できるだけ、人に迷惑をかけたくない。
日々を生きるなかで、そのように考えている人は、少なからずいるのではないでしょうか?
たしかに、自分勝手に振る舞って、他人から不快に思われたくないと感じるのは、自然なことだと思います。
しかしもし、私たちが「エゴイスト」であることを原理的に避けられないとしたら、どうでしょうか?
どれだけ粛々と生きていたとしても、他者から簒奪することが免れ得ないとしたら?
20世紀の哲学者、エマニュエル・レヴィナス(1905-1996)は、「私は私であるかぎりで、簒奪者であり、殺人者である」と主張しました。
私たちはみな殺人を犯しながら生きている、などと言われると、ドキリとしてしまうでしょう。レヴィナスは、そんな突飛にも思える過激な主張を、独自の哲学をもって提唱しました。
レヴィナスの哲学の中心にあるのは、「顔」という概念です。
顔とは、何かの比喩ではなく、私たち人間が持つあの顔のことです。
私たちのもっとも身近にあるといえる顔が、どのようにして私たちを殺人へと導くのでしょうか?
今回はそんなレヴィナスの哲学から、「倫理」と「正義」について考える講義を紹介します。
理解しきることのできない他者の「顔」
今回講師を務めるのは、レヴィナスを専門とする哲学研究者、藤岡俊博先生です。
あらかじめ述べておくと、レヴィナスの展開する哲学は非常に難解です。この記事を最後まで読んでも、すっきりしない感覚が残るかもしれません。
私も講義で述べられたことをできるだけ誤解なくまとめられるように善処しますが、レヴィナスの哲学を正確に理解したい人は、ぜひ講義動画も併せて視聴してくださると幸いです(UTokyo OCWにアップロードされている動画は、すべて無料で視聴することができます)。そして、興味を持った人は、ぜひレヴィナスの関連書籍も読んでみてください。
さて、最初に、レヴィナスの哲学の中心にあるのは「顔」という概念だと述べました。レヴィナスはこの顔をどのようなものとして捉えているのでしょうか?
レヴィナスが問題とする顔は、基本的に他者の顔のことです。顔というのは、ほかの事物と同じように、物体として存在しています。
そして、私たちは視覚や触覚を使って、顔やその他の事物と感性的に接触しています。このことをレヴィナスは、「視覚や触覚を通じて対象を『私のもの』にする」と説明します。
しかし一方で、顔は単なる事物とは異なる性質を持ちます。それは、「『話す』ことによって、自分自身の形態的なイメージをつねに破壊する」という性質です。この性質をもつために、顔は決して「私のもの」になることがありません。
少し抽象的で分かりにくいと思います。
ここで注目してほしいのは、顔は「理解しきることができない」、「所有しきることができない」ものだということです。
顔ではないその他の事物は、視覚や触覚を通じて、理解したり、所有したりすることができます。もし今、理解しきれない問題や、使いこなせない道具があったとしても、それは自分の能力がまだそこに及んでいないからであり、理解や所有の可能性はつねに開かれています。(その他の事物が理解・所有できないとき、そこには「量的な抵抗」が働いているといわれます)
一方で、顔を理解したり所有したりすることは、原理的に不可能です。それは、顔がつねに、自分自身の形態的なイメージを破壊しているから、言い換えると、私が他者に抱く観念をはみ出しながらその存在が現れているからです。(顔による抵抗は、「質的な抵抗」といわれます)
他者の顔がもつ「殺人の誘惑」
他者の顔を所有しようとするとき、私たちが取りうる唯一の手段はなんでしょうか?ここでレヴィナスは「殺人の誘惑」について言及します。
レヴィナスは、「他人とは、私が殺したいと望みうる唯一の存在なのだ」(レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社学術文庫、2020年)と述べますが、それは、他者の顔が、私の所有から逃れているからです。
しかし、もし殺人を犯したとしても、顔を所有することはできません。
なぜなら、実際に殺人を犯すことは、他者を事物にすることと同義だからです。殺してしまうと、「自分自身の形態的なイメージをつねに破壊する」という顔の性質が失われてしまいます。
元々顔であった事物を所有することができたとしても、それはもう「顔」ではないのです。
そのために、顔を「顔として」殺すことはできません。
顔とは、このような殺人の倫理的不可能性と、殺人の誘惑との両義性の場だといいます。
顔を「見る」こととはすなわち、「殺してはならない」という命令を「聴く」ことなのです。
このように、所有不可能な他者を目の前にするとき、私たちは一方でさまざまな対象を「わがもの」にしてきたのだという事実を発見します。
