人は変化するーインドのスピリチュアリティから考える他者との付き合い方(「いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう?」冨澤 かな先生)
2025/05/22

 ”オリエンタル”という言葉は、あまり一般的に使用されなくなって久しいかと思いますが、みなさんはこの言葉についてどのようなイメージを持っていますか。従来は、美術における東洋趣味として「オリエンタリズム」という言葉が使用されていましたが、現在では違う意味で使用されていることの方が多いかと思います。「オリエンタリズム」という言葉は、アカデミズムの世界では一昔前にもてはやされた思想です。

 1978年にパレスチナ系アメリカ人の文学研究者、エドワード・W・サイードが『オリエンタリズム』という本を上梓しました。その本の中でサイードは、これまでの西洋における植民地支配や帝国主義を正当化する思想、概念であるとして「オリエンタリズム」を痛烈に批判したのです。サイードが批判したことにより、それまでの「オリエンタリズム」に支えられた帝国主義思想が見直されてきました。しかし、今回ご紹介する冨澤かな先生による講義動画『いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう? 』では、現在もなお「オリエンタリズム」は健在であり、私たちの日常に分断を生じさせている、と先生はお話されています。

現代の「オリエンタリズム」?

 冨澤先生は宗教学がご専門で、その中でもインド哲学と死生学を研究対象とされています。”宗教”、”インド”、”死”と一見異なるものを繋ぐ鍵として「オリエンタリズム」を掲げられています。研究者の間では「オリエンタリズム」は一昔前に流行した、と上述しましたが、すでに私たちは「オリエンタリズム」を克服したのでしょうか。

 「オリエンタリズム」という概念については、紙幅の都合上、詳細な説明は省きますが、先生は講義の中で、”権力を伴う自己と他者との利害問題”とご説明されています。概括すると、利益を得るために自己を正当化し、他者にネガティブなイメージを押し付ける、といった行為です。そのため、「オリエンタリズム」は東洋や近代の研究者の間だけの問題ではなく、すべての人にとって身近で重要なトピックであると言えるのです。

批判のジレンマ

 ここで講義は「宗教」についての議論に移ります。日本で”宗教”という言葉は、明治期に”religion”の訳語として採用されました。「宗教」という言葉はもともと「宗の教え」という意味であり、宗教そのものを表す語ではありませんでした。西洋から流入された概念に訳語を当てる際に、本来の概念からずれてしまうということは他の単語でもよくある上に、それは日本に限った話ではありません。インドにおいては、西洋から”spirituality”という言葉が流入してきた際に、それを単に受容したわけではなく、その語用が独自の解釈、主体性を持ったものであったという見解があります。このことを端緒に、”「オリエンタリズム」=分断”といった従来の等式ではない方法を模索していくことが重要であると先生はおっしゃいます。

 というのも、”西と東”、”自己と他者”などの分断を指摘すること自体が、二元論的な枠組みをより強固な概念として再生産、固定化してしまうということが、どうしても避けられないからです。西洋がいかにオリエンタリズムとして東洋を虐げてきたかという歴史を批判し、指摘すればするほど、その考えが反復と拡散と浸透により、その現実から抜けられない、という皮肉は様々な場面で見られる現象ではないでしょうか。

「みんなちがってみんないい」?

 それではどのようにして、優劣の二元論から抜け出ることができるのでしょうか。まず、”優劣”の概念を取り払うためには、複数性・多元性の概念を取り入れなければなりません。それぞれが違うということを認め、優劣は存在しない、という考え方です。これは一見、とても良い解決法に見えますが、相対主義に陥ることは免れません。互いに干渉せず他人は他人として関わらない、という相対主義は同化と異化の間をさまようだけで、他者との関係性においていずれ行き詰まってしまうのです。相対主義が全く無益というわけではなく、優劣を排除するためには多元的な相対主義が有効ですが、そこに安住してしまうと、他者との関係性において発展性が見込めなくなってしまうのです。そこからさらに一歩進めた関係性へと変化させていくためには、他者との間に共通性を探り、対話を始めなくてはならないのではないか、と議論は進みます。

