません。
フランスの社会学者エミール・デュルケームは『自殺論』において、個人が組織の中で追い込まれ自分の価値観で物事を判断できなくなり死を選ぶ「集団本位的自殺」を自殺の類型の一つとしました。
個人と会社という集団との結びつきが過度に強まってしまうところに、職場を居場所とすることの危険性があるのです。
今の日本では、「正社員で4時間労働で活躍したい!」というような働き方は難しく、プライベートを犠牲にしながら長時間働くのが基本です。
冒頭で出てきたAさんとBさんが同じ職場で共存しようとしても、たくさん働くことが評価される現状において、長時間働きたくないBさんはバリバリ働くAさんから負の影響を受けることになってしまうのです。
個人の自由な選択が他者や社会的状況から影響を受けてしまう以上、社会的に働き方を改善するためには、民主主義のコンセンサス、つまり国会で法案を成立させる必要があります。
個人の範囲ではまず、「職場=社会性を求める拠点」とすることの危険性を理解することが必要です。
会社は利益を求める組織であり、例えば、飲み会に参加しない人が情報面において不利益を被るということがありえます。
そういった危険性を心得たうえで、情報収集を行い社会的評判に基づいて職場を選択することが重要です。
女性が働きやすい職場は男性も働きやすいと言われているように、女性社員の定着率や厚生労働省が定める「くるみんマーク」に着目することが有効だといいます。
今の日本は職場に過度に比重が置かれた社会です。正社員として忙しく働いた後に定年退職し、社会的に孤立してしまうという問題もあります。
授業では、水町先生が海外との比較を通して「日本で働く」ということについてさらに深く掘り下げています。学生と先生との意見交換も視聴することができます。動画を見て、「働くこと」について考え直してみませんか?
今回紹介した講義:「居場所」の未来(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2018年度講義)第7回 職場という居場所 水町 勇一郎先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>
2023/04/26
皆さんは次のような経験をしたことはありませんか?
朝起きるとひどい頭痛がします。
その日は学校で大事なテストや発表があるので、早く治さないと!と思い、急いでドラッグストアにかけこみます。
今の自分に一番「効く」薬は何か…と必死に探しますが、どの薬も大体「よく効く!」「速攻効く!」とパッケージに書いてあり、悩んでいるうちに良く分からなくなってしまう…。
どこで売ってるどのような薬であっても、私たちはそれに何らかの効果を期待するため購入し、使用します。
しかしそもそも、何をもって「薬が効く」と言うことができるのでしょうか。
一般的な人…ではなく、きちんと自分に「効く」薬とは、どのような薬でしょうか。
「薬の効果」とは一体なんなのか、薬学をご専門とされ、新薬の承認審査などにも関わられている小野俊介先生と一緒に考えてみませんか。
1. 薬の「効果」って何?
「『薬が効く』ということを定義して下さい」
もしこのように聞かれたら、皆さんはどう返しますか?
「その薬を飲んだら、飲まなかったときと比べて症状が改善する」
多くの方がこのように答えるのではないでしょうか。
でも、1人の人をイメージした時に、その人が薬を飲んだ状態と飲まなかった状態を同時に作ることはできませんよね。
とすると、飲まなかったときと比較するのはそもそも不可能です。つまり、上の定義では問題があるといえます。
一方でまた、症状改善の成分を含んでいないプラセボ(偽薬)というものも、薬の効果を考えるうえで問題になります。
なぜなら、プラセボを飲んだだけで症状が改善することもあるからです。
このように、プラセボ(偽薬)を飲んだだけなのになぜか症状が改善した場合も、「薬が効いた」と言えるでしょうか。
プラセボにも、実は一定の効果があることが知られています。
その理由としては以下のことが挙げられています。
・カプセルを飲むことによる効果(カプセル自体にもビタミンなどの微妙な栄養成分が含まれている)
・水をきちんと飲むことによる効果
・「飲む」ことを自覚することによる効果
・「飲む」行為を見られていることによる効果
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 小野俊介
このように、「薬が効く」ということについてよく考えてみると、なんだかそう単純な話ではないような気がしてきますよね‥‥。
2.様々な学問の視点から、「薬が効く」を考える
もう少し別の視点から、「薬が効く」ことについてさらに考えていきましょう。
①社会心理学
社会心理学の視点から見ると、薬の値段も「薬の効果」に関係すると言われています。
同じ成分の薬でも、150円と言われたときと500円と言われたときとでは、500円と言われた薬を飲んだ群の方が「効いた」とした人が多かったという研究報告があります。
このように、薬の値段が(期待を介して)効果に影響を及ぼしていることが分かっています。
本当に薬の中身が効いているのか、それとも豪華なパッケージが効いているのか‥‥
もちろん、両方が効いているのかもしれません。
② 論理学・言語学
小野先生はまた、「薬が効く」という言葉を、きちんと学問のフレームで理解しようとすると、論理学・言語学が必要となってくると言います。
下記のスライドをご覧ください。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 小野俊介
「この薬は白い」、「この薬は四角い」のように、〇は▢である…といった、1つの項(〇)と1つの述語(▢)で成立する文における述語を「一項述語」と言います。
対して、「この薬は効く」という文は、薬が「誰に」効くのかという目的語が必要です。
このように、〇は△に▢である(例:「この薬はAに効く」)…といった、2つの項(〇と△)と1つの術語(▢)で成立する文における述語を「二項述語」と言います。
その薬は一体「誰に」効くのか?
「薬の効果」を考えるときには、二項述語における、「誰に」をきちんと考える必要があると、講師は言います。
3.「誰に」効くのか?
「誰に」抜きで薬の有効性を論じることが無意味である理由について、薬の開発過程において生じる問題から考えます。
薬の開発の典型プロセスは下図の通りです。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 小野俊介
臨床試験(治験)では、実際に人に薬を投与し、安全性や最適な用量の確認をします。特に第3相では、ランダム化比較試験(RCT)を行い、プラセボと実薬などを比較します。
一連の臨床試験の後、医薬品医療機器総合機構による承認審査が行われます。
それでは本題に戻り、開発過程において生じる問題をいくつかご紹介します。
①サンプリングの対象集団が偏っている
母集団全員のデータを測ることなく、母集団の平均値などを知りたいときには、何人かを抽出し(サンプリング)、そのデータを基に母集団の値を推定・検定します。
ここでのポイントは、特定の集団から抽出して、対象者の背景に偏りが生じないよう、なるべくランダムにサンプリングすることです。
しかし、製薬企業の臨床試験では、このようなランダムなサンプリングを全く行っていない実情があると講師は言います。
実際に臨床試験を行う国や地域は決まっていて、多くの臨床試験は地方では行われていないのです。
そのため試験の結果は、都市部の、特に国立病院に近い人達の結果になっています。
このような偏った人達のデータを、他の地域や国の人達に適用させることは可能でしょうか。
なんだか無理がある気がしませんか。
薬の開発過程は、長い年月と沢山の費用を要しますが、実際の成功率は低いです(人に投与し始めてからだと1/10、それより前の段階も含めると1/1000や1/10000が普通)。
このように、非常に過酷な道のりであるからこそ、「少しでも可能性がある集団があるならそれで良いのではないか」という感覚が開発側にはあると、小野先生は言います。
②グローバル化により、日本で臨床試験を行わなくなっている
さらに小野先生は、今の製薬業界が抱えている大きな問題として、「グローバル化」を挙げています。
主な製薬企業は、全てアメリカにあります。
この場合、メインの臨床試験はどこで行うのが企業側にとって一番合理的でしょうか。
それは、圧倒的にアメリカです。
日本のデータとアメリカのデータとでは、後者の方がFDAに承認されやすいことは容易に想像できますね。
この結果、日本で臨床試験を行わなくなってきているのです。そしてそれに伴い、色々と困ったことが起きています。
例えば、身体の大きいアメリカ人向けに薬を作ると、日本人には容量が多くなりすぎてしまう傾向があります。
しかしビジネスの理屈では、アメリカではこの用量だから日本でもこれで良いでしょう、となってしまいます。
また、日本人向けのパッケージを作るととてもお金がかかるという背景もあります。
ぜひ次世代には、この課題に取り組んでいってほしいと講師は言います。
まとめ
ここまでの話を踏まえ、次の場面を想像してみてください。
目の前に、最近承認されたばかりの新薬を紹介する、1枚のポスターがあります。
そこには、海外の大きな製薬会社の名前とともに、「この薬の有効率はなんと○○%です!」と、大きな文字が書かれています。
その病気で苦しんでいる人が周りにいるとして、あなたはこの薬やその効果を、どのように伝えますか?
