だいふくちゃん通信

2023/01/11

今もなお多くの人から愛される『ガリヴァー旅行記』。

「ガリヴァー旅行記」と聞くと、ほとんどの人は、小人たちに捕まるガリヴァーを思い浮かべるのではないでしょうか?

しかし実は、原作では、小人国のエピソードは全体のほんの一部

元々の『ガリヴァー旅行記』は、ガリヴァーがさまざまな国をめぐる物語です。4編で構成される物語のうち、小人国が出てくるのは、最初の1編しかありません。

全体の構成は以下の通り。

第1編:小人国(Lilliput)

第2編:巨人国(Brobdingnag)

第3編:ラピュータ(Laputa)、日本など

第4編:馬の国(Houyhnhnms-land)

なんとガリヴァーは日本にも訪れているんですね。

そして、この原作の『ガリヴァー旅行記』ですが、実は非常に政治的な小説です。

子ども向けにアレンジされた小人国のガリヴァーからは、想像できませんよね。
今回は、原作の『ガリヴァー旅行記』のストーリーを確認しながら、それが示唆する政治的立場について考える講義動画を紹介します。

他人を笑うものは自らも笑われる


今回紹介する講義の講師は、英文学者の武田将明先生です。

武田先生の専門は18世紀のイギリスの文学。今回紹介する『ガリヴァー旅行記』は、イギリス人(アイルランド生まれ)ジョナサン・スウィフトが1726年に執筆したものなので、まさに先生の守備範囲だといえるでしょう。

ただ武田先生は、そのほかさまざまな分野でも活躍されています。東大TVでは、「カズオ・イシグロはなぜノーベル賞を取ったのか?」というオープンキャンパスでの模擬講義の動画も公開されているので、そちらもぜひ併せてご視聴ください。

さて、『ガリヴァー旅行記』の政治性についてですが、よく知られている小人国の1編にも、政治的な描写が見られるといいます。

たとえば、小人国の内紛について言及された以下のパート。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 武田将明

ここでは、卵の割り方の対立によって、小人国に大きな内紛が起こったことが語られています。

「卵の割り方程度でどうしてそんな争いを起こすの?」と馬鹿馬鹿しさを感じてしまいますが、実はここでの「卵の割り方」は、現実世界における「宗教」に対応しているといいます。

スウィフトの時代は宗教戦争の記憶も新しく、カトリックとプロテスタントの対立も根深いものでした。

スウィフトは、「卵の割り方」に置き換えることで、カトリックとプロテスタントの争いを俯瞰的に捉えようとしたのです。

それでも、「卵の割り方」での争いというのは、「宗教」での争いと比べて、あまりに滑稽です。私たちの価値観ではその重みが全く違うため、宗教対立の渦中にある人が読んでも、きっと他人事として笑い飛ばしてしまうでしょう。

しかし、スウィフトは、人間の社会も小人の社会同様に愚かであることを伝えるために、巧みな構成を用意しています。

注目すべきは、小人国に続いてガリヴァーが訪れた巨人国での出来事です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 武田将明


ここでは、巨人がガリヴァーの祖国であるイギリスの国民を酷評します。その徳のなさを非難して、「虫けらの族」とまで言い放つのです。

小人国での風刺を笑っていた読者は、巨人国での批判を前にして凍りつくことになります。私たちはまさに、巨人族にとっての小人であり、「卵の割り方」で争いごとを起こすのと同じ程度に愚かな種族であるという事実が、まざまざと突きつけられるのです。

このようにスウィフトは、空想の物語を通して、政治的なことを私たちに伝えてきます。

「完全」な真理は素晴らしいのか

最後の第4編では、批判の対象が「人間」そのものへと高まります。

第4編、「馬の国」で登場するのは、退化した人間であるヤフー(yahoos)と、理性を持った馬であるフイヌム(Houyhohnms)。

ヤフーは、十分な量の資源を独り占めしようとする貪欲さを持っており、人間の悪い部分を抽出したような存在です。

一方のフイヌムは、単に人間のように思考する理性があるというよりも、それよりも更に進んだ、「完全」な理性を持っています。

「完全」な理性とはいったいなんでしょうか?

それは、直感的に真理を掴むことができる理性です。

フイヌムの世界では、個人の意見というのは存在しないため、全員が合意して、平和に物事を進めることができるのです。

ガリヴァーは、このフイヌムの「完全」な理性を高く評価し、争いの絶えないヤフー、ひいては人間を憎悪するようになりました。帰国したガリヴァーが、自分の家族を見ても吐き気を催すほどの状態になって、この物語は終わります。

一見するとスウィフトは、この物語を通して、真理が分かる「完全」な理性の素晴らしさを伝えているように思います。

しかし、個人の意見が存在せず、全員が合意して真理に従う社会は、果たして本当に良い社会なのでしょうか?

ディストピア小説の金字塔『1984』の作者、ジョージ・オーウェルは、この「馬の国」に全体主義の予兆を読み取りました。

たしかに真理に強制的に従わせる「馬の国」のさまは、ナチスドイツなど、全体主義国家との類似性を感じさせます。

「誰も異論を唱えない社会というのは、実は誰も異論を唱えられない社会かもしれない」と、武田先生はいいます。

このような読みが生まれたことで、スウィフトは作中のガリヴァーとは異なり、フイヌム(全体主義)を批判していたのではないかと考える研究も出てきました。

しかし、スウィフトが何を意図して『ガリヴァー旅行記』を書いたのかということに対しては、いまだ共通の見解が得られていません。

想像力を駆使して徹底的に妄想する

武田先生は、最後にこんな一節を取り上げます。(英語原文です)

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2020 武田将明

これは、夫を亡くしたフイヌムの振る舞いが描写されたパートです。未亡人であるフイヌムが、参加したパーティーでほかの人と一緒に楽しく過ごしたものの、その3か月後には亡くなってしまったということが書かれています。

She died about three Months after.

この一文には、とくに亡くなった理由などは示されていません。

しかし、わざわざ書き足している以上、妻の死は夫の死に影響を受けていると見るべきです。

武田先生は、この一文を通して、「直感的な理性」が生物の感情を完全に支配することはできないのだと主張します。

些細な一文ですが、この描写を書くかどうかで、文芸フィクションの存在意義、想像力の意義、更には不完全な人間の存在意義まで賭けられているというのです。

架空の世界を描いた『ガリヴァー旅行記』は、そのテーマがキャッチーであるがゆえに、長く子ども向け絵本として愛されてきました。

しかし、その実は、人間という存在のあり方までを問う、示唆的な物語です。

架空の世界を舞台としたことで、スウィフトは人間について徹底的に考え、全体主義国家の盛衰まで暗示することになりました。

武田先生は、想像力を駆使して徹底的に妄想することが、長い目で見れば重要だといいます。

みなさんも、講義動画を視聴して、広く物事を捉える文学研究の世界を覗いてみませんか?

今回紹介した講義:30年後の世界へー「世界」と「人間」の未来を共に考える(学術フロンティア講義)第5回 小説と人間ーGulliver’s Travelを読む 武田 将明先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/12/21

現代思想を代表する哲学者、ミシェル・フーコー(1926-1984)。権力や知識の関係を論じたフーコーの著作群は、いまもなお強い影響力をもっています。

そんなフーコーは、しかし、自らを哲学者ではなく、むしろ「歴史家」だとしました。

フーコーの主たる業績は、「哲学」というべきものであったにもかかわらず、どうして「歴史」という呼称にこだわったのでしょうか?

