今もなお多くの人から愛される『ガリヴァー旅行記』。
「ガリヴァー旅行記」と聞くと、ほとんどの人は、小人たちに捕まるガリヴァーを思い浮かべるのではないでしょうか?
しかし実は、原作では、小人国のエピソードは全体のほんの一部。
元々の『ガリヴァー旅行記』は、ガリヴァーがさまざまな国をめぐる物語です。4編で構成される物語のうち、小人国が出てくるのは、最初の1編しかありません。
全体の構成は以下の通り。
第1編:小人国(Lilliput)
第2編:巨人国(Brobdingnag)
第3編:ラピュータ(Laputa)、日本など
第4編:馬の国(Houyhnhnms-land)
なんとガリヴァーは日本にも訪れているんですね。
そして、この原作の『ガリヴァー旅行記』ですが、実は非常に政治的な小説です。
子ども向けにアレンジされた小人国のガリヴァーからは、想像できませんよね。
今回は、原作の『ガリヴァー旅行記』のストーリーを確認しながら、それが示唆する政治的立場について考える講義動画を紹介します。
他人を笑うものは自らも笑われる
今回紹介する講義の講師は、英文学者の武田将明先生です。
武田先生の専門は18世紀のイギリスの文学。今回紹介する『ガリヴァー旅行記』は、イギリス人(アイルランド生まれ)ジョナサン・スウィフトが1726年に執筆したものなので、まさに先生の守備範囲だといえるでしょう。
ただ武田先生は、そのほかさまざまな分野でも活躍されています。東大TVでは、「カズオ・イシグロはなぜノーベル賞を取ったのか?」というオープンキャンパスでの模擬講義の動画も公開されているので、そちらもぜひ併せてご視聴ください。
さて、『ガリヴァー旅行記』の政治性についてですが、よく知られている小人国の1編にも、政治的な描写が見られるといいます。
たとえば、小人国の内紛について言及された以下のパート。
ここでは、卵の割り方の対立によって、小人国に大きな内紛が起こったことが語られています。
「卵の割り方程度でどうしてそんな争いを起こすの?」と馬鹿馬鹿しさを感じてしまいますが、実はここでの「卵の割り方」は、現実世界における「宗教」に対応しているといいます。
スウィフトの時代は宗教戦争の記憶も新しく、カトリックとプロテスタントの対立も根深いものでした。
スウィフトは、「卵の割り方」に置き換えることで、カトリックとプロテスタントの争いを俯瞰的に捉えようとしたのです。
それでも、「卵の割り方」での争いというのは、「宗教」での争いと比べて、あまりに滑稽です。私たちの価値観ではその重みが全く違うため、宗教対立の渦中にある人が読んでも、きっと他人事として笑い飛ばしてしまうでしょう。
しかし、スウィフトは、人間の社会も小人の社会同様に愚かであることを伝えるために、巧みな構成を用意しています。
注目すべきは、小人国に続いてガリヴァーが訪れた巨人国での出来事です。
ここでは、巨人がガリヴァーの祖国であるイギリスの国民を酷評します。その徳のなさを非難して、「虫けらの族」とまで言い放つのです。
小人国での風刺を笑っていた読者は、巨人国での批判を前にして凍りつくことになります。私たちはまさに、巨人族にとっての小人であり、「卵の割り方」で争いごとを起こすのと同じ程度に愚かな種族であるという事実が、まざまざと突きつけられるのです。
このようにスウィフトは、空想の物語を通して、政治的なことを私たちに伝えてきます。
「完全」な真理は素晴らしいのか
最後の第4編では、批判の対象が「人間」そのものへと高まります。
第4編、「馬の国」で登場するのは、退化した人間であるヤフー(yahoos)と、理性を持った馬であるフイヌム(Houyhohnms)。
ヤフーは、十分な量の資源を独り占めしようとする貪欲さを持っており、人間の悪い部分を抽出したような存在です。
一方のフイヌムは、単に人間のように思考する理性があるというよりも、それよりも更に進んだ、「完全」な理性を持っています。
「完全」な理性とはいったいなんでしょうか?
それは、直感的に真理を掴むことができる理性です。
フイヌムの世界では、個人の意見というのは存在しないため、全員が合意して、平和に物事を進めることができるのです。
ガリヴァーは、このフイヌムの「完全」な理性を高く評価し、争いの絶えないヤフー、ひいては人間を憎悪するようになりました。帰国したガリヴァーが、自分の家族を見ても吐き気を催すほどの状態になって、この物語は終わります。
一見するとスウィフトは、この物語を通して、真理が分かる「完全」な理性の素晴らしさを伝えているように思います。
しかし、個人の意見が存在せず、全員が合意して真理に従う社会は、果たして本当に良い社会なのでしょうか?
ディストピア小説の金字塔『1984』の作者、ジョージ・オーウェルは、この「馬の国」に全体主義の予兆を読み取りました。
たしかに真理に強制的に従わせる「馬の国」のさまは、ナチスドイツなど、全体主義国家との類似性を感じさせます。
「誰も異論を唱えない社会というのは、実は誰も異論を唱えられない社会かもしれない」と、武田先生はいいます。
このような読みが生まれたことで、スウィフトは作中のガリヴァーとは異なり、フイヌム(全体主義)を批判していたのではないかと考える研究も出てきました。
しかし、スウィフトが何を意図して『ガリヴァー旅行記』を書いたのかということに対しては、いまだ共通の見解が得られていません。
想像力を駆使して徹底的に妄想する
武田先生は、最後にこんな一節を取り上げます。(英語原文です)
これは、夫を亡くしたフイヌムの振る舞いが描写されたパートです。未亡人であるフイヌムが、参加したパーティーでほかの人と一緒に楽しく過ごしたものの、その3か月後には亡くなってしまったということが書かれています。
She died about three Months after.
この一文には、とくに亡くなった理由などは示されていません。
しかし、わざわざ書き足している以上、妻の死は夫の死に影響を受けていると見るべきです。
武田先生は、この一文を通して、「直感的な理性」が生物の感情を完全に支配することはできないのだと主張します。
些細な一文ですが、この描写を書くかどうかで、文芸フィクションの存在意義、想像力の意義、更には不完全な人間の存在意義まで賭けられているというのです。
架空の世界を描いた『ガリヴァー旅行記』は、そのテーマがキャッチーであるがゆえに、長く子ども向け絵本として愛されてきました。
しかし、その実は、人間という存在のあり方までを問う、示唆的な物語です。
架空の世界を舞台としたことで、スウィフトは人間について徹底的に考え、全体主義国家の盛衰まで暗示することになりました。
武田先生は、想像力を駆使して徹底的に妄想することが、長い目で見れば重要だといいます。
みなさんも、講義動画を視聴して、広く物事を捉える文学研究の世界を覗いてみませんか?
今回紹介した講義:30年後の世界へー「世界」と「人間」の未来を共に考える(学術フロンティア講義)第5回 小説と人間ーGulliver’s Travelを読む 武田 将明先生
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>