みなさんに質問があります。
「不平等」って、本当に悪だと思いますか?
いやいや、悪に決まっているでしょうと言いたくなる方もいるかもしれません。
しかし、不平等が悪である理由をしっかり説明できる方は、実はあまり多くないのではないでしょうか。
きっとそうした方の中には、
”不平等はよくないというのが「当たり前」すぎて、不平等について深く考えたことがない”
という方が多くいるのではないかと思います。私もその一人です。
そこで今回は、社会の不平等の実態やメカニズムを統計的手法によって分析している白波瀬先生と一緒に、
「不平等」についてじっくりと考え直す講義をご紹介します。
機会と結果の不平等
さて、「不平等」と同じように使われることばとして「格差」があります。
不平等と格差、この2つはどのように異なっているのでしょうか。
白波瀬先生がそのように問いかけると、受講生からは次のような返答が挙がりました。
「格差はスタートしたあとに生じた差であるのに対して、不平等はそもそもスタートラインに立てるか立てないかの差である」
ここから浮かび上がるのは、「機会」と「結果」という2つの層が存在するという考え方です。
次に、白波瀬先生は「所得の高い者と所得の低い者の違いはどのように生まれるのか」という問いを立てます。
「機会」と「結果」のうち、「結果」として生じる差についての問いかけです。
まず最初に受講生から挙がったのが、「職業の違い」という答えです。とてもわかりやすいですね。
では、少し掘り下げて考えてみましょう。職業の違いはどのように生まれるのでしょうか?
白波瀬先生がそう尋ねると、受講生から様々な返答が寄せられました。
「受けることができた教育の水準の違い」
「親から受け継がれた遺伝子の違い」
「なりたいと思う職業の違い」
なんとなく、前の2つは本人には変えられない要素で、3つ目の「なりたい職業」は本人がコントロールできる要素というような気がします。
しかし、もっと深く探っていくとどうでしょうか。
「なりたいと思う職業の違い」は、どのようにして生まれるのでしょうか。
白波瀬先生は、本人の性別などの属性に応じて周囲から期待される役割が、本人の職業選択の志向に影響を与えているのではないかと問いかけます。
多かれ少なかれ、この記事を読んでいただいているみなさんも、きっと思い当たる節があるのではないでしょうか。
さらに、同じ職業についた人どうしでも、所得の差は発生します。
この差も本人の属性から無縁であると言い切ることはできません。
たとえば家事や育児に対する女性への役割期待が社会に存在すれば、その分職場で女性がキャリアを形成していく難易度は上がります。
さらに、「女性は結婚・出産を機に職場を離れる割合が高い」 というような過去のデータがあれば、企業側は合理的な行動として、社員に対して性別により異なる扱いをするようになります。(これを統計的差別といいます。)
このように深く深く考えていくと、次のような結論が見えてきます。
「結果」に属する個人の差異は、周囲からの役割期待やキャリアの歩みやすさなどを介して、かなりの部分が「機会」の差異に由来しているのではないか。
この結論が正しければ、そもそもスタートラインの時点で不平等が生じていることになります。
「機会の不平等は悪だけれど、結果の不平等は悪ではない」
簡単にそう言い切ることができない理由がここにあるのです。
不平等をデータからとらえる
上で触れたように、白波瀬先生は社会階層に関する様々なデータを統計的手法で分析しています。
この講義のなかでも、いくつかのデータが示されます。一緒に見ていきましょう。
まず先生が切り込むのが、「日本は高度経済成長を経て一億総中流社会(日本国民の大多数が「中流階級」であるような社会)になったが、格差社会に変わってしまった」という言説です。
先生によれば、1990年代後半以降、こうした言説が国内で普及していったそうです。
一億総中流社会→格差社会 というわかりやすい構図。
これは果たして正しいのでしょうか?