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 小野俊介
「薬が効く」ということは一体どういうことなのか、
薬の有効率にはどのような意味があるのか、
興味を持った人は、ぜひ講義動画も視聴してみてください。
今回紹介した講義:新しい医療が社会に届くまで ~データサイエンスが支える健康社会~(学術俯瞰講義)第4回 「薬が効く」ことを政府が「認める」とはどういうことだろう? 小野 俊介先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>
2023/04/26
突然ですが、皆さんはどのようにして音楽を聞いていますか?
CDで聞くという方もいらっしゃるかもしれませんが、最近はネットでの音楽配信が流行っていますね。もしかすると「私はレコード派!」なんて方もいらっしゃるかもしれません。
音楽を聞く方法は人それぞれかと思いますが、CDやネット配信、はたまたレコードまでも、音楽を伝える媒体である、つまりメディアであるという点では同じです。
それでは、そうしたメディアは単なる音楽の入れ物に過ぎないのではないか、と言われたらどうでしょう。
CDやネット配信などは音楽を聞くための方法に過ぎず、「音楽そのもの」は変わらないと思いますか?
それとも、使うメディアによって音楽は違ってくると思いますか?
...なんだか、「そんなの正解はないよ」と言いたくなってしまうような問題ですね。
ですが、この問題が、メディアが音楽をどのように展開してきたのかを紐解く問いであるとしたらどうでしょう。
今回紹介する講義動画では、西洋芸術音楽をご専門とする渡辺裕先生が、クラシック音楽を題材にこの問題を解説し、メディアの根本問題へと迫ります。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」Copyright 2015, 渡辺 裕
本来の音か編集された音か
まず、渡辺先生は、レコードの古い音源を最新の技術でCD上に編集し直すことであるリマスタリングについて、愛好家の受け止め方が2つの方向性に分かれていることを指摘されます。
具体的には、リマスタリングによって録音当時の「本来の音」にできるだけ近づけたようなCDを好む方向性と、リマスタリング技師の個性的な編集技術を楽しむことができるようなCDを好む方向性です。
前者はCDは音楽の入れ物であるという考えに近く、後者はむしろ音源をCDへどう吹き込むかということに楽しみを見出す考えなのですね。
それでは、この2つの方向性は両立しえないものなのでしょうか?
渡辺先生は、この2つの方向性は曖昧に同居していると言い、なぜならば、「本来の音」とは実はもう聞けないものなのだという認識を両者で共有しているからだと指摘されます。
全然違う方向性なのに共通認識の元に微妙な関係で両立しているのはなんだか不思議ですね。
それでは、果たしてこの共通認識はどうやってできたのでしょうか?
本来の音とは存在するのか
渡辺先生は、そもそも「本来の音」が存在すると感じるのは、レコードというメディアが普及したことによって演奏を繰り返し聞けるようになり、作品の細部の奏法や解釈が初めて認識されるようになった結果、作品ごとに唯一の演奏法があると思われるようになったからだと解説されます。
レコードというメディアを通して、「この作品はこう演奏するんだ」という認識が人々の間で広まっていったのですね。
しかし、レコードが登場する以前の人々も、ある作品にはそれに対応する演奏法があることを認識していたことは想像に難くないでしょう。
人々はどのようにして作品どうしを区別していたのでしょうか?
メディアとしての楽譜
渡辺先生は、西洋音楽の作品のアイデンティティを語る上で、楽譜という存在の大きさを強調します。つまり、楽譜も音楽を伝えるメディアであり、楽譜に書かれるという形を通してある作品が他の作品と分けられるようになったのです。
さらに、楽譜というメディアが出てくることと、作品という概念が生まれてくるということは実は平行して進んできたと話は続きます。例えばクラシック音楽の「ソナタ形式」のように最初と最後の部分で同じ主題が繰り返される形式は、楽譜の存在なしに発達しえなかっただろうと指摘されています。
楽譜すらもメディアだったとは驚きですね。
そうすると、どうやらメディアの発展と音楽の発達にはかなり根深い関係がありそうですね。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」Copyright 2015, 渡辺 裕
メディアが音楽文化を展開してきた
渡辺先生は、楽譜に基づく感覚やレコードの感覚、リマスタリングの感覚といったものがいろいろ関わり合いながら展開しているものが音楽文化であると捉えてみよう、と提案されます。
そうすると、作品という概念が一元的にあり、メディアの向こうに本来の音楽というものがあるとして議論していたときとは違う世界が見えてくるのではないかと講義の最後にお話しされます。
メディアは音楽を伝えるというはたらき以上に、音楽文化全体を規定していくものなのですね。
以上、渡辺先生の講義についての紹介でした。
本記事では触れられませんでしたが、渡辺先生は楽譜がない音楽など他の場合もメディア論的にお話しされています。
ぜひ講義動画を見て、メディアと音楽というテーマについて考えてみて見てください。
今回紹介した講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第1回 "作品"とは?"演奏"とは?:"デジタル・リマスター"の時代の音とメディア
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/依田浩太郎(東京大学オンライン教育支援サポーター)>
2023/04/19
突然ですが質問です!
私たち人間と、動物を分ける特徴は一体なんでしょう?
道具を使うこと? 社会があること? 思想があること?
さまざま挙げられると思いますが、そのなかでも極めて重要なのは、言葉を使うことではないでしょうか?
私たちが社会生活を営んだり、物事を考えたりできるのも、言葉によるところが大きいと考えられます。
そんな人間を人間たらしめるものとも言える言葉ですが、その起源はいまだ謎に包まれたままです。
もしこの謎に迫ることができれば、私たちの心や、人間という存在のあり方についてもわかるようになるかもしれません。
言葉の起源については、世界中の研究者がさまざまな説を主張しています。
そんななか、岡ノ谷一夫先生は、「言葉の起源は歌であった」と述べます。
歌が言葉になるとは、一体どういうことなのでしょうか?
