私たちの生とは…生は支配の対象でも目的でもなく、ともに展開(flourishing)すること
2024/11/21

本記事で紹介する講義は、東洋文化研究所の所長で中国哲学がご専門の中島隆博先生の「花する空気」という講義です。こちらの講義は、2023年度の学術フロンティア講義「空気はいかに価値化されるべきか」というシリーズの第2回目の講義として行われました。当シリーズは、“空気“をテーマにゲスト講師陣が様々な切り口から講義を行っています。中島先生によるこちらの講義、「花する空気」とは一体どういう意味なのでしょうか。本記事では、その解説とともに、中島先生が講義を通して伝えようとされていることをご紹介します。

まず、講義は「空気をいかに価値化するべきか」というテーマについて、再考します。「空気とは?」、「価値とは?」それぞれその言葉のもつあらゆる側面を見直し、“空気の価値化”というテーマから見えてくる、“私たちはどうあるべきか”を問い直すことで人間を再定義しようと試みます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義2023 中島隆博

「価値」について

“価値”とは何でしょうか。一般的に“価値がある“というと、市場経済において価格がつくこと、として考えられています。しかし、中島先生は価格がそのものの価値を示す、ということを否定されます。「”価値“とはそれが独立したものとして存在するのではなく、関係性の中で成立するもの」、続けて、「豊かさとは金銭的なものではなく、『社会関係資本』をどれだけ有しているかである。」とお話されます。「社会関係資本」とは、周囲の人や社会との”関係性、つながり”のことです。例えば、ある億万長者が孤独で他の人とのつながりを持っていなかったとすれば、その人は貧しい、ということになります。これはみなさんもなんとなく想像ができるのではないでしょうか。いくらお金があったとしても精神的な豊かさは別問題である、ということです。

”価値“=”つながり、関係”であるならば、「空気の価値化」とは空気を媒介にした、”その他のものとのつながり“であると言えます。空気を媒介にする、ということは人間だけではなく、その他の生物、また生物ではないものと”私“との関係性について考えなければなりません。講義内では、人間と家畜などの食用とされている動物との関係性を例に挙げ、従来のやり方では問題があるという点について触れています。

「空気」について

このような、あらゆるものとの関係性は、私たちの社会に対するイメージ、”ソーシャル・イマジナリー”に起因し、それを見直していくことがそれぞれの関係性を変化させていく上で重要であると中島先生はおっしゃいます。

“ソーシャル・イマジナリー”とは、「私たちの社会とはこういうものだ」といった固定観念から、実際に社会を動かしている経済システム、国家というシステムなど、”共同幻想“と呼ばれるようなものも含まれます。

”空気“とは”場の空気”などとも言われるように、物質としての空気だけではなく、概念としての空気も考えられます。ソーシャル・イマジナリーもまた“空気“を土台にできあがっていくものであり、人間の関係性を条件づけるものとして、広義の”空気“として把握できるかもしれません。

「空気の価値化」を考えることは、個人と個人との関係性、個人と集団、集団と集団、個人と人間以外のもの、集団と人間以外など、あらゆる関係性を見直していくことだと言えるでしょう。また、「人間以外のものとの関係性を考えるとき、近代以降の人間中心主義的な考え方で形成されている、私たちの今の社会の在り方を考え直すべきだ」と中島先生は講義の中で強調されます。確かに、現在の人間社会の在り方は極めて人間に都合の良いように形成されています。昨今のエネルギー問題や温暖化現象が早急に対処が必要な問題であることは、誰の目にも明らかと言えるでしょう。

「空気の価値化」というテーマを通して、私たちの社会の枠組みや従来の常識として考えられていたような思考の範型について再考することが要請されているのです。

「花する空気」

ここまでで講義シリーズのテーマについて、講義導入部を概略して説明しました。ここからは「花する空気」という本講義のタイトルについてです。

「花する」という言葉はイスラーム神秘主義哲学の研究者、井筒俊彦の言葉です。井筒俊彦はコーランの日本語訳を初めて刊行した人物でもあり、様々な逸話のある偉大な知の哲人です。井筒は、著書『イスラーム哲学の現像』の中で、イスラーム神秘主義を説明する際に、あらゆるもの、例えば花は、「花が存在する」のではなく「存在が花する」と説明しました。どういうことかと言うと、神のような超越した存在が、たまたま花として顕現している、地上の全てのものは神の存在の限定的な顕れとして在るというのです。そのため、神が常に主語であり、その他のものは述語にしかなり得ない、と説明したのです。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義2023 中島隆博