インドにおけるスピリチュアリティ

 もともと”神秘的””宗教的”といった語は非合理的でネガティブな側面として西洋が東洋に押し付けたイメージですが、それらは普遍的価値を有した語でもあります。講義では、インドにおけるスピリチュアリティについて触れていきます。インドのスピリチュアリティを語る上で外せない人物としてヴィヴェ-カーナンダという宗教者がいます。ヴィヴェーカーナンダは、近代の「スピリチュアリティ」という概念形成に大きく寄与した人物であるとして冨澤先生はご紹介されています。

UTokyo Online Education いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう Copyright 2024, 冨澤 かな

 ここで冨澤先生は、ヴィヴェーカーナンダの考えていたスピリチュアリティがどういうものだったのかを研究する手法として、定量的な評価方法を採用されています。人文系の研究、とくに宗教学や哲学などの分野ではあまり採用されない手法ですが、抽象的な概念を語る際に一定の効果のある手法であると言えます。例えば、彼の全集の中で”スピリチュアリティ”という単語が何回使用されているのか、それが他の思想家や宗教者と比較して多いのか少ないのか、またその中でも利用頻度の高い文書は何年に発表されたものか、といったことを事細かに調査されています。

 その結果、ヴィヴェーカーナンダは「スピリチュアリティ」という言葉を、西洋からインドに帰国した直後に書いた文書の中で頻繁に使用していたことが分かりました。そのことから、西洋の影響を受けたのだろう、と一見すると推測できますが、ヴィヴェーカーナンダは西洋のキリスト教的な意味でスピリチュアリティという言葉を使用していません。あらゆる宗教の壁を越えた普遍的な意味での霊性、という現代的な意味用法としてこの言葉を使用しています。この意味での使用は、同時代の宗教家や思想家にはほとんど見られず、ヴィヴェーカーナンダ自身が独自の概念として使用し始めたことが分かります。

二元性を越えて普遍性へ

 ヴィヴェーカーナンダは、インドのスピリチュアリティを西洋による支配を逃れるものとして打ち立てただけではなく、それを超越し、東西関係なく普遍的なもの(=霊性)へと高めようとしていたことが、彼の文書から理解できます。二元性の対立ではなくそれを超越していこうとする彼の思想は、多元主義、文化相対主義的なものを越えて他者との間に共通言語を見出し、対話していこうとする態度とも言えます。

 講義後の質疑の時間に冨澤先生は、ご自身のインド留学時のご経験を語られています。インドの寮生活では、毎日のようにカレーを食べられていたそうですが、インドでの滞在が長くなるにつれ、カレーはカレーでもその違いが理解できるようになってくるそうです。経験により文化的な尺度の解像度が上がっていくことで、人は変われるということを身をもって体験されたそうです。通常人間は環境や習慣の変化を嫌います。しかし、自らが変化していくことで他者との関係性も変化していくことがあるのではないか、それは希望となり得るのではないか、と先生は強調されます。

UTokyo Online Education いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう Copyright 2024, 冨澤 かな

 また質問時に、講義内では時間の都合上触れることができなかったのトピックや、仏教、ヒンドゥー教における量子力学的な認識についてもお話しされています。数十年前と現在では死の在り方が急激に変化し、死が社会から疎外されてきていることは誰にとっても他人事ではない問題です。
 ”スピリチュアリティ”という言葉は”霊性”や”精神性”など文脈によりさまざま意味で使用されますが、”スピ”という言葉もあるように、一般的には前近代的で非科学的なものとして、周縁化した他者として考えられていることが多いかと思います。これもある種の分断=オリエンタリズムとして捉えることも可能かもしれません。このような自身が異化したい存在の中にこそ、自己の変化の種と気づきが眠っているのではないでしょうか。みなさんも冨澤先生の講義動画を視聴することで、無意識のうちに他者化してしまっている存在を見つめ直し、自己の変容を促すきっかけを得られるかもしれません。

〈文/みの(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:学術フロンティア講義 (30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える) 第10回 いま「東洋」と「近代」を考えて、未来に何をのぞめるだろう? 冨澤かな先生

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