【「供犠」から読み解くフランスの反イスラーム】共生を阻む人間の「弱さ」を考える
2022/08/05

突然ですが、「イスラモフォビア」という言葉を知っていますか?
イスラームやその信徒であるムスリムに対する憎悪や偏見を意味する言葉で、「イスラーム嫌悪」と表現されることもあります。

このイスラモフォビアが現れていると言われている国の一つがフランスです。
フランスでは2015年、ムハンマドの風刺画を誌面に掲載した新聞社が襲撃された1月のシャルリ・エブド事件と、イスラーム過激派による無差別テロで計130名の命が失われたパリ同時多発テロ事件という、イスラモフォビアを喚起する2つの大きな出来事がありました。
以降フランスでは、イスラームといかに向き合うかがよりいっそう切実な問題となっているのです。

そこで今回は、宗教学とフランス語圏の地域研究を専門にされている伊達聖伸先生と一緒にフランスのイスラモフォビアの背景と実情を学び、異文化共生を達成するために必要なことを考える講義をご紹介します。

結論を少し先取りすると、イスラモフォビアの背景には、人間誰しもが持つ心の弱さ――それでいて乗り越えなければいけない心の弱さ――が存在します。
いったいどういうことなのでしょうか?

硬直化するライシテ

フランスにおける宗教的な問題を議論する際、「ライシテ(laïcité)」への言及は避けて通れません。
ライシテとは、公的領域の宗教的中立と私的領域の信教の自由を指すフランス共和国の基本原則のことで、一般的には「フランス独特の厳格な政教分離」と説明されます。

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2020 伊達聖伸

ところで、フランスのイスラモフォビアの原因をこのライシテに求めようとする言説が存在します。

「<政治と宗教を厳格に分ける>ライシテは<政治と宗教を分けない>とされるイスラームと相性が悪く、両者の共生は本質的に難しい」というものです。

しかし伊達先生はこの言説に異を唱えます。ライシテという理念は一枚岩ではなく、イスラームの政治と宗教の関係性をも包含できるような、柔軟性を持った概念だからです。
そもそも歴史的に見ても、ライシテはカトリックの原理と共和派の原理との対立の間で練り上げられてきた、かなり解釈の幅が広い概念なのです。

むしろ、このように柔軟であるはずのライシテの厳格な面だけが取り出されて市民の間の支持を受けている状況を踏まえ、市民の共生がうまく行われていないフランス社会をいかに解釈すべきかを考えるのが重要だと伊達先生は言います。

フランスにおける反イスラームの現状

続いて伊達先生は、こんにちのイスラームをめぐるフランスの現状を示すため、2020年10月に発生したパリ郊外教師斬首事件を取り上げます。
「シャルリ―・エブド襲撃事件」のきっかけとなった風刺画を授業の中で扱った中学校教師がイスラーム過激派に斬首されるという、たいへん痛ましい事件です。

このようなテロ事件が起こってしまった際、フランスでは2つの世論が沸き起こるといいます。

「<イスラーム過激派>と<ムスリム>の混同はされてはならないし、自分たちもしていない」という世論と、「たとえ宗教批判を含むような内容であったとしても、表現の自由は守られるべきだ」という世論です。

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中立的に思える2つの世論ですが、伊達先生は本当にそうなのかと問います。

<イスラーム過激派>と<ムスリム>との間の境界を外部者が客観的に線引きすることなど、果たして可能なのでしょうか。
偶像崇拝を徹底的に禁じるイスラームを厚く信じるムスリムにとっては、ムハンマドの風刺は自分の人格を踏みにじられているのに等しい行為なのではないでしょうか。

このように立ち止まって検討してみると、一見中立的に思える先ほどの世論は、ムスリムの価値観を無視し共生を一方的に阻むものなのではないかという考え方が生まれてきます。

供犠としてのイスラモフォビア

ここまで見てきたフランスにおける反イスラームの動きですが、伊達先生はこれを現代フランス社会が抱える不安が表出した形であると分析します。
ここでキーワードとなるのが「供犠(くぎ)」です。

もともと供犠というのは、人間の世界を神の世界につなぐために生贄を捧げる行為やその生贄のことです。
宗教や呪術がかつてほど身近でなくなった現代社会では、宗教儀礼としての「流血の」供犠はあまりリアリティをもって受け取られることはありません。

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しかし供犠へと人間を駆り立てる心理作用についてはどうでしょう。
特定の成員をスケープゴートに仕立て上げ、社会の負い目を被せ排除することで社会の安定を保とうとする心理は、今の人間も昔と変わらず持っているのではないでしょうか?

伊達先生はこのように宗教学の供犠論を用い、フランスの反イスラームはフランス社会の諸問題のはけ口をイスラームやムスリムに求める動きだと主張します。

「外を見ればかつて覇権国家だった自国。なのに、外を見れば文化的にも経済的にも後退している。内を見れば若者の高い失業率や学校の機能不全などが明るい未来を描きづらくしている。」
こうした現状からくる鬱屈とした不安から、異質性の高いイスラームやムスリムを「供犠」にすることで逃れようとしているというのが伊達先生の見方です。

このようにしてイスラモフォビアの生成過程を一歩引いた目で観察・分析し、そのうえで何ができるか考えていくことが求められていると伊達先生は言います。

そしてそのような検討は、ひるがえって自分たちへの反省へと向かわせます。

会社や学校のようなミクロな社会でも、国のようなマクロな社会でも、特定の成員を排除することで安心感を得たり社会を維持しようとしたりする作用はフランスから遠く離れた日本でも容易に見ることができるからです。

日本で暮らす私たちにとっても、イスラモフォビアはまったく他人事ではないのです。

イスラモフォビアをフランスの文脈から取り外して一般化し、自分自身の反省へと誘うこちらの講義。
気になった方はぜひご覧になってみてください。

今回紹介した講義:不安の時代(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2020年度講義) 第8回 フランス語圏の反イスラーム問題

<文/東京大学オンライン教育支援サポーター