多くの病気の原因はいまだ不明であり、治療法もない。
医療は、いつも効果があるとは限らない。医療は、常に危険を伴う。
突然で驚かせてしまったかもしれません。
しかし、医学系研究科の康永秀生先生は、医療についてそのように語っています。
まさに医学の専門家である康永先生が、どうしてそのように語っているのでしょうか?
今回は、「臨床疫学」という学問分野の紹介をもとに、現代の医療について康永先生と一緒に考える講義を紹介します。
医療の不確実性に切り込む臨床疫学
あなたは医療に対してどのようなイメージを持っていますか?
「身体に不調があっても、病院で診察を受ければ、問題の所在と解決策を的確に示してくれる」といった具合に、
確実性をもった万能な知識体系だと感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、康永先生は、医療は全く万能ではないと言います。
むしろ医療はいつも効果があるとは限らず、常に危険をともなうのだそうです。
そもそも、人体のメカニズムも、病気の原因も、その多くは未だに解明されていません。
そのため、動物実験や細胞実験で有効性が確認された治療法であっても、いざ個別の患者に施してみると、
効果がなかったり、もしくは予想していなかったアクシデントがおこったりするそうです。
人体がブラックボックスであるがゆえに、医療は万能ではなく、むしろ不確実な手段なのです。
そして、康永先生の専門である臨床疫学は、まさにこの医療の不確実性を前提とした学問です。
そもそも、この臨床疫学とはいったい何なのでしょうか?康永先生いわく、
多数の患者の診断・治療などに関するデータを統計学的手法を用いて解析し、医療の有効性や安全性を科学的に評価する学問
だそうです。
臨床疫学の研究の例を一つ挙げましょう。
脳梗塞のリハビリテーションについての研究です。
脳梗塞で入院した患者は、後遺症を防ぐためにリハビリテーションをおこないます。
しかしこのリハビリテーション、本人にとってはかなりの体力を必要とするそうです。ただ闇雲にやればいいというわけにはいかないのです。
そこで、どのようにリハビリテーションをおこなうのが適切かを検証すべく、約10万人の脳梗塞患者の事例を分析した研究がおこなわれました。
分析の結果、次の2つのことがわかりました。
① リハビリテーションの密度(1日あたりにおこなう時間)が高いほど回復が早い
② 同じ密度のリハビリテーションをおこなう場合、入院後の早い時期に始めている患者は、そうでない患者よりも回復が早い
このような研究結果は、実際の医療の場面で、どのような選択肢をとるべきか判断する際の有効な指針になります。
臨床疫学では、多数のデータを集めて分析をおこなうことで、医療の選択肢を客観的に評価することを可能にしているのです。
臨床疫学が成立するまで
臨床疫学が学問分野として成立したのは20世紀後半です。
しかし、同様のアイデアを持つ方法は、それよりもずっと前から存在していました。
これまでパンデミックを何度も起こしてきた感染症の一つに、コレラ菌を病原体とするコレラがあります。
コレラ菌が細菌学者のコッホによって発見されたのが1883年。
しかし、その30年ほど前の1854年にロンドンでの感染拡大を止めたのが医者のジョン・スノウです。
スノウはロンドン市内でコレラが流行ったとき、患者の居住地を地図に示しました。
その結果、そこには共通して井戸があることを発見しました。
スノウは井戸に感染拡大のカギがあると考え、患者居住地にある井戸を使わないように呼びかけたところ、なんとコレラの感染を食い止めることができたのです。
スノウはコレラ菌の正体こそ知りませんでしたが、統計学的な手法を用い、感染の経路を遮断することで疫病を防ぎました。
彼の活躍は臨床疫学の芽生えとして位置づけることができるかもしれません。
スノウの活躍からおよそ100年が経ち、臨床疫学(Clinical Epidemiology)という語が使われるようになりました。
英語の教科書ができたのが1980年代。
日本では1990年代に大学での教育がはじまり、2016年に学会が設立されました。
萌芽は昔から見られていたものの、成立してからはまだ若い学問だといえるでしょう。
臨床疫学の背景にある理念
さて、臨床疫学にもとづく医療は、「科学的根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)」と呼ばれています。
この科学的根拠という概念は次の2つの方法論的な原則から構成されています。
① 再現性:科学の世界で自説を主張したければ、再現可能な方法を用いて、それが確からしいことを証明しなければならない。
② 統計的検証:観察や実験は、統計学と結びついて初めて「科学」と言える。
「科学的」とは、「この2つの原則からなる手続きに則っていて、現時点では最も真理に近い」という意味なのです。
そして、これらの手続きを支えているのが「医療ビッグデータ」です。
医療ビッグデータには、出生や死亡の情報が記録された人口動態統計や、定期検診や治療の情報が記録されたさまざまなデータベースなどがあります。
それらのデータはリアルタイムに蓄積され、科学的研究のために供されているのです。
政策と臨床疫学
個々の医療の現場を支える臨床疫学ですが、それ以外の場でも力を発揮することがあります。
例として、子供の医療費補助に関する研究を見てみましょう。
少子化対策のため、子供の医療費を補助し、ときには無償化する政策が多くの自治体でとられています。
この政策の妥当性を評価するため、患者366,566件のデータを集め、政策により子供の健康レベルが実際に向上しているのかを検証する研究がおこなわれました。
検証の結果、平均所得の低い自治体では子供の入院件数が減少したのに対し、平均所得の高い自治体では逆に増加していることがわかりました。
この違いは、政策が適切な初期治療によって防げる入院(=「避けられる入院」)にアプローチできているかによって生まれているそうです。
これまで気軽に医療を受けられなかった低所得層は、医療費補助によって早めに診療を受けることが可能になったため、「避けられる入院」を回避することができます。
しかし所得の高い層にはそうした作用がなく、かえって必要性の低い入院が増える分、医療費を増大させるだけの結果になる可能性があります。
このように考えると、一律に医療費を補助するのではなく、低所得層に限定して補助するのが良いのではないかという示唆が得られます。
以上のように、臨床疫学は医療の場だけではなく、政策の判断や評価の場においても力を発揮するのです。
そのように言われると、新型コロナウイルスに対する政策を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
経済や文化などさまざまな領域を考慮しながら、感染拡大の局面に応じて、それぞれの国や自治体が政策を選択しています。
そうした政策がどのような研究にもとづいて選択されているのか、また一度とられた政策が臨床疫学的な研究からどのように評価されるかを考えることで、
より深い現状の理解が可能になるかもしれないですね。
おわりに
ここまで、康永先生の講義をかいつまんで、臨床疫学という学問について紹介しました。
実際の講義では、いろいろな研究の事例や、先生のエピソードが紹介されています。
みなさんもぜひ講義動画を視聴して、現代の医療について考えてみてください。
今回紹介した講義:新しい医療が社会に届くまで ~データサイエンスが支える健康社会~(学術俯瞰講義) 第10回 臨床疫学―医療の不確実性に挑む科学 康永 秀生 先生
<文/小林裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>