今回は、主著のひとつである『言葉と物』を通して、フーコーの歴史観を理解するための講義動画を紹介します。

「エピステーメー」によって区分される西洋の歴史

今回紹介する講義の講師は、東京大学の名誉教授であった、哲学者の坂部恵先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

坂部先生は、2009年に亡くなるまで、日本を代表するカントの研究者として数多くの著作を残されました。講義で紹介されるフーコーの『言葉と物』でもまた、カントは非常に重要な人物として取り上げられます。

『言葉と物』で提示されるフーコーの歴史観は、一言でいうなら、「知識のあり方によって時代を区分する断続史観」です。

私たち人間の歴史は、時間的にはたしかに連続しているのですが、歴史としては、ある一定の時期に断絶が起こっているのだと、フーコーは主張します。

フーコーが「断絶」として提示したのは、以下の3つの時期です。

① ルネンサンス(有機的アニミズム的自然観)

② 17世紀(古典主義時代)(「表象」の時代)

③ 18世紀末〜19世紀初め(実証諸科学の成立、ロマン主義の衰退史観の登場、「モデルニテ」(「モデルネ」)の時代のはじまり)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

この時期に断絶が起こっているということが、自分の歴史認識としてもなんとなく納得できるという人もいれば、ピンとこないという人もいるかと思います。ただ、ひとまずここでは、フーコーが「断続史観」を提唱しているということを理解してください。

ここで時代を区分している「知識のあり方」というものを、講義中の言葉でもう少し丁寧に説明すると、それは「知識を生じさせる時代の深層の枠組」になります。この枠組みを示す「エピステーメー」という言葉は、『言葉と物』のキーワードです。

「人間」の時代としての近代

フーコーに従うならば、私たちがいま生きているのは、③の断絶後の時代です。

フーコーは、これ以降の時代を「モデルニテ」だとします。とりあえずはこの概念を「近代」として捉えることができるでしょう。

そして、このモデルニテのエピステーメーを作るのに強い影響力をもったのが、まさしく先ほど紹介したカントでした。カントが活躍したのは、まさしく③の断絶にあたる、18世紀の後半です。

モデルニテのエピステーメーの基盤のひとつは、カントが提示した「人間学への四つの問い」にあります。

カントは、哲学者ヒュームの哲学に触れたことで、外界の物体の存在を前提する学問のあり方を疑うようになり、人間の理性の探究と考察をその哲学の軸におきました。

(ここでのカントの気づきは、簡単にいうと、全ての物体は自分が認識したもの(仮象)に過ぎないから、それを実体と見なすことはできないということです。それゆえ、認識の客体ではなく、認識の主体である人間のほうを探求していくことになります)

そして、4つの問い、「私たちは何を知ることができるか?」(形而上学)、「私は何をなすべきか?」(道徳学)、「私は何を希望してよいか?」(宗教学)、「人間とは何か?」(人間学)を打ち立てます。これらの問いは全て、結局は人間についての問いであるため、4つ目の人間学の問いに集約されていきます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

このカントの問いを出発点として、モデルニテの哲学は「人間学」としてすすめられていくことになりました。

哲学の「思いあがり」

「哲学」が基本的に「人間学」であるのは、フーコーの時代も(そしていまも)変わりません。

しかし、フーコーはこの人間学の構想を「まどろみ」(≒正しいものが見えていない状態)だとします

冒頭で、フーコーは自身を「歴史家」と捉えているのだと述べました。それは、フーコーが「哲学」を外から見つめ、そのあり方に否定的な面を見出していたからでしょう。

なぜ人間学が「まどろみ」なのか、それは人間学に、「先験的(超越論的)」な部分と「経験的」な部分が相対する〈折り目〉があるからです。

このあたりの議論はとくに抽象的で分かりにくいのですが、人間学の「先験的」な部分を「哲学」に、「経験的」な部分を「実証科学」(生物学・経済学・言語学など)におきかえて捉えると、大きくずれることなくフーコーの意図をつかむことができるでしょう。

坂部先生は、人間学の時代になってから、実証科学が「経験的」になしえた成果を、哲学が「先験的」に覆い尽くすようになったといいます。これはつまり、実証科学の成果を理論化する役割を、哲学が担ったということです。

このような構図があるために、一部の哲学者のあいだで、哲学が経験科学より上に立っているのだという理解がなされ、哲学の「思いあがり」が進んでいきます。

一方、実証科学のほうにも、「人間は世界の諸現象を征服した」のだというような、別の思いあがりがあります。(これは進歩史観につながります)

坂部先生いわく、このような「思いあがり」ゆえに、「哲学者」は実証科学を見下す一方で、また馬鹿にされることになりました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

人間学の「まどろみ」から抜け出すために

それでは、私たちはどのようにして、人間学の「まどろみ」から抜け出すことができるのでしょうか?

まずは「思いあがり」を捨てて、先験的・経験的〈折り目〉を取り払う必要があるでしょう。

さらにフーコーは、ある方針を打ち出しているのですが、それがどのようなものであるか知りたいかたは、ぜひ講義動画を視聴して確認してみてください。

講義で示されるフーコーの歴史観は、いまでもまったく古びておらず、現代に通底するエピステーメーを捉えるうえで、さまざまな示唆を与えてくれるはずです。

坂部先生の講義がみられる貴重な動画ですし、そして何より、人文学を学ぶうえでは、その専門家の主張をそのまま見聞きすることが、とりわけ重要だと思います。

今回紹介した講義:学問と人間(学術俯瞰講義)第10回 人間学のまどろみ 坂部恵先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/12/14

突然ですがみなさん、いま東京大学でどれくらいの数の授業が開かれているか知っていますか?

全部で1000くらい?いえいえ、桁が違います。

なんと、東京大学には、約12000もの授業が開かれているんです!(2018年時点)

もし、せっかく東大に入ったからにはできるだけたくさんの授業をとりたいと意気込んで、各学期30の授業を詰め込んだとしても(大分無茶ですが)、4年間で全体の100分の1程度にしかならないわけです。

大学で研究したことのある人ならば、研究の蓄積、知識の海の膨大さに、呆然としたことが、きっとあるのではないでしょうか。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

こんなにたくさん授業があると、どれが自分にとってより価値のある授業なのかわからなくなってしまいます。

できることなら、自分が学びたいことを知るためにはどの授業を受ければ良いのか、ガイドのように示してほしくはないですか?みなさん、示してほしいですよね?

実はなんと、東大の授業間の関係性が可視化されたデータベースが、すでにあるんです!

それがこのサイト→https://catalog.he.u-tokyo.ac.jp/search/

上部の検索窓に、好きなキーワードを入力してみてください。学部をまたいだたくさんの授業が、グループでまとまったり、線でつながったりした状態で表示されるはずです。

ここで活用されているのは、いまさまざまな分野で大活躍中の人工知能です。

そこで今回は、人工知能と自然言語処理を利用して、人文知を構造化する方法を紹介します。

講義動画を視聴して、データベースをうまく活用した、学問への新たなアプローチ方法について、いっしょに考えてみませんか?

人文ジャーナル『思想』を構造化する

講義動画で講師を務めているのは、人工知能による教育の体系化について研究されている美馬秀樹先生です。まさにこの美馬先生こそが、先ほど紹介した、東大学内のシラバスを構造化したご本人でもあります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

(美馬先生は、過去にこの講義動画を配信しているUTokyoOCWの運営を担当されていたこともあります。まさにOCWも、学問の知識・情報の重要な保存方法です。

OCWの授業動画を構造化したデータベースも、美馬先生によってすでに作られています。OCWのデータベースはこちら→https://ocw.u-tokyo.ac.jp/search/

講義では、美馬先生が担当された岩波書店が発行する人文系論文のジャーナル、『思想』を構造化するプロジェクトの概要が紹介されます。

『思想』は、1921年に創刊されて以来、講義時点の2018年で約900号まで刊行されていている雑誌で、その総ページ数は16万ページにも及びます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹
UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

これが人工知能によって構造化されれば、20世紀の日本の哲学・思想の流れを大きく捉えることができるようになるはずです。

さらに、ここで文献のデジタル化に関する方法論を確立することで、人文知の構造化のモデルケースを打ち立てることもできます。

しかし、古くから刊行されている『思想』のアーカイブには、いくつかの困難がありました。

『思想』アーカイブの障壁

まず、『思想』には、デジタルのデータがありませんでした。美馬先生いわく、デジタルのテキストデータだけでなく、画像データすらなかったそうです。

そこで、カメラで紙面をスキャンして、取り込んだ画像データからテキストデータを抽出するというやり方が取られます。(手動で入力するという方法ももちろんありますが、それには数億円!の費用がかかってしまうそうです。モデルケースとして打ち立てるには非現実的だといえます)

ここでデジタルテキスト化(OCR:Optical Character Recognion)が行われることになりますが、そこにもまた、障壁がありました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

『思想』の古い文献は、印刷の精度や、紙の状態が悪く、高い精度で文字を認識することができないのです。

OCRでは、文字を要素に分解して、その組み合わせを認識することでどの文字であるかを特定していますが、その文字自体の状態が悪いと、別の文字として認識されてしまう恐れが出てきます。

また、異体字や旧字体が使われていたり、フォントが特殊であったり、ルビや強調部分があったり、レイアウトが変則的であったり、テキストを抽出するうえで厄介な要素が、さまざまにありました。

このような状況であると、ほとんど元の文とは別物になってしまう可能性があります。

実際に文字の認識精度を年代別に確認してみると、古い年代になるほど精度が下がっていることがわかります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

そこで美馬先生たちは、人工知能を用いて読み取りの仕方を学ばせて、文字認識精度の向上に取り組むことになりました。

たとえば、文脈を踏まえて、読み取った文字をよりもっともらしい文字におきかえるというようなことをしています。

デジタルテキストが氾濫する現代を生きているとつい見過ごしてしまいますが、知識の構造化を進めるその前に、知識をデジタル化することそれ自体に、ひとつの大きな障壁(コスト)があるということを、忘れないようにしなければいけないと思います。

人工知能による人文知の構造化

デジタルテキストが揃ったら、それを構造化する作業に移ります。

授業で紹介されるのは、美馬先生自身が作成した「MIMAサーチ」です。

記事冒頭で紹介した東大の授業のデータベースも、「MIMAサーチ」のひとつです。

このMIMAサーチを使って、一体何ができるのでしょうか?

