だいふくちゃん通信

2023/03/29

みなさん、こんにちは!

季節はすっかりですね。

東京大学本郷キャンパスでも桜が立派に咲きました。

春といえば、新しいことに挑戦してみたいと思われる方も多いのではないでしょうか。

その挑戦してみたいことの選択肢に「芸術」を入れてみてはいかがでしょうか。

「絵を描いたり演奏したりできないし、そもそも芸術って何か全然わからないよ…」

そう思った方!

是非ともご視聴していただきたい講義動画があります。

それは、東京大学先端科学技術研究センター特任教授、近藤薫先生の「芸術とは〜目に見えないものを文化する」という2021年に行われた講義です。

実は近藤先生は、特任教授でありながら、日本で最も古い歴史と伝統をもつオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務めるヴァイオリニストでもあります。

今回ご紹介する講義動画では、近藤先生がなんと実際に講義内でヴァイオリンを弾きつつ、「芸術とは」という問いに、研究者として、また、プロのヴァイオリニストとしてひとつの答えを出してくださっています。

是非この機会に、プロの研究者・演奏家の芸術論に触れてみてはいかがでしょうか。


本講義は三部構成になっています。

まず、芸術とは何かを近藤先生が実体験にも基づいてお話しされます。

次に、「音によるコミュニケーション」と題して、近藤先生が実際にベートーヴェンのヴァイオリンソナタを演奏して、演奏時に何を考えていたのか、何が起きていたのかを解説されます。

最後に質疑応答が行われます。

では、早速、講義内容に入っていきたいと思います。

芸術とは

UTokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 近藤 薫

近藤先生は、演奏をしているとき、特に自然の中で演奏をしているときに「ゾーンに入る」ことがあるとお話しされます。

ゾーンに入るとは、スポーツ選手にも同様にみられる現象だそうで、例えば野球のバッターが打席にたったとき、ピッチャーの投げた球が止まって見えるようなものだそうです。

この状態ではいろいろ不思議なことが起きるとのことです。

講義では、実際に近藤先生が山の中でヴァイオリンを演奏したときの映像が流れます。

UTokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 近藤 薫

近藤先生はこういった不思議なこと(実際に映像を見ると確認できます!)は、感覚が研ぎ澄まされることによって気づけたものだと説明されます。

つまり、それまで無意識に感じていたものを認識できて気づけた結果だそうです。

この「気づける」ことが大変重要だそうで、ここに芸術の役割があるとお話しされます。

社会から省かれる「無駄」

さらに近藤先生は、文化的な社会を作る上での芸術の重要性に触れます。

近年は、COVID-19のパンデミックやAIの普及により、社会から無駄と考えられるものが省かれる流れが強くなっています。

しかし、それは本当に無駄といえるのでしょうか、と近藤先生は問いかけます。

無駄かどうかよく分からないまま取り除いてしまうと、社会におかしなことが生じてしまいます。

目に見えないもの、説明し辛いものの本質に迫るのが芸術です。

そんな芸術の立場に立つことで、社会から取り除かれているのものが本当に無駄と言えるのか考えることができるのです。

生演奏大公開!!

UTokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 近藤 薫

次は第二部の「音によるコミュニケーション」です。

実際に近藤先生が、ベートーヴェン作曲のヴァイオリンソナタ第7番第2楽章を演奏されます。

演奏後は、演奏中に起きていたことと、それに対して近藤先生がどうやって演奏で対処していたのかについてお話を聞くことができます。

たとえば、この曲はゆっくりとしたテンポで弾くようにと楽譜で指定されているそうですが、ゆっくりとは実際にはどのくらいのゆっくりさなのか、という問題があります。近藤先生は音を使ってピアノの方といかにコミュニケーションし、ちょうど良いテンポを二人で作り上げていったのか、その工程を音楽に詳しくない人にも分かりやすくお話しくださいます。

これ以外にも面白いお話がたくさんあります!

演奏と合わせて、是非とも聞いてみてください。

この記事を執筆している私はとても新鮮な体験ができました。


以上、近藤先生の講義の紹介でした。

芸術とは気づけなかったものに気づけるようになるもの、と聞いていかが思いましたでしょうか。

芸術についてのイメージが少しでも変わりましたら幸いです。

講義が演奏も併せて芸術を論じているということもあり、この記事からだけでは、しっかりと内容を伝えられていない点も多々あります。

特に演奏のところはとても面白いので是非ご視聴ください。

今回紹介した講義:先端アートデザイン学 第5回 芸術とは〜目に見えないものを文化する 近藤 薫先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

<文/依田 浩太郎(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/03/22

UTokyo OCWで公開されている、さまざまな分野の東大教授(たまに他大学の先生も)の授業を紹介するだいふくちゃん通信ですが、今回紹介する講義動画は、いつもと一味違います。

なんと講師が、日本を代表する音楽家、坂本龍一さんなんです!

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一

「どうして東京大学の授業を公開するUTokyo OCWで、坂本さんが講義する授業動画が視聴できるの!? そもそも坂本さんって、大学で教えてたの!?」

と、驚く人もいると思います。私もYMOが好きなので、講義動画を見つけてビックリしました。

実はこれは、2007年に東京大学で開講した特別授業の講義動画です。

ですので、坂本さんが東大の通常の授業で教えていたわけではありません。

また、講師といっても、ひとりで教卓の前に立っているわけではなく、当時教養学部で哲学を教えていた小林康夫先生がインタビュアーとなり、坂本さんがそれに回答するかたちで進む対談形式の講義です。(ただし、一問一答というよりは、もっと流動的な流れです)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一

それでも、一体どうして音楽家の坂本さんが東大で授業をすることになったのかピンとこない人もいるかもしれません。

私も正確な事情は分からないのですが、坂本さんは音楽を作るだけでなく、音楽について幅広い知識と思想をもっていて、しばしばそれを提唱することのある音楽家として知られています。過去には、吉本隆明との対談本が出版されたこともありました。(坂本さんの愛称が「教授」であるというのは、有名な話です)

実際、今回紹介する講義でも、数多くの印象に残る言葉が語られています。

「自己表現と正反対のことがしたいと思った」

「歌ではなく、物理現象として音楽を聴いている」

私もこの講義動画を視聴したことで、これまで当たり前なものとして受け取ってきた「音楽」の概念が、少し揺らいできたような気がしています。

音楽に対する新たな視点を得たいという人は、ぜひこの講義動画を全編視聴していただきたいです。この記事では、そのエッセンスが少しでも伝わるように、授業の要旨をまとめていきます。

坂本龍一の代表的な経歴

そもそも、坂本龍一さんについてよく知らないという人もいるかもしれません。

そんな方のために、講義では紹介されていませんが、坂本さんの経歴のうち代表的なものを、簡単にまとめました。

・シンセサイザーなどの電子楽器を最初期に取り入れ、日本のテクノを牽引したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとしてデビュー。

YELLOW MAGIC ORCHESTRA 『RYDEEN』(HD Remaster・Short ver.)

・自身も俳優として出演した『戦場のメリークリスマス』で、日本の映画音楽を代表する楽曲となる劇中歌、Merry Christmas, Mr. Lawrenceを手がける。

Merry Christmas Mr. Lawrence / Ryuichi Sakamoto – From Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022

・『ラストエンペラー』で担当した映画音楽で、日本人初のアカデミー賞作曲賞を受賞

ざっと並べるだけで、坂本さんが日本の音楽界にどれだけの功績を残しているかが伝わると思います。

歌わないミュージシャン

講義はまず、小林先生が「坂本さんは自分じゃないものを求めている」と述べるところから始まります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一

私たちは、「自分の夢」を追い求めたり、「自分探しの旅」をしたり、いつもなりたい自分になるために、日々奮闘しています。自己実現、自己表現こそが自らの生きる目的だと考えている人も多いでしょう。

しかし坂本さんは、自分の夢を探すような生き方に否定的な態度を取ります。坂本さん自身も、ミュージシャンになろうと思ったことがなく、たまたまなっているというのです。

しかし、ここで次のように感じる人もいるかもしれません。

音楽こそ、自己表現の最たるものであり、自分を追い求める究極の作業なのではないか、と。

音楽をやりながら、自分を求めないというのは、一体どういうことなのでしょうか?

