だいふくちゃん通信

2022/06/16

スマートフォンやPCなどのデジタル機器は私たちの生活のあり方を大きく変えました。

もはや不可逆的なまでに生活の本質が変わってしまった。そんな見方をする方もいらっしゃるかもしれません。

ではデジタル技術の発達は学問という営みのあり方をどのように変えるのでしょうか?

今回は、記号論・メディア論の専門家である石田英敬先生による、精神分析の第一人者・フロイトの思想に立ち返ることでデジタル時代の学問の姿について講義をご紹介します。

フロイトの「心の装置」論と「真の不思議のメモ帳」

フロイトが活躍した時期は、書物の時代から写真やレコードなどのアナログメディアの時代への移行期にありました。

石田先生が「アナログ革命」と呼ぶこの時代性を背景として、フロイトは人間の心をモデル化しました。
これが「心の装置」論と呼ばれる精神分析の中心理論です。

「心の装置」論によれば、感覚器官に入力された刺激は、カメラのレンズの重なりが次々とショットを撮るのと同じように経験の「痕跡」を残しながら「前意識」に到達し、そこで再び知覚(想起)することが可能な経験とそうでない経験とに分類されます。

フロイトは、こうしてモデル化した心の構造を、書いては消せるおもちゃの「不思議メモ帳」になぞらえて説明しました。しかし一点、経験を「再生」する能力に欠けている点が「心の装置」と異なると言いました。
そして再生能力を持つ「不思議のメモ帳」こそ、「真の不思議のメモ帳」と呼べると述べました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 石田英敬

そしてついに、スマートフォンやタブレット端末として「真の不思議のメモ帳」は実現しました。既に「真の不思議のメモ帳」は日常生活や学問の中で欠かせない補助具になっています。

いまや私たちの経験は、「心の装置」と同時にコンピュータやサーバーのメモリーに送り込まれ、それぞれの記憶の層から呼び出されたり消去されたりするようになっているといえるでしょう。

世界をつなぐ「普遍図書館」計画

石田先生は、デジタルメディアや世界的な情報ネットワークが普及する現代社会の様相を「デジタル革命」と呼んでいます。

デジタル革命を代表する2大システムが、WWW(World Wide Web)とGoogleです。この2つを通じて、世界中の情報はネットワークを構成して互いに参照しあうようになり、私たちはそれらを自由に手に取って閲覧できるようになりました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 石田英敬

興味深いことに、この2大システムはどちらも図書館に関わる技術がもとになって開発されています。
WWWは科学研究の情報共有のために開発されたシステムであり、Googleはスタンフォード大学の新図書館計画のための技術がきっかけで設立された企業なのです。

そのような意味で、石田先生は情報ネットワークを形成する世界的な動きを「普遍図書館」計画と呼んでいます
そして、この「普遍図書館」計画は既に実現しつつあるといえるでしょう。

デジタル革命以後、「学問する人間」に居場所はあるか

「普遍図書館」に常に繋がれ、蓄積された情報や経験をいつでも呼び戻せる「真の不思議のメモ帳」。その存在によって学問における人間は不要になるのでしょうか?
この問いに対して石田先生は、人間の居場所は残り続けると答えます。

先生が重要だと話すのは、「普遍図書館」は知りたい情報の参照先を教えてくれるものの、その意味や中身までは教えてくれないという点です。
その参照先に書かれている情報を実際に読み解釈するのは、これまでもこれからも人間にしかできない行為なのです。

「普遍図書館」や「真の不思議のメモ帳」は既に学問をするうえで不可欠な存在だが、情報の意味付けを行い、思考し、判断を下す人間の営みは、デジタル革命以後の学問においても変わらず残り続ける
石田先生はそのように人間の居場所を示しています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2018 石田英敬

この記事ではほんの一部しか紹介しきれませんでしたが、講義ではフロイトやメディア論に関して、含蓄のある魅力的な説明がたくさんなされています。

これからの学問のあり方について、ぜひ石田先生と一緒に考えてみませんか?

今回ご紹介した講義:デジタル・ヒューマニティーズ ― 変貌する学問の地平 ― (学術俯瞰講義)  第11回 フロイトへの回帰:デジタル・ヒューマニティーズと無意識 石田英敬先生

<文/小林 裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/06/09

昨年末、首相官邸ホームページに「国民の皆様へのメッセージ」という題の文章が掲載されました。(https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/discourse/20211229message.html
「こんにちは。内閣総理大臣の岸田文雄です。」という挨拶から始まるメッセージの中には、「国民」という言葉が多く登場しています。

このようなメッセージが発信される際には、語り手と受け手との間に「国民」という概念が共有されていることが前提となっていると言えます。
しかし、この「国民」という概念は、一般的には学校の授業で教えられるようなものではありません。
私たちは本当に「国民」という概念を共有しているのでしょうか?

そもそも、日本において、「国民」という概念が人々に広がったのは、幕末維新を経てからでした。
そしてその後も、時代とともにその概念を変化させてきました。

このような日本における「国民」の変遷について、昨年度退職された国際政治学の権威、藤原帰一先生と共に学んでいきましょう。

「国民」が使われない時代

先述の通り、「国民」という概念は徳川政権以前から存在してはいましたが、人々に広がったのは幕末維新を経てからでした。

その後「国民」という概念に大きな変化を及ぼしたのは、第二次世界大戦です。

「国民」は、「国民」でない敵国や共産主義者達と戦い、排除しなければならない。

このような形で、人々に「国民意識」が強制されたのです。

しかし、第二次世界大戦の結果は敗北。戦時中より厳しい生活を強いられるようになった人々は、国家に裏切られたように感じ、「国民」としてのまとまりを失っていきました。

そして、「国民意識」が強制された第二次世界大戦の経験への反発から、日本において「国民」という言葉は使われにくくなっていき、代わりに「市民」や「人民」という言葉が使われるようになっていったのです。

