他者と「共生」していくために必要なことは何でしょうか。
自分と異なる価値観を受け入れ、他者に寛容であること?
みなさんのなかには、周囲の人とうまくやっていくために言いたいことを我慢してしまう人も多いのではないでしょうか。
しかし、他者と「共生」していくために必要なことが、「批判を避けること」ではなく、「批判すること」だとしたら?
「共生」について考える中で、文学研究の在り方が現代社会の在り方を示唆してくれる、
そんな可能性に満ちた講義を紹介します。
30年後の世界へ―「共生」を問う(学術フロンティア講義)
東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, 以下EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。
EAAは2019年度以来、「30年後の世界へ」を共通テーマとするオムニバス講義(学術フロンティア講義)を行なってきました。2022年度の講義では、「30年後の世界へ―『共生』を問う」と題して、「共生」という概念について問い直すことが目指されました。
2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行により、他者と「共生」するということについて考えさせられることが増えました。
同居する家族が濃厚接触者になってしまうということ、感染症対策やワクチン接種についての考え方の違い、また、ロックダウンなどの対応は、「他者との共生」が脅威になりうるという事実を我々に突きつけてきました。
私たちはいかに他者と「共生」することができるのでしょうか。
「共生」を既定の事実として理想化するのではなく、私たちが生きるべきよりよい生のあり方について根本から捉え直す講義です。
その観点に立ち、哲学、文学、社会学、生物学など様々な分野の教員が講義をおこなっています。さらに、東京大学内だけでなく、北京大学、香港城市大学など、学外の講師による講義も行われました。
新型コロナウイルス感染症や生物の多様性、緊迫した国際情勢など、今を生きる私たちが直面している身近な問題も講義内で取り扱っているので、興味を持って視聴することができるでしょう。日常生活の中でなんとなく感じている息苦しさを和らげてくれるかもしれません。ぜひ、ラジオ感覚でリラックスしながら受講してみてください。
文学研究は他者の言葉との「共生」
今回ご紹介するのは、全13回の講義のうち第11回目の講義です。
講義をされるのは、東京大学総合文化研究科所属で日本戦後文学を専門にされている村上克尚先生です。
この講義では、文学の観点から「共生」について考えます。
「共生」と聞いて私たちが思い浮かべるイメージは、
自分と異なる価値観を受け入れたり、他者に寛容になったりすることです。
しかし、村上先生は、
「批判」を文学研究における「共生のための技術」として提案します。
「共生」とは対立するように思える「批判」が、「共生」のための鍵になるのです。
クリティークとポストクリティーク
この講義のキーワードは、
「クリティーク(critique)」・「ポストクリティーク(postcritique)」です。
カントによれば、クリティーク(批判的に読む)とは
「自分の読みやその判断の基盤を絶えず疑うことで、作品が持つ可能性や限界を確定しようとする行為」です。
ここで「作品」を「他者」に置き換えると、私たちの現代社会の話にもつながります。
つまり、私たちは「自分自身を省みることで、他者を解釈することができる」ということです。
批判という行為に、自己と他者との「共生」が存在すると言えそうです。
クリティークへの批判
ヴァージニア大学英文学者のリタ・フェルスキ(1956〜)は、従来の文学研究がクリティークを過度に規範化していると主張しました。
クリティークは、テクストが読者に及ぼす多様な力を軽視するといいます。
文学作品に対して「より批判的であること」を追求することで、どんどん厳密で強権的な読み方になっていき、私たちのような一般読者の自由な読み方とはかけ離れていってしまうのです。
強権的な読み方とはどういうものでしょうか?
例として挙げられたのは、教科書でも馴染み深い夏目漱石の「こころ」です。
第一部から第三部までで構成された「こころ」ですが、高校の現代文の教科書には第三部の「先生から私への手紙」だけが記載されています。
この「文章の抜き出し」こそが、強権的な読み方であると言えます。
なぜなら、第三部を文脈から切り離すことで、先生からの手紙の中に明治の精神や特定の価値観を見出そうとする読み方が高校生に強要されることになるからです。
ポストクリティークの主張
フェルスキは、別の読み方の可能性として「ポストクリティーク」を提唱します。
ポストクリティークは、
「批評家と批評されるテクスト」という主従関係ではなく、
「読者とテクスト」という対等な関係を目指します。
読者とテクストが「共生」するためのビジョンを模索するのです。
つまり、クリティークの持つ暴力性に抵抗して提唱されたのが、ポストクリティークです。
クリティークが「作品への批判」だとするなら、ポストクリティークは「作品への愛」だということができるかもしれません。
批判は「共生的」である
ポストクリティークの考え方は、批判を恐れて避けようとする私たちの考え方にも通じるところがあります。
日常的な感覚でも、批判を避けて良好な関係を築くことが「共生」のために大切なように思えます。言いたいことをそのまま口にしていたら、周囲の人と対立することが多くなってしまいますよね。
しかし、実は批判も「共生」には欠かせないのです。
なぜなら、批判という行為そのものが、そもそも「共生的」だからです。
言い換えると、「喧嘩は一人じゃできない」ということです。
自分が我慢していることを他人が自由にやっているとき、なんだかイライラしてしまうものですよね。
自分と他者を比べて、「相手がおかしい!!」と思うからこそ批判が生まれます。
自分と他者の両方が存在し、他者に興味を抱いて初めて批判が成り立つのです。
村上先生は、文学研究において、ポストクリティークが主流となりクリティークが軽視されることを危惧しています。
現代社会における批判の忌避
文学研究と同様に、現代社会においても批判が忌避されるようになっています。
一つは、政治においてです。
・野党の機能が形骸化
・保守主義・新自由主義的な傾向の強まり
などは、現代社会における政治の特徴だといえます。
さらに、文学研究(学問の世界)だけでなく、社会のなかの文学においても、「批評」が衰退し「書評」へと向かう傾向にあるといいます。
作品の欠点を作者に向けて批判する「批評」から、作品がどれほど優れていて面白いかを読者に向けてアピールする「書評」への変化。
これは、文学自体の縮小に伴い、作者同士が協力していこうとする姿勢の表れでもあります。本の購入を促すための肯定的な評価のみがなされつつあるということです。
現代社会におけるこれらの傾向は、批判を避け協調を重視するという点でポストクリティークと似通っているのです。
批判と愛の「共生」
ポストクリティークは、テクストと読者(を取り巻くすべてのもの)が「共生」することを目指します。
しかし、ポストクリティークだけでは、批判が生まれず、政治も文学作品も洗練されることがないまま進んでいってしまいます。
クリティーク(作品への批判)とポストクリティーク(作品への愛)は、共に手を取り合っていく必要があるのです。
クリティークとポストクリティークの「共生」は、どのように実践していくことができるのか、村上先生は私たちに問いかけています。
“批判は共生のための技術になり得ないのか?”
他者と「共生」するために私たちに必要なことは何でしょうか。
講義動画を見て、村上先生の問いかけに向き合ってみませんか?
今回紹介した講義:30年後の世界へ ― 「共生」を問う(学術フロンティア講義)
第11回 文学研究と「ポストクリティーク」 ― 批判は共生のための技術になり得ないのか? 村上克尚先生