坂本さんの作る音楽には、ほかの音楽にはあまり見られない、ある特徴があります。

それは、「歌」がほとんどないということです。

「歌」というのは、なにも歌声だけを指すのではありません。ここでいう「歌」は楽器を使っても出すことができます。

坂本さんいわく、「歌」とは、ある感情をもって時間軸上に重ねられた音の列のことです。すなわち、感情をのせた音楽が「歌」だということです。

坂本さんは、人間的感情に接近するのを意識的に避けながら、音楽を作っているといいます。

音楽に限らず、なにかを創作する目的の多くは自己表現であるはずで、そこに作者の思いがこめられるのを、私たちは当たり前として考えています。

しかし坂本さんは大学時代に、「自己表現と正反対まで行ってみよう」と考えて、独自の音楽を作り始めたそうです。

講義では、大学時代に坂本さんが取り組んだ、実験的な音楽の作り方についても語られています。

「民族音楽」と「電子音楽」

坂本さんは、東京藝術大学に入学し、修士課程まで進んでいます。大学に入った時点で、「20世紀初頭くらいまでの、西洋音楽といわれる近代ヨーロッパの音楽の色んな技法とかスタイルの学習は一応終えていた」そうです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一

この「西洋音楽」は、線的な音を自己表現の手段として配置したものだという点で、先ほどの「歌」と共通しています。

坂本さんは、大学に入学して、「学んだことを全部捨てたかった」と語ります。

この西洋音楽(歌)から離れるために坂本さんが用いたのは、「民族音楽」と「電子音楽」でした。

「民族音楽」と「電子音楽」と聞くと、真っ先に「YMO」の活動が思い浮かびます。

坂本さんの重要な経歴のひとつである「YMO」には、当時新しかった電子音を使って、東洋的な音楽を奏でるという特徴がありました。(そして基本的に歌のないインストゥルメンタル曲を演奏します)

民族音楽によって、オクターブを12に分けるような西洋音楽のルールから逃れ、電子音楽によって、世の中に存在しない音色を作る。こうして坂本さんは、西洋から始まり今は世界を席巻している、線的で自己表現的な音楽から距離をおいていきました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2007 坂本龍一

お茶の間の空間にある音楽

それでは、西洋的な音楽を離れて、坂本さんが作りたい音楽とはどういったものなのでしょうか?

それは、「多義的」で「偶然性」があり、「中心が見えない、存在しない」音楽です。

それを坂本さんは別の言葉で「お茶の間の空間」と表します。

講義中の言葉を借りると、「完全に完成された形ではなく、そのへんから切り取ってきたような」音楽が、坂本さんのめざす音楽だということです。

講義の最後に、坂本さんは次のようなことを語ります。

ぼくが、一様ではないですがやはり君たちのくらいの年齢のころ、よく考えていたことは、自分の耳を開くということです。(…)たとえば、高校、大学のときに電車通学していまして、毎朝、電車に乗るわけです。電車というのは、日本語ではガタガタ、ガタンガタンという一つの音です。ガタンという一つのユニットで、表現されています。しかし、よく耳を開いて、よく聞くと、何十種類もの音が実は鳴っているわけです。(…)服のすれる音、新聞の音、雑誌の音など何十種類も聞こえる。満員電車で退屈でしたから、そういう耳を開くというのは、よく意識してやっていました。そこで、 耳だけでなく目もなんですけど、感覚器を開くということが、まず大事であると思うのです。ちょっとやってみてください。面白い発見があるかもしれないです。

坂本さんは一貫して、私たちに「日常の音を聴くこと」を勧めています。

ここからは私の意見ですが、音楽のサブスクリプションサービスやYouTubeなども普及し、浴びるように音楽を楽しめるようになった現在、私たちは日々刺激的な音を漁ることに力を注ぐあまり、より一層生活の音に耳を傾けなくなっているように思います。

その傾向は、坂本さんが講義された2007年よりも、さらに顕著になっているはずです。

そしてそれは音楽に限りません。さまざまなものが情報として氾濫しているため、日常的なものに腰を据える時間が短くなっています。時間をかけられないために、腰を据えることの価値自体が見失われ、さらに時間をかけられなくなっていきます。(タイパといった言葉が広まっていることからも、その傾向は読み取れます)

そんななかで、坂本さんの言葉は、作為的な情報にあふれる世界から一度距離をおき、元々私たちの身の回りにあった繊細な現象に身と心を委ねることを促してくれます。

終わりに

いかがだったでしょうか?

ここまで記事を読んで、きっと多くの方が、坂本さんに興味をもってくださったのではないでしょうか?

坂本さんに興味をもった方は、ぜひ講義動画を視聴してみてください。

そこでは、経験と思考によって練り上げられてきた印象深い言葉が、数多く語られています。

どのような背景で坂本さんの音楽観が生まれたのかも、わかってくるはずです。

また、この講義動画は、書き起こしのテキストが資料としてまとめられています。(さすが坂本さんの講義、手厚いです)

講義資料1

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_07/sp1/notes/ja/00sakamoto1.pdf

講義資料2

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_07/sp1/notes/ja/00sakamoto2.pdf

これを読めば、より授業の内容を理解しやすくなると思います。ぜひ、視聴の際の参考にしてください。

今回紹介した講義:情報が世界を変える-技術と社会、そして新しい芸術とは(学術俯瞰講義)特別講義 音楽が世界を変える? 坂本 龍一さん

関連記事:【西洋を東洋によって包み直す】「方法としてのアジア」という考え方について

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/03/16

※この記事は、地震・津波の被害からの復興を取り扱っており、実際に起きた大災害やその被害状況について多く言及します。予め、ご了承ください。

花を見かけたり小鳥の声が聞こえたり、春の訪れも感じるけど、まだまだ寒い夜も続く……そんな時期になりました。

さて、だいふくちゃん通信では、昨年の同じ時期に、震災に関する授業を3つほどご紹介し、「木造建築の防災」「死者を悼むこと」「巡礼と記憶の関係」についての記事を公開しました!

【古民家っていいですよね】伝統的な木造建築と地震【対策を知って木造住宅の地震被害に備えよう!】

既に苦しみや悲しみを感じない死者を「可哀想」だと感じるのはなぜ?【「追悼」について考える】

あの時のことを、あなたは憶えていますか。「巡礼」を通して記憶とつながり、そして、未来を思い描きます。【「巡礼」による忘却への抵抗について考える】

今回は、多言語・他宗教社会における災害対応に視線を向けて、2015年開講の〈「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義)〉から、第11回、西芳実先生の〈スマトラ大津波が繋いだ世界〉をご紹介します。

アジアの災害

西先生は「アジアは災害で繋がっている」地域だと語ります。

アジア各国は地震が起きやすいプレート境界沿いに存在しており、大きな地震の頻発地です。
今まで起きた有名なものとしては、阪神淡路大震災・スマトラ島沖地震・台湾地震・ニュージーランド地震・東日本大震災などが挙げられ、また、中国・インド・イラン・トルコ周辺でも、大きな地震が発生します。

世界地図に地震が起きた場所が赤い点でマークされており、プレート境界上に集中していることがわかる
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

台風やサイクロンが起きやすい地域でもあります。

災害が発生しやすいアジアの自然環境の図で、世界地図のアジアの周辺に熱帯低気圧が密集していることがわかる
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

現代社会では、地域や国同士が互いに深い関係を持っているため、一見ひとつの地域で起きた災害であっても、流通や産業の拠点が被災すると、他の多くの場所で食糧事情や経済などに多大な影響が出てしまいます。

スマトラ島沖地震の発生

2004年に起きたスマトラ島沖地震は、マグニチュード9.1、インド洋周辺諸国14ヵ国で被害があり、死者・行方不明者22万人の、まさに「100年に一度」と言われる規模の大きいものでした。
リゾート地ですから、クリスマス休暇で多くの外国人も滞在していたようです。
海岸の樹木や住宅が流される映像が世界中に報道され、人々に衝撃を与えました。

やがて、「第二次世界大戦以降、かつてないほどの強い国際協力により、史上最大の作戦で復興を!」と、世界中から支援者と報道陣が、被災地に集まって来ました。

復興活動は、住宅・道路・橋・港湾などインフラの再建、生活支援やトラウマケアなどを中心になされました。

支援者が見た不思議な謎とは

ここでは、先生が実際に携わったインドネシアのアチェの例が紹介されています。

最大の被災地となったアチェ州の被害状況の地図やデータ
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

さて、世界中から集まった支援者・報道者は、現地で不思議な謎に出会うことになります。

それは、先生の言葉を借りれば、意外と「被災者の表情が明るい」ということ。

例えば、家族を亡くした者同士、避難所で再婚する人が多かったり。
支援者に注文を言う人がいたり。
急ピッチで再建して提供した新住宅に、全然住んでくれなかったり、改造してしまったり。
5年目にできた津波博物館はほとんど展示物がないままにオープンしていたり。

中でも驚くのは、被災から1周年のときに、「津波縁日」なるものが行われたというエピソードです。
そこでは、被災直後の風景のポスターやカレンダーが売られており、家族を失った被災者でさえも楽しそうに購入する姿があったそうで……たしかに、日本ではちょっと想像のつかない光景ですよね。

地面にシートを引いて被災直後の写真入りポスターやカレンダーを並べて売る人と、笑顔で選ぶ人たち
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

支援者によっては、自分たちが想定していた画一的な「被災者」のイメージと異なる姿を不謹慎に感じたり、「せっかく支援しに来たのに」と、不満を抱いたりすることもあったでしょう。

では、アチェの人々は、悲しみを忘れてしまったのでしょうか?

もちろん、そんなはずはないのです。

答えのひとつ

理由はなんでしょう?

人間って、そういうものだから?
それは、経験者にしか分からない?
その地域の宗教・文化の特徴?
発展途上国だから知識や手段が足りていない?
諦めて達観している?

