みなさんは普段の生活のなかで、「死」について考えることはどれくらいあるでしょうか?
私たちはみな死を迎える存在でありながら、健康で日々の生活に追われていると、その事実に意識が向かなくなってしまうことがあります。
しかし一方で、いざ死というものが頭をもたげると、不安や焦りが襲ってきます。
死にどう向き合えばよいかというのは、人類がこれまでずっと向き合い続けてきた難問であり、いまだ明快な指標は出ていません。
しかし、そんな掴みどころのない死について、真剣に考える研究分野があります。
それは、「死生学」という分野です。
東京大学の文学部では、2002年より、「死生学」のプロジェクトやプログラムを開設してきました。
2011年には、21世紀COEおよびグローバルCOEプログラムの「死生学」のプロジェクトと、教育プログラムである「応用倫理教育プログラム」が統合される形で、「死生学・応用倫理センター」という研究組織が発足されています。
死生学という学問分野の歴史は浅く、もともと領域がはっきりとしてはいませんでした。そのため、哲学や宗教学などさまざまな人文知を用いることで研究が進められてきましたが、東大でのプログラムも開始から20年以上が過ぎ、段々と、まとまった知見が蓄積されてきています。
今回紹介するのは、2009年に開講された連続オムニバス講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想」の最終回、「死生の問いと現代の学術」です。
この全13回の連続講義では、哲学、宗教、文芸などの分野の研究者が、「生と死の思想」の展開について語っています。
(こちらの連続講義は、全ての回の動画をOCWで視聴することができます。こちらのページより、気になるテーマの講義動画をチェックしてみてください)
登壇されるのは、この連続講義のモデレーターでもある宗教学者の島薗進先生と、第9回、第10回で講義を行なった哲学者の熊野純彦先生です。(村松眞理子先生も登壇予定でしたが、私用により欠席)
このお二人は、前述のCOEの死生学プロジェクトの立役者でもあります。
対談形式で進む講義の内容を確認しながら、死生学についての学びを深めてみましょう。
それぞれの専門分野から考える「死」
講義の前半は、島薗先生がこれまでの連続講義の内容を振り返る形で進みます。
清水哲郎先生による、臨床の現場での死への態度について考える講義、
逸身喜一郎先生による、西洋古典から「mortal」「inmortal」という概念を捉える講義、
沼野充義先生による、ロシア文学者と死の関係性を探る講義、
金森修先生による、フーコーの生権力に関わる死をめぐる歴史闘争を理解する講義など…
それぞれの先生方が、専門の領域と「死」を結びつけながら、講義で語られた内容に、島薗先生が解説を加えていきます。
そして、登壇されている熊野先生による、ハイデガーの哲学の講義については、島薗先生による質問に熊野先生が答えつつ、内容が確認されていきます。
「死をめぐる講義でハイデガーを取り扱う必然性はどこにあるのか」という島薗先生の質問に対する熊野先生の応答など、対談形式の講義ならではの臨場感のあるやり取りは必見です。詳しい内容は、ぜひ講義動画を視聴して確認してみてください。
身体に魂はあるのか?
講義の後半では、島薗先生がご自身の専門である日本人の宗教観から、「死」について語られます。
島薗先生は、「生命倫理は死生観を反映する」として、欧米社会と東アジア(主に日本)では、脳死・臓器移植、安楽死、人工妊娠中絶、生殖補助医療、出生前診断・着手前診断に対する受け止め方がどのように異なるか、その背景にある宗教観とともに紹介しています。
日本人の宗教観の特徴のひとつは、それが「アニミズム」に根付いているということです。
アニミズムとは、人間だけでなく、動植物や無生物など全てのものに魂があるとする考え方。
たとえばみなさんも、“本を踏んづける”という行為に抵抗感を覚えないでしょうか? このような抵抗感は、ものに魂を見出すアニミズムの思想に通底する感覚です。日本のような多神教の国では、アニミズムが宗教的な基底を成しています。
一方で、キリスト教国家は、アニミズムを排除しながらその宗教観を形作ってきました。
キリスト教的な宗教観では、人間を他の動植物と区別しており、特に理性があることを根拠として「人間の尊厳」が主張されてきました。
このような東西の宗教観(死生観)の違いは、生命倫理の問題への取り組み方にも違いをもたらします。
たとえば講義で取り上げられたのは、脳死・臓器移植の問題。
欧米社会では、臓器はまだ動いているものの、脳の機能が停止した人を「脳死」とみなして、臓器移植を行うことを積極的に推奨することが多いそうです。