今回は、岡ノ谷一夫先生と一緒に、言葉の起源について考える講義を紹介します。
言葉と無関係な機能が組み合わさり言葉が完成した
言語学者によって主張されている言葉の起源説には、大きく分けて3種類あるといいます。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
1つ目は断続説。この説は、ある段階で突然言葉が生まれたと考えます。
しかし岡ノ谷先生は、突然言葉ができるというのは考えづらいと述べます。
2つ目は漸進説。この説は、動物が持つコミュニケーションのやり方が徐々に複雑化して、言葉が完成したと考えます。
ただ、岡ノ谷先生はこの説も採用しません。
最後は準備説。この説は、いくつかの言葉とは関係のない機能が組み合わさって言葉が完成したと考えます。
岡ノ谷先生は、この準備説を取ります。
このように、生物が持つ形質のうち、いま果たしている機能とは別の機能を果たすものとして進化してきたものを、「前適応」といいます。
この言葉の前適応は、人間だけでなく、ほかの動物にも見られるものだろうと、岡ノ谷先生は考えます。
そのため、岡ノ谷先生は、人間の言葉の起源を探るために、さまざまな動物の進化と神経機構を調査しています。
言葉を準備した3つの形質
それでは、言葉を準備した形質とは、一体どういうものなのでしょうか?
岡ノ谷先生は、言語の前適応として、以下の3つの形質(能力)を挙げています。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
1つ目は、発声柔軟性。これは、呼吸を意図的に制御する能力です。
この発声柔軟性により、私たち人間は、多様な声を出すことができます。そして、その声こそが言葉の発声学習の機能へとつながっています。
2つ目は、音列分節化。これは、発声を文節で切り分けて、パターンを作り出す能力です。
私たちが使う言葉も、まさに文節によって切り分けられた発声です。この文節による切り分けが複雑化することで、ほぼ無限のパターンを作り出す文法が成立したと考えられます。
3つ目は、状況分節化。これは、自らのおかれた状況を分節化して認知する能力です。
私たちは、自分たちの状況を理解しているからこそ、言葉に意味を持たせることができています。
岡ノ谷先生は、この3つの形質がそれぞれ組み合わさることで、言葉が生まれたと考えます。
発声柔軟性について
まず講義では、発声柔軟性について、詳しく説明されます。
発声学習とは、言葉の通り、発声を学習することです。たとえば、犬にどれだけ「おすわり」と言ったとしても、「おすわり」と言い返すことはありません。(おすわりを身につけるだけです)しかし、九官鳥に「おすわり」と言い続ければ、「おすわり」と言い返すことができるようになります。
このように、多様な発声を身につける能力が、発声柔軟性です。
発声学習をする動物は、実はそれほど多くはありません。
講義で紹介されるのは、以下の通りです。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
●鯨類(クジラ目)81種のうちほとんど。
●鳥類 約1万種のうち約半数。ハチドリ目、スズメ目、オウム目。
●霊長類 220種のうちヒトのみ
なんとヒトは、霊長類のなかで、唯一発声学習を行うのだといいます。
鳥類や鯨類に混じってヒトのみが発声能力を身につけ、そのまま言葉まで使うようになったというのは、なんとも不思議なことに思えます。
これらの発声学習を行う動物は、特殊な脳構造を共有しています。(講義では、その構造についても詳しく説明されます)
しかし重要なのは、どうして発声学習を行うように進化したのかという理由です。
鳥と鯨については、比較的簡単に理由が思いつきます。鳥と鯨はそれぞれ、飛行と潜水を行うので、その際に正確な呼吸制御を行う必要があると考えられるからです。呼吸制御の能力が、そのまま発声学習の能力へとつながったのです。
しかし、人間はどうでしょうか? 空を飛んだり、(基本的には)海に潜ったりしない人間は、どうして発声学習の能力を獲得したのでしょうか?
講義では、岡ノ谷先生が主張する仮説が紹介されます。気になるかたは、ぜひ講義動画を視聴してみてください。
音列分節化について
次は、音列分節化についての説明です。
音節文節化とは、発声を一定の文節で区切って、パターンを作ることです。
この例として、ジュウシマツが求愛のために歌う「歌」があります。
ジュウシマツの歌は、いくつかの文節に分かれます。
あるジュウシマツの歌を、a、b、c、d、e、f、gのパターンに分けてみると、ab、cde、fgが組になります。そして、この3つの組が、一定の法則に従って、さまざまな順番で歌われていました。(その順番は下の図の通りです)
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
このような分節化した歌のパターンを、岡ノ谷先生は「歌文法」と呼びます。この歌文法に沿って歌われる歌は、発声を区切ってまとまりを作っているという点で、ただつらつらと歌われている歌とは異なります。
そしてもちろん、私たちが使う言葉も、発声を分節化することで初めて成立しているものです。(もし私たちが見知らぬ言語を解読しようとするなら、どこが一区切りの単語(句)なのか見極めることから始めるでしょう)
講義では、文節の切り分けを行っていると考えられる脳の部位や、人間の幼児の音列分節化についても紹介されています。
状況分節化について
最後に説明されるのは、状況分節化です。
状況分節化とは、自分が置かれている状況を分節化して把握することです。
たとえば私たちは、走っている、食べている、考えているなどさまざまな動詞を用いますが、それはその行為の状況を他の状況と区別して理解できているからです。名詞や形容詞などについても、同様のことがいえます。
私たちは状況を分節化することではじめて、そこに意味を見出すことができます。
この状況分節化についても、これまで紹介した2つの形質と同じく、脳のある部位が役割を担っているようです。それは、海馬と扁桃体です。
ラットは通常、毛繕いをされたときに毛繕いを返しますが、海馬を損傷したラットは、毛繕いをされたときに攻撃をしてしまうようになるといいます。これは、毛繕いの意味を認識できなくなったからだと考えられます。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
相互分節化仮説
ここまで、人の言葉を作ったと考えられる3つの形質について紹介してきました。
おそらくそのどれもが、言葉の発達には不可欠な要素であると感じられたのではないかと思います。
しかし問題は、これらの形質をどのように結びつけて、私たちは言葉というものを成立させたのかということです。
岡ノ谷先生はその説明として、「相互分節化仮説」という仮説を提唱します。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
岡ノ谷先生は、人は言葉を話す前から、歌を歌っていただろうといいます。そして、その歌はそれぞれ、分節化された状況に対応していたと考えます。(これは音列分節化と状況分節化の掛け合わせです。実際にテナガザルは「自己アピール」、「警戒」、「威嚇」、「呼びかけ」などの異なる状況で異なる歌を歌います)
そこで、人が狩りのときと食事のときに、ある決まった歌を歌っていたと想像してみてください。
狩りと食事のどちらも、みんなで一緒に行う営みです。そこから岡ノ谷先生は、狩りの歌と食事の歌に共通して現れるパターンが、「みんなで〇〇しよう」という意味になったのではないかといいます。
つまり、相互分節化仮説とは、異なる状況で歌われる複数の歌から同じ文節を抜き出し、状況に共通する意味を持たせることで、言語が発達したとする仮説です。
そして、発声学習は、言葉をの基盤となりそれを複雑化させる役割を果たします。
岡ノ谷先生は、このようにして言語が発達してきたと考えます。
東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」Copyright 2015, 岡ノ谷一夫
残された謎を解く
人間の言葉が歌から始まったというのは、一見突拍子もない主張のように思えました。
しかし、この記事をここまで読んできてくださったみなさんの多くは、十分あり得る話だと感じているのではないでしょうか。
実際、今では有力な仮説のひとつとして認められるようになったといいます。
しかし、言葉の起源について、まだまだ多くの謎は残されています。
霊長類のなかでヒトのみが発声学習を示すのはなぜなのか? 音列分節化の能力と文法能力をつなぐものはなにか? そもそも、前適応説は妥当なものなのか?