その答えは、繊細すぎて筆者の言葉では正確に説明できないため、ぜひ動画で先生の細やかな事例紹介と説明を聞いていただきたいと思います。
彼らがイスラム教の信仰を守りつつ、彼ら独自の方法で死者を悼んだり、失った家族を思ったり、自ら後悔や使命感と向き合ったりする姿がだんだんと見えてきます。

ひとつだけ、大きな答えを紹介しておきましょう。

「アチェにはもともと紛争があった」という大きな特色があります。
以前は、戒厳令があって外部との行き来がなく、世界から隔絶された状態にあったのですが、奇しくも津波の到来によって内戦が終結し、各国から多くの人が入って来ました。
そこで初めて、世界中との交流が生まれ、隣人たちとも自由に語り合えるようになったのです。
もしかしたら、彼らの笑顔の背景には、そのような開放感があったのかもしれません。

津波後に空港に設置されたいろんな言語で書かれた歓迎プレート
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

しかし、当然、ポジティブな側面だけで済むはずがありません。
7年後、2011年の記念式典にて、アチェの州知事はスピーチでこう語ります。

—被災する前、人々は殺し合っていた。内戦下になければ、もっと互いに助け合って犠牲を減らせたのではないか。

—我々は自分たちが被災した経験をよその地域にじゅうぶんに伝えることができていない、東日本大震災で日本の人々を助けることができなかった。

自分たちの経験を伝えるのが遺された者のつとめであると、墓所の門にはインドネシア語でコーランが書かれている「命あるすべてのものたちよ 我らはおまえたちを試している 良いことと悪いことにより 試練として そしておまえたちはいつか 我らのいるとこおrに戻されるのだ(預言者35)」
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

(墓所の門に書かれたコーランの一節は、アラビア語ではなく、より多くのアチェの人々が読めるように現地の言葉で書かれている)

筆者自身の体験

今回この講義を視聴して、筆者の知人の印象深いエピソードを思い出したので、紹介したいと思います。

その知人は、2009年にサモア諸島を津波が襲ったとき、現地に住んでいました。
あるとき、写真とともに、平和な頃の生活と被災当時の様子を語ってくれました。

礼拝に行くための麦わら帽子を編んだり、のんびり寝っ転がったり、青い空の下で楽しそうに笑ったりする島の人々の写真、そして、津波で一変した島の片側の写真。

ある家族が屋外に集まる写真を指差して「このおじいちゃんはね、波が引いたあとヤシの木にしがみついてたところを発見されて、この家のおじいちゃんになった。どこから来たかはあまりわかってない」と言います。
その華奢なお年寄りは、まるで元からいたメンバーのように輪に加わっていました。(他のメンバーも飄々としていたり笑顔だったりして、最初はアウトドアレジャーのひと場面だと思ってしまいました。)

日本ではなかなか考えられない保護のしかたで、知人のおおらかな口調も相まって、ちょっと牧歌的でユニークに感じてしまっていました。
あとから、それは私の偏見で、もっと彼らの元来の文化やキリスト教に根ざした懐の深さや慈悲深さ、家族観などが背景にあるのではないか、しかし、外から勝手に解釈できるものではないな、と考えるようになりました。

筆者自身も災害地域にて、避難した方々と話したり一緒に何かに取り組んだりする機会が多いのですが、地域・世代・立場・失ったもの・被害の種類や大きさ・物の感じ方・表現のしかたなど、何もかも1人1人みんな違うと感じます。
しんどくて悲しい時期でも笑えるようなことがあったり。
笑っているから悲しみやしんどさが消えたわけではないんですよね。

災害が何をもたらしたのか

さて、授業の後半では、この災害をきっかけに生まれた、各国からボランティアが駆けつける「レラワン」文化、防災の国際協力、被災地域同士の交流、GPSをはじめとするIT技術を使った情報コミュニケーションなどについて、実績と今後の展望が紹介されます。

どれも、知らなかったことばかりでした。

津波の後に生まれた子どもと一緒に犠牲者を弔う人、輪になって経験や思いを話し合うアチェの人と日本の人の写真
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

災害の影響も、支援も、被災者も、全て1つの国・1つの言語では区切られなくなった現代。

災害の多い日本は、「防災の先進国」と呼ばれていて、様々な国に知見を提供しているそうです。
しかし、日本が、アチェなど他国の復興から学ぶ例もたくさんあるでしょう。

私たちは異質な他者と地続きで繋がっている

最後に、学生さんから「外国人労働者なども増える中、被災の当事者になったとき、価値観の違う人々と復興に携わる際、自分に何ができるか」という質問が出ました。

(大災害の度に外国人へのケアの不十分さや差別が問題となりますが)この学生さんのように、自分が最も困難な状況に置かれることを想像したときに、まず他者との協調を意識することができる人がいるのだなと、ハッとさせられ、そして未来に希望を持ちました。

地域研究では「数えられないもの」「規格外」のものに意味を見出すことが必要だと書かれたスライド
UTokyo Online Education 「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義) Copyright 2015, 西 芳実

今回紹介した動画:「地域」から世界を見ると?(学術俯瞰講義)第11回 スマトラ大津波が繋いだ世界 西 芳実先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

※ 講義動画には、過去の地震や津波によって破壊された建造物などの写真、津波被害の具体的な説明が含まれます。予め、ご了承ください。

<文/加藤なほ(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/03/08


さまざまな場面で人の多様性が認められるようになった現在、その多様な人たちと共に生きていくことの意義が、広く共有されるようになってきました。

一方で、「共生」という概念が、価値あるものとして、無批判に称揚されている場面もあります。

特に深くその内実を省みることのないまま、「人と共に生きていくことは素晴らしい」というような言説が声高に叫ばれているのです。

しかし本来、「共生」とは、手放しでその価値を認められる概念ではありません。

実際には、人と共に暮らしていくと、さまざまな軋轢が生まれ、人を悩ませることもあります。

現代社会を生きる私たちは、否応なく共生させられているので、むしろ考えるべきはいかにして共に他者と生きるのかという具体的な問いです。

今回は、フランスの批評家であるロラン・バルト(1915-1980)の主張を追いながら、「共生」について考える講義を紹介します。

自分に固有のリズムで共に生きる

講義を担当されるのは、東京大学大学院総合文化研究科所属の星野太先生です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 星野 太

先生は「食客論」というものを研究のテーマとして掲げており、これがこの講義でも重要な概念になっています。

まず講義で取り上げるのが、ロラン・バルトがコレージュ・ド・フランスという教育機関で行った講義「いかにして共に生きるか(Comment vivre ensemble)」(1976-1977)です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 星野 太

まさに、今回紹介する星野先生の講義と同じテーマを掲げるこのバルトの講義では、「イディオリトミー」という概念がキーワードとして提唱されます。


イディオリトミーとは、ギリシア語の「イディオス(自分の)」と「リュトモス(流れ、リズム)」からなる合成語で、「自分に固有のリズム」をあらわします。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 星野 太

バルトはこの言葉を、ジャック・ラカリエール(1925-2005)という在野の作家の著作『ギリシアの夏』(1976)を参照しながら説明しました。

『ギリシアの夏』で言及されるのは、ギリシアのアトス山にある2つのタイプの修道院の話です。

そのうちひとつの、共同体的な修道院では、食事や典礼、作業などの全てが共同で行われます。

そしてもうひとつは、イディオリトミックな修道院で、そこでは各々が個人のリズムで生活しています。食事は個人の自室で行い、所持品もそのまま持つことが許されているのです。

バルトの講義では、このイディオリトミックな修道院が、それぞれが自由に振る舞える場所として、理想的だと見なされています。

ブリア=サラヴァンの共同体主義に対するバルトの批判的立場

星野先生は続いて、バルトが序文を書いたブリア=サラヴァン(1755-1826)の著作『味覚の生理学』(1825)を取り上げます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 星野 太

この著作でサラヴァンは、「ひとりでの食事が利己主義を助長する」ということを主張しました。サラヴァンの時代から次第に一般化していくレストランというものに目を向け、日頃からレストランに通う人間(孤食をすることが多い人間)の不作法を批判するのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 星野 太

つまり、サラヴァンは、共同体的な食事に価値をおき、イディオリトミックな食事に否定的であるといえます。(ただしサラヴァンはバルトよりも100年以上昔の人物であるということに注意してください)

星野先生いわく、バルトは、『味覚の生理学』の序文で、サラヴァンの「孤食」批判に対して、微妙な評価をしています。

バルトは、この本が食に関する書物として先駆的であるという書き振りをしながら、サラヴァンに批判的な立場を隠そうとしていないというのです。


バルトの真意は推し量るしかありませんが、テクストを見る限りでは、バルトはサラヴァンの家族中心主義、異性愛主義、人間中心主義に対して、批判的であると考えることができます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 星野 太

共同体からはみ出る「食客」

ここで話は、星野先生が取り組んでいる「食客論」というテーマに繋がります。

食客とは、客人としてある場所に住み着いている人のことです。星野先生は、この食客は共同体からはみ出る部分がある存在だといいます。

私たちは、ついつい安定した共同体に所属するか、孤独でいるかの二択(もしくはその併存)で考えてしまいがちで、その中間領域は往々にして見逃されます。

また、トラブルの生まれやすい偶然的な出会いの場や、不安定な共同体に対して、否定的な感情がある人も多いと思います。食客のような曖昧な領域、偶発的な領域は、避けられてしまうのです。

星野先生は、この中間領域をもう少しポジティブに考えてもよいのではないかと主張します。

バルトが理想としたイディオリトミックな修道院も、この中間領域のひとつだと考えることができるでしょう。

無視されがちなこの中間領域に目を向けることで、私たちは人と共に生きるということに対して、より多角的に考えることができるようになるかもしれません。

みなさんもぜひ講義動画を視聴して、「私たちはいかにして共に生きるか」という問いについて考えてみてください。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)第3回 いかにして共に生きるか ― 「食べること」と「リズム」について 星野 太先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/03/01

できるだけ、人に迷惑をかけたくない。

日々を生きるなかで、そのように考えている人は、少なからずいるのではないでしょうか?

