【今一度 振り返ってみよう 日本の宗教観】宗教はあぶない?!
2022/08/24

2022年7月以降、報道やネット上で大変話題になっている、「政治と宗教」の問題……その距離感や関係性が盛んに議論されています。

今回紹介するのは、仏教学者である末木 文美士(すえき ふみひこ)先生の講義。
一連のオウム真理教事件が最も大きく問題となった90年代半ばから、10年ほど経った、2006年に開講されました。

2006年とは、どういう時期であったか。
その少し前、2001年にイスラーム過激派組織によるアメリカ同時多発テロ事件があり、2003年にイラク戦争が起きています。
同時期に、国内では、小泉純一郎元首相の靖国神社参拝について政教分離を疑問視する議論がありました。
つまり、国内外において、政治と宗教の関係性に注目が集まるような機会が続いていた頃であると言えるでしょう。
また、宗教研究の分野にとっては「オウムから10年」と振り返る節目でもあったと末木先生は語ります。

それからさらに16年の時を経た2022年の私たち。
この期間に、アラブの春、過激派組織イスラム国の新興、天皇陛下の御生前退位など、様々な出来事を経験しました。
政治と宗教は、昔も今も常に変わらず、密接に関わり続けています。
この講義で語られる危機感や問いは決して遠い過去の話ではなく、未だ褪せることなく我々につきつけられています。

さて、この講義の主なテーマは、「明治時代以降、日本の政治が宗教とどのような関係性を持って営まれてきたか」「宗教を学問として研究することはできるのか」ということです。
日本の政治と宗教の関係性に大変な注目が集まっている今は、「そもそも歴史的に、日本で暮らす人にとって宗教ってどんな存在なんだろう?」「今後、宗教とどう向き合っていけばいいのだろう?」ということを改めて考える良い機会かもしれません。

現代の宗教観:日本で暮らす人にとって宗教ってどんな存在?

前述の通り、講義の当時は「オウムから10年」という節目の時期でした。
一連の事件以来、日本国内では、宗教に対して「なんだか危ないものなのではないか」といったイメージが広く形作られ、(東京大学ではそのような傾向は顕著ではありませんでしたが)大学で宗教研究を志望する学生が減少したと末木先生は語ります。

現在でも、「宗教はなんだか触れてはいけないもの」「日常生活とはかけ離れた特殊な領域にあるもの」というイメージを持つ人は、多いのではないでしょうか。

「あなたにとって宗教とは何ですか?」
「あなたは何教徒ですか?」

と、改めて自分自身と宗教の結びつきについて質問されたら、答えに困ってしまう人の方が多いのではないでしょうか。
先生ご自身も、仏教について研究しているけれども、「では仏教徒なのですね」と言われれば困惑があるのだとか。

さて、ある世論調査では、日本で信教(信じている特定の宗教)がある人は30%以下だそうです。
この数字を見ると、日本は世界の中でも「国民が宗教離れをしている国」と言えます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。

ここで、文化庁が行った統計調査による「宗教年鑑」を見てみましょう。
この統計は、あらゆる教団が各々信者の数を申告する方法をとっており、「仏教徒は9500万人」「キリスト教徒は190万人」と足していくと……

——全部でなんと2億人!!

「あれ? 信仰を持つ人が国民の2倍もいるなんて、随分と宗教に熱心な国なんだなぁ〜」

という笑い話になってしまうのですが、なんとも不思議な結果ですよね。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 末木 文美士

……と、ここで勘の良い皆さまはもうお分かりでしょう。

そう、日本で暮らす多くの人は、明確に特定の宗教を信仰しているわけではない、かといって完全に無縁になりきれるわけでもない日々を送っているのです。

(1)自覚的な信仰:「私はこれを信じている・この道にいる」などと明確に言えるもの。礼拝・修行・祈祷を行うなど。

(2)生活に根ざして習慣化した宗教由来の行動:冠婚葬祭、初詣、七五三、お盆など。

この2つは全く違うもので、自覚的に特定の宗教の信者だという人は少ないかもしれませんが、ほとんどの人は、生活の一貫や文化的な営みとして、お寺・神社・教会などを訪れる機会がたくさんあるのです。

そして、このような日本の文化について、

「クリスマスの飾りをはずして、数日後にはもう正月飾りを準備している」
「教会で結婚式をしたのに、お寺のお墓に入る」

などと茶化して話題にすることはありますが、大抵の人は強く問題視せずに暮らしていますよね。

歴史的な宗教観:明治時代に二重の「隠蔽・補完」が行われた日本の宗教とは?

