だいふくちゃん通信

2022/05/25

20世紀最大の哲学者と称されることも多いハイデガー。

しかし、その思想は極めて難解だと言われており、ハイデガーの主著である『存在と時間』は、一筋縄では理解できません。

「ハイデガーが提示した哲学的問題に触れてみたい!でもいきなり本を読むのはハードルが高い!」

今回は、そんなあなたにピッタリな講義動画を紹介します。

ハイデガーは一体何を問題にしようとしていたのか?

人間と世界の関係とは?

他者とはどのようなあり方をした存在なのか?

一からハイデガーについて説明されているので、すでに知識のある方はもちろん、これから哲学に触れてみたいと思っている初学者の方にもおすすめの講義です。(ただし、簡単ではないので、チャレンジする気持ちで講義動画を視聴してください!)

「存在」について問うハイデガーの思想

 UTokyo Online Education 有限的な生の意味Copyright 2009, 熊野 純彦

今回講師を務めるのは、西洋を中心にさまざまな哲学者の思想を紐解いてきた、東大倫理学研究室の熊野純彦先生です。

講義ではまず、ハイデガーが何を問題にしようとしていたのかが説明されます。

熊野先生によれば、ハイデガーが提示したのは「世界の中にある生は、どのようなあり方をしているのか」という問いです。

これは、「私が存在しているというのはどういう事柄なのか」と言い換えることもできるといいます。

なかなかピンとこない問いかもしれません。

それはきっと、あなたにとって「存在」というものが当たり前すぎて、問いにすべきものだと認識できないからでしょう。

実際、私たちや他者、その他の事物は、確かに「存在」していて、そのことについてそれ以上問いを立てる必要もないように感じられます。

でも、改めて考えてみてください。

「存在」という言葉が何を意味しているのか、あなたは正確に理解できていると言えるでしょうか?

おそらく、「存在」は「ある」ことだ、というくらいにしか、説明できないのではないかと思います。

しかし、この「ある」こととは一体何なのでしょうか?ハイデガーが問題にしようとしたのは、その先のことなのです。

まだピンときていないかもしれません。言葉として理解はできても、何を問われているのかよくわからないと思います。

でも、気落ちしなくて大丈夫です。ハイデガーの問いを理解すること自体が、非常に難しいからです。

と言うよりも、この問いのかたちを正確に理解することができれば、ハイデガーを理解したとさえ言えます。

なぜなら、ハイデガーの功績は、この問いに答えを出したことではなく、この問いをはっきりとしたかたちで提示したことにあるからです。

「存在」という、自明で、一見それ以上説明しようがないと思われるものに目をつけ、哲学的に考察する筋道を立てたのが、ハイデガーなのです。

現存在としての人間は世界とどう関わっているのか

 UTokyo Online Education 有限的な生の意味Copyright 2009, 熊野 純彦

それでは、どのようにすれば「存在」について考察することができるのでしょうか?

ハイデガーはその第一歩として、「現存在」という新たな概念を作り出します。

熊野先生によれば、これは「その都度私の存在である、その存在」だと言います。

この定義だけをみても、おそらく全く理解できないでしょう。

しかし、熊野先生いわく、この「現存在」は「人間」のことを指していると考えて、ひとまず差し支えはないそうです。

ハイデガーはこの「現存在」という概念を軸として、つまり、人間がどのように存在しているのか考えることを通して、存在についての探究を進めていきます。

現存在である私たち人間は、世界のなかにいる存在です。そのことを指し示すため、ハイデガーは「世界内存在」という概念も持ち出します。

つまり、人間は現存在でありながら、世界内存在でもあるということです。

(どんどん新しい言葉が出てきて困惑しているかもしれません。熊野先生いわく、ハイデガーには新しい言葉を作り出したがる性質があるそうです。これからハイデガーを学びたい人にとっては、なかなか厄介な性質だと言えるでしょう。)

ただし、世界内存在とは言っても、私たち人間は、たとえばコップの中に水があるようなかたちで、この世界の中に存在しているわけではありません。

私たちと世界は、それぞれ独立してあるのではなく、私たちは「世界と切り離しがたく存在している」のです。

この切り離しがたさは、世界の事物が「道具的」に私たちの前に立ち現れていることによって説明できます。

たとえば、私たちはハンマーを単なる鉄の塊としてではなく、釘を打つための「道具」として見ます。もちろんその釘もまた「道具」です。

「道具」となるのは人工物ばかりではありません。太陽は、照り輝く恒星でありながら私たちに光を届けてくれるものでもあるし、川もまた、ただの水の集合体ではなく、水車を回したり、場合によっては洗濯に用いられるものとして存在します。

ハイデガーはこのように、世界と切り離しがたく存在する世界内存在としての視点から、存在に対する問いをかたち作っていくのです。

「他者」、「死」、そしてその先へ

 UTokyo Online Education 有限的な生の意味Copyright 2009, 熊野 純彦

客観的な科学のやり方によって事物を探究することに慣れている私たちにとって、ハイデガーの考え方は違和感を覚えるものかもしれません。

しかしある意味で、それは新鮮な考え方であるとも言えます。ハイデガーの思想を辿ることで、これまで当たり前だと思ってきたものごとを、新たな視点で捉え直すことができるようになってきます。

そして確かに、最初は全く糸口が掴めなかった「存在とは何か」という問いが、次第に概観できるようになってきます。

ハイデガーは独自の用語が多いこともあり、最初の理解には戸惑うことも多いです。

しかしその分、議論が深まっていくと、他では替えの効かない面白さを味わうことができます。

講義の後半では、「他者」という新たな存在者について考えることで、さらに発展した議論が展開されています。

他者について考え始めると、「他者に置き換えることのできない、私たちそれぞれに固有な生のあり方とは何か」という問いが新たに生まれます。

そしてこの問いは意外にも、「死」という概念に結びついているのです。

この記事では、ハイデガーの思想、そしてそれを辿る講義の魅力を十分にお伝えできていません。

でも、「ハイデガー、なんかすごそう」ということは、感じていただけたのではないでしょうか?(感じててほしい……!)