「国民」の復活

では、その後「国民」という呼び方はどのようにして復活してきたのでしょうか。

そのきっかけの一つが、司馬遼太郎の歴史小説でした。

司馬遼太郎は、「国民」という言葉が使われにくいような時代に、徳川政権末期から維新政権初期にかけて、人々が新たな「国民」を作っていく物語を描いたのです。

「国民」を描いたからといって、司馬遼太郎が第二次世界大戦を礼賛していたということではありません。実際これは、第二次世界大戦中の「国民」概念の復活では全くありませんでした。むしろ、その前の近代日本の建設に目を向けて、暗に昭和10年代が逸脱した時代に過ぎなかったと伝えたのです。

司馬遼太郎は、このような形で、人々に、戦時下の日本を客観的に見られるような視点を与えました。
司馬遼太郎の歴史小説は、戦争を経て「私たちはどこから来たのか」という問いに答えを見出しづらくなっていた人々に、受け入れやすい形で答えてくれる物語を提供したために、多くの人に受け入れられたのです。

このように、私たちが普段当たり前に使っている「国民」という言葉は、時代によって変化を遂げてきた、曖昧で幅のある言葉です。
「国民」という言葉が使われる際、その言葉が誰のことを指しているのか考えてみても良いのかもしれません。

OCWでは、今回紹介した講義の他にも、多くの藤原帰一先生の講義を公開しています。ぜひご視聴ください。

今回紹介した講義:現代日本を考える(学術俯瞰講義)第12回 外から現代日本を考える 藤原帰一先生

<文/安達千織(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/06/02

突然ですが、簡単な実験をご紹介します。

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

丸い物体に光があてられており、スクリーンに丸く黒い影を作っています。ものに光が当たると反対側に影ができる、というのは私たちの日常でも見られる身近な現象ですね。

では、クイズです。スクリーンを少し遠ざけたときに、映し出される影の形は次の4つのうちどのようになるでしょうか?

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

正解はCです!なんと、影の中心に光が差し込むという不思議な結果になるのです。実験そのものはシンプルですが、答えはわからないという方は多いのではないでしょうか?

光はわたしたちの身の回りにありふれていながら不思議な性質を持ち、さまざまな直感に反した現象を引き起こします。

例えば私たちの目が色として捉えているものは、光がどれくらい激しく振動しているかという情報そのものだったりします。知らず知らずのうちに、私たちは光に載せられた情報を受け取っているのですね。

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

このように、光と人間の間には切り離すことのできない強いつながりがあることは言うまでもないでしょう。

光の不思議な性質についての長い論争を経て科学は進歩し、現代の光科学は光のさまざまな性質を解明することに大きく成功、さらには制御することに一定の成果をあげています。これにより超高速通信・精密計測をはじめとしたさまざまな新技術が登場し、芸術分野においては表現の新しい可能性がもたらされることになりました。

東京大学でも、理学部・工学部を中心に光技術の最先端の研究が行われています。いまだに底知れない可能性を秘める光技術は、これからも私たちの生きる社会に革新をもたらし続けることでしょう。

皆さんも、光が私たちの社会にもたらす技術革命をより深く理解するために、光について詳しく知ってみませんか?

今回紹介する学術俯瞰講義「光の科学 – 未来を照らす究極の技術とアイデア」では、本学や企業等で最先端の研究を行う研究者によって非常にわかりやすく本質的な光についての講義が展開されました。先ほど出題したクイズも、こちらの講義動画で紹介されていたものです。

第1回の「光科学への扉」では、本学第30代総長を務められた五神真先生が教壇に立ち、簡単な実験を交えながら光科学の紹介を行っています。

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 五神 真

植物の葉っぱがなぜ緑色なのか、みなさんは知っていますか?その答えはこの第1回の講義で明かされることになります。この解説は実験を見るとより実感できるので、ぜひUTokyo OCWの動画でご覧ください!(第1回 48:54〜)

第2回の「光学と力学」では、井上慎先生が光の不思議な性質について詳しく解説されました。(第2回 16:10〜)

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

この講義では光の基本原理について解説されているのですが、実は、光には局所的な基本原理と大局的な基本原理があります。それぞれ見ていきましょう。

光の局所的な性質としては、媒介する物質によってその進行速度を変えるという性質があります。例えば、光は水やガラスの中を進行することができますが、水やガラスの中を進行する光は真空を進む時より少し遅くなります。この性質により、異なる物質の境界面に斜めに入り込んだ光が屈折することを導くことができます。屈折の具体的な角度は「スネルの法則」と呼ばれる法則から計算できます。

光の大局的な性質としては、スタートとゴールを決めるとその間で「光路長」と呼ばれる特別な距離(言い換えれば、光が感じる経過時間のようなもの)が最も短くなる道を選び進むことが知られています。これは「フェルマーの原理」と呼ばれます。みなさんは目的地まで移動するとき交通費や移動時間をなるべく抑えるためにナビを使用することは多いと思いますが、光は最もよいルートを自分で発見できるということですね。

専門的な学習をすると、フェルマーの原理からスネルの法則の数式をきちんと導くことができるようになります。これはつまり、大局的な基本原理から局所的な基本原理を導出することができるというものです。

この話に関連して講義内で紹介された面白いお話があるので、こちらの記事でも紹介しましょう。フェルマーの原理によれば、光はスタートとゴールを決めればその間で経過時間が最も短い道を選ぶと説明しました。では、こういう状況を考えてみましょう。

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

家がスタート、旗がゴールだとします。光をランナー(走者)、真空を砂浜、途中に入ってくる媒質を湖として例えます。ランナーはスタートからゴールまで最も早い道を通って向かうことを考えるのですが、残念ながら途中に湖があります。

ランナーは走ることも泳ぐこともできますが、泳ぐと走るよりも少し速度が落ちます。さて、どのように進めば最短の時間でゴールまで辿り着けるでしょうか?

