7月のおすすめ講義🐸

こんにちは、UTokyoOCWスタッフです。

今年2月のダイヤモンドプリンセス号への対応から日本における新型コロナウイルスへの対応が本格的に始まりましたが、それから半年近くが経過しようとしています。この期間中、ウイルスが私たちの生活にもたらしたある種の「例外状態」は、これまで私たちの日常の中に埋没していた問題―例えば感染症(ないしは科学)と国家など―を浮き彫りにしてきました。しかし、「例外状態」をめぐる思索は新型コロナウイルス以前の歴史においても、とりわけ人間にとって不可避な死という現象を取り上げることを通して続けられてきました。そこで今回はそうした思索の一端として、学術俯瞰講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想(2009年度開講)」からいくつかの講義を紹介します。

清水哲郎先生「死に直面しつつ生きる」&「死を超える希望の思想史」

(2009年度開講学術俯瞰講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想」より第3回&第4回)

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_705/

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_706/

人間の死を考える学問に「死生学」という系譜があります。死を考えるといっても生からの退場というネガティヴな死ではなく、この学問の本質は、死に向かうプロセスを通して生のクオリティを向上させることにあります。この講義で清水先生が示す「死を直面しつつ」や「死を超える」という問題意識もまた、人工呼吸を外すといった死の瞬間だけを切り取るのではなく、リビング・ウィルなど患者のナラティヴやコミュニケーションを中心に据えて彼/彼女らが尊厳を持って死にゆくプロセスを充実させることを志向しています。

熊野純彦先生「有限的な生の意味」&「他者と共に在る生」

(2009年度開講学術俯瞰講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想」より第9回&第10回)

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_711/

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_712/

ハイデッガーの『存在と時間』を読み解きながら進む講義の中で、熊野先生は私たちの生を基礎づけるために、私たちの価値観の多くが寄る辺としている近代の出発点に立ち返ります。すなわち、宗教において有限なる「存在者(存在するもの)」を存在させるのは、無限で絶対たる神という「存在」とされていましたが、近代という時代においてあくまで哲学的にこの関係を一旦自明としない方向で議論を進めるならば、私たち人間を存在させる基底は、換言すれば生の意味は何に求められるのでしょうか。

金森修先生「生権力と死の思想」&「安楽死の思想」

(2009年度開講学術俯瞰講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想」より第11回&第12回)

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_713/

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_714/

アメリカは今でこそ、各州が独自に尊厳死や終末期医療に関する多様な法律を制定していますが、戦後その萌芽的段階にあった安楽死に関する思想を制度化しようという取り組みは、常に戦前のナチスの安楽死計画と対峙を迫られながら、思うようには進みませんでした。金森先生が問題とするのは、ナチスが十二分に体現してしまった「生権力の国家化」という現象が現代思想において、特に歴史的な主権概念とのかかわりでいかに解釈されてきたかという点にあります。 冒頭で述べた新型コロナウイルスがもたらす「例外状態」も、いずれは日常の一部となり、このウイルスと共生する生活へと変化していくでしょう。それはワクチンの開発によって、必ずしも死と隣り合う生活であることを意味しなくなるかもしれませんが、その過渡期において一瞬歩み寄ってきた死から、今在る私たちの生を充実させるために、ご紹介した講義の中で取り上げられている問題についても考えてみてはいかがでしょうか。