ミシェル・フーコーの歴史観【哲学の「思いあがり」を捨て去るために】
2022/12/21

現代思想を代表する哲学者、ミシェル・フーコー(1926-1984)。権力や知識の関係を論じたフーコーの著作群は、いまもなお強い影響力をもっています。

そんなフーコーは、しかし、自らを哲学者ではなく、むしろ「歴史家」だとしました。

フーコーの主たる業績は、「哲学」というべきものであったにもかかわらず、どうして「歴史」という呼称にこだわったのでしょうか?

今回は、主著のひとつである『言葉と物』を通して、フーコーの歴史観を理解するための講義動画を紹介します。

「エピステーメー」によって区分される西洋の歴史

今回紹介する講義の講師は、東京大学の名誉教授であった、哲学者の坂部恵先生です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

坂部先生は、2009年に亡くなるまで、日本を代表するカントの研究者として数多くの著作を残されました。講義で紹介されるフーコーの『言葉と物』でもまた、カントは非常に重要な人物として取り上げられます。

『言葉と物』で提示されるフーコーの歴史観は、一言でいうなら、「知識のあり方によって時代を区分する断続史観」です。

私たち人間の歴史は、時間的にはたしかに連続しているのですが、歴史としては、ある一定の時期に断絶が起こっているのだと、フーコーは主張します。

フーコーが「断絶」として提示したのは、以下の3つの時期です。

① ルネンサンス(有機的アニミズム的自然観)

② 17世紀(古典主義時代)(「表象」の時代)

③ 18世紀末〜19世紀初め(実証諸科学の成立、ロマン主義の衰退史観の登場、「モデルニテ」(「モデルネ」)の時代のはじまり)

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

この時期に断絶が起こっているということが、自分の歴史認識としてもなんとなく納得できるという人もいれば、ピンとこないという人もいるかと思います。ただ、ひとまずここでは、フーコーが「断続史観」を提唱しているということを理解してください。

ここで時代を区分している「知識のあり方」というものを、講義中の言葉でもう少し丁寧に説明すると、それは「知識を生じさせる時代の深層の枠組」になります。この枠組みを示す「エピステーメー」という言葉は、『言葉と物』のキーワードです。

「人間」の時代としての近代

フーコーに従うならば、私たちがいま生きているのは、③の断絶後の時代です。

フーコーは、これ以降の時代を「モデルニテ」だとします。とりあえずはこの概念を「近代」として捉えることができるでしょう。

そして、このモデルニテのエピステーメーを作るのに強い影響力をもったのが、まさしく先ほど紹介したカントでした。カントが活躍したのは、まさしく③の断絶にあたる、18世紀の後半です。

モデルニテのエピステーメーの基盤のひとつは、カントが提示した「人間学への四つの問い」にあります。

カントは、哲学者ヒュームの哲学に触れたことで、外界の物体の存在を前提する学問のあり方を疑うようになり、人間の理性の探究と考察をその哲学の軸におきました。

(ここでのカントの気づきは、簡単にいうと、全ての物体は自分が認識したもの(仮象)に過ぎないから、それを実体と見なすことはできないということです。それゆえ、認識の客体ではなく、認識の主体である人間のほうを探求していくことになります)

そして、4つの問い、「私たちは何を知ることができるか?」(形而上学)、「私は何をなすべきか?」(道徳学)、「私は何を希望してよいか?」(宗教学)、「人間とは何か?」(人間学)を打ち立てます。これらの問いは全て、結局は人間についての問いであるため、4つ目の人間学の問いに集約されていきます。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

このカントの問いを出発点として、モデルニテの哲学は「人間学」としてすすめられていくことになりました。

哲学の「思いあがり」

「哲学」が基本的に「人間学」であるのは、フーコーの時代も(そしていまも)変わりません。

しかし、フーコーはこの人間学の構想を「まどろみ」(≒正しいものが見えていない状態)だとします

冒頭で、フーコーは自身を「歴史家」と捉えているのだと述べました。それは、フーコーが「哲学」を外から見つめ、そのあり方に否定的な面を見出していたからでしょう。

なぜ人間学が「まどろみ」なのか、それは人間学に、「先験的(超越論的)」な部分と「経験的」な部分が相対する〈折り目〉があるからです。

このあたりの議論はとくに抽象的で分かりにくいのですが、人間学の「先験的」な部分を「哲学」に、「経験的」な部分を「実証科学」(生物学・経済学・言語学など)におきかえて捉えると、大きくずれることなくフーコーの意図をつかむことができるでしょう。

坂部先生は、人間学の時代になってから、実証科学が「経験的」になしえた成果を、哲学が「先験的」に覆い尽くすようになったといいます。これはつまり、実証科学の成果を理論化する役割を、哲学が担ったということです。

このような構図があるために、一部の哲学者のあいだで、哲学が経験科学より上に立っているのだという理解がなされ、哲学の「思いあがり」が進んでいきます。

一方、実証科学のほうにも、「人間は世界の諸現象を征服した」のだというような、別の思いあがりがあります。(これは進歩史観につながります)

坂部先生いわく、このような「思いあがり」ゆえに、「哲学者」は実証科学を見下す一方で、また馬鹿にされることになりました。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2006 坂部恵

人間学の「まどろみ」から抜け出すために

それでは、私たちはどのようにして、人間学の「まどろみ」から抜け出すことができるのでしょうか?

まずは「思いあがり」を捨てて、先験的・経験的〈折り目〉を取り払う必要があるでしょう。

さらにフーコーは、ある方針を打ち出しているのですが、それがどのようなものであるか知りたいかたは、ぜひ講義動画を視聴して確認してみてください。

講義で示されるフーコーの歴史観は、いまでもまったく古びておらず、現代に通底するエピステーメーを捉えるうえで、さまざまな示唆を与えてくれるはずです。

坂部先生の講義がみられる貴重な動画ですし、そして何より、人文学を学ぶうえでは、その専門家の主張をそのまま見聞きすることが、とりわけ重要だと思います。

今回紹介した講義:学問と人間(学術俯瞰講義)第10回 人間学のまどろみ 坂部恵先生

<文/竹村直也(東京大学オンライン教育支援サポーター)>