まずは単純なセッティングとして、湖が横方向に無限に続く長方形だとしましょう。この場合は家と旗を結ぶ直線を進めば最も時間を節約できますね。

では、ランナーに少し意地悪をしてみましょう。最短経路のところだけ湖を縦長にして、湖に入ったら他の経路よりも時間がかかる状況を作ってみます。するとランナーはこの経路を嫌って、少し横の経路を通ります。

このようにしてずれた経路についても同じように湖を変形することで妨害して、最終的にどの経路を通っても同じだけ時間がかかる湖を作ります。すると、湖は楕円のような形になりますね。さて、ランナー・砂浜・湖の例えを光・真空・媒質に戻して考えてみると、実はこれこそが凸レンズだったのです。

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

凸レンズの形状ですが、このような背景があってこその膨らんだ形状だったのですね。凸レンズについては小学校の理科でも習うと思いますが、どうしてこのような膨らんだ形状をしているのかについて、疑問に思っていなかった方や、疑問に思っても考えることをやめた方は多いのではないでしょうか?

今回ご紹介している講義「光の科学」は、このほかにも驚きの新知識が盛りだくさんの講義です!

ほかにも、第2回では下図のような変わった形をしたレンズが存在することと、それがどうして必要なのかの説明がありました。メガネのレンズと全然違う形をしていてびっくりしませんか?この説明は光学に詳しい方も楽しめるポイントだと思います!(第2回 30:04〜)

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

ちなみに、冒頭で紹介した実験も第2回の講義で詳しく説明されます。なぜそのような現象が起きるのか、ぜひ本編で確かめてみてください!(第2回 54:34〜)

今回紹介した講義「光の科学−未来を照らす究極の技術とアイデア」は、光学や物理学に全く馴染みのない方でも気軽に聞けること、小難しい数式に頼りすぎないことが魅力です。それでいてノーベル賞の解説までカバーしており、内容について詳しく知っている人にもおすすめできる講義です。(第1回 1:16:12〜)

東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 井上 慎

今回は、学術俯瞰講義「光の科学 – 未来を照らす究極の技術とアイデア」の第1回と第2回を中心にご紹介しました。第3回以降も、内容が整理されたわかりやすい授業が展開されています。

第一線で活躍する本学の世界的研究者による講義が聞けるのはUTokyo OCWならではの魅力ですので、ぜひ本編をUTokyo OCWでご覧ください!

今回ご紹介した講義:光の科学−未来を照らす究極の技術とアイデア(学術俯瞰講義) 第1回 光科学への扉
五神 真先生

光の科学−未来を照らす究極の技術とアイデア(学術俯瞰講義) 第2回 光学と力学 井上 慎先生

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/05/25

20世紀最大の哲学者と称されることも多いハイデガー。

しかし、その思想は極めて難解だと言われており、ハイデガーの主著である『存在と時間』は、一筋縄では理解できません。

「ハイデガーが提示した哲学的問題に触れてみたい!でもいきなり本を読むのはハードルが高い!」

今回は、そんなあなたにピッタリな講義動画を紹介します。

ハイデガーは一体何を問題にしようとしていたのか?

人間と世界の関係とは?

他者とはどのようなあり方をした存在なのか?

一からハイデガーについて説明されているので、すでに知識のある方はもちろん、これから哲学に触れてみたいと思っている初学者の方にもおすすめの講義です。(ただし、簡単ではないので、チャレンジする気持ちで講義動画を視聴してください!)

「存在」について問うハイデガーの思想

 UTokyo Online Education 有限的な生の意味Copyright 2009, 熊野 純彦

今回講師を務めるのは、西洋を中心にさまざまな哲学者の思想を紐解いてきた、東大倫理学研究室の熊野純彦先生です。

講義ではまず、ハイデガーが何を問題にしようとしていたのかが説明されます。

熊野先生によれば、ハイデガーが提示したのは「世界の中にある生は、どのようなあり方をしているのか」という問いです。

これは、「私が存在しているというのはどういう事柄なのか」と言い換えることもできるといいます。

なかなかピンとこない問いかもしれません。

それはきっと、あなたにとって「存在」というものが当たり前すぎて、問いにすべきものだと認識できないからでしょう。

実際、私たちや他者、その他の事物は、確かに「存在」していて、そのことについてそれ以上問いを立てる必要もないように感じられます。

でも、改めて考えてみてください。

「存在」という言葉が何を意味しているのか、あなたは正確に理解できていると言えるでしょうか?

おそらく、「存在」は「ある」ことだ、というくらいにしか、説明できないのではないかと思います。

しかし、この「ある」こととは一体何なのでしょうか?ハイデガーが問題にしようとしたのは、その先のことなのです。

まだピンときていないかもしれません。言葉として理解はできても、何を問われているのかよくわからないと思います。

でも、気落ちしなくて大丈夫です。ハイデガーの問いを理解すること自体が、非常に難しいからです。

と言うよりも、この問いのかたちを正確に理解することができれば、ハイデガーを理解したとさえ言えます。

なぜなら、ハイデガーの功績は、この問いに答えを出したことではなく、この問いをはっきりとしたかたちで提示したことにあるからです。

「存在」という、自明で、一見それ以上説明しようがないと思われるものに目をつけ、哲学的に考察する筋道を立てたのが、ハイデガーなのです。

現存在としての人間は世界とどう関わっているのか

 UTokyo Online Education 有限的な生の意味Copyright 2009, 熊野 純彦

それでは、どのようにすれば「存在」について考察することができるのでしょうか?

