多様な人々が共に生きる社会がめざされる現在。
しかし今なお、特定の宗教を信仰していることで、制約を受けたり、被害を被ったりする人がいます。
さらに、それぞれ異なる信仰を持った人同士が対立し、戦争やテロといった大きな事態に発展してしまうこともあります。
このような「宗教対立」はどうすれば解決できるのでしょうか?
この先を読む前に、みなさん、少し考えてみてください。
……
手段としてまずひとつ思いつくのは、相手の宗教をよく理解することでしょう。
つまり、互いに言葉を交わしその宗教をよく知る「宗教間対話」が、宗教対立の解消につながるということです。
みなさんのなかにも、話し合いによる異文化理解によって偏見をなくしていくことが重要だと考えた人がいるのではないでしょうか?
しかし実は、この「宗教間対話」という手法には、大きな落とし穴があるのです。
一見平和的で合理的に思えるこの方法に、どんな問題点があるのでしょうか?
そして、どうすればその「落とし穴」を乗り越えることができるのでしょうか?
宗教学者の藤原聖子先生による講義「宗教をめぐる共生の現在ー“異文化理解”的発想の陥穽」を通して、いっしょに学んでみませんか?
「宗教間対話」の落とし穴
それでは、「宗教間対話」のどこに落とし穴があるのでしょうか?
講義では、次のことが指摘されます。
まず、類似点の多い宗教でも対立が起こっていること。もし互いの無理解が対立を招くのだとすれば、それぞれかけ離れた宗教ほど対立するはずです。しかし実際は、似た教義を持つ宗教間でも対立が起こっています。それどころか、同じ宗教のなかでも対立が生じていることさえあります。
また、宗教についてよく知ると差別や偏見がなくなるかといえば、必ずしもそうではありません。「宗教についてよく知ると、相手の宗教をからかうのもうまくなる」と述べている宗教教育の先生もいるそうです。
そしてそもそも、宗教間対話に参加する人は、既に一定の価値観や利害を共有しているという前提もあります。元も子もない話になりますが、本当に共存を考えなくてはいけない人同士は、対話のテーブルにつくことがありません。
それでは、私たちは共生のために何をすればよいのでしょうか?
どのような信仰を持つ人も「公平」だと感じる場
もともと、ある宗教を信仰する人は、異なる文化圏に入ったときに、その文化に同化するしかありませんでした。1970年代、藤原先生が中学生で、イギリスに住んでいたとき、そこではイスラム教徒やヒンドゥー教徒の友だちもみな同じようにイギリス風の生活に合わせていたそうです。
次第に「多文化主義」の価値観が広がり、多様な宗教を信仰する人が、自身のアイデンティティを尊重しながら暮らしていくようになります。
そして現在は「ダイバーシティ」の時代。宗教や信仰がオープンになっただけでなく、それらの共生、社会参加と統合がめざされるようになりました。
このような異なる宗教の共生は、どうすれば実現できるのか? いまはこのような段階です。
正しい知識と、相手への思いやりや誠意があれば、なんとかなると考えている人もいるかもしれません。
しかし、先ほど確認したとおり、異文化の理解は根本的な解決につながりません。「尊重」はできても、「共生」はできないのです。
むしろ問題の本質は別のところにあります。
その「本質」を考えるために、次のシチュエーションを想像してみてください。
新入社員の親睦会。そこには、宗教上の理由でアルコールが禁じられている人がいます。
会場はどのような場所を選ぶべきでしょうか?
① お酒を飲むことが前提のバーや飲み屋はNG
② ソフトドリンクがあればバーや飲み屋でもOK
みなさんは①と②、どちらの回答に納得感があるでしょうか?
イギリスの「職場の宗教ハラスメント防止」ガイドブックには、①「お酒を飲むことが前提のバーや飲み屋はNG」と記載されているそうです。お酒を禁じる宗教は、自身が飲酒することだけでなく、酩酊した人のいる空間にいること自体が好まれないためです。
「一部の人だけが配慮されてずるい」と感じたでしょうか? もしそのような気持ちになったのであれば、そこにこの問題の本質が隠れています。
つまり、共生のための「落とし穴」とは、さまざまな宗教の人が共存する社会で、「不公平にならない」ようにしなければならないということです。
もし自分が一対一で飲食を共にするのなら、相手の宗教に合わせてあげればよいだけの話ですが、ほかにも人がいるのなら、どのような信仰を持つ人も「公平」だと感じる場をめざさなければいけません。
つまり、共生のためのルールが必要なのです。
これには正解がなく、また知識や思いやりで対応できる話でもありません。
多文化主義政策をとる国(英、米、加、豪など)では、さまざまな宗教をもつ人のために、それぞれ異なる施策が実施されています。
講義で紹介されるのは、礼拝所の問題。
空港には、宗教用に礼拝室が設けられていることがありますが、その規模や仕様は国によって異なります。それぞれの国ではどのような施策が取られているのか、ぜひ講義を視聴して確認してみてください。
学食のお茶は特別サービスなのか?
それでは、多文化主義政策があまり進んでいるとはいえない日本の場合はどうでしょうか?
講義で紹介されたのは、東大のイスラム教徒の学生の主張。
困っていることはないか、藤原先生が尋ねたところ、「学食で、豚肉料理がのっていた他の人の食器といっしょに、自分の食器が洗い場に流れるのをみてゾッとした」と答えたといいます。
この問題の解決方法を日本人の学生に聞いたところ、「マイ食器を持ってくる」、「有料の紙皿を提供する」という回答がありました。
イスラム学生への特別サービスになるので、自己負担ならOKだということです。
しかし、東大の学食ではお茶が無料で提供されています。ふだんお茶を飲まない人も、これがお茶を飲む人への特別サービスだと感じている人は少ないでしょう。一方、イスラム学生から見れば、お茶の方が特別サービスのように思えるかもしれません。
つまり、日本人の学生の多くは、「無宗教」の状態が社会のデフォルトであり、特定の宗教へ対応することは特別な優遇だと感じているということです。
一方、信仰をもつ学生(この場合イスラム学生)は、それぞれ宗教をもっているのが社会のデフォルトであり、一部の人だけ不便であってはいけないと感じています。
このように、日本社会は「無宗教」が一般的なので、世俗主義をベースとして暗黙のうちにルールを設定しています。
しかし、宗教ベースの社会からみると、そこには不公平に感じることも数多くあるのだといえます。
終わりに
ルール制定のためには、政治的な問題、社会の課題について話し合って、共に解決法を考えていく必要があるでしょう。しかし、その話し合いの前提自体が世俗主義の価値観をベースにしていることも多く、真の公正をめざすのは簡単なことではありません。
ただ、宗教の共生の障害として、特定の宗教への無知や偏見を挙げる段階はもう過ぎていることは確かで、これからは公正な社会を作るためのルールを考えていかなければいけません。
この講義動画は、OCWの動画としては比較的短く、1時間かからず視聴することができます。ぜひみなさんも動画を観て、学びを深めてみてください。
<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:共に生きるための知恵(朝日講座「知の冒険—もっともっと考えたい、世界は謎に満ちている」2014年度講義)第6回 宗教をめぐる共生の現在―“異文化理解”的発想の陥穽 藤原 聖子先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。