今、東京大学で歴史を専門に学び、研究できる学科は、「日本史学科」、「東洋史学科」、「西洋史学科」の3つです。そのほかの多くの大学でも、歴史学はこの3つの区分に分けられています。
しかし、高校で教えられる歴史は、「日本史」と「世界史」の2つです。東洋と西洋では分けられていません。
自国の歴史を学ぶ分野として日本史が独立して存在するのは理解できますが、わざわざ東洋と西洋を区分するのにそれほど合理的な理由はないように思います。
一体どうして、「東洋」と「西洋」の歴史が区別されているのでしょうか?
私たちの「歴史」に対するイメージを形作っている「近代歴史学」の流れを辿りながら、歴史のあり方の再考を促す講義動画を紹介します。
停滞している非ヨーロッパには歴史がないという近代歴史学の考え
今回講師を務めるのは、歴史学者の羽田正先生。世界史の再構築を研究テーマに掲げておられる先生です。
羽田先生によると、私たちが現在「歴史」として理解している近代歴史学の起源は19世紀の北西ヨーロッパ(ドイツ・フランスあたり)にあります。
もちろん、それ以前にも歴史と呼べるようなものはありましたが(ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』などは有名ですね)、近代歴史学は以下の点をもってそれ以前の歴史と区別されます。
それは例えば、「啓蒙思想と理性の重視、科学的思考法」、「文献学(文献批判の方法)の発展」などです。
『聖書』のような文献を絶対視するのではなく、それをひとつの歴史史料とみなし、相対比較して批判的に検討しながら「事実として」歴史を構築していくやり方は、まさしく今のアカデミアの歴史研究につながっています。
一方、近代歴史学の背景には、「進歩する人類社会という考え方」もあります。
19世紀の北西ヨーロッパではキリスト教の相対化と啓蒙思想の拡大が進んでおり、また、(どこまで実現できていたかは別として)自由と民主主義を備えた国家づくりが行われていました。そこでは「人類の社会は進歩する」という価値観が広く共有されていたといえます。
社会が進歩するからこそ、それを歴史としてまとめることに価値が生まれるわけです。
近代歴史学の創始者と言われるランケは『世界史概観』という歴史書をまとめましたが、「世界史」の名を冠した書物にもかかわらず、そこで扱われている対象はほとんどがドイツ、フランス、イギリスでした。
羽田先生によると、初期の近代歴史学は、「宗教が世界を支配して自由のない非ヨーロッパは停滞しているから歴史がない」と考えていたといいます。
そのため、東洋の歴史についての研究は、「歴史学」の枠組みでなく、「東洋学」の枠組みでなされることになります。(なんとこの区分は今でも続いているそうです)
「西洋史」と「東洋史」の区分って今でも必要?
日本は江戸期まで、中国を参考にした歴史記述を行っていましたが、明治期に開国してからは、この近代歴史学を採用することになります。
国令によって設置された帝国大学(現在の東京大学)には、1887年に史学科ができました。お雇い外国人のリースがそこで教えたのは、近代歴史学における歴史、すなわちヨーロッパの歴史でした。
1889年に日本の歴史を教える学科ができてからしばらくは、日本の歴史とヨーロッパの歴史の2本立てで歴史学が進んでいくことになります。
その後、1907年に京都大学に、1910年に東京大学に、それぞれ東洋史学科が誕生しました。
この経緯による区分が現在にもそのまま引き継がれ、現在の東京大学の歴史研究は(そして日本の歴史研究の多くは)、「日本史」、「東洋史」、「西洋史」に分かれて行われています。
この区分は以上のような歴史的要因によって生じたもので、それ自体になんらかの必然性があるわけではないはずです。(具体的に、近代歴史学を採用したのは西洋に対抗しようとする当時の国のためになると考えられたからで、東洋史学科が誕生したのは日露戦争の結果、大陸へ関心が向いたからです)
羽田先生は、果たして現在も「西洋史」、「東洋史」という区分が必要なのか、私たちに問いかけます。
ここまで読んだみなさんは、どう思うでしょうか?今でも私たちは近代歴史学の強い影響を受けています。
羽田先生は、講義中で近代歴史学を克服しようとする動きについても紹介されています。ぜひ講義動画を視聴して、中学校や高校、大学で私たちに染み付いた歴史の枠組みを捉え直してみてください。
今回紹介した講義:歴史とは何か(学術俯瞰講義)第2回 近代歴史学の歴史 羽田 正先生
<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>