MIMAサーチの特徴は、それぞれの論文(授業)間のつながりがわかるということです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

人工知能がキーワードを拾い上げてグループをつくり、またそのグループをまたいだ関係性も、線のつながりで示されます。これにより、論文の位置付けが可視化され、より自分が求める論文にアクセスしやすくなります。

そのほか、MIMAサーチ以外にも、人工知能はデジタルテキストのさまざまな活用に役立てられます。

たとえば、係り受け関係検索。人工知能によって、特定の著者や論文のなかで、どのような係り受けが頻出しているかがわかります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

この検索を使えば、ある著者を理解するためのキーワードをつかむことができるでしょう。

次に、言及関係検索。誰が誰について言及しているかというのは、人文学における重要な要素ですが、人工知能を使えば、これもまた可視化することができます。

係り受け関係検索によって、ある著者のキーワードがわかるとするならば、言及関係検索では、ある時点における分野の「キーマン」をつかむことができるといえそうです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

これからの知の構造化のために

そのほかにも、人文知の構造化のために人工知能が果たせる役割は、幅広くあります。たとえば「科学技術」というような用語がいつごろから使われ出したのか、概念の変遷をたどるというのもそのひとつでしょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 美馬秀樹

知の構造化を進めるためには、人工知能の研究者だけでなく、この場合は人文学者など、諸学問の専門家が知恵を出し合っていく必要があります。つまり、ある種の文理融合が必須です。

美馬先生は、知の構造化が進めば、言語の壁を越え、海外の研究へのアクセスも行いやすくなるといいます。もしそうなれば、学問が新たな発展を見せることになるでしょう。

知の構造化は、間違いなくこれから進歩していく分野です。みなさんも、まずはこれらのデータベースを活用し、より良い活用法や今後の可能性について、考えてみてください。

今回紹介した講義:デジタル・ヒューマニティーズ ― 変貌する学問の地平 ― (学術俯瞰講義) 第6回  人工知能と自然言語処理技術を利用した人文知の構造化 美馬 秀樹先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/12/07

「宇宙ができる前って、一体何があったんだろう?」

「時間って、一体どうやって始まったんだろう?」

おそらく、ほとんど全ての人は、小さいころに(もしかしたら今も)そのような疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか?

そしてそのときに、同時に思ったはずです。

「誰か頭のいい人、自分が生きている間にこの謎を解明してくれ!」

少なくとも私は、小さい頃から既に人任せで、もっぱら誰か他の人の活躍に期待していました。

しかし大人になると、実際にこの謎がそう簡単に解き明かせるものではないということが次第に分かってきます。

それでは、あのころ頭に思い浮かべた「頭のいい人」は、実際に「宇宙の始まり」の謎にどこまで迫れているのでしょうか?

この謎の解明に一番近いところにいるといえる、「宇宙物理学者」の先生が、科学の限界と、「人間原理」という宇宙についての考え方を語ります。

我々の宇宙がどうやってできたかは、全く分かっていない

今回紹介するのは、宇宙物理学者の須藤靖先生による「宇宙における偶然と必然、科学は世界をどこまで記述できるか」という講義です。

先ほど、「宇宙の始まり」の謎について、宇宙物理学者がどこまで迫れているのかと問いました。

結論から述べると、須藤先生は、「我々の宇宙がどうやってできたかは全く分かっていない」といいます。

そもそも、物理学は、ある初期条件のもと、物理法則によってどのように物体が振る舞うかを解明する学問です。

たとえば、ある特定のペンを、特定の高さからある仕方で落としたときに、どのようなスピードで落下するかは、物理学で分かります。それは「ペンの重さ」や「落とす高さ」などが、「初期条件」として設定されているからです。

驚くべきことに、物理学の力を使えば、誕生してから3分後の宇宙がどのようなものであったかを予想することもできるといいます。

しかし、「宇宙の始まり」というのは、この「初期条件」と「物理法則」が区別できない領域にある事象です。

宇宙が存在しない状態で物理法則が存在していたかどうかさえ、私たちは分かってないのです。

もし宇宙ができる前に物理法則がなかったとすれば、「宇宙の始まり」を既存の物理学で解明するのはそもそも不可能だといえます。宇宙誕生後の世界を記述するのとは全く違う難しさが、そこにはあるのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

須藤先生は講義中、軽妙な調子で次のようにいいます。

「宇宙が始まる前は、何もなかったと言うしかない」

「宇宙の始まりについて考え始めると、眠れなくなるからやめてくださいね」

宇宙物理学者にこんなことを言われてしまうなら、私たちは大人しくこの問題を諦めて、布団に入るしかないのかもしれません。

人類の誕生は、物理学でも解明できない「偶然」の事象

しかし、「宇宙の始まり」について解明できなかったとしても、この宇宙には不思議なことがまだまだたくさんあります。

たとえば、どうして無生物から生物が誕生したのかは、いまだに分かっていません。さらには、そこからどうして意識や文明を持つ人類が誕生したのかということも、謎に包まれたままです。

この宇宙は、生物を誕生させるために、あまりにも都合が良すぎる作りになっているのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

どうして私たちの宇宙は、私たちにとってこれほどまで都合がよく、生物、ひいては人類が誕生したのでしょうか?この謎を科学によって解き明かすことはできるのでしょうか?

須藤先生は、このような人類の誕生を「偶然」だといいます。

つまり、(少なくとも現在の)科学では、どうして人類が誕生したのかを説明することができないのです。

先ほどの主張に従えば、「偶然」というのは「初期条件」にあたります

確認したように、物理学は、初期条件を与えられたあとの振る舞いを説明することはできますが、初期条件そのものを説明することはできません。

もちろん、人類の誕生は宇宙の誕生とは違い、物理法則ができたあとの事象です。物理学を突き詰めれば、いつかは解明できるという考えもできるかもしれません。

全ての物理現象を第一原理から統一的に説明し尽くす理論を「究極理論」といいます。

この究極理論が存在する根拠はありませんが、須藤先生によれば、その存在を信じている物理学者は多いそうです。たしかに究極理論があれば、人類誕生についても説明することができるでしょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

それでは、人類誕生の謎を解き明かしたいなら、私たちは究極理論の存在を信じて、全ての「偶然」が「必然」として説明できる日が来るのを待つしかないのでしょうか?

私たちがいる宇宙は、必ず私たちにとって都合がよい

須藤先生は、別の可能性として、「人間原理」という考え方を示します。

人間原理とは、私たちが存在するこの宇宙が存在する根拠を、人間の側に見出そうとする考え方のことです。

「どうしてこの宇宙は生命を生み出すためにあまりに都合がよくできているのか」、

このような問いは、「既にこの宇宙に人間が存在している」という前提に立って考えると、ほとんど無意味です。

なぜなら、あまりに都合がよい宇宙であるからこそ、私たちが存在し、その奇跡的な環境を観測することができるからです。

もしこの宇宙が「平凡な宇宙」で、生命誕生の条件が揃っていなかったならば、その宇宙を観測できる知的生命体も生まれず、このような疑問も生まれません。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

この人間原理は基本的に、「マルチバース」という考え方と一緒に主張されます。

マルチバースとは、宇宙は多数(無限に)存在しているという考え方です。

それぞれの宇宙では、「初期条件」や、場合によっては「物理法則」が異なります。

宇宙が無数に存在しているのであれば、人類が誕生する奇跡的な環境の宇宙がどこかに生まれるのも当然です。

宝くじで1億円が当たる確率は非常に低いですが、必ず誰かは当選しています。

それは、宝くじが無数にとは言わないまでも、非常にたくさんの数、売れているからです。

無数にある宇宙のうち、私たち人類がいる宇宙が私たちにとって特別都合がよいものであるのは、全く不思議なことではない(むしろ必要条件)のです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2010 須藤靖