その「なんかすごそう」を「面白い」に変える第一歩として、ぜひ熊野先生の講義動画を視聴してみてください。

今回ご紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義) 第9回 有限的な生の意味 熊野 純彦先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/05/19

皆さん、音楽は好きですか?
音楽は私たちの生活の中にたくさん存在しています。
移動時間に音楽を聴いている人もいるでしょうし、友達とカラオケに行くのが好きな人もいるでしょう。

では、「音のない音楽」は存在すると思いますか?

そんなのないよ、と笑う人もいるかもしれませんが、音を出さない指揮者は「音楽家」ですし、差音や倍音と呼ばれる「聞こえない音」もありますよね。

一体音楽とは何なのか、だんだん自信がなくなってきましたね。

今回は皆さんに、音楽が歴史的にどう捉えられてきたのか、そして自然と音楽はどのような関係性にあるのか、そしてそれらが今日にどのような教訓をもたらすのかについて考える講義を紹介します。

Tokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

講師を務めてくださるのは、日本フィルハーモニー交響楽団などで指揮者を務められている山田和樹さん、東京フィルハーモニー交響楽団でコンサートマスターを務められている近藤薫さん、朝日新聞記者の吉田純子さん、東京大学先端科学技術研究センター教授の近藤高志先生です。

4人の先生方はそれぞれ異なる分野でご活躍されていますが、その共通点は「音楽が好き」ということです。

先生方の軽快なトークと共に、音楽の魅力の扉を開いてみましょう!

音楽って何だろう?

古代ローマの人々は、音楽を3つに分けて考えていました。
①ムジカ・ムンダーナ=世界の調和の音楽
②ムジカ・フマーナ=人間の調和の音楽
③ムジカ・インストゥルメンタリス=楽器を通して実際に鳴り響く音楽
です。

人々は、音楽とは聴くものではなく、自然や天体など自分が触れないものを人間として実感し、自分の生き方を探っていくものとして捉えていました。
彼らにとって、音楽とは、宇宙の調和の根本にあるものであり、人間の心身をつかさどる秩序でもありました。これらの音楽は耳で聞くことができませんが、身の回りに満ちていると考えられていたのです。

そして、一番下位にある概念として、楽器を通して実際に鳴り響く音楽があると考えていました。

つまり、古代ローマにおける音楽は、人間が演奏するものだけでなく、人間が理解することのできないより上位の自然界の調和の摂理として理解されていたのです。

音楽と自然は共通点が多い

古代ローマにおいて科学的な根拠があったわけではなかったと思いますが、驚くべきことに、実際に自然の法則と音楽は一致する部分が多いとされています。

例えば、虹の7色はドレミファソラシの7音に一致します。さらに、人間の目に見える可視光は大体1オクターブと一致します。

このように、自然と音楽は、不思議な共通点で結ばれているのです。
こうしたことのすべては、理屈では説明できません
なぜ音階がドレミファソラシなのか、そして我々がなぜそれを美しいと感じるのかは、サイエンスでは説明しきれないのです。

音楽とサイエンスの一致と分けすぎた弊害

Tokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

ところで、サイエンスとクラシック音楽が歴史上同じような道を辿ってきたことをご存じでしょうか。
二つの分野は、共に19世紀に大きく花開き、20世紀に分けることで成長を遂げた一方で、21世紀には分けすぎたことによる弊害も見られるようになっています

19世紀以前、サイエンスの分野では、物理学や科学、生物学といった学問はあまり区別されていませんでした。それが、19世紀になると、現代的なテクノロジーのベースになっている近代科学が登場しました。ダーウィンの進化論の提唱、メンデルの遺伝の法則の発見、メンデレーエフの元素周期表の発表などが相次ぎました。そして、20世紀に入り、サイエンスの分野では学問の分化が進んでいきました。特に、アインシュタインの相対性理論、量子力学が科学、工学、物理学などに多大な影響を与え、それぞれの分野は飛躍的な発展を遂げました。このように、学問分野が細分化された結果、各分野で多くの研究が行われた一方で、それぞれが肥大化し、固定化して既得権益になり、縄張り争いが起こるようになりました。

同じく19世紀以前、クラシック音楽の分野では、音律は決まっておらず、作曲家は1回限りの演奏のために曲を書き、それを王侯貴族が楽しむ時代でした。それが、19世紀に入ると、現在のクラシック音楽のスタイルが確立しました。そして、作品に作曲家の自我が入り始め、一般市民が音楽を楽しむ時代に突入しました。さらに、メトロノームが発明され、拍が一定になりました。20世紀には、平均律が確定し、音階が決まりました。また、録音が登場したことで、どこでも誰もが同じように演奏を聴いたり弾いたりできるようになりました。このように、情報が平均化していくとともに、効率化され、地域による音や弾き方の違いは次第に失われていきました。