たしかに、自分勝手に振る舞って、他人から不快に思われたくないと感じるのは、自然なことだと思います。

しかしもし、私たちが「エゴイスト」であることを原理的に避けられないとしたら、どうでしょうか?

どれだけ粛々と生きていたとしても、他者から簒奪することが免れ得ないとしたら?
20世紀の哲学者、エマニュエル・レヴィナス(1905-1996)は、「私は私であるかぎりで、簒奪者であり、殺人者である」と主張しました。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博

私たちはみな殺人を犯しながら生きている、などと言われると、ドキリとしてしまうでしょう。レヴィナスは、そんな突飛にも思える過激な主張を、独自の哲学をもって提唱しました。

レヴィナスの哲学の中心にあるのは、「顔」という概念です。

顔とは、何かの比喩ではなく、私たち人間が持つあの顔のことです。

私たちのもっとも身近にあるといえる顔が、どのようにして私たちを殺人へと導くのでしょうか?

今回はそんなレヴィナスの哲学から、「倫理」と「正義」について考える講義を紹介します。

理解しきることのできない他者の「顔」

今回講師を務めるのは、レヴィナスを専門とする哲学研究者、藤岡俊博先生です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博


あらかじめ述べておくと、レヴィナスの展開する哲学は非常に難解です。この記事を最後まで読んでも、すっきりしない感覚が残るかもしれません。

私も講義で述べられたことをできるだけ誤解なくまとめられるように善処しますが、レヴィナスの哲学を正確に理解したい人は、ぜひ講義動画も併せて視聴してくださると幸いです(UTokyo OCWにアップロードされている動画は、すべて無料で視聴することができます)。そして、興味を持った人は、ぜひレヴィナスの関連書籍も読んでみてください。

さて、最初に、レヴィナスの哲学の中心にあるのは「顔」という概念だと述べました。レヴィナスはこの顔をどのようなものとして捉えているのでしょうか?
レヴィナスが問題とする顔は、基本的に他者の顔のことです。顔というのは、ほかの事物と同じように、物体として存在しています。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博

そして、私たちは視覚や触覚を使って、顔やその他の事物と感性的に接触しています。このことをレヴィナスは、「視覚や触覚を通じて対象を『私のもの』にする」と説明します。

しかし一方で、顔は単なる事物とは異なる性質を持ちます。それは、「『話す』ことによって、自分自身の形態的なイメージをつねに破壊する」という性質です。この性質をもつために、顔は決して「私のもの」になることがありません。

少し抽象的で分かりにくいと思います。

ここで注目してほしいのは、顔は「理解しきることができない」、「所有しきることができない」ものだということです。

顔ではないその他の事物は、視覚や触覚を通じて、理解したり、所有したりすることができます。もし今、理解しきれない問題や、使いこなせない道具があったとしても、それは自分の能力がまだそこに及んでいないからであり、理解や所有の可能性はつねに開かれています。(その他の事物が理解・所有できないとき、そこには「量的な抵抗」が働いているといわれます)
一方で、顔を理解したり所有したりすることは、原理的に不可能です。それは、顔がつねに、自分自身の形態的なイメージを破壊しているから、言い換えると、私が他者に抱く観念をはみ出しながらその存在が現れているからです。(顔による抵抗は、「質的な抵抗」といわれます)

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博

他者の顔がもつ「殺人の誘惑」

他者の顔を所有しようとするとき、私たちが取りうる唯一の手段はなんでしょうか?ここでレヴィナスは「殺人の誘惑」について言及します。

レヴィナスは、「他人とは、私が殺したいと望みうる唯一の存在なのだ」(レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社学術文庫、2020年)と述べますが、それは、他者の顔が、私の所有から逃れているからです。

しかし、もし殺人を犯したとしても、顔を所有することはできません。

なぜなら、実際に殺人を犯すことは、他者を事物にすることと同義だからです。殺してしまうと、「自分自身の形態的なイメージをつねに破壊する」という顔の性質が失われてしまいます。

元々顔であった事物を所有することができたとしても、それはもう「顔」ではないのです。

そのために、顔を「顔として」殺すことはできません。

顔とは、このような殺人の倫理的不可能性と、殺人の誘惑との両義性の場だといいます。

顔を「見る」こととはすなわち、「殺してはならない」という命令を「聴く」ことなのです。

このように、所有不可能な他者を目の前にするとき、私たちは一方でさまざまな対象を「わがもの」にしてきたのだという事実を発見します。


他者の顔は所有できないと理解して、はじめて「私は私である限りで、簒奪者であり殺人者である」ということに気づくのです。
こうしてレヴィナスの哲学は「『憎むべきもの』としての私」を浮かび上がらせてきます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博

所有を正当化する「正義」

ここまで、レヴィナスによる「倫理」の問題を取り上げてきました。そこで主張されるのは、「私が他者の『顔』を前に無限の責任を負う」ということです。

これは見方によっては、乗り越える手段のない問題を投げかけ、人を八方塞がりにする、非常に暗い倫理かもしれません。

しかしレヴィナスは、このような倫理的関係の過剰さを修正するために、「正義」という別の次元を提示します。

他者と私の一対一の関係によって無限の責任を負うのが「倫理」の次元だとすれば、比較不可能な他者を比較するのが「正義」の次元です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博

正義の次元では、倫理的関係の唯一性が、複数の他者からなる複数性に開かれています。そこでは、無限の責任を負っていた私もまた、一人の他者となりうるのです。

正義の次元では、「所有」のみでなく、「侵略」でさえもまた正当化される可能性があります。

ユダヤ人であったレヴィナスは、聖書(タルムード)で紹介される、神がイスラエルの民にカナンの地を与えるとした「約束」を挙げて、正義について説明しています。

約束に従って、カナンの地に侵入していくことについて考えてみましょう。聖書で示されるエピソードでは、イスラエルの民は、侵入を主張する者と侵入に対して慎重な者とに二分されたといいます。

この約束に従ってカナンの地への侵入を主張するものは、一見道徳的でないように見えます。この侵入は、まさしく「所有」であり、「侵略」だからです。
しかし、レヴィナスによれば、彼らは「『正義の国』を建設しに行く」ために、道徳的でないとは言い切れないといいます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 藤岡 俊博

なぜこれが「正義の国」の建設となるのでしょうか? レヴィナスは、「彼らは単に正義に身を投じるのではなく、正義を厳密に自分自身に適用する」(レヴィナス『タルムード四講和)と述べます。そして「自分の行為の帰結をつねに受け入れ、自分が祖国に値する存在でないときには流謪を甘受することができる者のみが、その祖国に入る権利を有する」(同)と続けています。

つまり、正義を正当化するには、自分自身を省みることが求められるのです。

その意味で正義もまた、他者を簒奪する正当性を問い続ける倫理によって、基礎付けられています。倫理に基礎付けられているからこそ、正義は「普遍的正義」となるのです。

レヴィナスは正義について、次のようにも述べています。

戦争に対してなされる正義の戦争においても、ほかならぬこの正義ゆえに不断におののき、さらには震撼しなければならない。この弱さが必要なのだ。(レヴィナス『存在の彼方へ』)

このように「正義ゆえに『震える』こと」によって、私たちは眼前の他者と一対一で向き合うことができるのです。

「〜である」≠「〜して良い」

いかがだったでしょうか?レヴィナスの倫理は、私たちが事物を所有する正当性を不断に問い続けるように要請してくるため、人によっては都合の悪いもののように感じ、退けたくなるかもしれません。

しかしレヴィナスは、無限の反省を提示しながら、一方では「正義」という行為の可能性も示してくれています。

私が講義のなかで印象深かった話に、「実はレヴィナスは『〜すべき』と主張していない」というものがあります。

一般的に、倫理とは、「〜すべき」、「〜すべき」でないといった事柄を取り扱う分野であると考えられます。レヴィナスは倫理について考えた思想家ですが、そこで述べられるのは「〜である」という事実ばかりで、「〜すべき」という提唱はほとんどないというのです。

むしろレヴィナスは、「〜である」が「〜して良い」と同義だとする考え方を揺さぶることに徹底していました。そこにレヴィナスの哲学の重要な根幹を見ることができるように思います。

講義ではそのほか、「自我」という概念を広めたパスカルの「君は自我から不快を除くが、不正を除きはしない」(パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳、中公文庫、1973年)という一説を、レヴィナスの哲学と結びつけて解釈するなどしています。

きっとこの記事を読んだだけでは、レヴィナスの哲学について十分に理解できていないはずです。(むしろ疑問ばかりが浮かんでいるかもしれません)

興味を持ってくださった皆さんは、講義動画を視聴して、学びを深めてみてください。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)第8回 「他者」と共生する「私」とは誰か ― レヴィナスの思想を手がかりに 藤岡 俊博先生

●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/02/22

みなさんは、「言葉」をどのようなものとして捉えていますか?