宇宙や人類の謎は、まだまだ解明されていない

ただし、マルチバースは特に否定する根拠も見つかっていませんが、正統な科学的考察対象だともいえません。須藤先生は、あくまでひとつの解釈のひとつと理解すべきだといいます。

私たちが子供のころに不思議だと感じた、宇宙や人類についての謎は、まだまだ解明されきっていないというのが実情のようです。

ただしこの講義では、その科学(物理学)の現状がどのようなものであるのかの説明が丁寧になされています。(この記事では全然語り尽くせていません)

さらに講義中に、より詳しく宇宙について知りたい人のためのブックガイドも提示されています。(全て物理学者の著作です)

この講義は、「不思議」について考える際の、大きな助けになると思います。また、物理学者がこの世界をどう見ているのかというのも、よく分かる講義になっています。

ぜひ講義動画を視聴して、宇宙の壮大さを感じてみてください。

今回紹介した講義:第4回 宇宙における偶然と必然、科学は世界をどこまで記述できるか 須藤 靖先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/11/17

突然ですが皆さん、長寿に影響するライフスタイルと聞いて思い浮かぶものは何ですか?

喫煙、飲酒、運動、食生活……

多くの方がこの辺りを思い浮かべたのではないでしょうか。

しかし、実は一番長寿に影響するのは、社会との「つながり」なのではないかと言われています。

「つながり」が人に及ぼす影響は、生理学的にも証明されています。

人は孤立感を味わうと、肉体的苦痛と同じ脳内処理が行われる(同等のストレスを被る)ことが明らかにされているのです。

高齢化が進む現在の日本において、心身共により長く健康でいるためにはどうすれば良いのか、「つながり」をヒントに考えてみませんか。

公衆衛生学、老年学を専門とされている村山先生の講義をご紹介します。

1.生涯にわたるつながりの量の変化

まず最初に、生涯に渡るつながりの量の変化を見ていきます。

下図は、個人の生涯に渡るつながりの量をプロットしたグラフです。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

20〜30代はつながりの量が増えますが、中年期以降はどんどん減ることが分かります。

なぜ高齢期になると社会とのつながりが縮小するのでしょうか。

この背景の一つに、「社会情緒的選択理論」があると講師は述べます。

社会情緒的選択理論とは、高齢期には残された時間が限られると知覚することで、 情報獲得よりも情緒的調整が社会的相互作用の中心的な目標になり、この目標の達成にとって効果的な相互作用を選択的に行うようになるという考え方です。

これを「つながり」という文脈で考えると、

それまでのように、あの子とも友達になろう、あの会に行ってみよう、というようにどんどんつながりを広げるのではなく、残り時間が少ないと自覚すると、今あるつながりをできるだけ大切にしようとシフトチェンジする

ということになります。

これによって、高齢期には良い意味でつながりが少なくなってくるのです。

このような心理的要因、あるいは社会的要因によって中年期以降は社会とのつながりが縮小していくと講師は言います。

2.社会との「つながり」と健康

さて、ここからは本題である、社会との「つながり」が人の健康に及ぼす影響について見ていきます。

つながりといっても、友人とのつながり、サークルや部活動、ボランティアといった社会的グループへの参加など、様々な形態があります。

例えば、近所付き合いの程度と主観的な健康感との関連を調べた調査では、近所付き合いが密なほどより自分が健康であると感じ、また、将来への不安が少ない傾向があることが分かりました。

また、運動グループへの参加・運動頻度と要介護状態との関連を調べた調査では、実際に運動はしていなくても、グループに参加しているだけで要介護のリスクは低くなるという結果が示されました。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

3.「つながり」が健康に影響を及ぼすメカニズム

では、なぜ「つながり」は我々の健康に影響するのでしょうか。

その理由の1つに、生理学的なメカニズムがあると言われています。

下図は、人が阻害(孤立)された場合の脳内処理について、MRI(磁気を利用して、身体の中の断面を写す検査)を用いて明らかにした画像です。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

人は孤立感を味わうと、肉体的苦痛に反応する脳の部位と同じ部位が刺激される、つまり肉体的苦痛と同等のストレスを被ることが分かっています。

また、つながりが少ないと、心理的ストレスを感じて、免疫機能が低下して感染症や心疾患にかかりやすいという研究も沢山存在すると講師は述べます。

このようなバイオロジカルなメカニズム以外にも、つながりを持つことが健康にもたらす恩恵として、ソーシャルサポートを得たり与えたりすること、健康に役立つことにアクセスしやすくなることなどがあるとされています。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

このように、色々なメカニズムを介して、つながりと健康は結ばれているのです。

4.どのようなつながりを持てば良いか

どのような「つながり」が健康に良いかは、それぞれの人の特性によって異なってくると講師は述べます。

近所付き合いがあることをありがたく思う人もいれば、ストレスに感じる人もいます。

親と同居することで、女性では脳卒中を発症する危険が高まりますが、男性では変わらないことを示したデータもあります(女性は家事全てを担うため、負担が増え健康を害するが、男性には影響がない)。

そのため、一概に「近所付き合いをしましょう」「親と同居した方がいいですよ」とはなかなか言いづらいと講師は言います。

何よりも大切なのは、色々なつながりをたくさん持っておき、その時の自分にとって居心地の良い関係を持てることであると講師は述べます。

その理由を以下で述べていきます。

下図は、社会環境を表す時に使う社会的コンボイモデルです。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

真ん中に集まるのが、家族、配偶者、親友といった、自分にとって近い存在、外側にあるのが、隣人、上司、専門家といった、普段あまり密に付き合わない遠い存在を示しています。

近い存在、遠い存在、それぞれに別の役割、機能があると、講師は言います。

例えば配偶者や親友は自分にとって親密な存在ですが、かかりつけ医のような役割をしてくれるかと言うと、そうではありません。

遠い存在であっても、その人なりに大事な役割があるのです。

さらに、親友や配偶者がずっと一緒にいてくれるのならば良いですが、必ずしもその関係が永遠に続くわけではありません。

そこしかつながりが持てなかった人は、一気につながりが無くなってしまうということも起こり得るのです。

このように、リスクマネジメントの観点からも、つながりは選りすぐりせずに色々な選択肢を持っておくことが大事であると、講師は述べます。

もう一つ、このような考え方を支持する理論として、「弱いつながりの強み」があります。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2019 村山 洋史

これは、つながりが緊密な人より、弱いつながりでつながっている人の方が有益で新規性の高い情報をもたらしてくれる可能性が高い、という考え方です。

家族や親友といった、普段から近い付き合いを持つ人は考え方が似ている人が多く、得られる情報も似通った情報となる場合が多いです。

一方、たまにしか会わない人は、新規性の高い情報、普段やり取りしている人とは別の情報をもたらしてくれます。

実際に健康という観点でも、多世代や異性とのつながりが沢山ある人が、将来の抑うつの割合が低いという研究も存在します。

このように、健康面から見ても、弱いつながりに目を向けることが大事なのです。

5.まとめ

最後になりますが、皆さんは、社会的処方(Social Prescribing)という言葉をご存じですか?

公衆衛生や在宅医療の現場において最近注目されている方法で、医療者が患者さんに対し薬を処方するだけでなくて、同時に、運動やボランティアなど参加できるグループ活動、つまり「社会とのつながり」を処方することを指します。

人や社会とのつながりはわたしたちの健康に強く影響する、無視できない存在です。

しかし、日本人はつながりが少ない人が多いとされていて、この傾向は今後高齢化に伴い、ますます加速することが見込まれます。

このような状況の中で、現在、そしてこれからの日本において、

社会的孤立を防ぐ、見守るためにはどうすれば良いのか。

つながりを醸成するにはどうすれば良いのか。

一緒に考えてみませんか。

おまけ.

社会的孤立への対策として、実際に地域でもいくつかの取り組みが行われています。

現在実施されている取り組みやその課題、成功事例などについて気になる方も是非、こちらの講義、見てみてください。

今回紹介した講義:「つながり」から読み解く人と世界(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2019年度講義)第6回 つながりと健康格差 村山 洋史先生

文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/11/09

他者と「共生」していくために必要なことは何でしょうか。

 自分と異なる価値観を受け入れ、他者に寛容であること?

みなさんのなかには、周囲の人とうまくやっていくために言いたいことを我慢してしまう人も多いのではないでしょうか。

しかし、他者と「共生」していくために必要なことが、「批判を避けること」ではなく、「批判すること」だとしたら?