人々は理解するために物事を細かく分け、それによって非常に成功しました。
しかしながら、分けすぎてしまったのです。そして分けている自覚も失ってしまいました。

その結果、いろいろな結びつきを見落としてしまったのです。

目に見えないものごとの価値

Tokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

本来、世の中には目に見えないものがあふれています。
しかし、昨今の社会では、体系化・効率化が求められてきました。情報を介したコミュニケーションが増え、顔を合わせずにメールや資料共有をすることも多くあります。情報は世界中どこにいてもすぐに送ることができますが、その裏にある思いは送ることができません。情報の中に入れられないものが多いのです。そうした効率化の先に待っていたのは、人間性の喪失でした。

感性、思い、人間性、コミュニケーション…見えないものを通して、人と人とがやわらかく繋がっていくとき、それが文化になるのです。
そうした目に見えないもの、形にできないものを共有することが音楽の本質なのかもしれません。

まとめ

コロナ禍になり、音楽は「不要不急」だとして切り捨てられてしまいました。しかし、場所を共有して感覚的に共通項を探すこと、言語ではない対話をすることは、自然そのものであり、何かが生まれる源泉でもあるのではないでしょうか。

ぜひこの講義動画を視聴して、コミュニケーションを考えるきっかけにしてみてください。

今回紹介した講義:先端アートデザイン学 第11回ー近代科学とクラシック音楽~学際研究から酒宴まで、領域横断のサロン的展開ー山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

<文/島本佳奈(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/05/13

皆さん、「不安症」について知っていますか?

不安は自然な生理反応であり、誰しもが感じるものです。

しかし、極度に不安を覚えることによって日常生活に支障をきたす場合、薬や精神療法によって治療が目指されることがあります。

また、それとは別に、「自閉スペクトラム症(ASD)」と呼ばれる発達障害があります。

ASDの人は、人と適切な距離感を持って交流するのが苦手で、強いこだわりがあることが多いと言われています。アスペルガー障害という名前で、耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

ASDにはいくつかの特徴がありますが、そのひとつは「度を超えた不安を感じること」です。

ASDと不安症はイコールで結びつけられるものではありませんが、ASDと不安症の併存は多いとされています。

ASDと不安症は、どちらも精神に関わる障害で、明確に症状を判断するのが難しい領域です。そのため、どのように捉えるべきか、そもそも症状として診断を下すべきかどうか、今もなお、調査と議論が続いています。

今回は皆さんに、不安症とASDの関係性と、その捉え方について考える講義を紹介します。

対人関係に不安を感じる「社交不安症(SAD)」

講師を務めてくださるのは、東京大学相談支援研究開発センター所属の渡辺慶一郎先生です。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

発達障害をテーマに研究を行うとともに、学生生活の支援も行っています。

「不安症」と言いますが、そもそも不安には厳密な定義がなく、生活に支障が出るレベルの不安もまた、単一に捉えられるものではありません。

ただ、その中のひとつとして便宜上、「社交不安症(SAD)」というカテゴリーがあります。

これは「他人に悪い評価を受けることや人目を浴びる行動への不安により強い苦痛を感じたり、身体症状が現れ、次第にそうした場面を避けるようになり、日常生活に支障をきたすもの」だと考えられています。

その治療方法は、抗不安剤などを処方する「薬物療法」と人と交流することで症状の緩和を目指す「精神療法」に大きく分けられると言います。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

人と交流する場面で緊張を感じたりすることは誰でもあると思いますが、その度合いが強すぎると、SADとして認められるということです。

不安の症状が出るまでには色々な経路がある

一方で、ASDと不安にはどのような関係があるのでしょうか?

ASDの人は、いわゆる「パニック」や「場面緘黙」など、不安が重要な要素と考えられる症状が出やすいと言われています。

ASDの人のうち、42%〜56%の人が不安症を併存しているというデータもあり、そのうち最も多いのがSAD(13%〜29%)です。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

ただし、ASDの人が不安を感じるメカニズムについては、今なお、はっきりした答えは出ていません。

その中で渡辺先生は、あくまで仮説として、ASDの不安モデル案を提示しています。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

渡辺先生が提示された不安モデル案が、上記図です。

不安症状は突然現れるわけではなく、ASDに顕著ないくつかの思考パターンの結果として表出していることが分かります。

渡辺先生は、「不安の症状が出るまでには色々な経路がある」と言います。

不安症の治療法として「薬物療法」と「精神療法」を挙げましたが、原因が多岐に渡るのであれば、そのアプローチもさまざまにあるはずです。

どんな不安もなくさなければいけないというのは間違い

同じ症状のように見えても原因が異なる場合があるなど、ASDやSADの治療は一筋縄ではいきません。

そしてまた冒頭で述べたように、発達障害を医学的な「障害」とすることへの批判もあります。たとえば、トランスジェンダーについて、元々は「性同一性障害」と呼ばれていましたが、今は「性別違和」などと表記されることが増えています。

渡辺先生は、「どんな不安もなくさなければいけないというのは間違い」だと言います。もちろん、それが過剰であれば治療の対象になりますが、不安はあるものだと受け入れたうえで、症状に囚われずに自分のやるべきことをやるのも大事だということです。

しかし一方で、発達障害に対する支援は、未だ十分だとは言えません。渡辺先生はまた、「体制が整っていない状態で、安易に発達障害を『個性』だと捉えるのは危険」だとも言います。症状として扱うことを避けることは、自己責任論に陥るリスクと重ね合わせです。

精神的な症状は多くの人の障害になっているにもかかわらず、医学的に明確な定義を与えることが難しいためか、未だに間違った理解が広がっています。

ぜひこの講義動画を視聴して、正しい知識のもと、不安や発達障害について考えるきっかけにしてみてください。

今回紹介した講義:不安の時代(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2020年度講義)第4回 精神科医からみる不安 渡辺 慶一郎先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/05/02

突然ですがみなさん、このグラフを見てみてください。

これは、1950年から2060年までの日本の人口変動を予測したグラフです。

これを見ると、2060年の日本の人口は、なんと8674万人まで減少しているそう……現在(2022年2月)の人口が1億2500万人程度であることを考えると、40年で4000万人近く減ることになります。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

こんなグラフを見ていると、いったい日本はどうなってしまうんだろうと、ついつい暗い気持ちになってしまいますよね。

しかし、人口が減った日本の未来は、本当に悲観すべきものなんでしょうか?