ハイデガーはその第一歩として、「現存在」という新たな概念を作り出します。

熊野先生によれば、これは「その都度私の存在である、その存在」だと言います。

この定義だけをみても、おそらく全く理解できないでしょう。

しかし、熊野先生いわく、この「現存在」は「人間」のことを指していると考えて、ひとまず差し支えはないそうです。

ハイデガーはこの「現存在」という概念を軸として、つまり、人間がどのように存在しているのか考えることを通して、存在についての探究を進めていきます。

現存在である私たち人間は、世界のなかにいる存在です。そのことを指し示すため、ハイデガーは「世界内存在」という概念も持ち出します。

つまり、人間は現存在でありながら、世界内存在でもあるということです。

(どんどん新しい言葉が出てきて困惑しているかもしれません。熊野先生いわく、ハイデガーには新しい言葉を作り出したがる性質があるそうです。これからハイデガーを学びたい人にとっては、なかなか厄介な性質だと言えるでしょう。)

ただし、世界内存在とは言っても、私たち人間は、たとえばコップの中に水があるようなかたちで、この世界の中に存在しているわけではありません。

私たちと世界は、それぞれ独立してあるのではなく、私たちは「世界と切り離しがたく存在している」のです。

この切り離しがたさは、世界の事物が「道具的」に私たちの前に立ち現れていることによって説明できます。

たとえば、私たちはハンマーを単なる鉄の塊としてではなく、釘を打つための「道具」として見ます。もちろんその釘もまた「道具」です。

「道具」となるのは人工物ばかりではありません。太陽は、照り輝く恒星でありながら私たちに光を届けてくれるものでもあるし、川もまた、ただの水の集合体ではなく、水車を回したり、場合によっては洗濯に用いられるものとして存在します。

ハイデガーはこのように、世界と切り離しがたく存在する世界内存在としての視点から、存在に対する問いをかたち作っていくのです。

「他者」、「死」、そしてその先へ

 UTokyo Online Education 有限的な生の意味Copyright 2009, 熊野 純彦

客観的な科学のやり方によって事物を探究することに慣れている私たちにとって、ハイデガーの考え方は違和感を覚えるものかもしれません。

しかしある意味で、それは新鮮な考え方であるとも言えます。ハイデガーの思想を辿ることで、これまで当たり前だと思ってきたものごとを、新たな視点で捉え直すことができるようになってきます。

そして確かに、最初は全く糸口が掴めなかった「存在とは何か」という問いが、次第に概観できるようになってきます。

ハイデガーは独自の用語が多いこともあり、最初の理解には戸惑うことも多いです。

しかしその分、議論が深まっていくと、他では替えの効かない面白さを味わうことができます。

講義の後半では、「他者」という新たな存在者について考えることで、さらに発展した議論が展開されています。

他者について考え始めると、「他者に置き換えることのできない、私たちそれぞれに固有な生のあり方とは何か」という問いが新たに生まれます。

そしてこの問いは意外にも、「死」という概念に結びついているのです。

この記事では、ハイデガーの思想、そしてそれを辿る講義の魅力を十分にお伝えできていません。

でも、「ハイデガー、なんかすごそう」ということは、感じていただけたのではないでしょうか?(感じててほしい……!)

その「なんかすごそう」を「面白い」に変える第一歩として、ぜひ熊野先生の講義動画を視聴してみてください。

今回ご紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義) 第9回 有限的な生の意味 熊野 純彦先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/05/19

皆さん、音楽は好きですか?
音楽は私たちの生活の中にたくさん存在しています。
移動時間に音楽を聴いている人もいるでしょうし、友達とカラオケに行くのが好きな人もいるでしょう。

では、「音のない音楽」は存在すると思いますか?

そんなのないよ、と笑う人もいるかもしれませんが、音を出さない指揮者は「音楽家」ですし、差音や倍音と呼ばれる「聞こえない音」もありますよね。

一体音楽とは何なのか、だんだん自信がなくなってきましたね。

今回は皆さんに、音楽が歴史的にどう捉えられてきたのか、そして自然と音楽はどのような関係性にあるのか、そしてそれらが今日にどのような教訓をもたらすのかについて考える講義を紹介します。

Tokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

講師を務めてくださるのは、日本フィルハーモニー交響楽団などで指揮者を務められている山田和樹さん、東京フィルハーモニー交響楽団でコンサートマスターを務められている近藤薫さん、朝日新聞記者の吉田純子さん、東京大学先端科学技術研究センター教授の近藤高志先生です。

4人の先生方はそれぞれ異なる分野でご活躍されていますが、その共通点は「音楽が好き」ということです。

先生方の軽快なトークと共に、音楽の魅力の扉を開いてみましょう!

音楽って何だろう?