「共生」について考える中で、文学研究の在り方が現代社会の在り方を示唆してくれる、

そんな可能性に満ちた講義を紹介します。

30年後の世界へ―「共生」を問う(学術フロンティア講義)

 東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, 以下EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。

EAAは2019年度以来、「30年後の世界へ」を共通テーマとするオムニバス講義(学術フロンティア講義)を行なってきました。2022年度の講義では、「30年後の世界へ―『共生』を問う」と題して、「共生」という概念について問い直すことが目指されました。

2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行により、他者と「共生」するということについて考えさせられることが増えました。

同居する家族が濃厚接触者になってしまうということ、感染症対策やワクチン接種についての考え方の違い、また、ロックダウンなどの対応は、「他者との共生」が脅威になりうるという事実を我々に突きつけてきました。

私たちはいかに他者と「共生」することができるのでしょうか。

「共生」を既定の事実として理想化するのではなく、私たちが生きるべきよりよい生のあり方について根本から捉え直す講義です。

その観点に立ち、哲学、文学、社会学、生物学など様々な分野の教員が講義をおこなっています。さらに、東京大学内だけでなく、北京大学、香港城市大学など、学外の講師による講義も行われました。

新型コロナウイルス感染症や生物の多様性、緊迫した国際情勢など、今を生きる私たちが直面している身近な問題も講義内で取り扱っているので、興味を持って視聴することができるでしょう。日常生活の中でなんとなく感じている息苦しさを和らげてくれるかもしれません。ぜひ、ラジオ感覚でリラックスしながら受講してみてください。

 文学研究は他者の言葉との「共生」

今回ご紹介するのは、全13回の講義のうち第11回目の講義です。

講義をされるのは、東京大学総合文化研究科所属で日本戦後文学を専門にされている村上克尚先生です。

この講義では、文学の観点から「共生」について考えます

「共生」と聞いて私たちが思い浮かべるイメージは、

自分と異なる価値観を受け入れたり、他者に寛容になったりすることです。

しかし、村上先生は、

「批判」を文学研究における「共生のための技術」として提案します

「共生」とは対立するように思える「批判」が、「共生」のための鍵になるのです。

クリティークとポストクリティーク

 この講義のキーワードは、

「クリティーク(critique)」・「ポストクリティーク(postcritique)」です。

カントによれば、クリティーク(批判的に読む)とは

「自分の読みやその判断の基盤を絶えず疑うことで、作品が持つ可能性や限界を確定しようとする行為」です。

ここで「作品」を「他者」に置き換えると、私たちの現代社会の話にもつながります。

つまり、私たちは「自分自身を省みることで、他者を解釈することができる」ということです。

批判という行為に、自己と他者との「共生」が存在すると言えそうです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

クリティークへの批判

ヴァージニア大学英文学者のリタ・フェルスキ(1956〜)は、従来の文学研究がクリティークを過度に規範化していると主張しました。

クリティークは、テクストが読者に及ぼす多様な力を軽視するといいます。

文学作品に対して「より批判的であること」を追求することで、どんどん厳密で強権的な読み方になっていき、私たちのような一般読者の自由な読み方とはかけ離れていってしまうのです。

強権的な読み方とはどういうものでしょうか?

例として挙げられたのは、教科書でも馴染み深い夏目漱石の「こころ」です。

第一部から第三部までで構成された「こころ」ですが、高校の現代文の教科書には第三部の「先生から私への手紙」だけが記載されています。

この「文章の抜き出し」こそが、強権的な読み方であると言えます。

なぜなら、第三部を文脈から切り離すことで、先生からの手紙の中に明治の精神や特定の価値観を見出そうとする読み方が高校生に強要されることになるからです。

ポストクリティークの主張

フェルスキは、別の読み方の可能性として「ポストクリティーク」を提唱します。

ポストクリティークは、

「批評家と批評されるテクスト」という主従関係ではなく

「読者とテクスト」という対等な関係を目指します。

読者とテクストが「共生」するためのビジョンを模索するのです。

つまり、クリティークの持つ暴力性に抵抗して提唱されたのが、ポストクリティークです。

クリティークが「作品への批判」だとするなら、ポストクリティークは「作品への愛」だということができるかもしれません。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

批判は「共生的」である

ポストクリティークの考え方は、批判を恐れて避けようとする私たちの考え方にも通じるところがあります。

日常的な感覚でも、批判を避けて良好な関係を築くことが「共生」のために大切なように思えます。言いたいことをそのまま口にしていたら、周囲の人と対立することが多くなってしまいますよね。

しかし、実は批判も「共生」には欠かせないのです。

なぜなら、批判という行為そのものが、そもそも「共生的」だからです。

言い換えると、「喧嘩は一人じゃできない」ということです。

自分が我慢していることを他人が自由にやっているとき、なんだかイライラしてしまうものですよね。

自分と他者を比べて、「相手がおかしい!!」と思うからこそ批判が生まれます。

自分と他者の両方が存在し、他者に興味を抱いて初めて批判が成り立つのです。

村上先生は、文学研究において、ポストクリティークが主流となりクリティークが軽視されることを危惧しています。

現代社会における批判の忌避

文学研究と同様に、現代社会においても批判が忌避されるようになっています。

一つは、政治においてです。

・野党の機能が形骸化

・保守主義・新自由主義的な傾向の強まり

などは、現代社会における政治の特徴だといえます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

さらに、文学研究(学問の世界)だけでなく、社会のなかの文学においても、「批評」が衰退し「書評」へと向かう傾向にあるといいます。

作品の欠点を作者に向けて批判する「批評」から、作品がどれほど優れていて面白いかを読者に向けてアピールする「書評」への変化。

これは、文学自体の縮小に伴い、作者同士が協力していこうとする姿勢の表れでもあります。本の購入を促すための肯定的な評価のみがなされつつあるということです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

現代社会におけるこれらの傾向は、批判を避け協調を重視するという点でポストクリティークと似通っているのです。

批判と愛の「共生」

ポストクリティークは、テクストと読者(を取り巻くすべてのもの)が「共生」することを目指します。

しかし、ポストクリティークだけでは、批判が生まれず、政治も文学作品も洗練されることがないまま進んでいってしまいます。

クリティーク(作品への批判)とポストクリティーク(作品への愛)は、共に手を取り合っていく必要があるのです。

クリティークとポストクリティークの「共生」は、どのように実践していくことができるのか、村上先生は私たちに問いかけています。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2022 村上克尚

“批判は共生のための技術になり得ないのか?” 

他者と「共生」するために私たちに必要なことは何でしょうか。

講義動画を見て、村上先生の問いかけに向き合ってみませんか?

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)
第11回 文学研究と「ポストクリティーク」 ― 批判は共生のための技術になり得ないのか? 村上克尚先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>

2022/11/02

戦後から1970年代までの日本の文壇で活躍した知識人に、竹内好(たけうちよしみ)という人がいます。

日本文化についてさまざまな論考を残している竹内ですが、ほとんどの人はその名を耳にしたことがないでしょう。

今回紹介する講義の講師である中島隆博先生も「竹内の主張は無視されてきた」と述べます。

日本では忘れ去られてしまったともいえる竹内ですが、その竹内が提示したあるひとつの考え方がいま、中国や韓国といったアジア諸国で受容されつつあります。

その考え方は、「方法としてのアジア」というものです。

違和感のある表現かもしれません。「方法」と「アジア」という慣れ親しんだ言葉をつかっているにもかかわらず、それが組み合わさると、なんとなく不安な印象があります。しかし一方で、何か新しさも感じさせてくれる言葉です。

いったい、「方法としてのアジア」とは、どのような考え方なのでしょうか?