一方、日本では身体が動いている人を「死んでいる」と捉えることへの抵抗感が根強くあります。それは、身体は理性によって動かされる機械ではなく、それ自体に魂があるものだという考え方が染み付いているからだと、講義の中で島薗先生は指摘します。
その結果、脳死制度の導入の程度は、日本と西洋諸国で大きく異なっています。
他者と生命を共有している感覚
脳死の例では、欧米社会が脳死の人を「死者」と割り切っているのに対して、日本のアニミズム宗教観は判断に留保をとっていました。
しかし、日本の宗教観の方が欧米社会と比較して、全ての面において生命を重んじているのかというと、そういうわけでもありません。むしろ個々の生命は、アニミズムの価値観のもとに、犠牲となることがあります。
講義では、アメリカの政治学者、フランシス・フクヤマによる次のような主張が紹介されました。
仏教では人間と人間以外の自然を区別せずともに断絶のない宇宙の一部だと見なしている。キリスト教と比べた場合、仏教、道教、神道のようなアジアの諸伝統は、人間とそれ以外の被造物との間に明確な倫理的区別を立てない傾向がある。(中略)しかしこれは裏を返せば、人間の生命の神聖性(sanctity of human life) に対して敬意を払う度合いが、何ほどか低くなることをも意味する。アジアの多くの地域で、実際、中絶や幼児殺し(とくに女児)といった慣習が広まっている。
アニミズムを基底とする文化圏(アジア)で、中絶やいわゆる間引きなどの幼児殺しが行われやすいことを指摘しています。
16世紀に日本を訪れた宣教師たちも、日本で行われていた間引きや堕胎に難色を示していたようです。
現代においても、カトリックや一部の生命尊重派の宗派が根強い国や地域で、中絶自体が法律で禁止されているところは多く存在します。
(西欧で全く子殺しが行われなかったわけではありません。)
しかし、日本で全く平然と子殺しが行われてきたかと言えば、そうではありません。気が引けたり、悲しみが伴ったりすることもあったはずです。
その慰めとなる考え方として、子どもの生まれかわり信仰があったといいます。その信仰の背景を、波平恵美子は『いのちの文化人類学』の中で「いのちのプール」という言葉を使って説明しています。
そこでは、私たちは、一人一人の個別な人間であるというよりも、ひとつの大きなプールのなかから、ある時間だけ生まれ出てきて、死ぬとまた帰っていくようなものだと考えます。
島薗先生は、他者と生命を共有しているような感覚から、世代間の連帯が生まれていくことも指摘しています。たとえ個人がいなくなったとしても、集団は残るということです。
死生学の分野横断的な発展
島薗先生の講義のあとは、「アニミズム」や「死」を中心としたテーマについて、島薗先生と熊野先生が自由に語り合います。
このパートは、二人で進行するこの講義ならではであり、ぜひ皆さんに視聴していただきたい醍醐味ともいえる部分です。
会話はつらつらと進んでいくため、ここで内容を説明しきるのは難しいのですが、個人的に印象に残った部分を紹介します。
熊野先生は、宗教学や民俗学は、今なお息づく思考を掘り起こして活性化する学問だと語ります。
まさに、宗教学者である島薗先生が講義で説明した内容は、現代の私たちの生命倫理の基底にアニミズムの価値観があることを明らかにしたものでした。
しかし、熊野先生はアニミズムという言葉が、色々な概念を包括しすぎているのではないかと、疑問を投げかけます。
そして、別の言葉でアニミズムを語ることができないかと島薗先生に尋ねるのです。
これは、日々哲学のテキストを精読してその言葉の意味を精査している熊野先生ならではの指摘であり、二人で進行する講義だからこそ生じた問いです。
そもそも最初に紹介したように、死生学という分野自体が人文学を中心とした様々な学問分野の知を集結させる形で生まれてきたものでした。
二人で進められたこの講義は、このような死生学の分野横断的なあり方を実感できるものになっています。(講義前半の、島薗先生による他の先生の講義についての解説にも、そのような側面があります。)
皆さんもぜひ講義動画を視聴して、死生学についての学びを深めてみてください。
そして、死生学について興味を持ったら、連続講義の他の動画もぜひ併せて視聴してみてください。
他の回の講義紹介記事も併せてご覧ください。
ロシア文学研究者による『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』解説
20世紀最大の哲学者、ハイデガーについて知りたい方へ【「存在」とは何か】
<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)第13回 死生の問いと現代の学術 島薗 進先生、熊野 純彦先生、村松 眞理子先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。