古代ローマの人々は、音楽を3つに分けて考えていました。
①ムジカ・ムンダーナ=世界の調和の音楽
②ムジカ・フマーナ=人間の調和の音楽
③ムジカ・インストゥルメンタリス=楽器を通して実際に鳴り響く音楽
です。

人々は、音楽とは聴くものではなく、自然や天体など自分が触れないものを人間として実感し、自分の生き方を探っていくものとして捉えていました。
彼らにとって、音楽とは、宇宙の調和の根本にあるものであり、人間の心身をつかさどる秩序でもありました。これらの音楽は耳で聞くことができませんが、身の回りに満ちていると考えられていたのです。

そして、一番下位にある概念として、楽器を通して実際に鳴り響く音楽があると考えていました。

つまり、古代ローマにおける音楽は、人間が演奏するものだけでなく、人間が理解することのできないより上位の自然界の調和の摂理として理解されていたのです。

音楽と自然は共通点が多い

古代ローマにおいて科学的な根拠があったわけではなかったと思いますが、驚くべきことに、実際に自然の法則と音楽は一致する部分が多いとされています。

例えば、虹の7色はドレミファソラシの7音に一致します。さらに、人間の目に見える可視光は大体1オクターブと一致します。

このように、自然と音楽は、不思議な共通点で結ばれているのです。
こうしたことのすべては、理屈では説明できません
なぜ音階がドレミファソラシなのか、そして我々がなぜそれを美しいと感じるのかは、サイエンスでは説明しきれないのです。

音楽とサイエンスの一致と分けすぎた弊害

Tokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

ところで、サイエンスとクラシック音楽が歴史上同じような道を辿ってきたことをご存じでしょうか。
二つの分野は、共に19世紀に大きく花開き、20世紀に分けることで成長を遂げた一方で、21世紀には分けすぎたことによる弊害も見られるようになっています

19世紀以前、サイエンスの分野では、物理学や科学、生物学といった学問はあまり区別されていませんでした。それが、19世紀になると、現代的なテクノロジーのベースになっている近代科学が登場しました。ダーウィンの進化論の提唱、メンデルの遺伝の法則の発見、メンデレーエフの元素周期表の発表などが相次ぎました。そして、20世紀に入り、サイエンスの分野では学問の分化が進んでいきました。特に、アインシュタインの相対性理論、量子力学が科学、工学、物理学などに多大な影響を与え、それぞれの分野は飛躍的な発展を遂げました。このように、学問分野が細分化された結果、各分野で多くの研究が行われた一方で、それぞれが肥大化し、固定化して既得権益になり、縄張り争いが起こるようになりました。

同じく19世紀以前、クラシック音楽の分野では、音律は決まっておらず、作曲家は1回限りの演奏のために曲を書き、それを王侯貴族が楽しむ時代でした。それが、19世紀に入ると、現在のクラシック音楽のスタイルが確立しました。そして、作品に作曲家の自我が入り始め、一般市民が音楽を楽しむ時代に突入しました。さらに、メトロノームが発明され、拍が一定になりました。20世紀には、平均律が確定し、音階が決まりました。また、録音が登場したことで、どこでも誰もが同じように演奏を聴いたり弾いたりできるようになりました。このように、情報が平均化していくとともに、効率化され、地域による音や弾き方の違いは次第に失われていきました。

人々は理解するために物事を細かく分け、それによって非常に成功しました。
しかしながら、分けすぎてしまったのです。そして分けている自覚も失ってしまいました。

その結果、いろいろな結びつきを見落としてしまったのです。

目に見えないものごとの価値

Tokyo Online Education 先端アートデザイン学 2021 山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

本来、世の中には目に見えないものがあふれています。
しかし、昨今の社会では、体系化・効率化が求められてきました。情報を介したコミュニケーションが増え、顔を合わせずにメールや資料共有をすることも多くあります。情報は世界中どこにいてもすぐに送ることができますが、その裏にある思いは送ることができません。情報の中に入れられないものが多いのです。そうした効率化の先に待っていたのは、人間性の喪失でした。

感性、思い、人間性、コミュニケーション…見えないものを通して、人と人とがやわらかく繋がっていくとき、それが文化になるのです。
そうした目に見えないもの、形にできないものを共有することが音楽の本質なのかもしれません。

まとめ

コロナ禍になり、音楽は「不要不急」だとして切り捨てられてしまいました。しかし、場所を共有して感覚的に共通項を探すこと、言語ではない対話をすることは、自然そのものであり、何かが生まれる源泉でもあるのではないでしょうか。

ぜひこの講義動画を視聴して、コミュニケーションを考えるきっかけにしてみてください。

今回紹介した講義:先端アートデザイン学 第11回ー近代科学とクラシック音楽~学際研究から酒宴まで、領域横断のサロン的展開ー山田 和樹、近藤 高志、近藤 薫、吉田 純子

<文/島本佳奈(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/05/13

皆さん、「不安症」について知っていますか?

不安は自然な生理反応であり、誰しもが感じるものです。

しかし、極度に不安を覚えることによって日常生活に支障をきたす場合、薬や精神療法によって治療が目指されることがあります。

また、それとは別に、「自閉スペクトラム症(ASD)」と呼ばれる発達障害があります。

ASDの人は、人と適切な距離感を持って交流するのが苦手で、強いこだわりがあることが多いと言われています。アスペルガー障害という名前で、耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

ASDにはいくつかの特徴がありますが、そのひとつは「度を超えた不安を感じること」です。

ASDと不安症はイコールで結びつけられるものではありませんが、ASDと不安症の併存は多いとされています。

ASDと不安症は、どちらも精神に関わる障害で、明確に症状を判断するのが難しい領域です。そのため、どのように捉えるべきか、そもそも症状として診断を下すべきかどうか、今もなお、調査と議論が続いています。

今回は皆さんに、不安症とASDの関係性と、その捉え方について考える講義を紹介します。

対人関係に不安を感じる「社交不安症(SAD)」

講師を務めてくださるのは、東京大学相談支援研究開発センター所属の渡辺慶一郎先生です。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

発達障害をテーマに研究を行うとともに、学生生活の支援も行っています。

「不安症」と言いますが、そもそも不安には厳密な定義がなく、生活に支障が出るレベルの不安もまた、単一に捉えられるものではありません。

ただ、その中のひとつとして便宜上、「社交不安症(SAD)」というカテゴリーがあります。

これは「他人に悪い評価を受けることや人目を浴びる行動への不安により強い苦痛を感じたり、身体症状が現れ、次第にそうした場面を避けるようになり、日常生活に支障をきたすもの」だと考えられています。

その治療方法は、抗不安剤などを処方する「薬物療法」と人と交流することで症状の緩和を目指す「精神療法」に大きく分けられると言います。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

人と交流する場面で緊張を感じたりすることは誰でもあると思いますが、その度合いが強すぎると、SADとして認められるということです。

不安の症状が出るまでには色々な経路がある

一方で、ASDと不安にはどのような関係があるのでしょうか?