もしかしたら、この現状をただ嘆くよりも、先に考えるべきことがあるかもしれません。

AI技術の発達によってモデルを使って未来予測ができるようになった現在、私たちは将来を見据えるために何ができるのでしょうか?

インフラ・環境コンサルタントとして活躍し、現在は哲学・倫理学がご専門の佐藤麻貴先生と一緒に、未来について考える講義を紹介します。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

未来予測は、将来像を描くための指針に過ぎない

そもそも、AIは未来をどのように予測しているのでしょうか?

現在のAIは、ディープラーニングによってビッグデータを統計処理することによって、未来についての予測を立てています。

従来の機械学習では、出力までの演算を人間がアルゴリズムで直接指示していましたが、ディープラーニングでは、学習データの蓄積による統計処理が行われた結果として、データが出力されています。

つまり、どういった処理によって未来が予測されているのか、人間側には分からなくなっているということです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

佐藤先生は、そこで提示された未来予測は、将来像を描くための指針に過ぎないと言います。

ディープラーニングによって提示された未来予測によって未来を悲観したり、また喜んだりするのではなく、それを踏まえて将来を見据え、今から何を準備しておくか考えることが大事だということです。

たとえば、冒頭で人口の未来予測を紹介しましたが、もっと横軸を長くとってみると、下のようなグラフになります。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

こうして長いスパンで未来を考えてみると、2050年の人口は、活力を持って日本が大きな改革を成し遂げた明治維新や終戦期の人口よりも多くなるだろうということが分かります。

佐藤先生は、人口が少ないことが問題であるという見方に疑問を呈し、私たちに未来社会をどうしたいのか、学問を通して考えるべきだと呼びかけます。

学問を生かすも殺すも自分次第

学問の発達によって、私たちは過去を知り、未来を予測できるようになりました。

しかしそこで提示されているのは単なる情報でしかないと思います。

むしろ重要なのは、その情報をどう活用して、私たちの未来に向き合っていくべきなのではないでしょうか?

佐藤先生は、学問にはそれ自体で価値があるということを認めたうえで、「多角的視野を得て、不確実性の高い未来を切り開くためのツール」として学問を捉えます

学問が生きるかどうかは、情報の量と、その情報の解釈にかかっているのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

とりわけ、情報量が莫大になっていく情報化社会においては、この「解釈」こそが重要になってくると思います。

私たちは、どのような未来を生きるべきなのか。そのために学問はどのような役割を果たすことができるのか。ぜひこの講義動画を視聴して、これからの学問への向き合い方について考えてみてください。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第2回 未来社会2050 ― 学問を問う佐藤 麻貴

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/27

今、東京大学で歴史を専門に学び、研究できる学科は、「日本史学科」、「東洋史学科」、「西洋史学科」の3つです。そのほかの多くの大学でも、歴史学はこの3つの区分に分けられています。

しかし、高校で教えられる歴史は、「日本史」と「世界史」の2つです。東洋と西洋では分けられていません。

自国の歴史を学ぶ分野として日本史が独立して存在するのは理解できますが、わざわざ東洋と西洋を区分するのにそれほど合理的な理由はないように思います。

一体どうして、「東洋」と「西洋」の歴史が区別されているのでしょうか?

私たちの「歴史」に対するイメージを形作っている「近代歴史学」の流れを辿りながら、歴史のあり方の再考を促す講義動画を紹介します。

停滞している非ヨーロッパには歴史がないという近代歴史学の考え

今回講師を務めるのは、歴史学者の羽田正先生。世界史の再構築を研究テーマに掲げておられる先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

羽田先生によると、私たちが現在「歴史」として理解している近代歴史学の起源は19世紀の北西ヨーロッパ(ドイツ・フランスあたり)にあります。

もちろん、それ以前にも歴史と呼べるようなものはありましたが(ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』などは有名ですね)、近代歴史学は以下の点をもってそれ以前の歴史と区別されます。

それは例えば、「啓蒙思想と理性の重視、科学的思考法」「文献学(文献批判の方法)の発展」などです。

『聖書』のような文献を絶対視するのではなく、それをひとつの歴史史料とみなし、相対比較して批判的に検討しながら「事実として」歴史を構築していくやり方は、まさしく今のアカデミアの歴史研究につながっています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

一方、近代歴史学の背景には、「進歩する人類社会という考え方」もあります。

19世紀の北西ヨーロッパではキリスト教の相対化と啓蒙思想の拡大が進んでおり、また、(どこまで実現できていたかは別として)自由と民主主義を備えた国家づくりが行われていました。そこでは「人類の社会は進歩する」という価値観が広く共有されていたといえます。

社会が進歩するからこそ、それを歴史としてまとめることに価値が生まれるわけです。

近代歴史学の創始者と言われるランケは『世界史概観』という歴史書をまとめましたが、「世界史」の名を冠した書物にもかかわらず、そこで扱われている対象はほとんどがドイツ、フランス、イギリスでした。

羽田先生によると、初期の近代歴史学は、「宗教が世界を支配して自由のない非ヨーロッパは停滞しているから歴史がない」と考えていたといいます。

そのため、東洋の歴史についての研究は、「歴史学」の枠組みでなく、「東洋学」の枠組みでなされることになります。(なんとこの区分は今でも続いているそうです)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

「西洋史」と「東洋史」の区分って今でも必要?