他者の顔は所有できないと理解して、はじめて「私は私である限りで、簒奪者であり殺人者である」ということに気づくのです。
こうしてレヴィナスの哲学は「『憎むべきもの』としての私」を浮かび上がらせてきます。
所有を正当化する「正義」
ここまで、レヴィナスによる「倫理」の問題を取り上げてきました。そこで主張されるのは、「私が他者の『顔』を前に無限の責任を負う」ということです。
これは見方によっては、乗り越える手段のない問題を投げかけ、人を八方塞がりにする、非常に暗い倫理かもしれません。
しかしレヴィナスは、このような倫理的関係の過剰さを修正するために、「正義」という別の次元を提示します。
他者と私の一対一の関係によって無限の責任を負うのが「倫理」の次元だとすれば、比較不可能な他者を比較するのが「正義」の次元です。
正義の次元では、倫理的関係の唯一性が、複数の他者からなる複数性に開かれています。そこでは、無限の責任を負っていた私もまた、一人の他者となりうるのです。
正義の次元では、「所有」のみでなく、「侵略」でさえもまた正当化される可能性があります。
ユダヤ人であったレヴィナスは、聖書(タルムード)で紹介される、神がイスラエルの民にカナンの地を与えるとした「約束」を挙げて、正義について説明しています。
約束に従って、カナンの地に侵入していくことについて考えてみましょう。聖書で示されるエピソードでは、イスラエルの民は、侵入を主張する者と侵入に対して慎重な者とに二分されたといいます。
この約束に従ってカナンの地への侵入を主張するものは、一見道徳的でないように見えます。この侵入は、まさしく「所有」であり、「侵略」だからです。
しかし、レヴィナスによれば、彼らは「『正義の国』を建設しに行く」ために、道徳的でないとは言い切れないといいます。
なぜこれが「正義の国」の建設となるのでしょうか? レヴィナスは、「彼らは単に正義に身を投じるのではなく、正義を厳密に自分自身に適用する」(レヴィナス『タルムード四講和)と述べます。そして「自分の行為の帰結をつねに受け入れ、自分が祖国に値する存在でないときには流謪を甘受することができる者のみが、その祖国に入る権利を有する」(同)と続けています。
つまり、正義を正当化するには、自分自身を省みることが求められるのです。
その意味で正義もまた、他者を簒奪する正当性を問い続ける倫理によって、基礎付けられています。倫理に基礎付けられているからこそ、正義は「普遍的正義」となるのです。
レヴィナスは正義について、次のようにも述べています。
戦争に対してなされる正義の戦争においても、ほかならぬこの正義ゆえに不断におののき、さらには震撼しなければならない。この弱さが必要なのだ。(レヴィナス『存在の彼方へ』)
このように「正義ゆえに『震える』こと」によって、私たちは眼前の他者と一対一で向き合うことができるのです。
「〜である」≠「〜して良い」
いかがだったでしょうか?レヴィナスの倫理は、私たちが事物を所有する正当性を不断に問い続けるように要請してくるため、人によっては都合の悪いもののように感じ、退けたくなるかもしれません。
しかしレヴィナスは、無限の反省を提示しながら、一方では「正義」という行為の可能性も示してくれています。
私が講義のなかで印象深かった話に、「実はレヴィナスは『〜すべき』と主張していない」というものがあります。
一般的に、倫理とは、「〜すべき」、「〜すべき」でないといった事柄を取り扱う分野であると考えられます。レヴィナスは倫理について考えた思想家ですが、そこで述べられるのは「〜である」という事実ばかりで、「〜すべき」という提唱はほとんどないというのです。
むしろレヴィナスは、「〜である」が「〜して良い」と同義だとする考え方を揺さぶることに徹底していました。そこにレヴィナスの哲学の重要な根幹を見ることができるように思います。
講義ではそのほか、「自我」という概念を広めたパスカルの「君は自我から不快を除くが、不正を除きはしない」(パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳、中公文庫、1973年)という一説を、レヴィナスの哲学と結びつけて解釈するなどしています。
きっとこの記事を読んだだけでは、レヴィナスの哲学について十分に理解できていないはずです。(むしろ疑問ばかりが浮かんでいるかもしれません)
興味を持ってくださった皆さんは、講義動画を視聴して、学びを深めてみてください。
今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)第8回 「他者」と共生する「私」とは誰か ― レヴィナスの思想を手がかりに 藤岡 俊博先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>