みなさんは「偶然」を感じたことはありますか?「ご縁がある」「運が良い」「持ってる」「神ってる」といった言葉は日常的に耳にするように、私たちの生活はさまざまな偶然に取り囲まれています。偶然というものは、私たちが生きている上で必ず出会うものです。その「偶然」という言葉を、学問研究はどう考えるのか。この講義は、「偶然」を様々な切り口から考えていく朝日講座「〈偶然〉という回路」の第一回です。
「日本文学にとっても、偶然という要素は切り離せません」と渡部泰明先生は言います。渡部先生は東京大学文学部教授(2017年当時・現在は国文学研究資料館の館長)で、和歌文学を専門とされている方です。
この講義では、渡部先生と一緒に、和歌と「偶然」の関係について考えていきます。
和歌と「偶然」ー序詞とは何かー
和歌と「偶然」を考えるうえで重要なのが、「序詞」という修辞技法です。
「序詞」とは、「二句もしくは七音節以上から成り、和歌の主想部・本旨を導き出す働きをする語句」のことです。和歌は五・七・五・七・七という三十一音からなる短い文学ですが、序詞は、そのうちの二句(たとえば最初の五音と七音の部分)、あるいは七音以上を使った表現で、「その和歌が最も伝えたい内容」を導くためのものである、ということです。
序詞には三つの特徴があります。第一に、序詞は一首の前半に置かれることが多いということ。たとえば、上の句が序詞で、下の句は序詞によって導かれた主想部になる、といった例が多く、下の句に序詞が来ることはほぼありません。第二に、序詞は景物を主とするということ。景物というのは自然の風物のことです。第三に、序詞によって導かれる主想部は心情を主とするということ。つまり、序詞で自然の風景や物を詠んだあと、心情を述べる表現が続く、という構造になります。
和歌と「偶然」ー序詞の種類ー
さらに、序詞には三種類あります。ここでは具体的な和歌とともに学んでいきましょう。
一つ目が、類音の繰り返しに基づく序詞。「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな(古今集・恋一・四六九・よみ人知らず)」の和歌では、「あやめ草」までが序詞で、「あやめも知らぬ恋もするかな」が主想部です。植物「あやめ草」の「あやめ」という音だけ借りてきて、下の句の「あやめも知らぬ」というフレーズを導き出しています。「あやめ」というのは物の筋目のことで、「あやめも知らぬ」では、物の道理もわからなくなる、闇の中を彷徨うような恋の様子を描いています。そんな恋の思いを表現するにあたり、特に「あやめ」という言葉を導き出すためだけに、序詞を用いているのです。それなら、序詞は無駄な要素だと言えるのではないでしょうか。たった三十一音しかない和歌の十七音分を、一番言いたいこととは異なる序詞に費やすのはなぜでしょうか。
また、「浅茅生の小野のしの原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき(百人一首・源等)」の和歌では、「浅茅生の小野のしの原」までが序詞で、「しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」が主想部です。「しの原」という語が「しのぶれど」の「しの」を導き出しています。「浅茅生の小野のしの原」という情景は、和歌の意味とはあまり関係がありません。ただ「しの」を導くためだけに「浅茅生の小野のしの原」と表現されています。「しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」という、我慢して我慢してそれでも我慢しきれない恋心を伝えたいのに、なぜ序詞を使うというまわりくどいことをするのでしょうか。
二つ目が、比喩に基づく序詞。「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし(百人一首・二条院讃岐)」の和歌では、「沖の石の」までが序詞で、「人こそ知らねかわくまもなし」が主想部です。「誰も知らない(人こそ知らね)」ことと「いつも濡れている(かわくまもなし)」こと、両方を兼ね備えた表現が「潮干に見えぬ沖の石」です。私の袖は潮が引いても見えない沖の石だ、だから、誰も知らないけれどもいつも濡れている…序詞の部分で「我が袖」を「沖の石」に喩えており、その情景と重なる心情が下の句に続きます。これは序詞の内容と心情が重なり合っているため比較的理解しやすいですが、それでもなぜこのように比喩を用いるのかは疑問が残ります。
三つ目が、掛詞に基づく序詞。掛詞とは、一つの言葉に二つの意味を持たせる洒落のような技法です。「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝む(百人一首・柿本人麿)」の和歌では、「しだり尾の」までが「長々し」を導く序詞、「長々し夜を独りかも寝む」が主想部になっています。この和歌で最も言いたいことは夜の心理的な長さですが、その「長々し」を導くために、心情とは関係のない序詞で十七音も使ってしまっています。
このように見ていくと、序詞というのは「音が重なる」というのが一番大事な要素であることがわかります。特に類音の繰り返しに基づく序詞や掛詞に基づく序詞は、「偶然同じ音だった」ということだけで言葉を選んでいるように思えます。和歌というのは詩であり、詩というのは内面の表現です。それなのに、なぜ内的な必然性に基づく表現ではなく、「音が偶然同じだった」という外的な偶然性に基づく表現を用いるのでしょうか?
和歌と「偶然」ー現代短歌の序詞的表現ー
上記の疑問を解決する糸口を見つけるため、今度は現代短歌における「序詞的な表現」を見ていきましょう。
「くろ髪の〜」の短歌は、「みだれ髪」までが下の句の「かつおもひみだれおもひみだるる」を導いている、同音の繰り返しによる序詞的表現となっています。
「大工町〜」の短歌は、この短歌で最も言いたいことは「老母買う町あらずやつばめよ」であり、それを導くために「大工町寺町米町仏町」と表現している序詞的表現です。
さらに、渡部先生は、「サバンナの〜」の短歌は「サバンナの象のうんこよ」が序詞的表現だと言います。もし、「サバンナの象のうんこよ」が無かったら、どうでしょうか。「聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」だけでは、自意識の垂れ流しのようで、誰も共感できないのではないでしょうか。ところが、「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ」と表現されることで、広大なサバンナという空間のイメージが加わるほか、「自分は広大なサバンナの中の象のうんこくらいしか価値がない人間だ」といった自己の隠喩が含まれます。その情景があって「聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」と言われることで、自己表現が共感を得るものへと変貌していっています。
このように、序詞の効果は、心情の表現が具体的なイメージと対置されることで、共感を得るものに変わっていくことにあるのです。共感を得るものへと変わる理由は、「外からきたものが自分の内面にいつの間にか寄り添う」という体験ができるからだと渡部先生は言います。遠いと思っていたことが結びついていくんだ、全然無関係なものが結びつくんだ、という運命的な出会いを序詞によって経験できるのです。
課題ー和歌・短歌を作ってみよう!ー
上記で述べたような運命的な出会いは、実際和歌・短歌を作ってみてこそわかるものです。そこで、この講義の後半では、実際に短歌を作るという課題に取り組みます。
まず、心情を表す下の句(七・七)を各々作ります。次に、その下の句をシャッフルされたうえで個々人に割り当てられ、自分に割り当てられた下の句に序詞をつける、という作業です。ただし、「東大」に関わる言葉を必ず一つ入れる、という条件もあります。
受講者がこのように共同作業で作った短歌を、グループワークで鑑賞・批評する、というのがこの講座の特徴になっています。
見応えのある短歌五首とその鑑賞が見られますので、ぜひ動画を最後までご覧いただき、序詞による「運命的な出会い」を体験してみてください!
<文/長谷川凜(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) 第1回 偶然と日本古典文学 渡部泰明先生
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