日本は江戸期まで、中国を参考にした歴史記述を行っていましたが、明治期に開国してからは、この近代歴史学を採用することになります。

国令によって設置された帝国大学(現在の東京大学)には、1887年に史学科ができました。お雇い外国人のリースがそこで教えたのは、近代歴史学における歴史、すなわちヨーロッパの歴史でした。

1889年に日本の歴史を教える学科ができてからしばらくは、日本の歴史とヨーロッパの歴史の2本立てで歴史学が進んでいくことになります。

その後、1907年に京都大学に、1910年に東京大学に、それぞれ東洋史学科が誕生しました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

この経緯による区分が現在にもそのまま引き継がれ、現在の東京大学の歴史研究は(そして日本の歴史研究の多くは)、「日本史」、「東洋史」、「西洋史」に分かれて行われています

この区分は以上のような歴史的要因によって生じたもので、それ自体になんらかの必然性があるわけではないはずです。(具体的に、近代歴史学を採用したのは西洋に対抗しようとする当時の国のためになると考えられたからで、東洋史学科が誕生したのは日露戦争の結果、大陸へ関心が向いたからです)

羽田先生は、果たして現在も「西洋史」、「東洋史」という区分が必要なのか、私たちに問いかけます。

ここまで読んだみなさんは、どう思うでしょうか?今でも私たちは近代歴史学の強い影響を受けています。

羽田先生は、講義中で近代歴史学を克服しようとする動きについても紹介されています。ぜひ講義動画を視聴して、中学校や高校、大学で私たちに染み付いた歴史の枠組みを捉え直してみてください。

今回紹介した講義:歴史とは何か(学術俯瞰講義)第2回 近代歴史学の歴史 羽田 正先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/20

私たちはいつから自己と他者の境界を認識するようになるのでしょうか?
実は生まれたての赤ちゃんは、どこまでが自分なのかあまりよくわかっていません。

今回ご紹介する講義は、「他者」という存在を媒介/メディアとして、

 1. 他者としての自己の芽生え
 2. 他者の眼に映る自己
 3. ”合わせ鏡”としての自己と他者

という3本の柱でお話を展開しています。

1. 他者としての自己の芽生え 

まず他者と自己の関係の一つとして、「他者としての自己の芽生え」があります。
つまり、他者を知ることで初めて自己を知ることができるということです。
例えば、子どもやチンパンジーは鏡に映っている自分を見て、他者から見た自分を意識することができます。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

その経験を通してはじめて自己と他者を区別することができ、自己を認識できるといいます。
また、新生児がコミュニケーションとしての笑顔である社会的微笑を獲得する過程においても他者に笑いかけ、それが返ってくるという双方向的なプロセスを必要とします。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子


2. 他者の眼に映る自己

他者と自己のもう一つの関係として、「自己の『内なる』心は『開かれた』他者との関係の中で育まれる」ということがあります。
特に、アジアをバックグラウンドに持つ人は自己と他者がより結びついている傾向が顕著に確認できます。
それが実際に研究としても明らかになっています。子どもを対象に、①自分で選ぶ課題、②母親に選んだ課題、③研究者が選んだ課題の3つのうちどれがモチベーションが高く出るか実験が行われました。すると、実際にアジア系の子どもは自分で選んだ課題よりも母親が選んだ課題で最もモチベーションが上がっており、白人の子どもとは対照的な結果となっていました。
この研究結果から、本来義務や賞罰、強制などによってもたらされる「外発的動機づけ」と区別される、「内発的動機づけ」は他者からの影響を受けない個人的な心理プロセスと言い切れないということが分かるのです。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

同様に自尊心についての実験でも、より親しい他者からどう見られているかということが自分に対する評価に大いに反映されていることが示されました。これらのことから個人的・内的な心理プロセスとして捉えられてきた概念が、実は他者との関係のなかで維持・高揚される、インタラクティブなプロセスかもしれないということが指摘されています。


3. ”合わせ鏡”としての自己と他者

つまり、自己と他者は、合わせ鏡のように互いを移す媒体として機能しているということがわかります。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

さらに講義では「他者ないし社会に“媒介”されずに定義し得る「自己」はあるのか」、「自己と他者との関係のありように、“文化”による差異はあるのか」というテーマで学生とともにディスカッションを行っています。

ぜひみなさんもディスカッションに参加したつもりで一緒に考えてみてください。

今回紹介した講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第7回 社会的感性の造形:”自己と他者”という問題をめぐって 村本 由紀子

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/04/15

突然ですが、あなたが年老いて、死に直面しているという状況を考えてみてください。

身体を動かすこともままならず、人の助けを借りないと生きていくことができない。それでいて、何か他の人の役に立つこともできない。

これから回復する見込みもない場合、あなたはそれでも希望を持って生き続けていくことができますか?それとも、死んだ方がマシかもしれないというような迷いが生まれるでしょうか?