上のグラフは、自分の生活の程度を上〜下の5段階で評価してもらった調査結果の推移を示したものです。
高度経済成長期の「一億総中流社会」の時代から、1990年代以降の「格差社会」の時代までが示されています。
グラフを見た皆さんは、おそらく、「あれ、あんまり変化してないんだな」と思ったのではないでしょうか。
それもそのはず、「一億総中流社会」論と「格差社会」論は、実は異なるデータにもとづいて展開されているのです。
前者は生活の程度という主観的な意識のデータに根差しており、後者はジニ係数という客観的な経済学的指標のデータに根差しているのです。
このように、異なるデータにもとづく議論を安易に結びつけることには、慎重にならなければならないということがわかります。
それでは次に、「格差社会」論の根拠である経済学的指標の方を見てみましょう。
上の表で示されているのは、「ジニ係数」という値の変化です。
ざっくり言うと、ジニ係数とは所得の不平等度を測る指標です。
0が完全平等の状態(全員が同じ所得)を、1が完全不平等の状態(一人だけが所得を独占)を指します。値が1に近いほど不平等ということです。
まず表から読み取れることとして、平成14年から平成26年にかけて、「当初所得」をもとに算出されたジニ係数は増え続けています。(①)
これを見ると、所得の不平等は広がりつづけていると言いたくなります。実際、「格差社会」論も、もともとは数値の増加を根拠に展開されました。
しかし、「当初所得」とは税や社会保障によって再分配がおこなわれる前の所得を指します。
一般に労働所得の低い高齢者の人口の割合が高まると、「当初所得」を用いたジニ係数も自然と増加していくのです。
そこで、より実態をとらえるためには、税や社会保障による再分配がおこなわれたあとの「可処分所得」から算出されたジニ係数(②)を見る必要があります。
すると、この値はかなり安定していることに気づきます。
実態として、マクロレベルでは所得の不平等は広がっていないといえるのです。
次に、ジニ係数と並んでよく用いられる指標である「相対的貧困率」を見ていきましょう。
相対的貧困率とは、「可処分所得」が全世帯の中央値の1/2以下である世帯の人口の割合を示す値です。
表を見ると、相対的貧困率は全体的に微増傾向であることがわかります。
しかし、もっと細かく観察すると、子どもがいる世帯のうち、大人が2人以上いる世帯の相対的貧困率はおおむね10%前後であるのに対し、大人が1人である世帯の相対的貧困率は50%を超えていることがわかります。
両親がいる世帯に生まれるか、片親の世帯に生まれるかという絶対に変えられない要因によって、明らかに子どもの人生のスタートラインが大きく異なっているのです。
このように、全体の数字だけ見るのではなく、属性ごとの数字に着目することで、「機会」の差の大きさに気づくことができるのです。
再分配の重要性と難しさ
これまで「機会」と「結果」の不平等について考えたり、実際のデータを見たりしてきました。
そのなかで一つの結論が見えてきました。
それは、「結果」の差を個人の努力の差だけに還元して考えることは間違っているというものです。
実際には、「結果」の差の多くの部分は、そもそもの「機会」の差に由来しているのです。
これは第一に、自己責任論への反論となります。
もちろん一人ひとりが責任をもって行動することは大切ですが、その結果として生じる貧困などの原因をすべて個人の責任に求める自己責任論は、そもそも「機会」が「結果」に与えている影響の大きさを見落としているのです。
また同時に、社会的な再分配の必要性が示唆されます。
再分配は、機会の不平等を社会的正義の観点から是正する措置であり、かつ貧困のリスクを社会全体で分担するリスクヘッジなのです。
実は、日本の再分配効果は、OECD諸国と比べるとかなり限定的です。
白波瀬先生は、再分配効果のきわめて高い国を模倣する必要はないものの、現状の制度では不足していると考えます。
また先生は、再分配の仕組みを設計する際には、時代の変化を考慮して、新たな分配の流れをつくっていく必要があると言います。
たとえば社会保障費の負担額や給付額を見ると、得をした世代と損をした世代に分かれることは否定できません。
先生は、そうした出生時期による不平等を考慮した再分配の流れを、一つの可能性として提示しています。
こうした制度設計は、なかなか一筋縄ではいきません。
不平等について、客観的なデータを分析することを前提としつつ、何が善で何が悪かという価値基準まで含めて議論しなければいけません。
しかし、できるだけ多くの人が自分の望み通りの人生を歩めるような社会をつくるためには、実際にそうした営みが必要なのです。
以上、白波瀬先生の講義について紹介しました。
正直、この記事では、講義の魅力の1割もお伝えできていません。
不平等と貧困のどちらが問題なのか?という難しい議論など、実際の講義には好奇心を刺激される内容がもっともっと詰まっています。
ぜひ講義動画を見て、不平等というテーマについて考えてみてください。
また、白波瀬先生は東京大学の MOOC(Massive Open Online Course; 大規模公開オンライン講座)でも授業を開講しています。
興味のある方はぜひチェックしてみてください。授業PVはこちら
今回紹介した講義:現代日本を考える (学術俯瞰講義) 第10回 富める者と貧しき者:機会と結果の不平等 白波瀬 佐和子先生
<文/小林裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>