戦争、紛争、格差、貧困、差別……
私たちが生きるこの世界には、人間社会の誕生以来続く問題が、今もなお繰り返されています。
イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、次のような有名な言葉を残しています。
民主主義は最悪の政治形態だといえる。ただし、これまでの民主主義以外のあらゆる政治形態を除いて。
この言葉は、民主主義の有用性を主張するために用いられてきましたが、一方で現代の政治にまだ多くの問題が残っていることを示してもいます。
しかし、現状の課題を乗り越える新しい政治秩序とは、どういったものなのでしょうか?
そこでカギとなるのが、西洋とは異なる見方で世界を認識してきた、中国の思想です。
実は、中国では今まさに、国際政治学の分野で、西洋を中心に整えられた制度を乗り越えるような世界秩序が次々に提示されています。中国が新しい国際政治制度を考えるホットスポットであるとも言えます。
そして新しい世界秩序のうちのひとつに、長く中国の政治の基盤となってきた「天下」の思想をもとにしたものがあります。
天下思想というと、近代の国際化によって打ち捨てられた古来の思想のように感じる人もいるかもしれません。
そんな天下思想に、問題を解決するどのような可能性が秘められているのでしょうか?
近代の中国哲学を専門とする東京大学大学院総合文化研究科の石井剛先生と一緒に、これからの世界について考える講義を紹介します。
「中国」はどこにあるのか
しかし、そもそも「中国」とは一体どこにあるものなのでしょうか?
講義はまずこのような問いを立てるところから始まります。
「中国」は「中華人民共和国」のことだろう、と自明に考える人もいるかもしれません。
しかし「中国」は、長い歴史の中で、中心となる王朝も、その支配が及ぶ領域も変遷してきた国です。
講義では、近代中国の思想家、梁啓超(1873-1929)や章炳麟(1869-1936)、康有為(1858ー1927)らによる、中国の捉え方が紹介されています。
時代はちょうど清朝が滅亡する変革期でした。3人はそれぞれ、ただ「中国」について定義したりその未来を予測したりしていたのではなく、中国を捉えなおすことによって、より良い「中国」のあり方を模索していました。
いずれにせよ、「中国」を考える場合は、その長い歴史も視野に入れなければいけません。
「中国」はどこにあるのかという問いは、一見するほど自明な答えを持つものではないのです。
中国に一貫するものとは
それでは、中心から外縁にいたるまで、あらゆるものが変化してきた中国には、一貫するものはないのでしょうか?
講義では、この問いに正面から取り組む現代中国の歴史学者・葛兆光(かつ ちょうこう)が紹介されています。
葛兆光は、雑誌『思想』(2018年第6号)に寄せた論考で、「何が中国か?」という問いに答えています。
ここでは、先ほど確認した「現代中国 のすべてのエスニック・グループ、領域と歴史を歴史上の中国のものとしてはならない」ということなど、中国の政治的・社会的な枠組みと実態が述べられています。
注目したいのは、5の「近代国家であり天下の帝国という複雑な性格を併せもつ現代中国は、当面の国際秩序の中で 多くのトラブルに直面しています」という文言です。
中国が古来より有してきたのは、西洋で生まれた近代国家の政治制度ではなく、天下による政治制度でした。
天下の政治制度を取ってきた中国は、19世紀から20世紀にかけての厳しい歴史のなかで、やむをえず近代化を進めてきました。しかし、天下の仕組みはまだ残っているため、中国では様々なトラブルが生じていると言います。
それでは、天下の政治制度とは一体どういうものなのでしょうか?