ASDの人は、いわゆる「パニック」や「場面緘黙」など、不安が重要な要素と考えられる症状が出やすいと言われています。

ASDの人のうち、42%〜56%の人が不安症を併存しているというデータもあり、そのうち最も多いのがSAD(13%〜29%)です。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

ただし、ASDの人が不安を感じるメカニズムについては、今なお、はっきりした答えは出ていません。

その中で渡辺先生は、あくまで仮説として、ASDの不安モデル案を提示しています。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 渡辺慶一郎

渡辺先生が提示された不安モデル案が、上記図です。

不安症状は突然現れるわけではなく、ASDに顕著ないくつかの思考パターンの結果として表出していることが分かります。

渡辺先生は、「不安の症状が出るまでには色々な経路がある」と言います。

不安症の治療法として「薬物療法」と「精神療法」を挙げましたが、原因が多岐に渡るのであれば、そのアプローチもさまざまにあるはずです。

どんな不安もなくさなければいけないというのは間違い

同じ症状のように見えても原因が異なる場合があるなど、ASDやSADの治療は一筋縄ではいきません。

そしてまた冒頭で述べたように、発達障害を医学的な「障害」とすることへの批判もあります。たとえば、トランスジェンダーについて、元々は「性同一性障害」と呼ばれていましたが、今は「性別違和」などと表記されることが増えています。

渡辺先生は、「どんな不安もなくさなければいけないというのは間違い」だと言います。もちろん、それが過剰であれば治療の対象になりますが、不安はあるものだと受け入れたうえで、症状に囚われずに自分のやるべきことをやるのも大事だということです。

しかし一方で、発達障害に対する支援は、未だ十分だとは言えません。渡辺先生はまた、「体制が整っていない状態で、安易に発達障害を『個性』だと捉えるのは危険」だとも言います。症状として扱うことを避けることは、自己責任論に陥るリスクと重ね合わせです。

精神的な症状は多くの人の障害になっているにもかかわらず、医学的に明確な定義を与えることが難しいためか、未だに間違った理解が広がっています。

ぜひこの講義動画を視聴して、正しい知識のもと、不安や発達障害について考えるきっかけにしてみてください。

今回紹介した講義:不安の時代(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2020年度講義)第4回 精神科医からみる不安 渡辺 慶一郎先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/05/02

突然ですがみなさん、このグラフを見てみてください。

これは、1950年から2060年までの日本の人口変動を予測したグラフです。

これを見ると、2060年の日本の人口は、なんと8674万人まで減少しているそう……現在(2022年2月)の人口が1億2500万人程度であることを考えると、40年で4000万人近く減ることになります。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

こんなグラフを見ていると、いったい日本はどうなってしまうんだろうと、ついつい暗い気持ちになってしまいますよね。

しかし、人口が減った日本の未来は、本当に悲観すべきものなんでしょうか?

もしかしたら、この現状をただ嘆くよりも、先に考えるべきことがあるかもしれません。

AI技術の発達によってモデルを使って未来予測ができるようになった現在、私たちは将来を見据えるために何ができるのでしょうか?

インフラ・環境コンサルタントとして活躍し、現在は哲学・倫理学がご専門の佐藤麻貴先生と一緒に、未来について考える講義を紹介します。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

未来予測は、将来像を描くための指針に過ぎない

そもそも、AIは未来をどのように予測しているのでしょうか?

現在のAIは、ディープラーニングによってビッグデータを統計処理することによって、未来についての予測を立てています。

従来の機械学習では、出力までの演算を人間がアルゴリズムで直接指示していましたが、ディープラーニングでは、学習データの蓄積による統計処理が行われた結果として、データが出力されています。

つまり、どういった処理によって未来が予測されているのか、人間側には分からなくなっているということです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

佐藤先生は、そこで提示された未来予測は、将来像を描くための指針に過ぎないと言います。

ディープラーニングによって提示された未来予測によって未来を悲観したり、また喜んだりするのではなく、それを踏まえて将来を見据え、今から何を準備しておくか考えることが大事だということです。

たとえば、冒頭で人口の未来予測を紹介しましたが、もっと横軸を長くとってみると、下のようなグラフになります。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

こうして長いスパンで未来を考えてみると、2050年の人口は、活力を持って日本が大きな改革を成し遂げた明治維新や終戦期の人口よりも多くなるだろうということが分かります。

佐藤先生は、人口が少ないことが問題であるという見方に疑問を呈し、私たちに未来社会をどうしたいのか、学問を通して考えるべきだと呼びかけます。

学問を生かすも殺すも自分次第

学問の発達によって、私たちは過去を知り、未来を予測できるようになりました。

しかしそこで提示されているのは単なる情報でしかないと思います。

むしろ重要なのは、その情報をどう活用して、私たちの未来に向き合っていくべきなのではないでしょうか?