今回は、「方法としてのアジア」という考えをもとに、「普遍化」のプロセスについて考える講義動画を紹介します。

(竹内について知りたい方は、こちらの記事もチェックしてみてください【講義紹介】30年後の世界へー学問とその”悪”について(学術フロンティア講義)第12回 私たちの憲法”無感覚”-竹内好を手がかりとして

西洋をもう一度東洋によって包み直す

講師をつとめる中島隆博先生は、中国哲学を専門とされており、とくにその概念の普遍化に取り組まれています。

中島先生は「方法としてのアジア」について、「普遍を考えるための重要な概念」だと述べます。

「普遍」とは文字通り、すべての事物に当てはまるもののことです。近代以降、西洋は世界の「普遍化」を推し進めるのですが、その試みはある種の限界にぶつかりました。

たとえば授業では、「普遍的なもの」の例として「人権」が挙げられます。「世界人権宣言」というものがあるように、人権は世界中の人に普遍的に適用可能なものと想定されています。

しかし、この人権という概念は、そう簡単に普遍的だと言い切ることができません。西洋が作り出したのそのままのかたちで、他の国でも受け入れられる保証はないし、実際に不和を起こしている場面もあるからです。

中島先生は、西洋で生まれた「人権」という概念がより普遍的になるためには、西洋の外での経験を踏まえる必要があるといいます。この経験を通して、より突き詰めていくことで、人権という概念の普遍性が鍛え直されていくのです。

この鍛え直しのプロセスが、竹内の主張した「方法としてのアジア」です。

竹内は、「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」(『〈竹内好全集5〉方法としてのアジア;中国・インド・朝鮮;毛沢東』筑摩書房、1981年)と述べています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 中島隆博

いまの世の中には、「民主主義」、「科学」、「資本主義」など、西洋から生まれた「普遍的」なものが数多くありますが、これらを本当に普遍化するためには、西洋の思想それ自体を外部から変形させていく必要があるのです。

「近代の超克」の「超克」

しかし、「東洋によって西洋近代の世界を普遍化する」とだけ聞くと、当たり前で、なんとなく聞き覚えのある話だと感じる人もいるかもしれません。

じっさい、東洋の側からの西洋近代の乗り越えは、竹内が活躍するよりも前から目指されていたものでした。

東洋と西洋の対抗関係の解決を目的として開かれた有名な座談会に、「近代の超克」というものがあります。これは竹内が「方法としてのアジア」というエッセイを出す1961年より約20年も前、1942年に開かれたものです。この座談会で目指されていたのも、まさに西洋近代の乗り越えでした。

一方で竹内は、この「近代の超克」を否定的に捉えてもいました。

竹内は「近代の超克」について、「亡霊のようにとらえどころがなく、そのくせ生きている人間を悩ませる」(『〈竹内好全集8〉近代日本の思想;人間の解放と教育』筑摩書房、1980年)と評しています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 中島隆博

なぜ「亡霊」なのでしょうか?それはこの「近代の超克」論が、戦後になって捨て去られてしまった議論だからです。

太平洋戦争開戦の直後に開かれたこの座談会は、戦争遂行とファシズムを思想的に支持したとして戦後批判されました。つまり、「近代の超克」は、国家主義を導く危険な思想だと考えられたのです。

たしかに、「東洋によって西洋近代の世界を普遍化する」というのは、かえってアジア中心的すぎる試みのようにも思えます。丁寧に実践していかないと、簡単に東洋を西洋より優位な立場に置くことになるでしょう。

そういう理由で「近代の超克」論は捨て去られたものの、その主張が捉えようとしていたものは亡霊となって残っていると、竹内は考えます。竹内は、その「亡霊払い」をするために、「方法としてのアジア」という主張を打ち立てました。

「方法としてのアジア」が「近代の超克」論と異なるのは、「方法」という立場をとっているということです。

「東洋の側からの西洋近代の乗り越え」を行うには、「東洋」というものがまず何であるのか捉える必要があります。

しかし、そこで東洋という「実体」を掴もうとしてしまうと、「近代の超克」と同じように、ナショナリスティックな議論に陥ってしまう可能性があるでしょう。国の「実体」というのは、ある種のイデオロギーの拠り所になりうるからです。

竹内は、東洋を「実体」としてではなく「方法」として捉えることで、「近代の超克」を「超克」しながら、「東洋の側からの西洋近代の乗り越え」を行おうとしたのです。

(注:ただし竹内自身は、「近代の超克」について、「戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかった」(『〈竹内好全集8〉近代日本の思想;人間の解放と教育』筑摩書房、1980年)と述べています。)

「方法としてのアジア」とは何か考えていくために

しかし、東洋を方法として捉えるとは、どのようにすれば良いのでしょうか?

実は竹内は、「方法としてのアジア」というものを「明確に規定することは私にもできない」と述べています。

「方法としてのアジア」が具体的にどういうもので、どのようにそれを実践するかということは、後世の研究者に委ねられてしまっているのです。

冒頭で、中国や韓国で「方法としてのアジア」という考え方が受容されつつあると述べました。講義では、現在の中国や韓国の知識人の間で、「方法としてのアジア」がどのように受容されているのか、実際のテクストを読みながら解説されています。そこでは「方法としての中国」がどういうものであるのかについても語られます。

また冒頭では、「日本で竹内の主張は無視されている」とも述べました。

それでは、「方法としての日本」というものについては考察されていないのでしょうか?

まさに、この講義を担当されている中島先生こそが、日本でそれを行っているのだといえるでしょう。

どうすれば西洋近代中心の世界観を捉え直すことができるのか、そのような問題に関心がある人は、この記事を読むだけでなく、ぜひ中島先生の講義動画も視聴してみてください。

講義の最後には、30分ほどの質疑応答タイムもあります。実際に学生から出た質問と、それに対する先生の答えは、この問題をより理解する助けになるはずです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 中島隆博

今回紹介した講義:第5回 東アジアにおける概念の循環――方法としての日本そして儒教 第一講 中島 隆博先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/10/26

突然ですが質問です!

文学の世界における、一番の大作家は誰だと思いますか?

もちろん、その答えは人それぞれでしょうが、ここでそのひとりとして19世紀ロシアの作家、ドストエフスキーの名前を挙げることに、異論がある人はあまりいないでしょう。

『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』といった代表作のタイトルは、文学に馴染みのない方でも、きっと聞いたことがあると思います。

しかし、ドストエフスキーの作品を読んだことがあるという人は、その名の有名さの割に、多くないかもしれません。長編の名手であるドストエフスキーの作品は、とても長いものが多く、気軽に手を出すことができないからです。

前提知識なく読み始めると内容がよく理解できないということもあり、挫折してしまった人も多いと思います。(私も大学1年生のときに『罪と罰』を上巻だけ読んで投げ出してしまったことがあります……)

「ドストエフスキー、凄いと言われているけど、何が凄いんだろう?」

今回はそんな疑問を持つみなさんに、ロシア文学研究者の大家、沼野充義先生による、ドストエフスキーの読書案内講義を紹介します。

ドストエフスキーの作品には「死」が満ちている

長編の名手として知られるドストエフスキーですが、そのなかでも特に名作として挙げられることの多い「後期5大長編」として、以下の作品があります。

◯『罪と罰』1866年

◯『白痴』1870年

◯『悪霊』1875年

◯『未成年』1875年

◯『カラマーゾフの兄弟』1879年〜1880年

(このうち『未成年』を外して「後期4大長編」とすることもあります)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

講義では、そのうち特に知名度の高い『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』が詳しく解説されます。

そんなドストエフスキーですが、その特徴に、どの作品も数々の「異常な死」に満ちているということがあります。

講義で解説されるこの2つの作品も例外ではなく、どちらも死が作品の重要なテーマです。

どうしてドストエフスキーは、死をテーマとした作品を書き続けたのでしょうか?

ドストエフスキーの死の原体験と罪と罰

『罪と罰』は、元大学生による、金貸しの老婆殺害事件を描いた作品です。

舞台は1860年代のペテルブルク。主人公の貧乏学生であるラスコーリニコフは、自分が「選ばれた」天才であると信じこみ、他者を殺しても許されるという考えから、金貸しの老婆を殺害します。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

どうしてドストエフスキーはこのような物語を書いたのか、沼野先生は、ドストエフスキーには、2つの死の原体験があったと言います。

そのうちひとつが、父親が領地で農奴(封建社会における農民)に殺害されたという事件です。事件の真相はいまだによく分かっていませんが、自分の親が殺されるという衝撃的な出来事は、18歳のドストエフスキーに強い印象を与えたと考えられます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

そしてもうひとつ、死刑判決を受け、銃殺刑執行寸前の状態を体験したということも、ドストエフスキーの死に対する考えに影響を及ぼしました。社会主義グループのメンバーであったドストエフスキーは、逮捕され、そのまま処刑寸前の状態にまでなりましたが、当時の皇帝であったニコライ1世からの恩赦が届き、一命をとりとめます。(実際にはこの恩赦は、事前に仕組まれたものでした)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