講義の最後には、グループワークのテーマとして、以上の問い(+α)が岡ノ谷先生から出されます。そして、学生たちによる回答の発表と、それに対する岡ノ谷先生による応答があります。
みなさんも、ぜひ自分で、どのような説が立てられるか考えてみてください。
今回紹介する講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第6回 コミュニケーションの進化と心の発生 岡ノ谷 一夫先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>
2023/04/11
食料品、石油燃料、電気など、さまざまなものの物価高騰が続いています。
その一方で、私たちの所得が大きく増えることはなく、以前より豊かな暮らしがしにくくなっている現実があります。
こんな社会で、私たちはこれからどうしていけばよいのでしょうか?
……
いきなり暗い話からはじめて申し訳ありません。
ですが、不況下での物価高が続く現状に焦りを抱いている方は多いと思います。
所得さえ増えてくれれば、もっと豊かな暮らしができるのに……
そんななか、どうすれば人々の所得が増えるのだろうと、経済学に興味を持つ人も増えているかもしれません。
経済学は、どうして不景気が続いているのか、なぜ物価高が止まらないのか考えるための、恰好のツールです。
しかし、一度考えてみてください。私たちが求めていることは、本当に所得を増やすことでしょうか?
私たちの究極の目的は、「幸福」になることのはずです。
たしかに、所得の増減は、私たちの幸福と密接に結びついているように思います。
しかし、実際には、経済学の取り扱う対象(モノ・カネ・ヒトの生産・交換・消費の関係)と幸福との間には、大きな乖離があるのです。
幸福をめざすというシンプルな目的に立ち返り、経済学について、そして私たちの社会について、もう一度考え直してみませんか?
一定を超えると、所得が増えても幸福にはならない
今回紹介するのは、経済学者の武田晴人先生による講義です。
先ほど、経済学と幸福の間には大きな乖離があると述べました。この主張を疑わしく感じている人もいるかもしれません。しかしこれは、「国民1人当たりGDP」と「生活満足度」の関係として、講義で紹介された次のグラフに表れています。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
グラフには、1958年から1990年代までの日本の「国民1人当たりGDP」と「生活満足度」の推移が示されています。
「国民1人当たりGDP」が大きく増加しているのに対して、「生活満足度」にはほとんど変化はありません。(オイルショックのときに微減している程度)
これは日本特有の現象ではなく、アメリカでも同様に、「国民1人当たりGDP」と「生活満足度」の相関関係は見られませんでした。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
講義で示された別のグラフを見ると、所得が10000ドル以下(1990年代時点)の国では所得と幸福度が比例している一方、それ以上になると相関はなくなっています。
以上のことから、所得によってもたらされる幸福には、閾値があることがわかります。
一定以上になると、いくら所得が増えても、幸福にはならないのです。
戦前の経済は成長と衰退を繰り返していた
しかし、経済学者は、所得を増やし続けても意味がないということに気づいていないのでしょうか?
武田先生いわく、初期の経済学者は、所得と幸福の相関について懐疑的であったといいます。
たとえば、経済学の始祖ともいえるアダム・スミス(1723-1790)は、「所得が増大してもほとんど意味をなさなくなる閾値がある」と主張していました。
また、功利主義を唱えたことで知られるJ・S・ミル(1806-1873)も、「所得ではなく自由」が「最大の善」に至る最も確実な道だと考えていたようです。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
そもそも、今の私たちの社会では、経済は成長して当たり前のものと認識されています。
事実、最初に紹介したグラフで示したように、戦後の日本(や多くの国)では、ほとんど常にGDPが増加し続けてきました。
だからこそ、私たちはここ数十年の景気停滞を問題視し、経済学者を中心に、どうすれば経済成長できるのか議論しているのです。
しかし、果たしてその認識は正しいのでしょうか?
実は「経済は成長し続けるもの」という認識は、戦後にできたある種の固定観念です。
講義では、次のようなグラフが紹介されます。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
それぞれのグラフは、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の名目成長率と物価変動を示しています。
これを見ると、どの国でも1945年以降はほとんどプラス成長になっているのがわかります。しかし、1945年以前、つまり戦前は、どの国でも頻繁に成長がマイナスになっているのです。
戦前では、経済は必ずしも成長するものではありませんでした。
「経済成長」を求めた戦後日本
武田先生いわく、「経済成長」という言葉自体も、日本では戦前にほとんど使われていなかったようです。
「経済成長」がスローガンとして掲げられ始めるのは、第3次鳩山一郎内閣が発足し、55年体制が成立する1955年ごろからのこと。
当時は、産業の合理化が大きな課題でしたが、一方で、完全雇用もめざすべき重要な目標でした。
しかし、この両者はそのままでは両立不可能だと考えられていたようです。産業の合理化は生産性を上昇させるため、その分の消費が追いつかないと、生産にかかる人手をカットして生産量を抑制する必要が出てくるからです。
そこで、2つを両立するために、生産と消費の規模を増やすこと、すなわち経済を成長させることが求められるようになりました。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
つまり、経済成長とは、昔から続く絶対的な目標ではなく、戦後のある状況下で意識されるようになったものに過ぎないのです。
いまだなお経済成長を追い求める経済学
ここまで、(一定以上の水準では)経済をいくら成長させても幸福には結びつかないこと、そもそも経済成長とは、戦後の一定の条件のもとでめざされるようになった(成立した)ものであることを確認しました。
しかし、主流派の経済学は今もなお、経済成長を追い求めています。
そして、武田先生いわく、「経済学者ほど人類の『幸福』について、自らの仕事が貢献しているのだと自負している人々もいない」そうです。しかしそれは、「経済成長は幸福をもたらす」という不確かな前提に立っています。
武田先生は、経済成長が必ずしも幸福を実現してこなかったと考えます。その理由は、経済学が労働を「マイナスの効用」をもたらすものと仮定してきたからです。
東京大学 Todai OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright2012, 武田晴人
これまで、主流派の経済学は、労働の時間を「やむを得ないもの」として捉え、できるだけそうした時間を減らして、人が自発的に活動できる余暇の時間を増加させることが望ましいという前提に立ってきました。
この前提によって、「労働時間が短く、余暇の時間が長いほど、また賃金所得が多いほど、効用の水準が高い」状態になると考えられています。
この経済思想は、「顕示的な消費」と呼ばれる消費動向の背景となりました。これはたとえば、良い車に乗ったり、広い家に住んだりする、人に見せびらかすように贅を尽くす消費のことです。
このような顕示的な消費は、たしかに一時の幸福をもたらしますが、その状態に慣れていくと効用は減っていきます。
消費の水準の高さによって得られる満足には限界があるのです。
また、消費を拡大させるためには、労働時間を延長させていく必要があるため、消費の増大による効用は、労働によるマイナスの効用で相殺されてしまうと考えられます。
労働にプラスの価値を持たせる
前半にも紹介したJ・S・ミルは、経済はいずれ停滞すると想定し、その「定常状態」においてどのように社会を維持していくべきか考えるよう提唱しました。
ミルの定常状態論は長らく見過ごされてきましたが、自然環境の制約などもあって経済成長の限界が見えてきた現在、改めて顧みられるようになってきています。
武田先生は、この定常状態において、労働にプラスの価値(効用)を持たせることが大切だろうと主張します。
たしかに、私たちにとって、労働は必ずしもマイナスのものではありません。労働することによって感じる幸福もあります。自由に働けていると思える環境であるなら、なおさらです。
現実として、労働がプラスの効用をもたらすことがある以上、幸福をもたらすものとしての労働の有用性を、経済学でも考えていくべきかもしれません。