これはもしもの状況として提示していますが、「もし宝くじに当たったら」のような仮定とは異なり、誰しもに高い確率で訪れうる状況です。つまりほとんどの人が、未来がない状態で無力なまま死を待つことになるのです。

これを不安に感じる人や、どうなるのか想像もつかないという人に、どうすれば死に直面した状態で希望を持って生きられるのか考える講義動画を紹介します。

自分の人生の物語りを書き換える

今回講師を務められるのは、臨床倫理学、臨床死生学が専門の哲学者、清水哲郎先生です

清水先生は、死に直面したときに必要なのは、厳しい状況を切り抜けて新しい可能性を見出す力だと言います。

例えば、オリンピック出場を目指していた陸上選手に骨肉腫が見つかった場合、最初は人生の生きがいを失って希死観念に囚われますが、次第に他の可能性(パラリンピック出場など)を探すようになります。

死に関わる厳しい状況では、自分の人生の物語りを書き換える必要があるのです。

UTokyo Online Education 死に直面しつつ生きる Copyright 2009, 清水 哲郎

清水先生は、実際に死に直面したときのために、厳しい状況を切り抜けて新しい可能性を見出す力が活性化しやすいようにしておくべきだと言います。

前へ向かう自分自身を生きがいに

それでは、冒頭でも述べた多くの人に訪れる厳しい状況、先行きが短く、他の人の助けを借りてしか生きられないような状況で、私たちはどのような生きがいを持てばいいでしょうか?

ひとつのあり方として、「治る望みを捨てない」というのが考えられますが、これは挫折する可能性が高いと言います。先延ばしにしたところで、私たちには結局死が訪れるからです。

清水先生が提案するのは、「現在の私の前に向かう姿勢に《希望》をみる」ことです。

UTokyo Online Education 死に直面しつつ生きる Copyright 2009, 清水 哲郎

将来への希望が持てない状況では、現在の自分のあり方に価値を見出すしかありません。そこで求められるのは、現在の生を「進行形」で捉えることです。

これまで、私たちは生を生きてきて、それらは全て生き終わった「完了形」の生です。しかし、今現在の生までもを完了形としてみる必要はありません。私たちは、死に直面してもなお、生まれたときからと何も変わらずに、前へ向かって進行形の生を生きているのです。清水先生は、その前へ向かう姿勢にこそ希望があると言います。

(先生は「進行形」の生を「微分」のような生だと表現しています)

できるほうが良いけど、できなくても良い

将来、私たちが死に直面したときには、おそらくできることがどんどん減っていきます。

そのときに、「役に立たなくなったら価値がない」というような考えでいたら、前を向いて生きることができなくなるでしょう。

清水先生は、「できるほうが良いけど、できなくても良い」という考えが重要だと言います。何もできなくても肯定され、そこに存在することができる人々の輪があることで、人は尊厳を持って最期まで生きることができるのです。

どんな人にも、死は訪れます。死を目前にして慌てる前に、ぜひこの講義動画をみて、どう生きるべきか考えてみてください。

今回紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)第3回 死に直面しつつ生きる 清水 哲郎

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/06

あなたが高齢者になった時、どのような人生を送っていたいですか?

人生100年時代と言われるようになり、老後の人生に夢を描いている人もいるのではないでしょうか。

今回は、ジェントロジーという、高齢者や高齢社会全般に関わる諸課題を研究対象とする学際的学問分野について取り扱う講義動画を紹介します。
ただ歳をとるだけではない「サクセルフル・エイジング(Successful Aging)」という考え方について深掘りしたり、それに関連する学際的なプロジェクト内容、その中で心理学がはたす役割について紹介しています。

サクセスフル・エイジングとは一体どんな考え方なのでしょうか?

従来、老年学というのは寿命を長くすることに主眼が置かれていました。
それが、近年はQOL(Quolity of Life:生活の質)の追求に焦点がシフトしてきています。
その転換のきっかけになったのは、サクセスフル・エイジング(Successful Aging)、すなわちうまく歳をとるという考え方だと秋山先生は説明しています。

この概念は1987年にRoweとKahnによって発表されました。彼らによると、以下の3つが揃うと「サクセスフル・エイジング」になるとされています。
  1. 病気や障害がないこと
  2. 高い身体・認知機能を維持していること
  3. 人生への積極的関与をしていること(他者と積極的に関わり社会に貢献していること)
まとめると、「自立して生産的であること」が鍵になるのです。

UTokyo Online Education 心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)Copyright 2008, 秋山 弘子

しかし、寿命が伸びて続けている現在に、亡くなる直前まで「自立して生産的である」というのは現実的と言えないのではないかと秋山先生は指摘しています。

UTokyo Online Education 心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)Copyright 2008, 秋山 弘子

従来型のサクセスフル・エイジングの問題点を踏まえた上で、秋山先生は新時代のサクセスフル・エイジングとして、「住み慣れた地域で自分らしく生きる」ことを提唱します。
そして、それが実現できるような社会システム構築に向けて、医学や看護学、経済学、社会学、工学など多様な学問分野との連携プロジェクトを行っています。

UTokyo Online Education 心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)Copyright 2008, 秋山 弘子

その中でも先生の専門である心理学は、高齢者の引きこもりやうつ、犯罪などといった社会問題の解決に有効だと言われています。しかし、それらの社会問題を取り扱った心理学のデータの多くは、欧米の若い男性を被験者として集められており、高齢者を対象とした研究はまだ不十分です。

高齢者を対象とした一例として、知能に関する研究が紹介されています。
加齢に伴う知能の変化と聞くと、多くの人が中年をピークに衰退していくイメージを持っているのではないでしょうか。
ところが、必ずしもそうとは言えないことが実際のデータからわかってきました。
そもそも知能はいくつかの種類に分けることができ、それぞれ発達(衰退)の仕方も様々で、トレーニングにより復活するものもあります。中には、中年期を超えても加齢が進むにつれて、むしろ伸びていく知能もあるのです。こうしたデータを用いることで、新たな雇用の形が検討されることが期待されます。

 そして最後に、先生が20年に渡って6000人を調査した研究も紹介されています。15年後の健康度と強く関連する要因、また男女別の要因の違いなど、気になった方はぜひ動画で確認してみてください。

今回紹介した講義:心に挑む-心理学との出会い、心理学の魅力(学術俯瞰講義)第6回 高齢社会と心理学 秋山 弘子先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/03/30

みなさん、外国の大学に所属する先生の講義を受けたことはありますか?

