突然ですが、皆さんはどのようにして音楽を聞いていますか?
CDで聞くという方もいらっしゃるかもしれませんが、最近はネットでの音楽配信が流行っていますね。もしかすると「私はレコード派!」なんて方もいらっしゃるかもしれません。
音楽を聞く方法は人それぞれかと思いますが、CDやネット配信、はたまたレコードまでも、音楽を伝える媒体である、つまりメディアであるという点では同じです。
それでは、そうしたメディアは単なる音楽の入れ物に過ぎないのではないか、と言われたらどうでしょう。
CDやネット配信などは音楽を聞くための方法に過ぎず、「音楽そのもの」は変わらないと思いますか?
それとも、使うメディアによって音楽は違ってくると思いますか?
…なんだか、「そんなの正解はないよ」と言いたくなってしまうような問題ですね。
ですが、この問題が、メディアが音楽をどのように展開してきたのかを紐解く問いであるとしたらどうでしょう。
今回紹介する講義動画では、西洋芸術音楽をご専門とする渡辺裕先生が、クラシック音楽を題材にこの問題を解説し、メディアの根本問題へと迫ります。
本来の音か編集された音か
まず、渡辺先生は、レコードの古い音源を最新の技術でCD上に編集し直すことであるリマスタリングについて、愛好家の受け止め方が2つの方向性に分かれていることを指摘されます。
具体的には、リマスタリングによって録音当時の「本来の音」にできるだけ近づけたようなCDを好む方向性と、リマスタリング技師の個性的な編集技術を楽しむことができるようなCDを好む方向性です。
前者はCDは音楽の入れ物であるという考えに近く、後者はむしろ音源をCDへどう吹き込むかということに楽しみを見出す考えなのですね。
それでは、この2つの方向性は両立しえないものなのでしょうか?
渡辺先生は、この2つの方向性は曖昧に同居していると言い、なぜならば、「本来の音」とは実はもう聞けないものなのだという認識を両者で共有しているからだと指摘されます。
全然違う方向性なのに共通認識の元に微妙な関係で両立しているのはなんだか不思議ですね。
それでは、果たしてこの共通認識はどうやってできたのでしょうか?
本来の音とは存在するのか
渡辺先生は、そもそも「本来の音」が存在すると感じるのは、レコードというメディアが普及したことによって演奏を繰り返し聞けるようになり、作品の細部の奏法や解釈が初めて認識されるようになった結果、作品ごとに唯一の演奏法があると思われるようになったからだと解説されます。
レコードというメディアを通して、「この作品はこう演奏するんだ」という認識が人々の間で広まっていったのですね。
しかし、レコードが登場する以前の人々も、ある作品にはそれに対応する演奏法があることを認識していたことは想像に難くないでしょう。
人々はどのようにして作品どうしを区別していたのでしょうか?
メディアとしての楽譜
渡辺先生は、西洋音楽の作品のアイデンティティを語る上で、楽譜という存在の大きさを強調します。つまり、楽譜も音楽を伝えるメディアであり、楽譜に書かれるという形を通してある作品が他の作品と分けられるようになったのです。
さらに、楽譜というメディアが出てくることと、作品という概念が生まれてくるということは実は平行して進んできたと話は続きます。例えばクラシック音楽の「ソナタ形式」のように最初と最後の部分で同じ主題が繰り返される形式は、楽譜の存在なしに発達しえなかっただろうと指摘されています。
楽譜すらもメディアだったとは驚きですね。
そうすると、どうやらメディアの発展と音楽の発達にはかなり根深い関係がありそうですね。
メディアが音楽文化を展開してきた
渡辺先生は、楽譜に基づく感覚やレコードの感覚、リマスタリングの感覚といったものがいろいろ関わり合いながら展開しているものが音楽文化であると捉えてみよう、と提案されます。
そうすると、作品という概念が一元的にあり、メディアの向こうに本来の音楽というものがあるとして議論していたときとは違う世界が見えてくるのではないかと講義の最後にお話しされます。
メディアは音楽を伝えるというはたらき以上に、音楽文化全体を規定していくものなのですね。
以上、渡辺先生の講義についての紹介でした。
本記事では触れられませんでしたが、渡辺先生は楽譜がない音楽など他の場合もメディア論的にお話しされています。
ぜひ講義動画を見て、メディアと音楽というテーマについて考えてみて見てください。
今回紹介した講義:媒介/メディアのつくる世界(朝日講座「知の冒険―もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2015年度講義)第1回 “作品”とは?”演奏”とは?:”デジタル・リマスター”の時代の音とメディア
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/依田浩太郎(東京大学オンライン教育支援サポーター)>