今の日本は、なかなか経済が成長しない「定常状態」です。
しかし、武田先生は、「だからこそチャンス」だといいます。
なぜなら、成長にブレーキをかけることなく、幸福につながる新たな経済のあり方を模索することができるからです。
とはいえ現実的には、暗い気持ちになることも多いかもしれません。「そうは言っても……」と半信半疑にもなると思います。
ただ、武田先生の講義は、私たちに新たな社会の可能性を感じさせてくれます。
この記事を読んで、次なる経済学のあり方に興味を持った方は、ぜひ講義動画を視聴して、学びを深めてみてください。
今回紹介した講義:知と幸福(朝日講座「知の冒険—もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2012年度講義)第7回 経済学のふしあわせな生い立ち 武田 晴人先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>
2023/04/05
「老い」
これは誰しもが避けて通れない問題です。
そして、老いる過程で起こる「認知症」は、自分が自分でなくなってしまうような不安感や恐怖感を当事者に生み出すと言われています。
「老い」や「病い」は、一般的に”弱さ”と結び付けて捉えられることが多いです。
しかし、”弱さ”に絶望するのではなく、かといって無理に”強く”なろうとするのでもなく、
”弱さ”をありのまま認め、そして、互いに支え合うこと。
このような社会が、認知症でも希望をもって生きられる社会なのではないかと、講師は述べます。
社会学をご専門とする井口先生と一緒に、
「認知症」という病いを糸口として、「弱者が弱者のままで生きられる」とはどういうことか考えてみませんか。
1.認知症とは
まず、認知症とはどのような病気なのか確認しましょう。
以下のような項目に当てはまったとき、認知症と診断されます。
・1つ以上の認知領域(複雑性注意、実行機能など)において、以前の行為水準から有意な認知の低下がある
・毎日の活動において、認知欠損が自立を阻害する(請求書の支払い、内服薬の確認などの複雑な手段的日常生活動作に援助を必要とする)
・上記の認知欠損は、せん妄の状況でのみ起こるものではなく、他の精神疾患によってうまく説明されるものでもない
将来推計として、2025年では700万人が認知症を持っていると推測されています。
2. 認知症の「予防」「回復」という視点に対する当事者達の声
2019年、政府は認知症予防のためのいくつかの施策と共に、「70代の認知症の人の割合を、2025年までの6年間で6%減らす」という初の数値目標を掲げました。
しかし当事者達からは、
・予防できなかったことの自己責任化
・防げる・治せるという医療的な考えへの偏りの懸念
といったような、「予防」が強調されることへの懸念や戸惑いの声が上がり、認知症でも希望をもって生きられる社会を作ることに主眼を置くことが求められました。
このような批判を受け、政府は数値目標を撤廃し、
また、「予防」という言葉を「認知症にかからない」という意味ではなく、「認知症になるのを遅らせる、進行を緩やかにする」こと、として示しました。
ここで起きた問題は、一体どのような問題だったのでしょうか。
3.「予防」「回復」への志向と「ケア」「共生」への志向
認知症に対して働きかけるときには、大きく2つの視点があると講師は言います。
「予防」「回復・リハビリ」という発想と、「ケア」という発想です。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 井口 高志
前者は、認知症の状態を否定的なものとして位置づけ、それを予め避けようとしたり(「予防」)、認知症になる前の状態に戻ろうとする行為(「回復・リハビリ」)です。
これに対し、ここ2〜30年において生み出されてきたものが「ケア」という発想であり、
これは、認知症になった人とどのようにして「共に生きていくか(共生)」、
ということでもあるとされています。
弱者が弱者のまま尊重されること
弱者が弱者のまま希望をもって生きられること
社会における、このような「共生」の理念の実現が大事になると、講師は言います。
4.「回復」とは異なる物語の存在~病いを受け容れ、探求していく~
ここからは、医療社会学(医療や健康における問題を社会学的な視点で解明する学問)におけるいくつかの概念を参考に、
認知症という病いを社会がいかに包摂してきたか、
認知症と共に生きていくということはどのようなことか、
さらに考えていきたいと思います。
まず、20世紀を代表するアメリカの社会学者であるタルコット・パーソンズが提唱した病人役割(Sick role)という考え方を紹介します。
パーソンズは、社会を、それぞれの人が自分の地位に相応しい役割を担うことで成立・維持していく構造化されたシステム(社会システム)として捉えました。
その上で、病気はこのような社会的役割の効果的な遂行を難しくするため、社会システムを存続させるためには病気への何らかの対処が不可欠であるとしました。
しかし病気になった人を国家がいちいちピックアップすることは効率が悪いです。
そこでパーソンズは、病人による医療の自発的利用を促す仕組みが必要であり、これによって病気になった人を上手く社会に包摂していこうと考えました(「病人役割」)。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 井口 高志
しかし、公衆衛生の改善、ウイルスや細菌の発見によって感染症による死亡が減少し、代わりに、高齢化などに伴い、がんなどの慢性疾患が中心になってくると、このような考え方は難しくなりました。
なぜなら、感染症などの急性疾患とは異なり、慢性疾患は有病期間が不定で、完全に治癒することはまれであるため、病気の状態と回復の状態がしっかりと区分できないからです。
そこで、自身の病気の経験からナラティブ(語り)に基づく医療社会学の在り方を模索したアーサー・フランクが、「回復の語り」「混沌の語り」「探求の語り」という、3つの病いの語りの類型を提唱しました。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 井口 高志
治らない病いでは「回復の語り」は難しくなります。
そのため、人はどうすれば良いのか分からない状況に追い込まれ、明確に筋道を作ることができないという、「混沌の語り」になります。
ところが、慢性疾患時代、つまり、病気/健康の二極間を連続的に変化していく場合において、この2つの語りだけで生きていくのは難しくなります。
そこで、「探求の語り」が重要となってくるのです。
「探求の語り」とは、混沌の中から、病いを受け容れ、病いを利用しようとし、経験を通じて何かを探求しようとする語りです。
フランクは、病人役割が前提とする「回復」を、社会における支配的な物語と捉えた上で、「回復できない」人たちの、「回復」とは異なる物語の存在を明らかにしていくことが重要であるとしました。
「探求の語り」の例として、講師はEさんの話を挙げています。
UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 井口 高志
Eさんは、長く勤めていた大企業の退職前後のタイミングに認知症になりました。
エネルギッシュな性格のEさんは、最初なかなかデイサービスに馴染むことができませんでした。
しかし、あるデイサービス(地域の有力な大学病院と連携)に移ってからは、薬の治験に参加したり、当事者として講演会で話をしたりするようになりました。
Eさんはこのような活動を通し、「ここに来ているのは認知症が進行していくことに対抗してるんだ」「自分の体験を話すことで色々な人の役に立てるんだ」と考えるようになりました。
このように、Eさんはある種の予防的活動に参加することで、自分自身を探求し、アイデンティティを確保するようになったのです。
まとめ
認知症のような、「進行性」「難治性」の病いを生きる人たちにとって、
「回復の物語」だけに頼って生きていくことは難しいとされています。
認知症という変容を受け容れつつも、「それでもまだ‥」という気持ちを残したり、
逆に、「できる」ということを強調しながらも変容を穏やかに受け容れたりする。
このような、両義的な意味合いを含みつつ、長きにわたってなされていく試み(「探求の物語」)こそが、衰えと共に生きていく技法ではないかと講師は言います。
病いという”不安”や”弱さ”と共に生きていくためにはどうすればよいのか、
認知症でも希望をもって生きられる社会を作るにはどうすればよいのか、
一緒に考えてみませんか。
今回紹介した講義:不安の時代(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2020年度講義)第5回 病いという不安と生きる:認知症をめぐる人びとの実践から 井口 高志先生
<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>
2023/03/29
みなさん、こんにちは!
