[学問は悪とたたかうためにある?]「文」から考える大学の役割
2023/01/25

私たち大学生は日々大学に通い、さまざまな授業に出席して、「学問」をしています。しかし課題に追われる毎日の中で、学問とは何なのか、私たちは何のために学問をしているのか、見失う事はないでしょうか。

今回は、学問をすることの意味をより大きな文脈で提示してくれる講義をご紹介します。示される結論は、大学は学問を通じて「悪とたたかう」ための場だということ。学問が戦いだなんてすぐにはピンときませんが、どういうことなのでしょう。

システムが生む悪

今回紹介する講義の講師は、中国哲学の専門家石井剛教授です。

東アジア藝文書院が教養学部で行ってきたオムニバス形式の連続講義「30年後の世界へ—『共生』を問う」の最終回として、主宰の石井先生自ら、言語の問い直しとより良い大学の在り方について、新しい見方を提示する講義となっています。

まず、そもそも学問が戦っているという「悪」ってなんなのでしょうか。

それは、「中動態的な悪」と呼ばれる悪のことです。中動態とは、能動と受動のどちらとも言えない、中間的な状態のこと。中動態的な悪とは、自分から悪に加担しつつも、それを能動的に選び取ったという自覚がない、自発にも強制にも分けられない態度によって生み出される悪のことを言います。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

例として、戦時中に政府の命令で捕虜を生きたまま解剖することに従事した軍人たちがあげられます。彼らは自身の犯した残虐な行為について、責任や罪の意識をほとんど持っていませんでした。それは能動的にその行為を選んだという自覚が彼らに無いからです。

このように中動態論理の中では、普通の一般市民がいとも簡単に巨大な悪に加担してしまう事があり得るのです。

そしてこの中動態的な悪は、「システム的な悪」とも言い換えることができます。なぜなら、この中動態的な態度を生み出すものは、私たちが不可避に内包されている、「システム」だからです。

私たちは日本という社会から学校、家庭に至るまで、様々なシステムに含まれていますよね。それらのシステムは人々を巻き込みながら成長し、抗えない「勢い」を生み出すようになります。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

そしてシステムが悪の方向にシフトした時、すでにシステムの勢いに抗えなくなっている個人は、中動態的に悪に加担してしまうのです。システム的な悪が決して私たちに無関係なものではないことがわかっていただけたと思います。

悪は防げない?

では、悪を生まないシステムを作ることは可能なのでしょうか。答えはNOです。なぜなら、システムが生成していく時点で善と悪はシステムに内包されているからです。

キリスト教的な世界の始まりを考えてみてください。創造主が「光あれ」と言った時点から、無の世界に光と闇の概念が生まれます。そしてこの二つの属性が様々なパターンで組み合わさっていくことで、世界というシステムが生成されてきました。

ここでいう光と闇は、あらゆる二項対立に置き換えて考える事ができ、その一つに善と悪があります。善と悪が色々な方法で組み合わさり、相互に作用することによって、世界が生成されていきます。

だから善や悪はシステムが生み出すものではなく、システムの駆動の根底に、元々存在しているものなのです。この議論は少し理解しにくいかもしれませんが、大切なのは悪が生まれる事自体を防ぐ事はできない、ということです。

対抗手段としての「文」

私たちはシステムの勢いに抗うことも、システムの悪を撲滅することもできない。ならこのシステムに対して、私たちはどのようなアプローチができるのでしょうか。それは、この講義のタイトルにもなっている、「文」という行為です。

私たちは、言葉を使うことで、自然と生成されていくシステムを秩序化する事ができます。この人間の知性による秩序の言語化のプロセスを「文」と呼びます。

つまり、私たちが認識できるのは、文を経て言語化された、システムの秩序だと言えるわけです。このように考えると、システムを考えることは、文を考えることと同義になります。

ここで厄介なのは、私たちがシステムを認識するのに用いる言語自体も、善と悪を内包したシステムだと言うこと。よって、言語を完全に信頼する事はできません

中国の思想家章炳麟は、「言語が病的でない事は不可能である」(章炳麟a 「正名雑義」219)と述べました。言語は記号でしかなく、名付けた瞬間からその事象の本質との隔たりが必ず生じます。この隔たりを章炳麟は病と呼ぶのです。

言語が生来病的であるからこそ、文は更新され続けなければいけません。それは不可能に挑み続けることだけれど、私たちは完璧な文を目指して、挑み続けなければならないのです。

「文」で最悪を防ぐ

なぜそれほどまで文が大切なのか。それは、システム的な悪に立ち向かう方法を私たちに与えてくれるのもまた文だからです。悪を撲滅することはできなくとも、文をうまく使えば、「最悪の悪」を防ぐために少しずつシステムを修正していくことはできます。

ここで人類が避けるべき、「最悪の悪」について石井先生は定義します。それは、システムの結末として起こりうる、人間の力では癒せないような悲劇的な事態を認識しながら、それでもそれを回避できると決めつけて突き進むことです。

例えば原子力の悪について考えてみましょう。原子力はクリーンなエネルギー源として世界に普及しましたが、歴史的な数々の事故で明らかになったように、人間の力で癒すことのできない甚大な被害をもたらす可能性を内包しています。

このような事態が起こりうる可能性が1%でもあることを知りながらそれを無視し続けることが、最悪の悪なのです。

ではこのような悪に加担しないようにするにはどうすれば良いのか。それはシステムの結果、人間の力を超えた力によってもたらされうる破滅の存在を、言葉によって宣言することです。

UTokyoOnlineEducation 学術フロンティア講義 2021 石井剛

原子力について倫理的に考察する仕事をしたフランスの思想家デュピュイは、「破局の到来を告げる言葉は、問題になっている破局の生起を防止することに成功する」(デュピュイ『ありえないことが現実になるとき』212)と述べました。このままでは悲劇的な結末を迎えることが明文化されたとき、初めて人はシステムを修正することができます。これが文の持つ役割の一つです。

また、人間存在そのものが悪なのではないかという悲観的な論も広まっています。人間によるシステムの駆動そのものが地球にとって悪ならば、私たちは何を目指せばいいのか。

ここにも文が一筋の希望を投げかけてくれます。例え人類が滅びたとしても、文の営みは何らかの形で世界に残りうるのではないかと考えるのです。言葉ではなくとも、何らかの形で他の生命と文を共有することができるかもしれない。

私たちには想像もつかないような次元の話ですが、私たちの人生が膨大な人類の歴史の中で泡のような儚いものでしかないように、人類の存在も巨大な世界の循環のほんの一部でしかないとしたら、どこまでも広がる新しい地平に立たされたような思いがしませんか。

「文」の場としての大学の役割

ここまで「文」の行為がシステム的な悪に歯止めをかける武器になり得ることを見てきました。そして実は、この「文」を行う場が大学なのです。

学問とは「文」の行為に他なりません。巨大な悪を内包した社会というシステムを、様々な問いを立てながら秩序化し、少しずつその修正を促すのが大学の役割です。しかもこの「文」は更新され続けなければいけません。その秩序化と更新という役割を、学問をする大学生一人一人が担っているのです。

私たちの日々の学びが、社会に潜む最悪の悪を防ぐのにどこかで役立っている。そんな広い展望で見てみると、普段の勉強も少し有意義に、面白く感じられるのではないでしょうか。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第13回たたかう「文」‐ 言語の暴力と希望について 石井剛先生

<文/下山佳南(東京大学オンライン教育支援サポーター)