なぜ日本の多くの人が、宗教由来の行動を習慣化しつつ、特定の宗教を意識せずに暮らしているのでしょうか。
ここで、近代日本で政治と宗教がどのような関わりを持って来たのか、歴史を辿ってみましょう。

時は明治の初め、西洋から様々な文化が流入します。
夏目漱石をはじめ、当時の人々は新しく入ってきた「自由」や「愛」などの概念にも次々と訳を当ててゆきました。
英語における「religion」——(当時は主にキリスト教において神と契約を結び救済されるために)個人が信仰を持つという、当時の日本人にとってやや新しい概念も流入してきます。
その訳語として、もともと仏典に登場する「宗教」という言葉が当てられ、定着していきました。
(「宗教」とは、「仏教の真髄を説く法」を表す、仏教でこそ意味をなす用語でした。)
それまでの日本の一般庶民にとって、宗教の存在は、共同体維持のための制度や習俗などに近いものであったと考えられるでしょう。

一方、時の政府は、列強諸国と肩を並べることができるよう、今まで各藩バラバラだった日本が固く強くひとつになれるような新しい体制を、一生懸命作っている最中です。
明治政府は、天皇を君主とした政治を行う「王政復古(おうせいふっこ)」の考え方を重視し、さらに神道を国教とする「祭政一致(さいせいいっち)」(政教分離の反対の体制)を目指します。

それ以前、江戸時代まではどうだったかというと、神道ではなく、徳川幕府の統制下にあった仏教が強大な力を持っていました。
末木先生は「仏教は事実上の国教だったのでは」と語ります。
例えば、徳川幕府は宗教統制の一貫として、「寺請(てらうけ)制度」というものを設けていました。
各お家(いえ)が特定のお寺の檀家(だんか)となることによって、キリスト教などの信徒ではないことを証明したり、お寺からの報告で地域の人口を把握したりしていたのです。
仏教は、政治の仕組みに組み込まれ、人々の生活とも深く結びついていたと言えます。

このように強い影響力を持つ仏教を、明治政府は、神道の対抗勢力になる恐れがあるとして、神道と仏教を切り離す「神仏分離(しんぶつぶんり)」を押し進めようとします。
やがて、分離が行き過ぎた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が広まり、具体的には、仏具の廃棄や寺院の所領の接収などを行い、仏教だけでなく、修験道(しゅげんどう)など他の関連する宗教も禁止されました。

ところで。
「神仏分離」とは反対の状態を「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びます。
(この段落は授業には無い、おまけの説明です。)
みなさんは、パッと見ただけではお寺か神社か区別が付かない施設を見たことはありませんか?
例えば、東京の高尾山の上にある薬王院には、薬師如来(仏教)・天狗(修験道)・鳥居(神道)が大集合していて、建物の構造や形式なども入り混じっています。
このように、日本古来の神道と、6世紀に大陸から伝来した仏教とは、長い歴史の中で時にぶつかり時に形を変えながら、共存共栄する形を培ってきていました。
そして廃仏毀釈では、特にこの神仏習合のタイプの寺院が狙われ、寺の部分が破壊されるなどの被害に遭いました。
例えば、鹿で有名な奈良公園は、なんと、春日大社(神社)と共にあった興福寺(寺)の敷地の一部が接収された跡地なんです。
高尾山の薬王院は、破壊の手を逃れ、伝統的な神仏習合の様子が見て取れる貴重な場所なので、訪れる機会がある方は、ぜひよく見てみてください!

さて。
結果的に、無茶な廃仏の政策は失敗します。
当然、仏教側からの強い反発が起きますし、西洋から流入するキリスト教の勢いに対抗するためにも、影響力の強い仏教を排除することは現実的ではなかったのです。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 末木 文美士

仏教が権利を保ったことに加えて、欧米諸国からキリスト教の布教を進めたいという要望もあり、大日本帝国憲法(明治憲法/旧憲法)には「信教の自由」が明記されることとなりました。

かくして、日本で公的に、個人個人が自由に宗教を選んで信仰を持つことが認められたのです。

——進歩的! 
——日本の夜明けぜよ!

