<牛を飼う民俗学者>の菅先生と考える、フィールドワークにおける研究者の介入
2022/06/30

現場に出向くことで調査対象の集団について深く知ろうとするフィールドワークは、文化人類学や社会学などにおける主要な研究手法の一つです。

しかし度々、フィールドワークはこのような疑問を投げかけられます。
研究者の介入によって調査対象が変容してしまうのではないか?
そうであるとすれば、研究の手法として適当ではないのだろうか?

そこで今回は、フィールドワークによる研究者の現地への介入について、「偶然」をテーマに据えながら、民俗学・文化人類学がご専門の菅先生と一緒に考える講義をご紹介します。

特に人文系や社会系の研究を行う方は必見の内容です!

二十村郷「牛の角突き」と宮本常一の介入

菅先生が調査を行っているフィールドは、新潟県中越地方の山間部に位置する「二十村郷」地域です。
この地では数百年前から「牛の角突き」という闘牛の祭礼行事が受け継がれており、昔の行事の様子をよく保っていることから国の重要無形民俗文化財に指定されています

UTokyo Online Education 東京大学朝日講座 2017菅豊

実は、菅先生より前にこの二十村郷を扱ったフィールドワーカーがいました。
『忘れられた日本人』や『塩の道』などで知られる民俗学者の宮本常一です。
宮本が初めてこの地を訪れたのは1970(昭和45)年。偶然知り合った当時の山古志村長に招かれ、講演を行ったのがきっかけでした。

二十村郷の豊かな文化を気に入った宮本は、通常の調査に加え、地域の文化財保護や観光振興に積極的に関わりました。
まさに現場に積極的に介入するフィールドワーカーだったのです。

地域振興の一環として、宮本は親交のあった文化庁調査官・木下忠に依頼し、二十村郷に国の文化財指定を受けられる文化資源があるか調査させました。
木下は当初、住民の手で掘られた隧道(トンネル)群を調査していましたが、牛の角突きの存在を偶然知り、指定の見込みがあると判断しました

木下が文化的価値を認めたこともあり、牛の角突きは1978(昭和53)年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
牛の角突きの文化財指定は、宮本のフィールドへの介入をきっかけに複数の偶然が重なり合った結果だったのです。

フィールドが被災地になった。新潟県中越地震

時は下り、宮本と木下が活躍した約20年後。偶然の出会いが重なり、菅先生は牛の角突きを調査するフィールドワークを開始しました。

当時の菅先生は「普通の民俗学者」、すなわち外部から来たアウトサイダーとして地域と関わるというスタンスをとっていました。

しかし2004(平成16)年、このスタンスに大きな転回がおきました。
マグニチュード6.8、最大震度7の新潟県中越地震が二十村郷を襲い、地域一帯が被災地になってしまったのです

通常のフィールドワークが困難になる中、復興に関する補助金が入ることで、「雨後の竹の子」のようにたくさんのフィールドワーカーやコンサルタントが現地に集まってきました。

募金やシンポジウムに奔走していた菅先生は、自分は二十村郷においてどのようなフィールドワーカーであるべきか考え抜いた結果、アウトサイダーからインサイダーになる道を選びました
そしてこの地に牛を飼い始めました。「牛を飼う民俗学者」の誕生です

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「消極的に巻き込まれる」フィールドワークから「積極的に関わる」フィールドワークへの転回は、以上のように思いもよらない形でおこったのでした。

「ずれ」「ずらし」の偶然性と、今なお生きる「宮本常一」

菅先生がインサイダーとしてフィールドワークを行う中で、ある出来事が起きました。
動物愛護管理法改正に向けた国の有識者会議の中で、二十村郷の牛の角突きの是非が議論されたのです。

情報をキャッチしていた菅先生が地域の宴会でこの話題を持ちかけたところ、住民に衝撃をもって受け取られ、詳しく解説する場を持つことになりました。
そこでは将来的なユネスコ無形文化遺産の申請リスト記載も見据え、動物愛護の観点を牛の角突きに持ち込むことの必要性を説明しました

しかしなぜか二十村郷の人々はこの説明を、「以前から二つに分裂していた運営団体を再度統一すべし」という内容だと「ずれ」て受け止めました。
そしてこの「ずれ」は解消することなく、実際に統一団体の発足まで一気に進んでしまいました。

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いったいなぜ、このような「ずれ」が生じてしまったのでしょうか。

菅先生によれば、これはフィールドワークという地域への介入が引き起こした、まったく予測のできない偶然の結果だったといいます。

実は一部の住民にとって、運営団体の分裂という状況を修正することが長年の重要課題として残存していた
そこに「動物愛護」「無形文化遺産」という実体のよくわからない概念が持ち込まれたことで、その課題意識が惹起され、触発された
こうした予測不可能な作用がはたらく過程で、住民が情報を「ずれ」て「ずらし」て読み替えていったと、菅先生は分析しています。

ではなぜそもそも、そんな課題が生じていたのか?

実はこちらは数十年前の宮本常一のフィールドワークが引き起こした、これまた予測不可能な偶然の結果だったのです。

どういうことか気になる方は・・・。ぜひ講義動画を観てみてください。

まとめ

菅先生は以上のような自身の経験を踏まえ、フィールドワークにおいて研究者が地域に影響を与えること、そしてその影響が不確実で予測不可能なものであることは避けられないと言います。

そのうえでフィールドの人々と一緒に現実を創り上げることができる点や、そのプロセスに他者だけでなく自己も含めながら研究ができる点に、単なるデータ収集の手法に還元されない、実践としてのフィールドワークの優越性が存在していると述べています。

そしてなればこそ、フィールドワーカーには対象集団の中に長い期間身を置き、現場を体験してその意味世界を理解する「共感(empathy)」が求められる。そのように締めくくり、講義のまとめとしています。

ぜひこちらの講義を通して、フィールドワークという手法について考えてみてください。

今回紹介した講義:〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) 第6回  フィールドワークでは偶然は避けられない:無形文化財という言葉が生み出した幻影 菅 豊 先生

<文/小林 裕太朗(東京大学オンライン教育支援サポーター)>