インターネットが発達した今の世の中は、かつてないほどたくさんの言葉で溢れています。

情報化社会を生きる私たちには、無数の言葉を情報として処理していく能力が求められているといえるでしょう。

そしてまた国も、言葉の情報としての側面を重視し始めているように思えます。

文部科学省が、従来の「現代文」という科目を廃止し、代わりに評論を主とする「論理国語」と文学作品を主とする「文学国語」という科目を新設することにしたからです。

2つの科目が新設されるといっても、「論理国語」と「文学国語」は選択式です。入試には評論が頻出するので、多くの高校が「論理国語」を選択し、結果として学生が文学作品に触れる機会が減ってしまうのではないかと考えられています。

そんななかで、日本の近現代文学を専門とする安藤宏先生は、「言葉を情報処理の道具としてしか見ない貧しい言語観が蔓延することに対して危機感を抱いている」といいます。

論理的に考えることが必要とされるこの世界で、たしかに私たちは、言葉を単なる情報処理の道具として捉える場面が増えてきているのかもしれません。

しかし、言葉が道具としての役割を超えて持つ価値と可能性とは、いったいどのようなものなのでしょうか?

これからの時代、私たちはどのように言葉と向き合っていくべきなのか、安藤先生と一緒に考える講義動画を紹介します。

AIと協業して行う文学研究

安藤先生は、東京大学大学院人文社会系研究科の教授で、日本の近代文学、特に太宰治を専門とされています。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 安藤 宏

前述したように、「論理的で明快なもの」、別の言葉でいえば、「直ちに役に立つもの」を重視する現代社会においては、文学の価値が見えにくくなっています。

しかし、安藤先生は、問いと答えが一対一になっている問題のトレーニングばかりしていても、それでは太刀打ちできない根本的な問題が残ってしまうといいます。

単一的な答えが出せない領域においては、人類の成り立ちを考える、文学や哲学や歴史などの人文知が必要なのです。

ただし、情報化社会はそれ自体が問題なわけではありません。情報処理の技術が、人文知の探究にプラスの影響をもたらすこともあります。

安藤先生は、小説を解釈する作業においても、AIと協業していくことで、より効果的な成果が得られるのではないかといいます。

安藤先生いわく、小説の解釈というのは、系統の違う積み木をばら撒いて、それをもとに軍艦やお城など、さまざまな模型を作り上げていくような作業です。

といっても、好き勝手なものを作ってよいのではなく、できるだけ重要な積み木を組み入れながら模型を作りあげなければいけません。

その模型がいかに重要な積み木を漏らすことなく作られているかが、その解釈の正当性を裏付けます。

本質を見抜くような蓋然性の高い模型を作ることが文学の解釈においては重要となるのです。

ここで安藤先生は、どのような積み木があるか探し出す作業と、それで模型を作る組み合わせをリストアップする作業は、AIにも行えるだろうといいます。

それはつまり、AIに小説の要素を抜き出してもらい、その関係性や意味を列挙してもらうということです。そして、その情報をヒントに、人間がより正当な解釈を見つけ出すのです。

安藤先生は、諧謔やユーモアまでも含めた自然言語の処理をAIが担えるという議論には懐疑的ですが、まったく手出しできないと考えているわけではありません。人間にしか行えない領域と、AIに任せられる領域があります。

ここでも問題となるのは、私たちがAIの情報処理を過信して、自らの言葉を貧困にしていくことなのです。

体験から経験に、経験からキーワードに

安藤先生いわく、「言葉を大切にするのが文学の全て」です。そこには、情報処理と対極にある何かが存在しているといいます。

たしかに私たちは、言葉に単なる情報を越えた力があることを理解しているはずです。

だからこそ私たち人間は、文学作品を必要としてきたし、文学でなくとも、ただの記号としてではないあり方で言葉を用いてきたのだといえるでしょう。

しかし、それがどういったものであるか説明するのは、なかなか難しいのではないでしょうか?

安藤先生は、「経験」と「体験」の違いについて語ります。

「体験」とは、その人がただ立ち会った出来事のことですが、「経験」には、その出来事から何かを掴み取ったというニュアンスが付加されます。経験には主体性があるのです。

そして、経験を重ねていくと、だんだん言葉がぶっきらぼうになっていくといいます。

たとえば、何十年も焼き物を続けているような人が、「焼き物でいちばん重要なのは『深み』なんだ」といったとします。

しかし、ここでの「深み」がどのようなものであるか、私たちには掴みきれません。それは、その人の経験から導かれた言葉だからです。

安藤先生はこのことを、「体験から経験に、経験からキーワードに」というふうに説明します。

みなさんも、きっと何か自分のなかにキーワードがあるはずです。

他の人がある言葉を気軽に使ったときに、「その言葉はそんな簡単に使って欲しくない」と感じたとすれば、その言葉はあなたのキーワードでしょう。

(講義中には、安藤先生も、簡単に使って欲しくない言葉をひとつ挙げています。)

このような、自分だけのキーワードは、単なる情報を超えた価値を持っている言葉です。

記号としての言葉が氾濫する現代には、このような自分だけのキーワードをできるだけ多く持つことが大切だといいます。

もし自分の言葉がなければ、周りに流されてしまい、どんどん不安になってしまうでしょう。

終わりに

ここで「不安」と述べましたが、実はこの講義は、「不安の時代」というオムニバス講座の一講義として、「日本近代文学における「不安」」という題で開講されたものです。

この記事では、この講義で説明された「現代を生きる私たちは不安とどう向き合っていくべきか」というテーマを、ごっそり書き漏らしてしまっています。

講義では、小林秀雄や柳田國男、シェストフなどの言説を通して、不安について考えています。

講義でも紹介される「万人のごとく考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つ」という柳田の言葉は、不安に向き合うために、まさにこの講義を通して安藤先生が強調したかった言葉でもあるのではないでしょうか。

この記事を読んでいるなかには、周りの意見に流されて焦ったり、論理的な正しさと自分の気持ちに折り合いがつかずに悩んだりする人も多いと思います。

この安藤先生の講義は、そんな人が、今一度自分自身と向き合うきっかけになるはずです。

ぜひみなさんも、講義動画を視聴して、文学の価値を改めて理解し、自分自身の考えを信じてみてください。

今回紹介した講義:不安の時代(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2020年度講義)第3回 日本近代文学における「不安」安藤宏先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)

2023/02/16

みなさんに質問があります。
「不平等」って、本当に悪だと思いますか?

いやいや、悪に決まっているでしょうと言いたくなる方もいるかもしれません。
しかし、不平等が悪である理由をしっかり説明できる方は、実はあまり多くないのではないでしょうか。

きっとそうした方の中には、
”不平等はよくないというのが「当たり前」すぎて、不平等について深く考えたことがない”
という方が多くいるのではないかと思います。私もその一人です。

そこで今回は、社会の不平等の実態やメカニズムを統計的手法によって分析している白波瀬先生と一緒に、
「不平等」についてじっくりと考え直す講義をご紹介します。

機会と結果の不平等

さて、「不平等」と同じように使われることばとして「格差」があります。
不平等と格差、この2つはどのように異なっているのでしょうか。

白波瀬先生がそのように問いかけると、受講生からは次のような返答が挙がりました。
「格差はスタートしたあとに生じた差であるのに対して、不平等はそもそもスタートラインに立てるか立てないかの差である」

ここから浮かび上がるのは、「機会」と「結果」という2つの層が存在するという考え方です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 白波瀬佐和子

次に、白波瀬先生は「所得の高い者と所得の低い者の違いはどのように生まれるのか」という問いを立てます。
「機会」と「結果」のうち、「結果」として生じる差についての問いかけです。

まず最初に受講生から挙がったのが、「職業の違い」という答えです。とてもわかりやすいですね。

では、少し掘り下げて考えてみましょう。職業の違いはどのように生まれるのでしょうか?