季節はすっかり春ですね。
東京大学本郷キャンパスでも桜が立派に咲きました。
春といえば、新しいことに挑戦してみたいと思われる方も多いのではないでしょうか。
その挑戦してみたいことの選択肢に「芸術」を入れてみてはいかがでしょうか。
「絵を描いたり演奏したりできないし、そもそも芸術って何か全然わからないよ...」
そう思った方!
是非ともご視聴していただきたい講義動画があります。
それは、東京大学先端科学技術研究センター特任教授、近藤薫先生の「芸術とは〜目に見えないものを文化する」という2021年に行われた講義です。
実は近藤先生は、特任教授でありながら、日本で最も古い歴史と伝統をもつオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務めるヴァイオリニストでもあります。
今回ご紹介する講義動画では、近藤先生がなんと実際に講義内でヴァイオリンを弾きつつ、「芸術とは」という問いに、研究者として、また、プロのヴァイオリニストとしてひとつの答えを出してくださっています。
是非この機会に、プロの研究者・演奏家の芸術論に触れてみてはいかがでしょうか。
本講義は三部構成になっています。
まず、芸術とは何かを近藤先生が実体験にも基づいてお話しされます。
次に、「音によるコミュニケーション」と題して、近藤先生が実際にベートーヴェンのヴァイオリンソナタを演奏して、演奏時に何を考えていたのか、何が起きていたのかを解説されます。
最後に質疑応答が行われます。
では、早速、講義内容に入っていきたいと思います。
芸術とは
UTokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 近藤 薫
近藤先生は、演奏をしているとき、特に自然の中で演奏をしているときに「ゾーンに入る」ことがあるとお話しされます。
ゾーンに入るとは、スポーツ選手にも同様にみられる現象だそうで、例えば野球のバッターが打席にたったとき、ピッチャーの投げた球が止まって見えるようなものだそうです。
この状態ではいろいろ不思議なことが起きるとのことです。
講義では、実際に近藤先生が山の中でヴァイオリンを演奏したときの映像が流れます。
UTokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 近藤 薫
近藤先生はこういった不思議なこと(実際に映像を見ると確認できます!)は、感覚が研ぎ澄まされることによって気づけたものだと説明されます。
つまり、それまで無意識に感じていたものを認識できて気づけた結果だそうです。
この「気づける」ことが大変重要だそうで、ここに芸術の役割があるとお話しされます。
社会から省かれる「無駄」
さらに近藤先生は、文化的な社会を作る上での芸術の重要性に触れます。
近年は、COVID-19のパンデミックやAIの普及により、社会から無駄と考えられるものが省かれる流れが強くなっています。
しかし、それは本当に無駄といえるのでしょうか、と近藤先生は問いかけます。
無駄かどうかよく分からないまま取り除いてしまうと、社会におかしなことが生じてしまいます。
目に見えないもの、説明し辛いものの本質に迫るのが芸術です。
そんな芸術の立場に立つことで、社会から取り除かれているのものが本当に無駄と言えるのか考えることができるのです。
生演奏大公開!!
UTokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 近藤 薫
次は第二部の「音によるコミュニケーション」です。
実際に近藤先生が、ベートーヴェン作曲のヴァイオリンソナタ第7番第2楽章を演奏されます。
演奏後は、演奏中に起きていたことと、それに対して近藤先生がどうやって演奏で対処していたのかについてお話を聞くことができます。
たとえば、この曲はゆっくりとしたテンポで弾くようにと楽譜で指定されているそうですが、ゆっくりとは実際にはどのくらいのゆっくりさなのか、という問題があります。近藤先生は音を使ってピアノの方といかにコミュニケーションし、ちょうど良いテンポを二人で作り上げていったのか、その工程を音楽に詳しくない人にも分かりやすくお話しくださいます。
これ以外にも面白いお話がたくさんあります!
演奏と合わせて、是非とも聞いてみてください。
この記事を執筆している私はとても新鮮な体験ができました。
以上、近藤先生の講義の紹介でした。
芸術とは気づけなかったものに気づけるようになるもの、と聞いていかが思いましたでしょうか。
芸術についてのイメージが少しでも変わりましたら幸いです。
講義が演奏も併せて芸術を論じているということもあり、この記事からだけでは、しっかりと内容を伝えられていない点も多々あります。
特に演奏のところはとても面白いので是非ご視聴ください。
今回紹介した講義:先端アートデザイン学 第5回 芸術とは〜目に見えないものを文化する 近藤 薫先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/依田 浩太郎(東京大学オンライン教育支援サポーター)>
2023/03/22
UTokyo OCWで公開されている、さまざまな分野の東大教授(たまに他大学の先生も)の授業を紹介するだいふくちゃん通信ですが、今回紹介する講義動画は、いつもと一味違います。
なんと講師が、日本を代表する音楽家、坂本龍一さんなんです!
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一
「どうして東京大学の授業を公開するUTokyo OCWで、坂本さんが講義する授業動画が視聴できるの!? そもそも坂本さんって、大学で教えてたの!?」
と、驚く人もいると思います。私もYMOが好きなので、講義動画を見つけてビックリしました。
実はこれは、2007年に東京大学で開講した特別授業の講義動画です。
ですので、坂本さんが東大の通常の授業で教えていたわけではありません。
また、講師といっても、ひとりで教卓の前に立っているわけではなく、当時教養学部で哲学を教えていた小林康夫先生がインタビュアーとなり、坂本さんがそれに回答するかたちで進む対談形式の講義です。(ただし、一問一答というよりは、もっと流動的な流れです)
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一
それでも、一体どうして音楽家の坂本さんが東大で授業をすることになったのかピンとこない人もいるかもしれません。
私も正確な事情は分からないのですが、坂本さんは音楽を作るだけでなく、音楽について幅広い知識と思想をもっていて、しばしばそれを提唱することのある音楽家として知られています。過去には、吉本隆明との対談本が出版されたこともありました。(坂本さんの愛称が「教授」であるというのは、有名な話です)
実際、今回紹介する講義でも、数多くの印象に残る言葉が語られています。
「自己表現と正反対のことがしたいと思った」
「歌ではなく、物理現象として音楽を聴いている」
私もこの講義動画を視聴したことで、これまで当たり前なものとして受け取ってきた「音楽」の概念が、少し揺らいできたような気がしています。
音楽に対する新たな視点を得たいという人は、ぜひこの講義動画を全編視聴していただきたいです。この記事では、そのエッセンスが少しでも伝わるように、授業の要旨をまとめていきます。
坂本龍一の代表的な経歴
そもそも、坂本龍一さんについてよく知らないという人もいるかもしれません。
そんな方のために、講義では紹介されていませんが、坂本さんの経歴のうち代表的なものを、簡単にまとめました。
・シンセサイザーなどの電子楽器を最初期に取り入れ、日本のテクノを牽引したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとしてデビュー。
YELLOW MAGIC ORCHESTRA 『RYDEEN』(HD Remaster・Short ver.)