普通に大学に通っていると、なかなかそんな機会はないのではないでしょうか。

そんなあなたのために、今回は、中国と韓国の大学に在籍されている先生の講義動画を2つまとめてご紹介します!

それぞれの国の思想家や事件を例に挙げながら、政治と思想の「悪」について語ってくださいました。(日本語で話してくださっているので、中国語、韓国朝鮮語が分からない方でも大丈夫ですよ!)

30年後の世界へ―学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)

東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, 以下EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。

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EAAでは「30年後の世界へ——学問とその“悪”について」と題して、東京大学内外の教員によるオムニバス講義(学術フロンティア講義)を開講しました。

昨年に引き続き、この授業で射程に入れるのは、30年後の世界についてです。2020年から始まった新型コロナウィルス感染症は、世界のありようを大きく変えました。

そのような未知の状況のなかで、これまで一般的には善きものとされている学問が、時として「悪」に加担してしまっているのではないか、さらに言えば、学問そのものが「悪」なのではないか、という問いを本講義では立てます。

その観点に立ち、哲学、文学、歴史学、社会学、生物学など様々な分野の教員が講義をおこなっています。さらに、東京大学内だけでなく、延世大学、香港城市大学など、学外の講師による講義もおこないました。

新型コロナウィルス感染症や、国内の原子力発電所の問題、ポスト・トゥルースなど、今を生きる私たちが直面している身近な問題を取り扱っているので、興味を持って視聴することができるでしょう。ぜひ、ラジオ感覚でリラックスしながら受講してみてください。

清末の思想家「章炳麟」の憂鬱が、100年後の私たちに教えてくれること

まずは香港城市大学に在籍しておられる林少陽先生の講義を紹介します。

みなさんは「章炳麟」という清末の思想家を知っていますか?

日本ではあまり知られていませんが、辛亥革命を思想面で支えたとして、孫文らとともに「革命三尊」に数えられる重要な思想家の1人です。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 林 少陽

章炳麟は、帝国主義が覇権を握る20世紀初頭において、西洋を中心として広まっていた進歩主義の考え方に対し、独自の仕方で対抗しました。

林少陽先生が、章炳麟の思想を分かりやすく、それでいて丁寧に辿りながら、30年後の未来について考えるヒントを提示してくださる講義になっています。

「善」も「悪」も進化する

章炳麟が批判した「進化論」は、18〜19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルに始まり、『種の起源』でよく知られたダーウィンとイギリスの社会学者スペンサーが、それぞれ生物現象と社会現象に応用した考え方です。

科学技術の発展などから、私たちもついつい、社会が「進化」しているというような感覚を抱いてしまうことがありますが、章炳麟は、私たちの社会の変化は楽観的に「進化」と呼べるようなものではないと主張します。

例えば、もし道徳について「善」が進化するのであれば「悪」も同じように進化するし、生計について「楽」が進化するのであれば「苦」も同じように進化するというのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 林 少陽

章炳麟に従えば、進化論が依拠する「目的論」的な考え方が想定する「完全美・純粋善の領域への到達」はあり得ないということになります。

国家は存在しない?

また章炳麟の重要な考えの1つに、国家の存在の否定があります。

章炳麟の主張することには、本当は実在しない国家が求められ、実際にあるかのように振る舞っているのは、外側の勢力、つまり外患から身を守る必要があるからなのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 林 少陽

このような事情から、章炳麟は、愛国心を持って良いのは弱国の民だけであって、強国の民は愛国心を持つべきではないといいます。なぜなら、強国の愛国心は他国の蹂躙にしか繋がらないからです。

このような章炳麟の思想は、西洋の思想に対抗しながら、清を革命へと導いていきました。

「章炳麟の憂鬱な予感」が現実となった現在を生きるために

時代的な背景が異なる章炳麟の考え方をそのまま現代の諸問題へと結びつけることはできませんが、その思想が実感を持って理解できることもあります。

例えば、グローバルな資本主義の「進化」によって引き起こされた環境破壊は、私たちがこれまで直面してこなかった新たな「苦」をもたらしました。

このような「進化」の功罪について考えるためにも、ぜひ、「章炳麟の憂鬱な予感」がどのようなものであるかを、実際に動画で確認してみてください。

民主主義が内包する「悪」について

続いてはソウルの延世大学に在籍しておられる金杭先生による講義です。

いきなりですが「民主主義」について、皆さんはどんな印象を持っていますか?

私たち市民が権利を持ちうる政治形態として、好意的に捉えている人が多いのではないかと思います。

でも、実は、その民主主義が、避けることのできない「悪」を内包しているとしたら?

金杭先生と一緒に、韓国における実際の例をもとにしながら、民主主義の「悪」について考える講義です。

ホームレスは「市民」じゃない?