白波瀬先生がそう尋ねると、受講生から様々な返答が寄せられました。
「受けることができた教育の水準の違い」
「親から受け継がれた遺伝子の違い」
「なりたいと思う職業の違い」

なんとなく、前の2つは本人には変えられない要素で、3つ目の「なりたい職業」は本人がコントロールできる要素というような気がします。

しかし、もっと深く探っていくとどうでしょうか。
「なりたいと思う職業の違い」は、どのようにして生まれるのでしょうか。

白波瀬先生は、本人の性別などの属性に応じて周囲から期待される役割が、本人の職業選択の志向に影響を与えているのではないかと問いかけます。

多かれ少なかれ、この記事を読んでいただいているみなさんも、きっと思い当たる節があるのではないでしょうか。

さらに、同じ職業についた人どうしでも、所得の差は発生します
この差も本人の属性から無縁であると言い切ることはできません。

たとえば家事や育児に対する女性への役割期待が社会に存在すれば、その分職場で女性がキャリアを形成していく難易度は上がります。

さらに、「女性は結婚・出産を機に職場を離れる割合が高い」 というような過去のデータがあれば、企業側は合理的な行動として、社員に対して性別により異なる扱いをするようになります。(これを統計的差別といいます。)

このように深く深く考えていくと、次のような結論が見えてきます。

「結果」に属する個人の差異は、周囲からの役割期待やキャリアの歩みやすさなどを介して、かなりの部分が「機会」の差異に由来しているのではないか。

この結論が正しければ、そもそもスタートラインの時点で不平等が生じていることになります。

「機会の不平等は悪だけれど、結果の不平等は悪ではない」
簡単にそう言い切ることができない理由がここにあるのです。

不平等をデータからとらえる

上で触れたように、白波瀬先生は社会階層に関する様々なデータを統計的手法で分析しています。
この講義のなかでも、いくつかのデータが示されます。一緒に見ていきましょう。

まず先生が切り込むのが、「日本は高度経済成長を経て一億総中流社会(日本国民の大多数が「中流階級」であるような社会)になったが、格差社会に変わってしまった」という言説です。
先生によれば、1990年代後半以降、こうした言説が国内で普及していったそうです。

一億総中流社会→格差社会 というわかりやすい構図。
これは果たして正しいのでしょうか?

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 白波瀬佐和子

上のグラフは、自分の生活の程度を上〜下の5段階で評価してもらった調査結果の推移を示したものです。
高度経済成長期の「一億総中流社会」の時代から、1990年代以降の「格差社会」の時代までが示されています。

グラフを見た皆さんは、おそらく、「あれ、あんまり変化してないんだな」と思ったのではないでしょうか。

それもそのはず、「一億総中流社会」論と「格差社会」論は、実は異なるデータにもとづいて展開されているのです。

前者は生活の程度という主観的な意識のデータに根差しており、後者はジニ係数という客観的な経済学的指標のデータに根差しているのです。

このように、異なるデータにもとづく議論を安易に結びつけることには、慎重にならなければならないということがわかります。

それでは次に、「格差社会」論の根拠である経済学的指標の方を見てみましょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 白波瀬佐和子

上の表で示されているのは、「ジニ係数」という値の変化です。
ざっくり言うと、ジニ係数とは所得の不平等度を測る指標です。
0が完全平等の状態(全員が同じ所得)を、1が完全不平等の状態(一人だけが所得を独占)を指します。値が1に近いほど不平等ということです。

まず表から読み取れることとして、平成14年から平成26年にかけて、「当初所得」をもとに算出されたジニ係数は増え続けています。(①)
これを見ると、所得の不平等は広がりつづけていると言いたくなります。実際、「格差社会」論も、もともとは数値の増加を根拠に展開されました。

しかし、「当初所得」とは税や社会保障によって再分配がおこなわれる前の所得を指します。
一般に労働所得の低い高齢者の人口の割合が高まると、「当初所得」を用いたジニ係数も自然と増加していくのです。

そこで、より実態をとらえるためには、税や社会保障による再分配がおこなわれたあとの「可処分所得」から算出されたジニ係数(②)を見る必要があります。
すると、この値はかなり安定していることに気づきます。
実態として、マクロレベルでは所得の不平等は広がっていないといえるのです。

次に、ジニ係数と並んでよく用いられる指標である「相対的貧困率」を見ていきましょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 白波瀬佐和子

相対的貧困率とは、「可処分所得」が全世帯の中央値の1/2以下である世帯の人口の割合を示す値です。
表を見ると、相対的貧困率は全体的に微増傾向であることがわかります。

しかし、もっと細かく観察すると、子どもがいる世帯のうち、大人が2人以上いる世帯の相対的貧困率はおおむね10%前後であるのに対し、大人が1人である世帯の相対的貧困率は50%を超えていることがわかります。

両親がいる世帯に生まれるか、片親の世帯に生まれるかという絶対に変えられない要因によって、明らかに子どもの人生のスタートラインが大きく異なっているのです。

このように、全体の数字だけ見るのではなく、属性ごとの数字に着目することで、「機会」の差の大きさに気づくことができるのです。

再分配の重要性と難しさ

これまで「機会」と「結果」の不平等について考えたり、実際のデータを見たりしてきました。
そのなかで一つの結論が見えてきました。
それは、「結果」の差を個人の努力の差だけに還元して考えることは間違っているというものです。

実際には、「結果」の差の多くの部分は、そもそもの「機会」の差に由来しているのです。

これは第一に、自己責任論への反論となります。

もちろん一人ひとりが責任をもって行動することは大切ですが、その結果として生じる貧困などの原因をすべて個人の責任に求める自己責任論は、そもそも「機会」が「結果」に与えている影響の大きさを見落としているのです。

また同時に、社会的な再分配の必要性が示唆されます。
再分配は、機会の不平等を社会的正義の観点から是正する措置であり、かつ貧困のリスクを社会全体で分担するリスクヘッジなのです。

実は、日本の再分配効果は、OECD諸国と比べるとかなり限定的です。
白波瀬先生は、再分配効果のきわめて高い国を模倣する必要はないものの、現状の制度では不足していると考えます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 白波瀬佐和子

また先生は、再分配の仕組みを設計する際には、時代の変化を考慮して、新たな分配の流れをつくっていく必要があると言います。

たとえば社会保障費の負担額や給付額を見ると、得をした世代と損をした世代に分かれることは否定できません。
先生は、そうした出生時期による不平等を考慮した再分配の流れを、一つの可能性として提示しています。

こうした制度設計は、なかなか一筋縄ではいきません。
不平等について、客観的なデータを分析することを前提としつつ、何が善で何が悪かという価値基準まで含めて議論しなければいけません。

しかし、できるだけ多くの人が自分の望み通りの人生を歩めるような社会をつくるためには、実際にそうした営みが必要なのです。


以上、白波瀬先生の講義について紹介しました。

正直、この記事では、講義の魅力の1割もお伝えできていません。
不平等と貧困のどちらが問題なのか?という難しい議論など、実際の講義には好奇心を刺激される内容がもっともっと詰まっています。
ぜひ講義動画を見て、不平等というテーマについて考えてみてください。

また、白波瀬先生は東京大学の MOOC(Massive Open Online Course; 大規模公開オンライン講座)でも授業を開講しています。
興味のある方はぜひチェックしてみてください。授業PVはこちら

今回紹介した講義:現代日本を考える (学術俯瞰講義) 第10回 富める者と貧しき者:機会と結果の不平等 白波瀬 佐和子先生

<文/小林裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)

2023/02/08

東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, 以下EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 王欽

EAAは2019年度以来、「30年後の世界へ」を共通テーマとするオムニバス講義(学術フロンティア講義)を行なってきました。

2022年度の講義では、「30年後の世界へ―『共生』を問う」と題して、「共生」という概念について問い直すことが目指されました。

2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行により、他者と「共生」するということについて考えさせられることが増えました。

同居する家族が濃厚接触者になってしまうということ、感染症対策やワクチン接種についての考え方の違い、また、ロックダウンなどの対応は、「他者との共生」が脅威になりうるという事実を我々に突きつけてきました。

私たちはいかに他者と「共生」することができるのでしょうか。

「共生」を既定の事実として理想化するのではなく、私たちが生きるべきよりよい生のあり方について根本から捉え直す講義です。

その観点に立ち、哲学、文学、社会学、生物学など様々な分野の教員が講義をおこなっています。さらに、東京大学内だけでなく、北京大学、香港城市大学など、学外の講師による講義も行われました。

新型コロナウイルス感染症や生物の多様性、緊迫した国際情勢など、今を生きる私たちが直面している身近な問題も講義内で取り扱っているので、興味を持って視聴することができるでしょう。日常生活の中でなんとなく感じている息苦しさを和らげてくれるかもしれません。ぜひ、ラジオ感覚でリラックスしながら受講してみてください。

魯迅を再読する

今回ご紹介するのは、全13回の講義のうち第12回目の講義です。

講義をされるのは、東京大学総合文化研究科所属で比較文学を専門にされている王欽先生です。

この講義では、他者といかに共生するかという問いを、魯迅のテクストを手がかりに考えます。

「ノイズのような他者」といかに共生するか

想像してみてください。

ある真夏の昼下がり、カフェでカントの純粋理性批判を読んでいると、隣の席でカップルがイチャイチャし始めます。

文章が全然頭に入ってこないあなたは、文句を言いたいけれど、逆上されたり言い合いになったりしたら嫌なので我慢しています。内心ではひどく悪態をつきながら…。

これは、この授業の問いとなる「ノイズのような他者といかに共生するか」という場面の一例です。皆さんも似たような経験があるのではないでしょうか?