しかし、中島先生は「”存在”が花するのではなく、”空気”が花する、あるいは人間である私たちやその他のものたちがともに花することが重要ではないか」とおっしゃいます。”存在”という言葉は長い西欧哲学の歴史の中で常に重要視されてきました。“存在”と“認識”について考えることが西欧哲学の歴史でもある、と言えるのです。井筒の言う存在も超越的なもの(無、純粋存在)を指します。井筒の哲学では、“私“と”超越的なもの“との関係性を語ることで意識の縦構造が創出されるのです。本来は”神“といった抽象的な概念がその縦構造の頂点であったにもかかわらず、国や宗教組織、権力者などがその構造を利用し、神の代理として自分たちをその頂点に据えるということが歴史上、繰り返されてきました。この成り替わりの行為によって、専制的、または独裁的な社会が構築されてきたと言えるでしょう。

中島先生は、私たちがともに花することを“人間/Human being”の再定義として「Human Co-flowering」あるいは「Human Co-flourishing」と名付けます。“他者とともに花する”、“ともに花開くこと”、縦ではなく水平的な意識構造へとシフトしていくことであり、それは独りではなく誰かとともに変容していくことです。現代にまで至る西欧由来のソーシャル・イマジナリーを変化させ、新しい社会の在り方を創造するための手掛かりとして、中島先生はこれらの概念を提示されています。

Q.「能力がないと望む権利がないのでは?」

講義内で中島先生は中世哲学の研究者である山内志朗先生を引用し、「花は目的なしに開く。私たちの生も、学校や会社、社会のため、といった自分の外部にある目的を達成させるためにあるのではない。また、同時に自身の内部にも目的/理由を持ってはいない。 “能力”をベースにした評価基準には限界がある。そうではなく、“望む”ことで違う人間へと変容していくことができる」とお話されます。それを受けて、講義終了後の質問時に学生から「歴史的に人間は能力によって判断、評価されてきた。そのため、能力のある人間しか望むことができないのではないか。」という質問が出ます。中島先生はこれを受けて、古代中国の禅僧を例に「私たちは老いていくことで、“できない”ことがどんどん増えていく。しかし、“望む”ことで自身や社会を変容させていくことは可能である」と答えます。続けて、「能力による人間の評価は、処理能力や記憶力などの限定的な要素を測るのみで、人間の生を豊かにはしない。どんな人生を望むのか、あなたはどんな言葉を発明しますか」と質問に対して問い返されます。

UTokyo Online Education 学術フロンティア講義2023 中島隆博

“どんな言葉を発明するのか”、これは“自分自身の生を生きることで新たな自分と出会うこと”、と換言できるのではないでしょうか。自身の外部にも内部にも目的/根拠はない、と中島先生がおっしゃるように、誰かとともに変容していくこと、それは全く新しい自己との遭遇であり、それが連鎖的に新しい社会の創造へとつながっていくということではないでしょうか。

ここでご説明した内容は講義の一部であり、他にも様々なトピックに触れ、広範に渡る内容となっています。上記の内容も説明が不十分な箇所があり、詳細に記述すると非常に長くなってしまうため、割愛しています。

さらに講義の形式自体も特殊であり、働く人や組織体に向けた内容にもなっています。そういった意味でも、様々な見方のできる刺激的な講義内容となっています。

あなた自身の生き方について、問い直すきっかけとなるかもしれません。哲学に興味のない方にこそ是非見ていただきたい、中島先生の熱いパッションを感じるおすすめの講義動画です!

今日紹介した講義:2023年度学術フロンティア講義「30年後の世界へ― 空気はいかに価値化されるべきか」第2回 花する空気  中島 隆博先生

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〈文/みの(東京大学学生サポーター)>