と思われるかもしれません。

しかし末木先生は、実はここで「二重の隠蔽と補完」が行われたという持論を展開します。

それはどういうことなのか、一緒に見ていきましょう。

まず、このスライドの画像をご覧ください。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 末木 文美士

ここで示されているのは、近代化した日本において、「仏教と神道が表層ではどのように扱われたのか」また「一方で実態はどのようであったのか」ということです。
いわば、仏教と神道の「本音と建前」です。

分かりやすいところから、左上の「個人宗教としての仏教」を見てみましょう。
これは、先ほども申し上げたように、1人の個人が、その人の心の問題として仏教を信仰してよいという自由が、憲法で保証されたということを表しています。
仏教がこのように英語の「religion」の意味で捉えられること自体は、まさに近代の幕開けだという印象を与えたかもしれません。

が、表層はそのように見えているだけであって、実際のところ、仏教が「お家(いえ)の問題」であることは、近代以降も引き継がれていました。
末木先生は、むしろ明治時代以降、「家」の縛りは民法によってますます厳しくなったというのです。
例えば、現在メジャーな「○○家の墓」という形式は、明治以後に定着したもので、遡ってみても幕末頃からしか見られない、新しい習慣であるとのこと。
いわゆる「葬式仏教」と揶揄されるものの始まりです。
このような家と仏教の切っても切れない結びつきは、深層に沈められた、江戸時代から続く「民俗としての仏教」の姿です。

次に、右下の神道を見てみましょう。
この頃、仏教の勢力には、「八百万の神を信仰して、土着の習慣と深く結びついた神道は、低俗であり、(religionとしての)宗教の要件を満たしていない」と主張する者もいました。
欧米の神学において主流であった「多神教は原始的な宗教であり、一神教は進歩的である」という考え方の影響があったと言います。
神道のこのような側面は、深層へ隠されます。

そのような考え方が存在する一方、明治政府は神道を「天皇家の祖先である神を祀り、その偉業を称えるもの」として、さらに憲法上「宗教ではないもの」「政治に属するもの」としました。
これが、「国家神道(こっかしんとう)」として理解されているものの始まりであり、上の画像の右上にある「非宗教としての神道」(神道非宗教論)です。
つまり、「個人の信教の自由を認めるけど、それとは別に(神道は宗教じゃないから)天皇の祖先のことはみんなで崇拝しようね」というわけです。
(この国家神道のあり方が、第一次・第二次世界大戦中の日本で大きな影響力を持ったことは、みなさんご存知の通りです。)

先生は、このような「二重の隠蔽と補完」が、近代日本の宗教体制を作り上げており、「新しい観念」と「実態」のずれや、「個人の内面の信教」と「制度的な都合」の捻れが、現代まで続く様々な問題を生んでいるのではないか、と主張します。
実際に、第二次世界大戦後にできた現行の日本国憲法では、政教分離が原則となっていますが、例えば、「公共施設の建造に際して地鎮祭をすることは祭事なのか、社会的な慣例なのか」ということは、度々問題に(裁判にも)なります。

「宗教」という言葉が指しているのは、信仰の対象としての宗教なのか、それとも習俗なのか……定義が揺れ動いてしまうため、違和感や居心地の悪さを伴い続けてしまうのでしょう。

今後の展望:宗教を学問することはできるのか?

さて、今までのパートでは、「今」を見つめ直すために「過去」を振り返りました。
ここからは、未来の話になります。

授業の最後のパートでは、これまでの議論を踏まえ、「それでは、学問的に宗教を定義することはできるのか?」「宗教を本質的に研究・学問するということはできるのか?」という問いへの答えが語られます。

——学問、そして大学は、本来、何のために生まれたのか。
——宗教も学問も、そもそも既存の人間社会の枠組みを飛び越えるためにあるのではないか。
——今、それらは部分現象として矮小化されており、今一度、問い直されるべきなのではないか。

このパートは最も熱く、先生の力強い言葉を、(特に学生のみなさんには)ぜひとも動画で見ていただきたいです!

また、この記事では都合上、歴史的経緯を主軸に抜き出しましたが、先生はその傍で、現代日本の哲学者・宗教学者らが宗教をどう定義しようと試みてきたか、繰り返し紹介しています。
我々にとって、宗教とは何なのか。
今まさに起きている問題をしっかり捉える・熟慮するためのヒントは、そこにあるような気がします。

今回紹介した講義:学問と人間(学術俯瞰講義)第5回 宗教はあぶない?! 島薗 進・末木 文美士先生

<文:加藤なほ/東京大学オンライン教育支援サポーター