民主主義がもつ「悪」とは何か、それは「異質なものを排除する」ことです。

金先生は、その側面が露呈した具体例として、1991年に韓国で起こった民主化運動を挙げます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 金 杭

民主化運動では、学生を中心とした運動組織「国民対策会議」が民主化を求めて権力に立ち向かいました。その運動にはホームレスも参加していましたが、彼らが過激行為を繰り返したことで、運動は警察当局から取り締まりを受けることになります。

そこで対策会議は、「一部の過激集団は対策会議とは無関係である」という声明を出し、ホームレスを排除しようとしました。

対策会議は「民主化」を謳っていたにもかかわらず、「善良な市民」である自分たちとホームレスを区分し、彼らをその外側に置いたのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 金 杭

民主主義は「市民」に主権を与える制度ですが、その「市民」の外縁を決めることによって、自然と「異質なもの」が排除されることを示す事例です。

私たちは、嫌悪と苦痛を与えるものが完全になくなった「滅菌空間」を求めてしまうがゆえに、「人類の敵、抹殺してもかまわない、するべき、非人間」を含めない「市民」による民主主義を想定してしまうのです。

国家間の問題の原因は「民主主義」にあるのかもしれない

これまで民主主義は、ホームレスに限らず、「女性」「難民」などさまざまな「異質なもの」を排除してきました。(そして今も排除し続けています)

少なくとも、国家単位で民主主義が成立している以上、外国の人々はそこから排除される「異質なもの」であり続けます。

金先生は、緊張した現在の日韓関係における諸問題を解決するための観点として、「異質なものを排除する」民主主義の像を提示されました。

なぜ国家間の問題は絶えないのか、もしかしたらその鍵は「民主主義」にあるのかもしれません。

この動画を観て、ぜひ確かめてみてください。

今回紹介した講義:
30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第10回 清末中国のある思想家の憂鬱 ‐ 章炳麟の「進化」への回顧と、そして将来への展望 林 少陽先生
30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第11回 民主主義という悪の閾 ‐ 他者なき民主主義とそのディレンマ 金 杭先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/03/24

今年も、桜の季節がやってきました。地域によっては、すでに一面の桜景色が見られる場所もあるかもしれません。

「一面の桜景色」
この言葉は、日本の春の景色を表す言葉として、ごく日常的に使われます。……しかし「日本の春といえば、一面の桜景色」この常識はホントでしょうか?

社会学は、このように常識とされていることをうまく手放す学問である、と佐藤先生は言います。皆さんも、桜景色を通して常識のうまい手放し方を学んでみましょう!

(佐藤先生のお話は軽快でわかりやすいので、高校生の皆さんなどにもオススメです!)

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

早速ですが、皆さん、日本の桜景色を思い浮かべてみてください。

皆さんが頭に浮かべた桜の多くがソメイヨシノではないかと思います。というのも、現在の日本の桜は7〜8割がソメイヨシノなのです。ソメイヨシノはたくさんの花を一斉に咲かせ、冒頭の「一面の桜景色」を創出します。

このように、現在の日本の桜景色を象徴するソメイヨシノですが、実はそれらが戦後になって接ぎ木で殖やされたものであることは知っていましたか?
「ソメイヨシノによる一面の桜景色」は、案外最近になって人工的に作られたものなのです。

ということで、「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」という常識はウソでした!

と、巷のまとめサイトなどでは締められてしまうかもしれません。

実際に、以上の事実を以て「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」という常識が間違いであると指摘することは、多くの人がしてきたことでした。

しかし、佐藤先生は、単純に常識を否定するのではなく、「常識をうまく手放す」ことによって一歩踏み込んだ考察を行います。

「常識をうまく手放す」とは、常識から半分離れること

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

常識から完全に離れてしまえば「常識の否定」ですが、半分離れるとは?それは「常識の否定」すらも否定することです。

「否定の否定は肯定では?」それも一理ある考え方です。しかし、それでは退屈だと佐藤先生は言います。

「常識の否定」の否定。それは、常識は正しい部分もあるし、そうでない部分もあると考えることです。

これを踏まえて、桜の例に戻りましょう。
ここでの常識は「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」でした。この常識から半分離れた佐藤先生は、日本には複数の桜の春があるという仮説を立てます。そして、江戸時代の浮世絵である安藤広重の『江戸名所百景』に行き着くのです。

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

上の2枚の絵画は、それぞれ春の桜を描いたものです。

左の絵画に見られるように、江戸時代には「桜=紅と緑」や「桜=白と緑と茶」という色彩感覚がありました。そのような色彩を持つのはヤマザクラなど昔から日本に咲く桜であり、江戸時代には「日本の桜景色=ソメイヨシノによる一面の桜景色」という常識はなかったと言えます。

一方で、右の絵画のように江戸時代においても「一面の桜景色」は描かれていました。つまり、戦後になってソメイヨシノの植栽とともに人工的に創出されたと思われた「日本の桜景色=一面の桜景色」という常識は、江戸時代にも存在していたのです。裏を返せば、そのような日本人の心に常識として根ざしていた景色を、後からソメイヨシノが実現したと言えます。だからこそ、ソメイヨシノは人の手によって大量に植栽され、日本の桜の大部分を占めるようになったとも考えられるかもしれません。

UTokyo Online Education 社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)Copyright 2010, 佐藤 俊樹

いかがでしたでしょうか?

「常識の否定の否定=肯定」
これは、誰にでもできることですが、堂々巡りで進歩がありません。「常識をうまく手放す」社会学的な見方を身につけることで、世の中を一歩踏み込んで考えられるのではないでしょうか。

今春、お花見に行く前に、ぜひこの講義動画を視聴してみてください。桜がいつもと違って見えてくるかもしれません。

今回紹介した講義:社会学ワンダーランド(学術俯瞰講義)第3回桜見る人、人見る桜 ー神は細部に宿るのです 佐藤俊樹

<文/安達千織(東京大学オンライン教育支援サポーター)