沼野先生は、このようなドストエフスキーを「死にとり憑かれた作家」として紹介します。

『罪と罰』で描かれているのも、まさにドストエフスキーが身近なものとして体験した「殺人」です。

沼野先生は、『罪と罰』の主題は「踏み越え」と「復活」であるといいます。

『罪と罰』という作品のタイトルは、原語のロシア語では『Преступление и наказание(プレストゥプレーニエ・イ・ナカザーニエ)』になるのですが、「罪」という訳部分にあたる「Преступление(プレストゥプレーニエ)」には、語源的に「踏み越える」という意味があります。そして、「罪」というより、むしろ「犯罪」に近い単語です。

(沼野先生は、『罪と罰』のタイトルは『犯罪と刑罰』と訳すべきだったかもしれないといいます)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

殺人という「犯罪(踏み越え)」を犯してしまった主人公のラスコーリニコフが、どう「復活」するのか。

この「踏み越え」と「復活」が、作中でも示される聖書の「ラザロの復活」のエピソードになぞらえられて、作品の重要な主題となっています。

もちろん、作品は作者から切り離して読んでよいのですが、父親の殺害を経験したドストエフスキーが、どのように殺人という「踏み越え」を犯した主人公を「復活」させるのかという視点でこの作品をみると、大筋を理解しながら読み進めることができるのではないでしょうか。

カラマーゾフの兄弟と父親殺し

次に紹介される『カラマーゾフの兄弟』は、カラマーゾフ家の父親殺害事件を描いた作品です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

「父親殺害事件」と聞くと、まさにドストエフスキーの父親が殺害された死の原体験を思い浮かべると思います。

このように、具体的に作品に反映されるかたちで、ドストエフスキーの死の原体験は尾を引いているのです。

一方で沼野先生は、ここでの「父親」はそのまま家族の父親でありながら、また「国民の父」である皇帝だと解釈することもできるといいます。

ドストエフスキーが活躍した19世紀末は、まさにロシア帝国が崩壊する前夜の時代であり、先ほど紹介したように社会主義活動も行っていたドストエフスキーにとって、皇帝殺害の企ては現実的なものでした。

さらにこの「父親」は、より大きな「神」という存在を具体化したものと考えることもできます。

ドストエフスキーの作品には、「死」と同じように、「神」というテーマが頻出します。『罪と罰』の「復活」も、聖書のエピソードをもとにしたものでした。

この『カラマーゾフの兄弟』にも、『罪と罰』と同じように、キリスト教が重要なモチーフとして登場します。

『カラマーゾフの兄弟』における「父親殺し」は、「家庭の父」、「国家の父(皇帝)」、「人類の父(神)」の3層を含んでいると考えることができるのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 沼野充義

具体的な話を展開しながらも、このような壮大なテーマへの示唆に富んでおり、多様な読みを導くのが、ドストエフスキーが大作家である所以だといえます。

小説は要約しても意味がない!

みなさん、いかがでしたでしょうか?

ドストエフスキーの何が凄いのか、少しは掴んでいただけましたか?

なんとなく、ドストエフスキーの作品について理解できて、満足したという人もいるかもしれません。

しかし、沼野先生は「小説は要約しても意味がない」といいます。

講義中で、ドストエフスキーと同じくロシアの大作家であるトルストイが『アンナ・カレーニナ』という作品を出版したときのエピソードが紹介されています。

ある批評家がトルストイに対して、「あなたは『アンナ・カレーニナ』という作品で何が言いたかったのですか」と尋ねました。

トルストイはそれに対して、「それを説明するためには、『アンナ・カレーニナ』という作品を最初から最後までもう一度書かないといけないでしょう」と答えたそうです。

そう考えると、やはりドストエフスキーを知るためには、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を実際に読むしかないのでしょう。

ボリュームのある作品が多いですが、大枠が掴めれば、きっと読み切ることができるはずです。講義動画では、ドストエフスキーや紹介したふたつの作品について、より詳しい説明がされています。良い読書体験をするうえでの助けとなると思います。

どうしてもハードルが高い、という方のために、講義では沼野先生による、オススメのドストエフスキーの短編も紹介されています。不安がある方はぜひ、まずそこから手を出してみてください。

今回紹介した講義:

今回紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)第7回 ロシア文学における生と死(その1) ドストエフスキー 沼野 充義先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/10/17

想像してみてください。

あなたのお母さん(お父さん)の咳がこのところ長引いています。体調が今一つすぐれないことも気になって、一緒に病院に行ったところ、「肺がん」と診断されました。

あなたは、お母さん(お父さん)にどのような医療を受けさせたいですか。

どのような情報を、どうやって探しますか。

がんになった人にとって、情報は”命”であるとされています。

しかし、特に最新の治療法といった”新しい”医療や情報を巡っては、その届けられ方に課題があることも明らかになっています。

新型コロナウイルスに関連した”新しい”医療や情報が多く溢れている今だからこそ、

情報を届ける側はそれらをどう届けることができるのか、

情報を届けられる側はそれらをどう探し、見極めることができるのか、

がん対策情報センターに所属している講師と一緒に考えてみませんか。

がん医療に関する情報提供をめぐる変遷

2005年以前、がん医療に関する情報提供の問題点として、多くの国民が情報の不足感を抱えていることや、正しい情報を手に入れることに難しさを感じていることが挙げられていました。

このような問題を解消するために、役立つ情報の提供と正確な情報に基づく支援を目指し、がん対策推進アクションプラン2005が策定され、以降、様々ながん対策計画が発表されてきました。

そして、アクションプラン策定から10年以上経った現在では、利用できる情報は増加・拡大を続けています。

科学的根拠などに基づき、各疾患ごとに診断や治療の標準的な指針をまとめた文書である「診療ガイドライン」にもその傾向は現れています。

10年前は、非常に限られた種類のがんに対してしか診療ガイドラインが作られておらず、またそれらはほとんど改訂されないか、されたとしても改訂に5年ほどを要するものでした。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 高山 智子

しかし現在は、乳がんや肺がんなど、多くの種類のがんに対応した診療ガイドラインがあり、改訂も昔と比べ短いスパンで行われています。

また、専門家用だけでなく、患者用の診療ガイドラインも多く作成されてきています。

このように、昔と比べ、現在では科学的根拠に基づいた利用可能な情報が非常に増えてきているという現状があります。

新しい医療を巡る情報支援における現在の課題

科学的根拠に基づいた利用可能な情報が増え、医療者や患者により届きやすくなっていることは喜ばしいことです。

しかし一方で、特に新しい医療や情報を巡っては、その届けられ方に課題があることも明らかになっています。

通常、新しい医療ほど、患者や家族に対してその安全性やリスクの説明をしっかり行うことが医療者には求められます。

しかし、患者一人当たりの在院日数が短くなり、入院患者数が増え、さらに忙しさを増している現在の医療現場において、医師と患者・家族間で十分なコミュニケーションがとれず、患者・家族が十分な情報を得られない、十分に情報を理解できないままになってしまうことが往々にしてあります。

すると、患者・家族はメディアの中に、不足する情報を探そうとします。

しかし、メディアには探した以上の情報が存在し、患者・家族は情報過多に陥り、時に医師の発言への懸念や、誤った情報の修正に医療従事者が苦労するといった事態につながります。

このように、医師からの情報が希薄なことで、信頼関係が十分にないまま、患者や家族は色々な情報に翻弄されるということが起こるのです。

また、患者側だけでなく、医療者・病院側も十分な情報を持っていなかったり、誰が対応したら良いか、どこに窓口を設ければ良いのか、どのように他の機関と連携するのかといったことを巡って混乱に陥ります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 高山 智子

情報支援における3つのポイント

では、どうすればよいのでしょうか。

医療関係者、患者、家族、国民らの間を行き交いながら様々な情報を発信していく、”情報コーディネーター”になったつもりで考えてみましょう。

そこには、以下の3つのポイントがあると講師は述べます。

① 怪しい情報が目立ちやすい中で、正しい情報をきちんと目につきやすくし、使えるようにする

② 医師・医療者へのサポート

③ 苦しい思いで情報を探しているという患者・家族の気持ちに寄り添いながら、理解を助けること

①正しい情報を(つくり、改善し)、活用しやすくする

ガイドラインは、まず網羅的に情報を集め、専門家集団がその情報を評価し、まとめて、推奨を出すという流れで策定されます。

作られたものはさらに、しっかりとしたガイドラインと言えるかどうか、第3者からチェックされます。

このプロセスでは、患者の視点でのチェックも大切とされています。

この表現が理解しにくい、(Webサイトであれば)読みづらいといった指摘がある場合は、さらに分かりやすい情報にブラッシュアップしていきます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 高山 智子

ガイドラインに記載されている、標準的な、もしくは推奨される治療やケアの実際の実施率、(実施率が低い場合は)低実施率の理由を知ることも非常に大事になってきます。

実施しない理由を基に、さらに改善すべきところがあるのかないのか、対象を絞るべきなのかなどを検討する必要があるためです。

②医師・医療者をサポートする 

情報社会の中で困っているのは医療者も同じです。

がん対策計画においては、医師は患者・家族に適切な説明を行う必要があると記載されています。

適切な説明をするためには、単に言葉を知っていれば良いわけではなく、ある程度その用語や制度を詳しく知っている必要があります。

がん拠点病院のスタッフ数は2015年時点で常勤・非常勤合わせて40万人程度います。

全員が同レベルの情報を知っている必要はありませんが、これらの人たちがきちんと情報を使えるようにサポートしていくことが大事になってくると講師は述べます。

③気持ちに寄り添い、患者の不足している情報・理解を助ける

患者・家族に寄り添い、情報の理解を助けるためには、がん専門相談員の役割と対応が重要になります。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2019 高山 智子

がん相談支援センターにはがん専門相談員がいるため、このような窓口を紹介することも大切な支援です。

がん相談支援センターは、誰でも、匿名で、無料で相談できます。

終わりに.