佐藤先生は、学問にはそれ自体で価値があるということを認めたうえで、「多角的視野を得て、不確実性の高い未来を切り開くためのツール」として学問を捉えます

学問が生きるかどうかは、情報の量と、その情報の解釈にかかっているのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義 2021 佐藤 麻貴

とりわけ、情報量が莫大になっていく情報化社会においては、この「解釈」こそが重要になってくると思います。

私たちは、どのような未来を生きるべきなのか。そのために学問はどのような役割を果たすことができるのか。ぜひこの講義動画を視聴して、これからの学問への向き合い方について考えてみてください。

今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について(学術フロンティア講義)第2回 未来社会2050 ― 学問を問う佐藤 麻貴

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/27

今、東京大学で歴史を専門に学び、研究できる学科は、「日本史学科」、「東洋史学科」、「西洋史学科」の3つです。そのほかの多くの大学でも、歴史学はこの3つの区分に分けられています。

しかし、高校で教えられる歴史は、「日本史」と「世界史」の2つです。東洋と西洋では分けられていません。

自国の歴史を学ぶ分野として日本史が独立して存在するのは理解できますが、わざわざ東洋と西洋を区分するのにそれほど合理的な理由はないように思います。

一体どうして、「東洋」と「西洋」の歴史が区別されているのでしょうか?

私たちの「歴史」に対するイメージを形作っている「近代歴史学」の流れを辿りながら、歴史のあり方の再考を促す講義動画を紹介します。

停滞している非ヨーロッパには歴史がないという近代歴史学の考え

今回講師を務めるのは、歴史学者の羽田正先生。世界史の再構築を研究テーマに掲げておられる先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

羽田先生によると、私たちが現在「歴史」として理解している近代歴史学の起源は19世紀の北西ヨーロッパ(ドイツ・フランスあたり)にあります。

もちろん、それ以前にも歴史と呼べるようなものはありましたが(ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』などは有名ですね)、近代歴史学は以下の点をもってそれ以前の歴史と区別されます。

それは例えば、「啓蒙思想と理性の重視、科学的思考法」「文献学(文献批判の方法)の発展」などです。

『聖書』のような文献を絶対視するのではなく、それをひとつの歴史史料とみなし、相対比較して批判的に検討しながら「事実として」歴史を構築していくやり方は、まさしく今のアカデミアの歴史研究につながっています。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

一方、近代歴史学の背景には、「進歩する人類社会という考え方」もあります。

19世紀の北西ヨーロッパではキリスト教の相対化と啓蒙思想の拡大が進んでおり、また、(どこまで実現できていたかは別として)自由と民主主義を備えた国家づくりが行われていました。そこでは「人類の社会は進歩する」という価値観が広く共有されていたといえます。

社会が進歩するからこそ、それを歴史としてまとめることに価値が生まれるわけです。

近代歴史学の創始者と言われるランケは『世界史概観』という歴史書をまとめましたが、「世界史」の名を冠した書物にもかかわらず、そこで扱われている対象はほとんどがドイツ、フランス、イギリスでした。

羽田先生によると、初期の近代歴史学は、「宗教が世界を支配して自由のない非ヨーロッパは停滞しているから歴史がない」と考えていたといいます。

そのため、東洋の歴史についての研究は、「歴史学」の枠組みでなく、「東洋学」の枠組みでなされることになります。(なんとこの区分は今でも続いているそうです)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

「西洋史」と「東洋史」の区分って今でも必要?

日本は江戸期まで、中国を参考にした歴史記述を行っていましたが、明治期に開国してからは、この近代歴史学を採用することになります。

国令によって設置された帝国大学(現在の東京大学)には、1887年に史学科ができました。お雇い外国人のリースがそこで教えたのは、近代歴史学における歴史、すなわちヨーロッパの歴史でした。

1889年に日本の歴史を教える学科ができてからしばらくは、日本の歴史とヨーロッパの歴史の2本立てで歴史学が進んでいくことになります。

その後、1907年に京都大学に、1910年に東京大学に、それぞれ東洋史学科が誕生しました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 Copyright 2009, 羽田正

この経緯による区分が現在にもそのまま引き継がれ、現在の東京大学の歴史研究は(そして日本の歴史研究の多くは)、「日本史」、「東洋史」、「西洋史」に分かれて行われています

この区分は以上のような歴史的要因によって生じたもので、それ自体になんらかの必然性があるわけではないはずです。(具体的に、近代歴史学を採用したのは西洋に対抗しようとする当時の国のためになると考えられたからで、東洋史学科が誕生したのは日露戦争の結果、大陸へ関心が向いたからです)

羽田先生は、果たして現在も「西洋史」、「東洋史」という区分が必要なのか、私たちに問いかけます。

ここまで読んだみなさんは、どう思うでしょうか?今でも私たちは近代歴史学の強い影響を受けています。

羽田先生は、講義中で近代歴史学を克服しようとする動きについても紹介されています。ぜひ講義動画を視聴して、中学校や高校、大学で私たちに染み付いた歴史の枠組みを捉え直してみてください。

今回紹介した講義:歴史とは何か(学術俯瞰講義)第2回 近代歴史学の歴史 羽田 正先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>

2022/04/20

私たちはいつから自己と他者の境界を認識するようになるのでしょうか?
実は生まれたての赤ちゃんは、どこまでが自分なのかあまりよくわかっていません。

今回ご紹介する講義は、「他者」という存在を媒介/メディアとして、

 1. 他者としての自己の芽生え
 2. 他者の眼に映る自己
 3. ”合わせ鏡”としての自己と他者

という3本の柱でお話を展開しています。

1. 他者としての自己の芽生え 

まず他者と自己の関係の一つとして、「他者としての自己の芽生え」があります。
つまり、他者を知ることで初めて自己を知ることができるということです。
例えば、子どもやチンパンジーは鏡に映っている自分を見て、他者から見た自分を意識することができます。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