『阿金』との出会い

王欽先生が取り上げるのは、魯迅が晩年に書いた『阿金』というショートエッセイです。

タイトルの「阿金」とは、魯迅の家の斜め向かいの家に使える女中の名前です。「阿金」は、エッセイの中で魯迅の日常を乱す「ノイズのような他者」として描かれています。

原稿を執筆している時、阿金の友達が「阿金!」と彼女を呼ぶその声が、語り手の思考を妨げるのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 王欽

雑音とは何か

ここまで「ノイズのような他者」と述べてきましたが、そもそも「ノイズ/雑音」とは何でしょうか?

王欽先生は、フランスの思想家・経済学者であるジャック・アタリの考察を取り上げ、雑音は音声や社会の秩序にとって常に侵略的であり暴力的であると言います。

最初のカフェのカップルを例にとると、彼らは確かにカフェの空間の秩序や読書を撹乱する存在でした。

どれだけきちんとした秩序を構成しようとしても否応なく入り込んでしまうノイズですが、見方を変えてみると、秩序を壊すことで新たな社会の可能性を我々に示唆してくれる存在でもあるのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 王欽

阿金という力

語り手は、阿金の友達が彼女を呼ぶ騒がしい声を聞いて、原稿に「金」という文字を無意識に書いてしまったというエピソードを書いています。

彼女の影響力の大きさは語り手にとって衝撃的でした。

なぜなら、語り手が想定していた「女」は、男権社会において大して力を持たない存在だったからです。

ノイズとしての阿金の存在は、彼の30年来の信念と主張に動揺をもたらしたのです。

阿金の偉力=文学の力

語り手自身の秩序は、阿金というごく小さな存在によって撹乱されました。

また、歴史を振り返ってみると、中国社会は女性によって革新されてきました。

王欽先生は、阿金という偉力を通して歴史上の女性たちを理解し直していく、という読み方を提案します。

そこでは、女性たちが既存の社会秩序を動揺させ、新しい社会性を提示する力を持っているように、文学も政治に対して文学なりの偉力を持っているかもしれないと言います。

女性の力を捉え直す偉力を持つ「阿金」を、文学の可能性を示す作品として読むのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 王欽

魯迅の意思

文学の役割について、魯迅の答えは「文学的に描くこと」だと言います。「阿金」というエッセイは、文学的な営みでできることとできないことを同時に提示してくれているのです。

1934年に書かれた「阿金」ですが、この時代は、日本の侵略に対して武器に相応しい文学作品を作るように要請されるという、魯迅にとってとても厳しい時期でした。

魯迅は武器としての文学を「それは文学ではない。」と考え、一種の抵抗として「阿金」を書きました。魯迅は、政治と文学の関係から後退し、真面目なことを避けようとしました。阿金というありふれた一人の女性を元にしてどんな文学作品ができるかを試行錯誤したのです。

文学の役割

魯迅は、文学的領域から政治哲学への翻訳という可能性を持たせながらも、あくまでも文学における話であるということにこだわりました。

普遍的であるかのような言葉は、実は分野を超えて翻訳できないということを伝えたかったのだと言います。

他者と共生するということ

共生や共存という言葉は素晴らしいもののようですが、実際は大変なことです。

王欽先生は、「素晴らしい共生」という側面を強調するのではなく、今日ではむしろ共生のどうにもならない側面に着目すべきだと言います。

魯迅は文学という限定のなかで、「ノイズとはこのようなものである」、「女性とはこのようなものである」ということを描きました。

日常生活の中で私たちはどうしていくべきかという問いに対する魯迅の答えは、

「どうにもならない。」ということだと言います。

我々にできることは、無意識のうちに他者に影響されて、他人の言葉を咀嚼し自分の言葉に変えていくことなのです。

ペンや飲み物、人、といった全てのものは「他者」です。

それらの異質な存在にぶつからない限り、自分と他者との共存は成り立ちません。

私たちは、他者という存在とぶつかって初めて自分の存在を意識するようになるのです。

授業動画を見て、阿金と文学から共生について考えてみませんか?

今回紹介した講義 : 30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)第12回 共生を求めること・共生を堪えること ― 魯迅を再読する 王 欽先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>

2023/02/01

多くの病気の原因はいまだ不明であり、治療法もない。
医療は、いつも効果があるとは限らない。医療は、常に危険を伴う。

突然で驚かせてしまったかもしれません。
しかし、医学系研究科の康永秀生先生は、医療についてそのように語っています。

まさに医学の専門家である康永先生が、どうしてそのように語っているのでしょうか?

今回は、「臨床疫学」という学問分野の紹介をもとに、現代の医療について康永先生と一緒に考える講義を紹介します。

医療の不確実性に切り込む臨床疫学

あなたは医療に対してどのようなイメージを持っていますか?

「身体に不調があっても、病院で診察を受ければ、問題の所在と解決策を的確に示してくれる」といった具合に、
確実性をもった万能な知識体系だと感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

しかし、康永先生は、医療は全く万能ではないと言います。
むしろ医療はいつも効果があるとは限らず、常に危険をともなうのだそうです。

そもそも、人体のメカニズムも、病気の原因も、その多くは未だに解明されていません
そのため、動物実験や細胞実験で有効性が確認された治療法であっても、いざ個別の患者に施してみると、
効果がなかったり、もしくは予想していなかったアクシデントがおこったりするそうです。

人体がブラックボックスであるがゆえに、医療は万能ではなく、むしろ不確実な手段なのです。

そして、康永先生の専門である臨床疫学は、まさにこの医療の不確実性を前提とした学問です。

そもそも、この臨床疫学とはいったい何なのでしょうか?康永先生いわく、
多数の患者の診断・治療などに関するデータを統計学的手法を用いて解析し、医療の有効性や安全性を科学的に評価する学問
だそうです。

臨床疫学の研究の例を一つ挙げましょう。
脳梗塞のリハビリテーションについての研究です。

脳梗塞で入院した患者は、後遺症を防ぐためにリハビリテーションをおこないます。
しかしこのリハビリテーション、本人にとってはかなりの体力を必要とするそうです。ただ闇雲にやればいいというわけにはいかないのです。

そこで、どのようにリハビリテーションをおこなうのが適切かを検証すべく、約10万人の脳梗塞患者の事例を分析した研究がおこなわれました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 康永秀生

分析の結果、次の2つのことがわかりました。
① リハビリテーションの密度(1日あたりにおこなう時間)が高いほど回復が早い
② 同じ密度のリハビリテーションをおこなう場合、入院後の早い時期に始めている患者は、そうでない患者よりも回復が早い

このような研究結果は、実際の医療の場面で、どのような選択肢をとるべきか判断する際の有効な指針になります。

臨床疫学では、多数のデータを集めて分析をおこなうことで、医療の選択肢を客観的に評価することを可能にしているのです。

臨床疫学が成立するまで

臨床疫学が学問分野として成立したのは20世紀後半です。
しかし、同様のアイデアを持つ方法は、それよりもずっと前から存在していました。

これまでパンデミックを何度も起こしてきた感染症の一つに、コレラ菌を病原体とするコレラがあります。

コレラ菌が細菌学者のコッホによって発見されたのが1883年。
しかし、その30年ほど前の1854年にロンドンでの感染拡大を止めたのが医者のジョン・スノウです。

スノウはロンドン市内でコレラが流行ったとき、患者の居住地を地図に示しました
その結果、そこには共通して井戸があることを発見しました。
スノウは井戸に感染拡大のカギがあると考え、患者居住地にある井戸を使わないように呼びかけたところ、なんとコレラの感染を食い止めることができたのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 康永秀生

スノウはコレラ菌の正体こそ知りませんでしたが、統計学的な手法を用い、感染の経路を遮断することで疫病を防ぎました

彼の活躍は臨床疫学の芽生えとして位置づけることができるかもしれません。

スノウの活躍からおよそ100年が経ち、臨床疫学(Clinical Epidemiology)という語が使われるようになりました。

英語の教科書ができたのが1980年代。
日本では1990年代に大学での教育がはじまり、2016年に学会が設立されました。

萌芽は昔から見られていたものの、成立してからはまだ若い学問だといえるでしょう。

臨床疫学の背景にある理念

さて、臨床疫学にもとづく医療は、「科学的根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)」と呼ばれています。
この科学的根拠という概念は次の2つの方法論的な原則から構成されています。

再現性:科学の世界で自説を主張したければ、再現可能な方法を用いて、それが確からしいことを証明しなければならない。
② 統計的検証:観察や実験は、統計学と結びついて初めて「科学」と言える。

「科学的」とは、「この2つの原則からなる手続きに則っていて、現時点では最も真理に近い」という意味なのです。

そして、これらの手続きを支えているのが「医療ビッグデータ」です。

医療ビッグデータには、出生や死亡の情報が記録された人口動態統計や、定期検診や治療の情報が記録されたさまざまなデータベースなどがあります。

それらのデータはリアルタイムに蓄積され、科学的研究のために供されているのです。

政策と臨床疫学

個々の医療の現場を支える臨床疫学ですが、それ以外の場でも力を発揮することがあります。
例として、子供の医療費補助に関する研究を見てみましょう。

少子化対策のため、子供の医療費を補助し、ときには無償化する政策が多くの自治体でとられています。
この政策の妥当性を評価するため、患者366,566件のデータを集め、政策により子供の健康レベルが実際に向上しているのかを検証する研究がおこなわれました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 康永秀生