繰り返しになりますが、がんになった人にとって、情報は”命”であるとされています。

最新の治療を受けたいという思いの裏には、

「良い医療を受けたい」

「治りたい・(家族に)治ってほしい…」

という切実な気持ちがあります。

だからこそ、求める情報、必要とする情報を何とかして得ようと必死になるのです。

新型コロナウイルスに関連した”新しい”医療や情報が多く溢れている今だからこそ、

情報を届ける側はそれらをどう届けることができるのか、情報を届けられる側はそれらをどう探し、見極めることができるのか、一緒に考えてみませんか。

今回紹介した講義:新しい医療が社会に届くまで ~データサイエンスが支える健康社会~(学術俯瞰講義)第12回 新しい医療や情報をどう患者や市民に届けるか 髙山 智子先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター>

2022/10/12

みなさん、生物はどのように進化するのか、知っていますか?
進化に関する学説で広く知られているのは、チャールズ・ダーウィンの「自然選択理論」です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義Copyright 2011 森長真一

「生物は、生存に有利な性質をもつ個体が子孫を増やすことで進化してきたんでしょ?」

自然選択という考え方があまりに有名なため、このように「進化=自然選択」だと考えている人も多いのではないでしょうか?

しかし、生物の進化は自然選択によってのみ起こるわけではありません。

進化には色々なかたちがあり、さまざまな過程を辿りながら、生物の遺伝的形質は変化してきたと考えられています。

進化学について考える講義動画を通して、生き物がどのように進化していくのか、捉え直してみませんか?

遺伝的浮動による偶然の進化


今回講義を担当してくださるのは、東京大学総合文化研究科(当時)の森長真一先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義Copyright 2011 森長真一

森長先生は、進化を「集団内の遺伝子or遺伝的形質頻度の時間的変化」と定義します。遺伝的形質が変化することが進化だとするこの定義は、私たちの進化に対して抱くイメージとも一致するでしょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義Copyright 2011 森長真一

遺伝的形質の時間的変化は、個体が持つ遺伝的形質が変異し、それが子孫に遺伝することによって起こります。

このように聞くと、やはり「有利な形質が時間とともに増える」というダーウィンの自然選択理論は、もっともな理論だと感じるかもしれません。

しかし、現在の進化学では、なんでも自然選択理論で説明してしまうのは、正しくないだろうと考えられています。

森長先生が注目するのは、「遺伝的浮動」による「中立進化」という概念です。

遺伝的浮動とは、「偶然の作用による遺伝子or遺伝的形質頻度の変化」のことです。

自然選択による「適応進化」では、生存上有利な変異が増える、もしくは生存上不利な変異が除去されることによって形質が変化します。

一方、遺伝的浮動による中立進化では、変化する形質は、有利でも不利でもありません。有利でも不利でもないために、その形質はランダムに増減を繰り返します。ランダムに増減し、その形質が集団内において一定の割合を占めることになった結果、遺伝子が固定されます。このように起こるのが中立進化です。

森長先生は、適応進化を「必然」の進化、中立進化を「偶然」の進化だと捉えます。この区分は、フランスの生物学者であるジャック・モノーが提唱したものです。

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進化が「必然」であれば、生物間の形質の違いには意味があり、進化は予測可能だと考えられます。

一方、進化が「偶然」の場合、生物間の形質の違いには意味がなく、進化は予測不可能です。

過去について知る進化学の限界

それでは、生物の進化は必然的に起こっているのでしょうか?それとも、それは偶然によるものなのでしょうか?

森長先生は、DNAレベルの進化では、そのほとんどが中立進化(偶然)であり、そのうち一部だけが適応進化(必然)であると考えられているといいます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義Copyright 2011 森長真一

つまり、進化には、必然的なものも、偶然的なものも、それぞれあるということです。

ただ、ここまでは多くの研究者が意見を一致させていますが、それ以上のことはいまだに分かっていません。

DNAレベルの進化のうち、一部が適応進化であるとすれば、その一部のDNAの機能はなんなのでしょうか?

目に見える形質がその一部のDNAに支配されている可能性はないのでしょうか?

いくらDNAの大半が中立的に進化しているとしても、目に見える形質に関係するDNAが適応的に進化しているのであれば、進化は実質的に自然選択であると言えてしまうのかもしれません。

逆に、一見自然選択の結果に見える形質変化の例があっても、それが中立進化ではなく適応進化であると言い切ることはできません。これまで、世界中の生物の進化で「適応」と考えられる事例が数多く発見されてきましたが、それを遺伝的浮動の偶然の作用の結果として説明してしまうこともできるのです。

このように、進化の過程について複数の可能性を挙げられてしまうのは、進化によって成り立った現在の生物の姿だけしか確認することができないからです。タイムマシンを使って過去を直接見てこない限り、ある生物がどのような進化を遂げてきたか説明し切ることはできません。

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ゲノムから推測する進化のあり方

しかし、現実にはタイムマシンなどはありません。それでは、生物の進化の過程については全くのブラックボックスになってしまうのでしょうか?

問題を解決するための鍵となるのが、「ゲノム」です。森長先生は、ゲノム情報を利用すれば、進化の過程についてある程度検討をつけることができるのではないかと主張します。

ゲノムとは、生物のもつ全DNA配列のことです。ゲノムに着目すれば、形質の変化が適応進化で起こったのか、中立進化で起こったのか見極められる可能性があります。

まず、自然選択は、特定の遺伝子と、その近傍に強く作用します。

一方、遺伝的浮動は、不特定の遺伝子に弱く作用します。

また、個体の数が急激に減少したり、集団の中の一部が別の場所に移動したりして、元の集団とは遺伝子頻度が異なった集団ができる場合があります。(講義内では「ボトルネック効果」や「創始者効果」といった言葉で説明されます)

このボトルネック効果や創始者効果はゲノム全体に作用します。

着目する変異があるゲノムとないゲノムをそれぞれ着色して、その変異が全体に均一化されたらそのゲノムの配色がどうなるのかを示したのが下の図です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義Copyright 2011 森長真一

自然選択が起こっている場合と、遺伝的浮動が起こっている場合、「ボトルネック効果」や「創始者効果」が起こってる場合とで、それぞれゲノムの配色が異なっています。

自然選択の場合は、着目する変異が広がったとき、着目している遺伝子の周囲も同じ色になります。

ボトルネック効果の場合は、着目する変異が広がったとき、ゲノム全体が同じ色になります。

遺伝的浮動の場合は、着目する変異が広がったとき、着目している遺伝子の周囲以外も均一化されている部分が見られます。

このようなゲノムの違いに着目することで、遺伝の流れを推測することができるのです。

更なる進化学の発展

この講義は2011年に開講されたものですが、それから10年あまりが経った現在、ゲノム解析技術は更なる進歩を遂げています。

しかし、講義で説明される進化学の根底の考え方は、今の研究にも通じているものです。分かりやすい例を交えて展開されるこの講義は、進化学への導入としてピッタリだといえるでしょう。

みなさんもぜひ、この講義動画を視聴して、進化についての学びを深めてみてください。

今回紹介した講義:「かたち」と「はたらき」の生物進化-偶然か必然か(学術俯瞰講義)第4回 進化は進歩か?:自然選択と遺伝的浮動が織りなす生物史 森長 真一先生、塚谷 裕一先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>