・自身も俳優として出演した『戦場のメリークリスマス』で、日本の映画音楽を代表する楽曲となる劇中歌、『Merry Christmas, Mr. Lawrence』を手がける。
Merry Christmas Mr. Lawrence / Ryuichi Sakamoto - From Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022
・『ラストエンペラー』で担当した映画音楽で、日本人初のアカデミー賞作曲賞を受賞。
ざっと並べるだけで、坂本さんが日本の音楽界にどれだけの功績を残しているかが伝わると思います。
歌わないミュージシャン
講義はまず、小林先生が「坂本さんは自分じゃないものを求めている」と述べるところから始まります。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一
私たちは、「自分の夢」を追い求めたり、「自分探しの旅」をしたり、いつもなりたい自分になるために、日々奮闘しています。自己実現、自己表現こそが自らの生きる目的だと考えている人も多いでしょう。
しかし坂本さんは、自分の夢を探すような生き方に否定的な態度を取ります。坂本さん自身も、ミュージシャンになろうと思ったことがなく、たまたまなっているというのです。
しかし、ここで次のように感じる人もいるかもしれません。
音楽こそ、自己表現の最たるものであり、自分を追い求める究極の作業なのではないか、と。
音楽をやりながら、自分を求めないというのは、一体どういうことなのでしょうか?
坂本さんの作る音楽には、ほかの音楽にはあまり見られない、ある特徴があります。
それは、「歌」がほとんどないということです。
「歌」というのは、なにも歌声だけを指すのではありません。ここでいう「歌」は楽器を使っても出すことができます。
坂本さんいわく、「歌」とは、ある感情をもって時間軸上に重ねられた音の列のことです。すなわち、感情をのせた音楽が「歌」だということです。
坂本さんは、人間的感情に接近するのを意識的に避けながら、音楽を作っているといいます。
音楽に限らず、なにかを創作する目的の多くは自己表現であるはずで、そこに作者の思いがこめられるのを、私たちは当たり前として考えています。
しかし坂本さんは大学時代に、「自己表現と正反対まで行ってみよう」と考えて、独自の音楽を作り始めたそうです。
講義では、大学時代に坂本さんが取り組んだ、実験的な音楽の作り方についても語られています。
「民族音楽」と「電子音楽」
坂本さんは、東京藝術大学に入学し、修士課程まで進んでいます。大学に入った時点で、「20世紀初頭くらいまでの、西洋音楽といわれる近代ヨーロッパの音楽の色んな技法とかスタイルの学習は一応終えていた」そうです。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一
この「西洋音楽」は、線的な音を自己表現の手段として配置したものだという点で、先ほどの「歌」と共通しています。
坂本さんは、大学に入学して、「学んだことを全部捨てたかった」と語ります。
この西洋音楽(歌)から離れるために坂本さんが用いたのは、「民族音楽」と「電子音楽」でした。
「民族音楽」と「電子音楽」と聞くと、真っ先に「YMO」の活動が思い浮かびます。
坂本さんの重要な経歴のひとつである「YMO」には、当時新しかった電子音を使って、東洋的な音楽を奏でるという特徴がありました。(そして基本的に歌のないインストゥルメンタル曲を演奏します)
民族音楽によって、オクターブを12に分けるような西洋音楽のルールから逃れ、電子音楽によって、世の中に存在しない音色を作る。こうして坂本さんは、西洋から始まり今は世界を席巻している、線的で自己表現的な音楽から距離をおいていきました。
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一
お茶の間の空間にある音楽
それでは、西洋的な音楽を離れて、坂本さんが作りたい音楽とはどういったものなのでしょうか?
それは、「多義的」で「偶然性」があり、「中心が見えない、存在しない」音楽です。
それを坂本さんは別の言葉で「お茶の間の空間」と表します。
講義中の言葉を借りると、「完全に完成された形ではなく、そのへんから切り取ってきたような」音楽が、坂本さんのめざす音楽だということです。
講義の最後に、坂本さんは次のようなことを語ります。
ぼくが、一様ではないですがやはり君たちのくらいの年齢のころ、よく考えていたことは、自分の耳を開くということです。(…)たとえば、高校、大学のときに電車通学していまして、毎朝、電車に乗るわけです。電車というのは、日本語ではガタガタ、ガタンガタンという一つの音です。ガタンという一つのユニットで、表現されています。しかし、よく耳を開いて、よく聞くと、何十種類もの音が実は鳴っているわけです。(…)服のすれる音、新聞の音、雑誌の音など何十種類も聞こえる。満員電車で退屈でしたから、そういう耳を開くというのは、よく意識してやっていました。そこで、 耳だけでなく目もなんですけど、感覚器を開くということが、まず大事であると思うのです。ちょっとやってみてください。面白い発見があるかもしれないです。
坂本さんは一貫して、私たちに「日常の音を聴くこと」を勧めています。
ここからは私の意見ですが、音楽のサブスクリプションサービスやYouTubeなども普及し、浴びるように音楽を楽しめるようになった現在、私たちは日々刺激的な音を漁ることに力を注ぐあまり、より一層生活の音に耳を傾けなくなっているように思います。
その傾向は、坂本さんが講義された2007年よりも、さらに顕著になっているはずです。
そしてそれは音楽に限りません。さまざまなものが情報として氾濫しているため、日常的なものに腰を据える時間が短くなっています。時間をかけられないために、腰を据えることの価値自体が見失われ、さらに時間をかけられなくなっていきます。(タイパといった言葉が広まっていることからも、その傾向は読み取れます)
そんななかで、坂本さんの言葉は、作為的な情報にあふれる世界から一度距離をおき、元々私たちの身の回りにあった繊細な現象に身と心を委ねることを促してくれます。
終わりに
いかがだったでしょうか?
ここまで記事を読んで、きっと多くの方が、坂本さんに興味をもってくださったのではないでしょうか?
坂本さんに興味をもった方は、ぜひ講義動画を視聴してみてください。
そこでは、経験と思考によって練り上げられてきた印象深い言葉が、数多く語られています。
どのような背景で坂本さんの音楽観が生まれたのかも、わかってくるはずです。
また、この講義動画は、書き起こしのテキストが資料としてまとめられています。(さすが坂本さんの講義、手厚いです)
講義資料1
https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_07/sp1/notes/ja/00sakamoto1.pdf
講義資料2
https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_07/sp1/notes/ja/00sakamoto2.pdf
これを読めば、より授業の内容を理解しやすくなると思います。ぜひ、視聴の際の参考にしてください。
今回紹介した講義:情報が世界を変える-技術と社会、そして新しい芸術とは(学術俯瞰講義)特別講義 音楽が世界を変える? 坂本 龍一さん
関連記事:【西洋を東洋によって包み直す】「方法としてのアジア」という考え方について
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>
2023/03/16
※この記事は、地震・津波の被害からの復興を取り扱っており、実際に起きた大災害やその被害状況について多く言及します。予め、ご了承ください。
花を見かけたり小鳥の声が聞こえたり、春の訪れも感じるけど、まだまだ寒い夜も続く……そんな時期になりました。
さて、だいふくちゃん通信では、昨年の同じ時期に、震災に関する授業を3つほどご紹介し、「木造建築の防災」「死者を悼むこと」「巡礼と記憶の関係」についての記事を公開しました!
