みなさんは、「言葉」をどのようなものとして捉えていますか?
インターネットが発達した今の世の中は、かつてないほどたくさんの言葉で溢れています。
情報化社会を生きる私たちには、無数の言葉を情報として処理していく能力が求められているといえるでしょう。
そしてまた国も、言葉の情報としての側面を重視し始めているように思えます。
文部科学省が、従来の「現代文」という科目を廃止し、代わりに評論を主とする「論理国語」と文学作品を主とする「文学国語」という科目を新設することにしたからです。
2つの科目が新設されるといっても、「論理国語」と「文学国語」は選択式です。入試には評論が頻出するので、多くの高校が「論理国語」を選択し、結果として学生が文学作品に触れる機会が減ってしまうのではないかと考えられています。
そんななかで、日本の近現代文学を専門とする安藤宏先生は、「言葉を情報処理の道具としてしか見ない貧しい言語観が蔓延することに対して危機感を抱いている」といいます。
論理的に考えることが必要とされるこの世界で、たしかに私たちは、言葉を単なる情報処理の道具として捉える場面が増えてきているのかもしれません。
しかし、言葉が道具としての役割を超えて持つ価値と可能性とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
これからの時代、私たちはどのように言葉と向き合っていくべきなのか、安藤先生と一緒に考える講義動画を紹介します。
AIと協業して行う文学研究
安藤先生は、東京大学大学院人文社会系研究科の教授で、日本の近代文学、特に太宰治を専門とされています。
前述したように、「論理的で明快なもの」、別の言葉でいえば、「直ちに役に立つもの」を重視する現代社会においては、文学の価値が見えにくくなっています。
しかし、安藤先生は、問いと答えが一対一になっている問題のトレーニングばかりしていても、それでは太刀打ちできない根本的な問題が残ってしまうといいます。
単一的な答えが出せない領域においては、人類の成り立ちを考える、文学や哲学や歴史などの人文知が必要なのです。
ただし、情報化社会はそれ自体が問題なわけではありません。情報処理の技術が、人文知の探究にプラスの影響をもたらすこともあります。
安藤先生は、小説を解釈する作業においても、AIと協業していくことで、より効果的な成果が得られるのではないかといいます。
安藤先生いわく、小説の解釈というのは、系統の違う積み木をばら撒いて、それをもとに軍艦やお城など、さまざまな模型を作り上げていくような作業です。
といっても、好き勝手なものを作ってよいのではなく、できるだけ重要な積み木を組み入れながら模型を作りあげなければいけません。
その模型がいかに重要な積み木を漏らすことなく作られているかが、その解釈の正当性を裏付けます。
本質を見抜くような蓋然性の高い模型を作ることが文学の解釈においては重要となるのです。
ここで安藤先生は、どのような積み木があるか探し出す作業と、それで模型を作る組み合わせをリストアップする作業は、AIにも行えるだろうといいます。
それはつまり、AIに小説の要素を抜き出してもらい、その関係性や意味を列挙してもらうということです。そして、その情報をヒントに、人間がより正当な解釈を見つけ出すのです。
安藤先生は、諧謔やユーモアまでも含めた自然言語の処理をAIが担えるという議論には懐疑的ですが、まったく手出しできないと考えているわけではありません。人間にしか行えない領域と、AIに任せられる領域があります。
ここでも問題となるのは、私たちがAIの情報処理を過信して、自らの言葉を貧困にしていくことなのです。
体験から経験に、経験からキーワードに
安藤先生いわく、「言葉を大切にするのが文学の全て」です。そこには、情報処理と対極にある何かが存在しているといいます。
たしかに私たちは、言葉に単なる情報を越えた力があることを理解しているはずです。
だからこそ私たち人間は、文学作品を必要としてきたし、文学でなくとも、ただの記号としてではないあり方で言葉を用いてきたのだといえるでしょう。
しかし、それがどういったものであるか説明するのは、なかなか難しいのではないでしょうか?
安藤先生は、「経験」と「体験」の違いについて語ります。
「体験」とは、その人がただ立ち会った出来事のことですが、「経験」には、その出来事から何かを掴み取ったというニュアンスが付加されます。経験には主体性があるのです。
そして、経験を重ねていくと、だんだん言葉がぶっきらぼうになっていくといいます。
たとえば、何十年も焼き物を続けているような人が、「焼き物でいちばん重要なのは『深み』なんだ」といったとします。
しかし、ここでの「深み」がどのようなものであるか、私たちには掴みきれません。それは、その人の経験から導かれた言葉だからです。
安藤先生はこのことを、「体験から経験に、経験からキーワードに」というふうに説明します。
みなさんも、きっと何か自分のなかにキーワードがあるはずです。
他の人がある言葉を気軽に使ったときに、「その言葉はそんな簡単に使って欲しくない」と感じたとすれば、その言葉はあなたのキーワードでしょう。
(講義中には、安藤先生も、簡単に使って欲しくない言葉をひとつ挙げています。)
このような、自分だけのキーワードは、単なる情報を超えた価値を持っている言葉です。
記号としての言葉が氾濫する現代には、このような自分だけのキーワードをできるだけ多く持つことが大切だといいます。
もし自分の言葉がなければ、周りに流されてしまい、どんどん不安になってしまうでしょう。
終わりに
ここで「不安」と述べましたが、実はこの講義は、「不安の時代」というオムニバス講座の一講義として、「日本近代文学における「不安」」という題で開講されたものです。
この記事では、この講義で説明された「現代を生きる私たちは不安とどう向き合っていくべきか」というテーマを、ごっそり書き漏らしてしまっています。
講義では、小林秀雄や柳田國男、シェストフなどの言説を通して、不安について考えています。
講義でも紹介される「万人のごとく考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つ」という柳田の言葉は、不安に向き合うために、まさにこの講義を通して安藤先生が強調したかった言葉でもあるのではないでしょうか。
この記事を読んでいるなかには、周りの意見に流されて焦ったり、論理的な正しさと自分の気持ちに折り合いがつかずに悩んだりする人も多いと思います。
この安藤先生の講義は、そんな人が、今一度自分自身と向き合うきっかけになるはずです。
ぜひみなさんも、講義動画を視聴して、文学の価値を改めて理解し、自分自身の考えを信じてみてください。
今回紹介した講義:不安の時代(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2020年度講義)第3回 日本近代文学における「不安」安藤宏先生
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>