その経験を通してはじめて自己と他者を区別することができ、自己を認識できるといいます。
また、新生児がコミュニケーションとしての笑顔である社会的微笑を獲得する過程においても他者に笑いかけ、それが返ってくるという双方向的なプロセスを必要とします。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子


2. 他者の眼に映る自己

他者と自己のもう一つの関係として、「自己の『内なる』心は『開かれた』他者との関係の中で育まれる」ということがあります。
特に、アジアをバックグラウンドに持つ人は自己と他者がより結びついている傾向が顕著に確認できます。
それが実際に研究としても明らかになっています。子どもを対象に、①自分で選ぶ課題、②母親に選んだ課題、③研究者が選んだ課題の3つのうちどれがモチベーションが高く出るか実験が行われました。すると、実際にアジア系の子どもは自分で選んだ課題よりも母親が選んだ課題で最もモチベーションが上がっており、白人の子どもとは対照的な結果となっていました。
この研究結果から、本来義務や賞罰、強制などによってもたらされる「外発的動機づけ」と区別される、「内発的動機づけ」は他者からの影響を受けない個人的な心理プロセスと言い切れないということが分かるのです。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

同様に自尊心についての実験でも、より親しい他者からどう見られているかということが自分に対する評価に大いに反映されていることが示されました。これらのことから個人的・内的な心理プロセスとして捉えられてきた概念が、実は他者との関係のなかで維持・高揚される、インタラクティブなプロセスかもしれないということが指摘されています。


3. ”合わせ鏡”としての自己と他者

つまり、自己と他者は、合わせ鏡のように互いを移す媒体として機能しているということがわかります。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座 「知の冒険」 Copyright 2015, 村本由紀子

さらに講義では「他者ないし社会に“媒介”されずに定義し得る「自己」はあるのか」、「自己と他者との関係のありように、“文化”による差異はあるのか」というテーマで学生とともにディスカッションを行っています。

ぜひみなさんもディスカッションに参加したつもりで一緒に考えてみてください。

今回紹介した講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第7回 社会的感性の造形:”自己と他者”という問題をめぐって 村本 由紀子

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター

2022/04/15

突然ですが、あなたが年老いて、死に直面しているという状況を考えてみてください。

身体を動かすこともままならず、人の助けを借りないと生きていくことができない。それでいて、何か他の人の役に立つこともできない。

これから回復する見込みもない場合、あなたはそれでも希望を持って生き続けていくことができますか?それとも、死んだ方がマシかもしれないというような迷いが生まれるでしょうか?

これはもしもの状況として提示していますが、「もし宝くじに当たったら」のような仮定とは異なり、誰しもに高い確率で訪れうる状況です。つまりほとんどの人が、未来がない状態で無力なまま死を待つことになるのです。

これを不安に感じる人や、どうなるのか想像もつかないという人に、どうすれば死に直面した状態で希望を持って生きられるのか考える講義動画を紹介します。

自分の人生の物語りを書き換える

今回講師を務められるのは、臨床倫理学、臨床死生学が専門の哲学者、清水哲郎先生です

清水先生は、死に直面したときに必要なのは、厳しい状況を切り抜けて新しい可能性を見出す力だと言います。

例えば、オリンピック出場を目指していた陸上選手に骨肉腫が見つかった場合、最初は人生の生きがいを失って希死観念に囚われますが、次第に他の可能性(パラリンピック出場など)を探すようになります。

死に関わる厳しい状況では、自分の人生の物語りを書き換える必要があるのです。

UTokyo Online Education 死に直面しつつ生きる Copyright 2009, 清水 哲郎

清水先生は、実際に死に直面したときのために、厳しい状況を切り抜けて新しい可能性を見出す力が活性化しやすいようにしておくべきだと言います。

前へ向かう自分自身を生きがいに

それでは、冒頭でも述べた多くの人に訪れる厳しい状況、先行きが短く、他の人の助けを借りてしか生きられないような状況で、私たちはどのような生きがいを持てばいいでしょうか?

ひとつのあり方として、「治る望みを捨てない」というのが考えられますが、これは挫折する可能性が高いと言います。先延ばしにしたところで、私たちには結局死が訪れるからです。

清水先生が提案するのは、「現在の私の前に向かう姿勢に《希望》をみる」ことです。

UTokyo Online Education 死に直面しつつ生きる Copyright 2009, 清水 哲郎

将来への希望が持てない状況では、現在の自分のあり方に価値を見出すしかありません。そこで求められるのは、現在の生を「進行形」で捉えることです。

これまで、私たちは生を生きてきて、それらは全て生き終わった「完了形」の生です。しかし、今現在の生までもを完了形としてみる必要はありません。私たちは、死に直面してもなお、生まれたときからと何も変わらずに、前へ向かって進行形の生を生きているのです。清水先生は、その前へ向かう姿勢にこそ希望があると言います。

(先生は「進行形」の生を「微分」のような生だと表現しています)

できるほうが良いけど、できなくても良い

将来、私たちが死に直面したときには、おそらくできることがどんどん減っていきます。

そのときに、「役に立たなくなったら価値がない」というような考えでいたら、前を向いて生きることができなくなるでしょう。

清水先生は、「できるほうが良いけど、できなくても良い」という考えが重要だと言います。何もできなくても肯定され、そこに存在することができる人々の輪があることで、人は尊厳を持って最期まで生きることができるのです。

どんな人にも、死は訪れます。死を目前にして慌てる前に、ぜひこの講義動画をみて、どう生きるべきか考えてみてください。

今回紹介した講義:死すべきものとしての人間-生と死の思想(学術俯瞰講義)第3回 死に直面しつつ生きる 清水 哲郎

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>