検証の結果、平均所得の低い自治体では子供の入院件数が減少したのに対し、平均所得の高い自治体では逆に増加していることがわかりました。

この違いは、政策が適切な初期治療によって防げる入院(=「避けられる入院」)にアプローチできているかによって生まれているそうです。

これまで気軽に医療を受けられなかった低所得層は、医療費補助によって早めに診療を受けることが可能になったため、「避けられる入院」を回避することができます。

しかし所得の高い層にはそうした作用がなく、かえって必要性の低い入院が増える分、医療費を増大させるだけの結果になる可能性があります。

このように考えると、一律に医療費を補助するのではなく、低所得層に限定して補助するのが良いのではないかという示唆が得られます。

以上のように、臨床疫学は医療の場だけではなく、政策の判断や評価の場においても力を発揮するのです。

そのように言われると、新型コロナウイルスに対する政策を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

経済や文化などさまざまな領域を考慮しながら、感染拡大の局面に応じて、それぞれの国や自治体が政策を選択しています。

そうした政策がどのような研究にもとづいて選択されているのか、また一度とられた政策が臨床疫学的な研究からどのように評価されるかを考えることで、
より深い現状の理解が可能になるかもしれないですね。

おわりに

ここまで、康永先生の講義をかいつまんで、臨床疫学という学問について紹介しました。
実際の講義では、いろいろな研究の事例や、先生のエピソードが紹介されています。

みなさんもぜひ講義動画を視聴して、現代の医療について考えてみてください。

今回紹介した講義:新しい医療が社会に届くまで ~データサイエンスが支える健康社会~(学術俯瞰講義) 第10回 臨床疫学―医療の不確実性に挑む科学 康永 秀生 先生

<文/小林裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2023/01/25

私たち大学生は日々大学に通い、さまざまな授業に出席して、「学問」をしています。しかし課題に追われる毎日の中で、学問とは何なのか、私たちは何のために学問をしているのか、見失う事はないでしょうか。

今回は、学問をすることの意味をより大きな文脈で提示してくれる講義をご紹介します。示される結論は、大学は学問を通じて「悪とたたかう」ための場だということ。学問が戦いだなんてすぐにはピンときませんが、どういうことなのでしょう。

システムが生む悪

今回紹介する講義の講師は、中国哲学の専門家石井剛教授です。

東アジア藝文書院が教養学部で行ってきたオムニバス形式の連続講義「30年後の世界へ—『共生』を問う」の最終回として、主宰の石井先生自ら、言語の問い直しとより良い大学の在り方について、新しい見方を提示する講義となっています。

まず、そもそも学問が戦っているという「悪」ってなんなのでしょうか。

それは、「中動態的な悪」と呼ばれる悪のことです。中動態とは、能動と受動のどちらとも言えない、中間的な状態のこと。中動態的な悪とは、自分から悪に加担しつつも、それを能動的に選び取ったという自覚がない、自発にも強制にも分けられない態度によって生み出される悪のことを言います。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

例として、戦時中に政府の命令で捕虜を生きたまま解剖することに従事した軍人たちがあげられます。彼らは自身の犯した残虐な行為について、責任や罪の意識をほとんど持っていませんでした。それは能動的にその行為を選んだという自覚が彼らに無いからです。

このように中動態論理の中では、普通の一般市民がいとも簡単に巨大な悪に加担してしまう事があり得るのです。

そしてこの中動態的な悪は、「システム的な悪」とも言い換えることができます。なぜなら、この中動態的な態度を生み出すものは、私たちが不可避に内包されている、「システム」だからです。

私たちは日本という社会から学校、家庭に至るまで、様々なシステムに含まれていますよね。それらのシステムは人々を巻き込みながら成長し、抗えない「勢い」を生み出すようになります。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

そしてシステムが悪の方向にシフトした時、すでにシステムの勢いに抗えなくなっている個人は、中動態的に悪に加担してしまうのです。システム的な悪が決して私たちに無関係なものではないことがわかっていただけたと思います。

悪は防げない?

では、悪を生まないシステムを作ることは可能なのでしょうか。答えはNOです。なぜなら、システムが生成していく時点で善と悪はシステムに内包されているからです。

キリスト教的な世界の始まりを考えてみてください。創造主が「光あれ」と言った時点から、無の世界に光と闇の概念が生まれます。そしてこの二つの属性が様々なパターンで組み合わさっていくことで、世界というシステムが生成されてきました。

ここでいう光と闇は、あらゆる二項対立に置き換えて考える事ができ、その一つに善と悪があります。善と悪が色々な方法で組み合わさり、相互に作用することによって、世界が生成されていきます。

だから善や悪はシステムが生み出すものではなく、システムの駆動の根底に、元々存在しているものなのです。この議論は少し理解しにくいかもしれませんが、大切なのは悪が生まれる事自体を防ぐ事はできない、ということです。

対抗手段としての「文」

私たちはシステムの勢いに抗うことも、システムの悪を撲滅することもできない。ならこのシステムに対して、私たちはどのようなアプローチができるのでしょうか。それは、この講義のタイトルにもなっている、「文」という行為です。

私たちは、言葉を使うことで、自然と生成されていくシステムを秩序化する事ができます。この人間の知性による秩序の言語化のプロセスを「文」と呼びます。

つまり、私たちが認識できるのは、文を経て言語化された、システムの秩序だと言えるわけです。このように考えると、システムを考えることは、文を考えることと同義になります。

ここで厄介なのは、私たちがシステムを認識するのに用いる言語自体も、善と悪を内包したシステムだと言うこと。よって、言語を完全に信頼する事はできません

中国の思想家章炳麟は、「言語が病的でない事は不可能である」(章炳麟a 「正名雑義」219)と述べました。言語は記号でしかなく、名付けた瞬間からその事象の本質との隔たりが必ず生じます。この隔たりを章炳麟は病と呼ぶのです。

言語が生来病的であるからこそ、文は更新され続けなければいけません。それは不可能に挑み続けることだけれど、私たちは完璧な文を目指して、挑み続けなければならないのです。

「文」で最悪を防ぐ

なぜそれほどまで文が大切なのか。それは、システム的な悪に立ち向かう方法を私たちに与えてくれるのもまた文だからです。悪を撲滅することはできなくとも、文をうまく使えば、「最悪の悪」を防ぐために少しずつシステムを修正していくことはできます。

ここで人類が避けるべき、「最悪の悪」について石井先生は定義します。それは、システムの結末として起こりうる、人間の力では癒せないような悲劇的な事態を認識しながら、それでもそれを回避できると決めつけて突き進むことです。

例えば原子力の悪について考えてみましょう。原子力はクリーンなエネルギー源として世界に普及しましたが、歴史的な数々の事故で明らかになったように、人間の力で癒すことのできない甚大な被害をもたらす可能性を内包しています。

このような事態が起こりうる可能性が1%でもあることを知りながらそれを無視し続けることが、最悪の悪なのです。

ではこのような悪に加担しないようにするにはどうすれば良いのか。それはシステムの結果、人間の力を超えた力によってもたらされうる破滅の存在を、言葉によって宣言することです。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

原子力について倫理的に考察する仕事をしたフランスの思想家デュピュイは、「破局の到来を告げる言葉は、問題になっている破局の生起を防止することに成功する」(デュピュイ『ありえないことが現実になるとき』212)と述べました。このままでは悲劇的な結末を迎えることが明文化されたとき、初めて人はシステムを修正することができます。これが文の持つ役割の一つです。

また、人間存在そのものが悪なのではないかという悲観的な論も広まっています。人間によるシステムの駆動そのものが地球にとって悪ならば、私たちは何を目指せばいいのか。

ここにも文が一筋の希望を投げかけてくれます。例え人類が滅びたとしても、文の営みは何らかの形で世界に残りうるのではないかと考えるのです。言葉ではなくとも、何らかの形で他の生命と文を共有することができるかもしれない。

私たちには想像もつかないような次元の話ですが、私たちの人生が膨大な人類の歴史の中で泡のような儚いものでしかないように、人類の存在も巨大な世界の循環のほんの一部でしかないとしたら、どこまでも広がる新しい地平に立たされたような思いがしませんか。

「文」の場としての大学の役割

ここまで「文」の行為がシステム的な悪に歯止めをかける武器になり得ることを見てきました。そして実は、この「文」を行う場が大学なのです。

学問とは「文」の行為に他なりません。巨大な悪を内包した社会というシステムを、様々な問いを立てながら秩序化し、少しずつその修正を促すのが大学の役割です。しかもこの「文」は更新され続けなければいけません。その秩序化と更新という役割を、学問をする大学生一人一人が担っているのです。

私たちの日々の学びが、社会に潜む最悪の悪を防ぐのにどこかで役立っている。そんな広い展望で見てみると、普段の勉強も少し有意義に、面白く感じられるのではないでしょうか。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第13回たたかう「文」‐ 言語の暴力と希望について 石井剛先生

<文/下山佳南(東京大学オンライン教育支援サポーター)