講義はこのあと、「天下」をキーワードとして進んでいきます。
地を天によって支配する
古代中国の世界イメージに「天円地方」というものがあります。
「天円地方」は、天下思想を反映したイメージで、講義ではそれを図にしたものが示されます。
その図では、天が円形、地が方形であらわされます。
大きさの異なる方形が中心から順に広がっていき、円で囲まれています。
最も中央にある方形は皇帝が治める天下の中心で、その次の方形が朝貢システム下の地域、一番外側の方形は、文明に属さない「野蛮な」地域です。
そしてその外側(ないしは2つ目の方形の外側)に、円、すなわち天があります。
古代の中国の世界観では、中国はひとつの国家だったのではなく、世界そのものでした。
そしてその世界こそが、広大な地を天によって支配する「天下」という言葉であらわされるものなのだと言えます。
天下による世界秩序
ここで紹介した「天下」は、古代中国の世界観でした。
しかし記事の冒頭でも紹介したように、この天下の考え方は現代の政治制度を見直すためのひとつのカギになっています。
天下をひとつのシステムとして捉え、新しい世界秩序を提案している中国の政治学者に、趙汀陽(ZHAO TINGYANG)という人がいます。
趙汀陽は、天のもとのあらゆる土地を、世界の人々全員による共通の選択によって治めるべきだと主張します。ここでの天下は、実質的に世界政府のような役割を果たします。
世界政府というと、国際連合のようなものをイメージする人もいるかもしれません。
しかし国際連合は、国民国家を前提として成立しているという点で、趙汀陽の提案する世界政府とは根本的に異なります。
天下による世界秩序は、国民国家を超えたところにある、全世界の共同体のようなものだからです。
趙汀陽は、「世界史は疑わしい概念だ。人類はまだ『世界を世界とする』には至っていない」と述べています。
ここで趙汀陽が主張しているのは、「世界史」は単なる各国の歴史の寄せ集めでしかなく、本来的な意味での「世界史」はまだ存在しないのではないかということです。
近年、歴史学の分野において、「世界史」を各国の歴史の集合体ではなく、世界全体のダイナミックな動きとして捉える「グローバルヒストリー」という潮流があります。
趙汀陽の天下システム論は、実際の政治制度において、グローバルヒストリーのような一体の世界の実現を想定していると言えるのかもしれません。
(グローバルヒストリーに興味のある方は、羽田正先生の講義をまとめたこちらの記事も併せてご覧ください)
天下システムの中心になるもの
さて、ここまで読んで、みなさんのうちには天下システムに多少の不信感を抱いた方がいるかもしれません。
なぜなら、天下システムとは、天下の「中心」を必要とするシステムだからです。
何か特定の国家や人種を中心に据えるのであれば、強い反発が起こるであろうことは容易に想像がつきます。現実に何を中心とすべきかは、難しい問題です。
趙汀陽は、「グローバル金融システム、グローバルテクノロジーシステム、インターネットのように真の意味で実効的な力をもっている機構や組織」が基礎になる可能性を考えています。
つまり、「世界的にシェアしながら共有し共同管理するようなグローバルシステム」が天下システムの中心になるということです。
講義ではサイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させた社会「Society 5.0」が天下社会の具体例として紹介されています。
天下のための世界理念
しかし、グローバルシステムによる世界秩序は、特に天下思想と関係なく実現可能のように思われるかもしれません。
事実、私たちの社会はインターネットや経済のグローバルシステムによって支配されつつあります。(それはある種のディストピアの様相もなしています。)
ですが、グローバルシステムはそのまま天下になるわけではありません。
なぜなら、グローバルシステムが利己的なものであれば、世界中の人々が利益をともに受け取れる世界制度を打ち立てることができないからです。現状のグローバルシステムは、グローバル資本、技術、サービスによって成立するシステム化権力であり、自らの利益と権力の極大化だけを追求しています。
そこで天下の政治制度に必要なのは、「世界理念」だと言います。
その世界理念とは、「天下を以て天下とする」という管子の原則や、「天下を以て天下を観る」という老子の原則です。
国家権力やシステム化した権力は、世界全体を合理的に秩序立てる理念を受け入れることができません。
そのため、帝国主義的覇権とグローバルなシステム化新権力を牽制するためには、世界普遍秩序を構築することが必要になってきます。
天下の外縁
天下システムは未来を見据えて提案されている理論です。
そのため、不確定なことも多く、様々な価値観や状況を踏まえながら論じなければいけません。
講義では、東洋と西洋、また過去、現在、未来と、数多くの知見や情報が取り上げられているのですが、この記事ではそれを十分に説明しきれていません。
また、話も抽象的で難解なため、この記事を読むだけでは疑問に思うことや納得がいかないこともあるかと思います。
そんな方はぜひ、講義動画を視聴して、石井先生が語ることを直接確認してみてください。
講義の終わりには、学生による質疑応答の時間もあります。学生の質問に対する石井先生の回答で、天下システム論の印象がこの記事によるものから変わってくるかもしれません。
この記事では、主に「天下の中心」について確認してきました。
しかし講義内では、「天下の外縁」についても述べられています。
外縁とはすなわち、どこまで天に含めるべきか、どこまでを天に含めることができるかという問題です。
それは、他者の排除(差別)や私たちの世界認識の限界の話にもつながります。
実は石井先生は、天と地の間の余剰こそが根本的に重要だと主張されています。
一体なぜ余剰について考えるべきなのか、講義動画を視聴して確認してみてください。
また、この講義はテーマの範囲が広いので、みなさんが興味を持っているトピックとつながる内容も多いはずです。
ぜひ、講義で語られる内容を、未来を考えるための足がかりとしてみてください。
<文/竹村直也(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:30年後の世界へ ―「世界」と「人間」の未来を共に考える(学術フロンティア講義)第11回 「中国」と「世界」:どこにあるのか?
●他の講義紹介記事はこちらから読む