【古民家っていいですよね】伝統的な木造建築と地震【対策を知って木造住宅の地震被害に備えよう!】
既に苦しみや悲しみを感じない死者を「可哀想」だと感じるのはなぜ?【「追悼」について考える】
あの時のことを、あなたは憶えていますか。「巡礼」を通して記憶とつながり、そして、未来を思い描きます。【「巡礼」による忘却への抵抗について考える】
今回は、多言語・他宗教社会における災害対応に視線を向けて、2015年開講の〈「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義)〉から、第11回、西芳実先生の〈スマトラ大津波が繋いだ世界〉をご紹介します。
アジアの災害
西先生は「アジアは災害で繋がっている」地域だと語ります。
アジア各国は地震が起きやすいプレート境界沿いに存在しており、大きな地震の頻発地です。今まで起きた有名なものとしては、阪神淡路大震災・スマトラ島沖地震・台湾地震・ニュージーランド地震・東日本大震災などが挙げられ、また、中国・インド・イラン・トルコ周辺でも、大きな地震が発生します。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
台風やサイクロンが起きやすい地域でもあります。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
現代社会では、地域や国同士が互いに深い関係を持っているため、一見ひとつの地域で起きた災害であっても、流通や産業の拠点が被災すると、他の多くの場所で食糧事情や経済などに多大な影響が出てしまいます。
スマトラ島沖地震の発生
2004年に起きたスマトラ島沖地震は、マグニチュード9.1、インド洋周辺諸国14ヵ国で被害があり、死者・行方不明者22万人の、まさに「100年に一度」と言われる規模の大きいものでした。リゾート地ですから、クリスマス休暇で多くの外国人も滞在していたようです。海岸の樹木や住宅が流される映像が世界中に報道され、人々に衝撃を与えました。
やがて、「第二次世界大戦以降、かつてないほどの強い国際協力により、史上最大の作戦で復興を!」と、世界中から支援者と報道陣が、被災地に集まって来ました。
復興活動は、住宅・道路・橋・港湾などインフラの再建、生活支援やトラウマケアなどを中心になされました。
支援者が見た不思議な謎とは
ここでは、先生が実際に携わったインドネシアのアチェの例が紹介されています。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
さて、世界中から集まった支援者・報道者は、現地で不思議な謎に出会うことになります。
それは、先生の言葉を借りれば、意外と「被災者の表情が明るい」ということ。
例えば、家族を亡くした者同士、避難所で再婚する人が多かったり。支援者に注文を言う人がいたり。急ピッチで再建して提供した新住宅に、全然住んでくれなかったり、改造してしまったり。5年目にできた津波博物館はほとんど展示物がないままにオープンしていたり。
中でも驚くのは、被災から1周年のときに、「津波縁日」なるものが行われたというエピソードです。そこでは、被災直後の風景のポスターやカレンダーが売られており、家族を失った被災者でさえも楽しそうに購入する姿があったそうで……たしかに、日本ではちょっと想像のつかない光景ですよね。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
支援者によっては、自分たちが想定していた画一的な「被災者」のイメージと異なる姿を不謹慎に感じたり、「せっかく支援しに来たのに」と、不満を抱いたりすることもあったでしょう。
では、アチェの人々は、悲しみを忘れてしまったのでしょうか?
もちろん、そんなはずはないのです。
答えのひとつ
理由はなんでしょう?
人間って、そういうものだから?それは、経験者にしか分からない?その地域の宗教・文化の特徴?発展途上国だから知識や手段が足りていない?諦めて達観している?
その答えは、繊細すぎて筆者の言葉では正確に説明できないため、ぜひ動画で先生の細やかな事例紹介と説明を聞いていただきたいと思います。彼らがイスラム教の信仰を守りつつ、彼ら独自の方法で死者を悼んだり、失った家族を思ったり、自ら後悔や使命感と向き合ったりする姿がだんだんと見えてきます。
ひとつだけ、大きな答えを紹介しておきましょう。
「アチェにはもともと紛争があった」という大きな特色があります。以前は、戒厳令があって外部との行き来がなく、世界から隔絶された状態にあったのですが、奇しくも津波の到来によって内戦が終結し、各国から多くの人が入って来ました。そこで初めて、世界中との交流が生まれ、隣人たちとも自由に語り合えるようになったのです。もしかしたら、彼らの笑顔の背景には、そのような開放感があったのかもしれません。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
しかし、当然、ポジティブな側面だけで済むはずがありません。7年後、2011年の記念式典にて、アチェの州知事はスピーチでこう語ります。
—被災する前、人々は殺し合っていた。内戦下になければ、もっと互いに助け合って犠牲を減らせたのではないか。
—我々は自分たちが被災した経験をよその地域にじゅうぶんに伝えることができていない、東日本大震災で日本の人々を助けることができなかった。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
(墓所の門に書かれたコーランの一節は、アラビア語ではなく、より多くのアチェの人々が読めるように現地の言葉で書かれている)
筆者自身の体験
今回この講義を視聴して、筆者の知人の印象深いエピソードを思い出したので、紹介したいと思います。
その知人は、2009年にサモア諸島を津波が襲ったとき、現地に住んでいました。あるとき、写真とともに、平和な頃の生活と被災当時の様子を語ってくれました。
礼拝に行くための麦わら帽子を編んだり、のんびり寝っ転がったり、青い空の下で楽しそうに笑ったりする島の人々の写真、そして、津波で一変した島の片側の写真。
ある家族が屋外に集まる写真を指差して「このおじいちゃんはね、波が引いたあとヤシの木にしがみついてたところを発見されて、この家のおじいちゃんになった。どこから来たかはあまりわかってない」と言います。その華奢なお年寄りは、まるで元からいたメンバーのように輪に加わっていました。(他のメンバーも飄々としていたり笑顔だったりして、最初はアウトドアレジャーのひと場面だと思ってしまいました。)
日本ではなかなか考えられない保護のしかたで、知人のおおらかな口調も相まって、ちょっと牧歌的でユニークに感じてしまっていました。あとから、それは私の偏見で、もっと彼らの元来の文化やキリスト教に根ざした懐の深さや慈悲深さ、家族観などが背景にあるのではないか、しかし、外から勝手に解釈できるものではないな、と考えるようになりました。
筆者自身も災害地域にて、避難した方々と話したり一緒に何かに取り組んだりする機会が多いのですが、地域・世代・立場・失ったもの・被害の種類や大きさ・物の感じ方・表現のしかたなど、何もかも1人1人みんな違うと感じます。しんどくて悲しい時期でも笑えるようなことがあったり。笑っているから悲しみやしんどさが消えたわけではないんですよね。
災害が何をもたらしたのか
さて、授業の後半では、この災害をきっかけに生まれた、各国からボランティアが駆けつける「レラワン」文化、防災の国際協力、被災地域同士の交流、GPSをはじめとするIT技術を使った情報コミュニケーションなどについて、実績と今後の展望が紹介されます。
どれも、知らなかったことばかりでした。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
災害の影響も、支援も、被災者も、全て1つの国・1つの言語では区切られなくなった現代。
災害の多い日本は、「防災の先進国」と呼ばれていて、様々な国に知見を提供しているそうです。しかし、日本が、アチェなど他国の復興から学ぶ例もたくさんあるでしょう。
私たちは異質な他者と地続きで繋がっている
最後に、学生さんから「外国人労働者なども増える中、被災の当事者になったとき、価値観の違う人々と復興に携わる際、自分に何ができるか」という質問が出ました。
(大災害の度に外国人へのケアの不十分さや差別が問題となりますが)この学生さんのように、自分が最も困難な状況に置かれることを想像したときに、まず他者との協調を意識することができる人がいるのだなと、ハッとさせられ、そして未来に希望を持ちました。
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実
今回紹介した動画:「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義)第11回 スマトラ大津波が繋いだ世界 西 芳実先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
※ 講義動画には、過去の地震や津波によって破壊された建造物などの写真、津波被害の具体的な説明が含まれます。予め、ご了承ください。
<文/加藤なほ(東京大学オンライン教育支援サポーター)>